まずは、最近の出来事。
先日猛暑の中、参禅部員皆で協力しあって坐禅堂清掃を行なった。
夜は大学に隣接するK公園で、皆で怪談を語りあいw時を忘れて夢中になって、笑ったり怖がったりw
楽しい夏の夜となった。
その二日後は「仏教教団論」の試験。
その翌日の夜は、渋谷で参禅部の飲み会。
そこで、次のような話題が出た。
大学等できちんと“禅”を学んだ事がない、ある禅僧が『語る禅僧』という本を書いている。それに対して我が大学のK教授が「黙れ禅僧」という論文を書いた。K教授は我が大学できっちり禅を学び、僧堂でしっかり修行してきた禅僧であり仏教学部の大学教授である。
まぁ、僕はどちらも読んでいないので何とも言えないが、少なくとも“禅を大学で学んだ事がない人が書いた「禅関連の本」”は、あまり読む気にならない。しかも自らの苦労話しを盛り込んでいる内容なら、僕も「黙れ禅僧!」と言いたくなる。
苦労なら、僧侶じゃなくたって誰でも大なり小なりしている事だ。僕は、自らの苦労話しを売りにする禅僧の気が知れない。僕自身、実は人並み外れた過去があるが、極親しい一部の人以外に話しはしない。
ただ、“K教授から見たら”相手は禅に関しては素人さんみたいなものだろう。(修行に関してはプロだろうけど。)素人さん相手に批判的論文を書いちゃうなんて、K教授もちょっと大人気ないような気もする。
まぁ、それはともかく、飲み会が終わると長い夏休みに入った。
さて、ここから本題。
南泉普願については、以前このブログで、多少の説明は済んでいるので、ここで再びくどくど書く事はしない。
ただ、前回少し触れた五洩霊黙が747~818であるのに対して、南泉普願は748~835。二人は一歳違いである。当時の時代背景としては、彼らの少年期には8年間に及ぶ安史の乱があり、その間、楊貴妃が殺されている。またこの頃、禅者としては荷沢神会が寂している。安史の乱後には節度使の自立化が進み、その有力者達の支持を受けた“禅”の一派は成長し、彼らの支持、協力を得られなかった禅派は衰退したと思われる。また、五洩や南泉が亡くなって間もなく「会昌の廃仏」が行なわれた。そんな唐末の時代だった。
尚、言うまでもない事だが、五洩と南泉は兄弟弟子であり、彼らの師匠は言わずと知れたあの馬祖道一である。
さて、そろそろ本文に入ろう。
『景徳伝灯録』巻八・南泉普願の章(テキスト132頁12行目・南泉章の冒頭より)
「池州南泉禪師者、鄭州新鄭人也。姓王氏。唐至徳二年、依大隗山大慧禪師受業。三十詣嵩嶽受戒。初習相部舊章、究毘尼篇聚。次遊諸講肆、歴聽楞伽華厳、入中百門観、精練玄義。後扣大寂之室頓然忘筌、得遊戲三昧。」
〔池州(安徽省)の南泉普願は、鄭州新鄭(河南省)の人なり。姓は王氏なり。唐の至徳二年(757)、大隗山の大慧禅師に依りて受業す。三十にして、嵩嶽に詣りて受戒す。初め、相部の旧章を習いて毘尼の篇聚を究む。次いで諸々の講肆に遊びて、楞伽と華厳を歴聴し、中百門観に入りて玄義を精練す。後に大寂の室を扣き、頓然と筌を忘れ、遊戲三昧を得たり。〕
◆解説
○池州(安徽省)=凡そ500年後に日本の道元が中国留学し修行した浙江省寧波の天童景徳寺がある。そこから直線で凡そ500km西に池州がある。
○鄭州新鄭(河南省)=池州から北北西へ凡そ600km。
○大隗山=参考書に拠ると、大隗山は具茨山ともいい、新鄭県の西南四〇里とある。
○大慧禅師=『宋高僧伝』(988成立)「国訳」(史伝部一二219頁)では、大慧禅師を南嶽懐譲とするが、懐譲は744に亡くなっている。南泉が受業したのは至徳二年(757)なので有り得ない。つまり「国訳」の説明は誤り。近年研究及び参考書では、大慧禅師は「不明」となっている。
○嵩嶽に詣イタりて受戒す。=『宋高僧伝』では「詣嵩山會善寺(日+高)律師受具。」〔嵩山会善寺の(日+高)律師に詣りて、受具す。〕と書かれている。ここは成立年が早い『宋高僧伝』が正しく、『伝灯録』のミスか。
