まず余談だが、サーフィンの事を、今まで「波乗り」と書いてきた。
それは、むかしサーフィン仲間全員が、サーフィンを「波乗り」と言っていたからで、当時は誰1人として、サーフィンを「サーフィン」と言うヤツはいなかったからだ。
しかし、ブログで文章にする場合は、「波乗り」とは言わず、サーフィンは「サーフィン」と書いたほうがわかりやすいと思い、これからは、基本的には「サーフィン」と書き、必要に応じて「波乗り」と書こうと思う。
さて、以下は本題。
先日、いつものように関東の某海へサーフィンをしに出かけた。
その日は波が小さくて、僕の他にサーファーは1人も居なかった。
誰もいないその海で、僕は1人で海に入ってサーフィンをした。
波はスモールなだけではなく、波数も少なかった。
ちょっと退屈だったので、サーフボードに股がり、プカプカと海上に漂いながら、僕は姿勢を正し、両手を法界定印に結び、目を半眼にして坐禅をした。
海上での初坐禅である。
地上に人間が作り上げた建造物内での坐禅とは違って、自然の海上に漂いながらの坐禅もまた、気持ちの良いひとときだった。
同時に、その瞬間 ある事を思い出した。
それは、むかし僕がタイ上座部仏教僧として、タイのチェンマイの山奥の森の中で坐禅瞑想をした事だった。
日本の海上でも、タイの山深い森の中でも、どちらも “自然の中” という点で共通している。
そもそも、仏教開祖 釈尊も、狭くて薄暗い坐禅堂内で坐禅瞑想をしたのではなく、屋外の菩提樹の下で坐禅瞑想をし大悟に至った。
自然が、釈尊の大悟に影響を与えた事は間違いないであろう。
その事は、僕は、1人の仏教僧として忘れずにいたい。
また、1人の人間として、大自然へのリスペクトは忘れずにいたいものだ。
【写真:東京都内某施設。本文の内容とは無関係。】
◆新・からっぽ禅蔵◆
それは、むかしサーフィン仲間全員が、サーフィンを「波乗り」と言っていたからで、当時は誰1人として、サーフィンを「サーフィン」と言うヤツはいなかったからだ。
しかし、ブログで文章にする場合は、「波乗り」とは言わず、サーフィンは「サーフィン」と書いたほうがわかりやすいと思い、これからは、基本的には「サーフィン」と書き、必要に応じて「波乗り」と書こうと思う。
さて、以下は本題。
先日、いつものように関東の某海へサーフィンをしに出かけた。
その日は波が小さくて、僕の他にサーファーは1人も居なかった。
誰もいないその海で、僕は1人で海に入ってサーフィンをした。
波はスモールなだけではなく、波数も少なかった。
ちょっと退屈だったので、サーフボードに股がり、プカプカと海上に漂いながら、僕は姿勢を正し、両手を法界定印に結び、目を半眼にして坐禅をした。
海上での初坐禅である。
地上に人間が作り上げた建造物内での坐禅とは違って、自然の海上に漂いながらの坐禅もまた、気持ちの良いひとときだった。
同時に、その瞬間 ある事を思い出した。
それは、むかし僕がタイ上座部仏教僧として、タイのチェンマイの山奥の森の中で坐禅瞑想をした事だった。
日本の海上でも、タイの山深い森の中でも、どちらも “自然の中” という点で共通している。
そもそも、仏教開祖 釈尊も、狭くて薄暗い坐禅堂内で坐禅瞑想をしたのではなく、屋外の菩提樹の下で坐禅瞑想をし大悟に至った。
自然が、釈尊の大悟に影響を与えた事は間違いないであろう。
その事は、僕は、1人の仏教僧として忘れずにいたい。
また、1人の人間として、大自然へのリスペクトは忘れずにいたいものだ。
【写真:東京都内某施設。本文の内容とは無関係。】
◆新・からっぽ禅蔵◆