「俺は、葬式をやるために坊さんになったんじゃない!」
と言っても無駄だ。
嫌でも、我々仏教僧侶が葬儀を司るのは、気が遠くなるほど長い歴史に裏付けられた伝統でもある。
そもそも、葬儀(葬送儀礼)は、生者が死者のために営むという基本構造をなしてはいるが、その社会的機能としては、死者に対していろいろな想いを懐く生者側の、哀しみや恐怖等々さまざまな精神的ストレスの緩和を促す目的が含まれる。
その意味で葬儀は、“生きている人のためのもの”でもあると言える。
死者のためでもあり、生者のためでもあるこの儀式は、もはや、死者と生者というふうに二分して考えるのではなく、ある意味生死を超えた“生死一如”の側面を備えている。
そしてその歴史もハンパじゃない。
最も古い埋葬の痕跡は、人類史上最古の時代である旧石器時代に既にあったという。近年発見されたその遺体には装飾がなされていたそうだ。
どのようなスタイルにせよ、今後も人類史から葬儀という儀式が消滅する事はないであろう。
さて、日本ではなぜ仏教僧が葬儀をお勤めするようになったのか。
まず第一に、仏教開祖釈尊も、道元禅師も、葬儀の導師はやらなかったにせよ、、釈尊は、生老病死の中でも、特に“死”について深くお考えになった。
そこに仏教の芽生えがある。
更に釈尊は、一説に、父スットーダナ王のお棺を自ら担ごうとした。これが仏教式葬儀の機縁であるという説もある。
また、道元禅師も「生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり」(生死の問題を明らかに会得する事が仏教者の一番の目的だ)と言っている。
これらを踏まえて、某書から次の文を引用したい。
「日本人はきわめて「呪術的」な宗教心を持っており、死者の霊魂が実在し、生者がそれに語りかけることができるという信念が強い。このような呪術的な宗教心は現代の日本人にも、依然として根強いものがある。一般人にとって最も恐ろしいものは病気と死であるが、古来から神道は「死穢シエ」といって、死人をけがれたものと見て、いみきらう。そのために死者の霊魂は神道では救われないのである。[中略]しかし仏教が日本に入ってきたとき、仏教僧は死の穢れケガレや悪霊にふれることを少しも怖れなかった。そしてかかる横死の人びとの死骸をねんごろにとむらい、読経をして悪霊をしずめ、死者の追善供養をなし、日本人の祖霊崇拝の信仰とも結びついて、人びとの不安をしずめたのである。」
こののち江戸時代から始まる檀家制度に至り、こうした経緯によって、日本では仏教式葬儀が一般的になったのだと思われる。
一方で、「葬儀に於いて僧侶が唱えるお経の内容は、死者のためのものではないじゃないか。生きている生者のためのお経ではないか。」というご批判を耳にする事があるが、先に書いた通り、葬儀は死者のためだけのものではない。
故人とともに生者も、葬儀に於いて、お経に触れる事に意義があるのだ。
更に言えば、お経は、生者が生きていくためだけを目的にした内容だとも言い切れない。
生と死を二分に分けた考えを超えたところを説いているお経こそ、信頼に値すると言えるだろう。
いずれにせよ我々の命は、数え切れないほど多くのご先祖さまの存在によって“今ここ”にある。
その事実に“気づき”、今ある命の尊さを実感し感謝する気持ちが少しでも芽生えたなら、葬儀を含めた供養という営みに、正面から向き合っても良いのではないか、と思うのだ。
以上、からっぽ禅蔵最終回後の、蛇足のような記事でしたw(笑)
もしかしたら、あともう1回位「蛇足的な記事」を書くかも(^^;)
合掌
と言っても無駄だ。
嫌でも、我々仏教僧侶が葬儀を司るのは、気が遠くなるほど長い歴史に裏付けられた伝統でもある。
そもそも、葬儀(葬送儀礼)は、生者が死者のために営むという基本構造をなしてはいるが、その社会的機能としては、死者に対していろいろな想いを懐く生者側の、哀しみや恐怖等々さまざまな精神的ストレスの緩和を促す目的が含まれる。
その意味で葬儀は、“生きている人のためのもの”でもあると言える。
死者のためでもあり、生者のためでもあるこの儀式は、もはや、死者と生者というふうに二分して考えるのではなく、ある意味生死を超えた“生死一如”の側面を備えている。
そしてその歴史もハンパじゃない。
最も古い埋葬の痕跡は、人類史上最古の時代である旧石器時代に既にあったという。近年発見されたその遺体には装飾がなされていたそうだ。
どのようなスタイルにせよ、今後も人類史から葬儀という儀式が消滅する事はないであろう。
さて、日本ではなぜ仏教僧が葬儀をお勤めするようになったのか。
まず第一に、仏教開祖釈尊も、道元禅師も、葬儀の導師はやらなかったにせよ、、釈尊は、生老病死の中でも、特に“死”について深くお考えになった。
そこに仏教の芽生えがある。
更に釈尊は、一説に、父スットーダナ王のお棺を自ら担ごうとした。これが仏教式葬儀の機縁であるという説もある。
また、道元禅師も「生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり」(生死の問題を明らかに会得する事が仏教者の一番の目的だ)と言っている。
これらを踏まえて、某書から次の文を引用したい。
「日本人はきわめて「呪術的」な宗教心を持っており、死者の霊魂が実在し、生者がそれに語りかけることができるという信念が強い。このような呪術的な宗教心は現代の日本人にも、依然として根強いものがある。一般人にとって最も恐ろしいものは病気と死であるが、古来から神道は「死穢シエ」といって、死人をけがれたものと見て、いみきらう。そのために死者の霊魂は神道では救われないのである。[中略]しかし仏教が日本に入ってきたとき、仏教僧は死の穢れケガレや悪霊にふれることを少しも怖れなかった。そしてかかる横死の人びとの死骸をねんごろにとむらい、読経をして悪霊をしずめ、死者の追善供養をなし、日本人の祖霊崇拝の信仰とも結びついて、人びとの不安をしずめたのである。」
こののち江戸時代から始まる檀家制度に至り、こうした経緯によって、日本では仏教式葬儀が一般的になったのだと思われる。
一方で、「葬儀に於いて僧侶が唱えるお経の内容は、死者のためのものではないじゃないか。生きている生者のためのお経ではないか。」というご批判を耳にする事があるが、先に書いた通り、葬儀は死者のためだけのものではない。
故人とともに生者も、葬儀に於いて、お経に触れる事に意義があるのだ。
更に言えば、お経は、生者が生きていくためだけを目的にした内容だとも言い切れない。
生と死を二分に分けた考えを超えたところを説いているお経こそ、信頼に値すると言えるだろう。
いずれにせよ我々の命は、数え切れないほど多くのご先祖さまの存在によって“今ここ”にある。
その事実に“気づき”、今ある命の尊さを実感し感謝する気持ちが少しでも芽生えたなら、葬儀を含めた供養という営みに、正面から向き合っても良いのではないか、と思うのだ。
以上、からっぽ禅蔵最終回後の、蛇足のような記事でしたw(笑)
もしかしたら、あともう1回位「蛇足的な記事」を書くかも(^^;)
合掌