○相部の旧章を習いて=参考書を頼れば、四分律の三派(相部・南山・東塔)の一つで、相州日光寺の法礪(569~635)が創めた学派。旧章とは彼が造った『四分律疏』一○巻の事と説明している。四分律とは、小乗律の一つで408年に漢訳。中国や日本に一般に行なわれた律宗は全て四分律に依っているという。注釈書は、南山道宣の〔行事鈔〕及び〔資持記〕が最も有名らしい。道宣はまた、あの『続高僧伝』を645年に成立させていて、645年と言えば、玄奘三蔵法師がインド留学から帰国した年だというのは常識。
○毘尼カイリツの篇聚ヒンジュンを究む=参考書では次の如く。具足戒の分類方法。篇は二五○戒を波羅夷・僧残・波逸題・題舎尼・突吉羅と、罪法の重いものから軽いものへ五篇に分類すること。その五篇に倫蘭遮(末遂罪)を加えたものを六聚。更に突吉羅を悪作(身業)と悪説(口業)に分けたものが七聚。
○中百門観に入りて玄義を精練す=三論、つまり龍樹の『中論』『十二門論』とその弟子題婆の『百論』の教えをよくねり上げたという事。因みに三論宗は、中国では吉蔵(549~623)が大成。さて南泉は、要するに幅広く教学を学んだ後に、大寂(馬祖)の室を叩くのである。
○筌を忘れ、遊戯三昧を得たり=仏法の奥義を得て、方便としての教学を投げうった。と、参考書が説明している。これは『荘子』外物篇第一二章に「筌センなる者は魚に在る所以ユエンなり。魚を得て筌を忘れる。」に由来する。筌とは魚を取るかごの事で、魚が取れたら筌は必要ないという事。更に続けて次の如く言う。「得意而忘言」〔意を得て言を忘れる〕つまり、意味がわかったなら、あとはもう言葉(或いは教学)は必要ない。
逆に言えば、ろくに意味も知らないのに「禅は学問ではない!」などと言って勉強しようとしない禅者は愚かだし、Wikipedia程度で知った気になるのは救いようがない。
尚、禅思想の下敷きとして老荘が存している事も、常識である。
合掌
先日猛暑の中、参禅部員皆で協力しあって坐禅堂清掃を行なった。
夜は大学に隣接するK公園で、皆で怪談を語りあいw時を忘れて夢中になって、笑ったり怖がったりw
楽しい夏の夜となった。
その二日後は「仏教教団論」の試験。
その翌日の夜は、渋谷で参禅部の飲み会。
そこで、次のような話題が出た。
大学等できちんと“禅”を学んだ事がない、ある禅僧が『語る禅僧』という本を書いている。それに対して我が大学のK教授が「黙れ禅僧」という論文を書いた。K教授は我が大学できっちり禅を学び、僧堂でしっかり修行してきた禅僧であり仏教学部の大学教授である。
まぁ、僕はどちらも読んでいないので何とも言えないが、少なくとも“禅を大学で学んだ事がない人が書いた「禅関連の本」”は、あまり読む気にならない。しかも自らの苦労話しを盛り込んでいる内容なら、僕も「黙れ禅僧!」と言いたくなる。
苦労なら、僧侶じゃなくたって誰でも大なり小なりしている事だ。僕は、自らの苦労話しを売りにする禅僧の気が知れない。僕自身、実は人並み外れた過去があるが、極親しい一部の人以外に話しはしない。
ただ、“K教授から見たら”相手は禅に関しては素人さんみたいなものだろう。(修行に関してはプロだろうけど。)素人さん相手に批判的論文を書いちゃうなんて、K教授もちょっと大人気ないような気もする。
まぁ、それはともかく、飲み会が終わると長い夏休みに入った。
さて、ここから本題。
南泉普願については、以前このブログで、多少の説明は済んでいるので、ここで再びくどくど書く事はしない。
ただ、前回少し触れた五洩霊黙が747~818であるのに対して、南泉普願は748~835。二人は一歳違いである。当時の時代背景としては、彼らの少年期には8年間に及ぶ安史の乱があり、その間、楊貴妃が殺されている。またこの頃、禅者としては荷沢神会が寂している。安史の乱後には節度使の自立化が進み、その有力者達の支持を受けた“禅”の一派は成長し、彼らの支持、協力を得られなかった禅派は衰退したと思われる。また、五洩や南泉が亡くなって間もなく「会昌の廃仏」が行なわれた。そんな唐末の時代だった。
尚、言うまでもない事だが、五洩と南泉は兄弟弟子であり、彼らの師匠は言わずと知れたあの馬祖道一である。
さて、そろそろ本文に入ろう。
『景徳伝灯録』巻八・南泉普願の章(テキスト132頁12行目・南泉章の冒頭より)
「池州南泉禪師者、鄭州新鄭人也。姓王氏。唐至徳二年、依大隗山大慧禪師受業。三十詣嵩嶽受戒。初習相部舊章、究毘尼篇聚。次遊諸講肆、歴聽楞伽華厳、入中百門観、精練玄義。後扣大寂之室頓然忘筌、得遊戲三昧。」
〔池州(安徽省)の南泉普願は、鄭州新鄭(河南省)の人なり。姓は王氏なり。唐の至徳二年(757)、大隗山の大慧禅師に依りて受業す。三十にして、嵩嶽に詣りて受戒す。初め、相部の旧章を習いて毘尼の篇聚を究む。次いで諸々の講肆に遊びて、楞伽と華厳を歴聴し、中百門観に入りて玄義を精練す。後に大寂の室を扣き、頓然と筌を忘れ、遊戲三昧を得たり。〕
◆解説
○池州(安徽省)=凡そ500年後に日本の道元が中国留学し修行した浙江省寧波の天童景徳寺がある。そこから直線で凡そ500km西に池州がある。
○鄭州新鄭(河南省)=池州から北北西へ凡そ600km。
○大隗山=参考書に拠ると、大隗山は具茨山ともいい、新鄭県の西南四〇里とある。
○大慧禅師=『宋高僧伝』(988成立)「国訳」(史伝部一二219頁)では、大慧禅師を南嶽懐譲とするが、懐譲は744に亡くなっている。南泉が受業したのは至徳二年(757)なので有り得ない。つまり「国訳」の説明は誤り。近年研究及び参考書では、大慧禅師は「不明」となっている。
○嵩嶽に詣イタりて受戒す。=『宋高僧伝』では「詣嵩山會善寺(日+高)律師受具。」〔嵩山会善寺の(日+高)律師に詣りて、受具す。〕と書かれている。ここは成立年が早い『宋高僧伝』が正しく、『伝灯録』のミスか。
○相部の旧章を習いて=参考書を頼れば、四分律の三派(相部・南山・東塔)の一つで、相州日光寺の法礪(569~635)が創めた学派。旧章とは彼が造った『四分律疏』一○巻の事と説明している。四分律とは、小乗律の一つで408年に漢訳。中国や日本に一般に行なわれた律宗は全て四分律に依っているという。注釈書は、南山道宣の〔行事鈔〕及び〔資持記〕が最も有名らしい。道宣はまた、あの『続高僧伝』を645年に成立させていて、645年と言えば、玄奘三蔵法師がインド留学から帰国した年だというのは常識。
○毘尼カイリツの篇聚ヒンジュンを究む=参考書では次の如く。具足戒の分類方法。篇は二五○戒を波羅夷・僧残・波逸題・題舎尼・突吉羅と、罪法の重いものから軽いものへ五篇に分類すること。その五篇に倫蘭遮(末遂罪)を加えたものを六聚。更に突吉羅を悪作(身業)と悪説(口業)に分けたものが七聚。
○中百門観に入りて玄義を精練す=三論、つまり龍樹の『中論』『十二門論』とその弟子題婆の『百論』の教えをよくねり上げたという事。因みに三論宗は、中国では吉蔵(549~623)が大成。さて南泉は、要するに幅広く教学を学んだ後に、大寂(馬祖)の室を叩くのである。
○筌を忘れ、遊戯三昧を得たり=仏法の奥義を得て、方便としての教学を投げうった。と、参考書が説明している。これは『荘子』外物篇第一二章に「筌センなる者は魚に在る所以ユエンなり。魚を得て筌を忘れる。」に由来する。筌とは魚を取るかごの事で、魚が取れたら筌は必要ないという事。更に続けて次の如く言う。「得意而忘言」〔意を得て言を忘れる〕つまり、意味がわかったなら、あとはもう言葉(或いは教学)は必要ない。
逆に言えば、ろくに意味も知らないのに「禅は学問ではない!」などと言って勉強しようとしない禅者は愚かだし、Wikipedia程度で知った気になるのは救いようがない。
尚、禅思想の下敷きとして老荘が存している事も、常識である。
合掌