新・からっぽ禅蔵

上座部仏教僧としてタイで修行の後、日本の禅僧となった、水辺を愛するサーファー僧侶のブログ。

景徳伝灯録・16( 南泉エピソード1)

2010-07-29 22:48:58 | 日記
まずは、最近の出来事。
先日猛暑の中、参禅部員皆で協力しあって坐禅堂清掃を行なった。
夜は大学に隣接するK公園で、皆で怪談を語りあいw時を忘れて夢中になって、笑ったり怖がったりw
楽しい夏の夜となった。
その二日後は「仏教教団論」の試験。
その翌日の夜は、渋谷で参禅部の飲み会。
そこで、次のような話題が出た。
大学等できちんと“禅”を学んだ事がない、ある禅僧が『語る禅僧』という本を書いている。それに対して我が大学のK教授が「黙れ禅僧」という論文を書いた。K教授は我が大学できっちり禅を学び、僧堂でしっかり修行してきた禅僧であり仏教学部の大学教授である。
まぁ、僕はどちらも読んでいないので何とも言えないが、少なくとも“禅を大学で学んだ事がない人が書いた「禅関連の本」”は、あまり読む気にならない。しかも自らの苦労話しを盛り込んでいる内容なら、僕も「黙れ禅僧!」と言いたくなる。
苦労なら、僧侶じゃなくたって誰でも大なり小なりしている事だ。僕は、自らの苦労話しを売りにする禅僧の気が知れない。僕自身、実は人並み外れた過去があるが、極親しい一部の人以外に話しはしない。
ただ、“K教授から見たら”相手は禅に関しては素人さんみたいなものだろう。(修行に関してはプロだろうけど。)素人さん相手に批判的論文を書いちゃうなんて、K教授もちょっと大人気ないような気もする。
まぁ、それはともかく、飲み会が終わると長い夏休みに入った。

さて、ここから本題。
南泉普願については、以前このブログで、多少の説明は済んでいるので、ここで再びくどくど書く事はしない。
ただ、前回少し触れた五洩霊黙が747~818であるのに対して、南泉普願は748~835。二人は一歳違いである。当時の時代背景としては、彼らの少年期には8年間に及ぶ安史の乱があり、その間、楊貴妃が殺されている。またこの頃、禅者としては荷沢神会が寂している。安史の乱後には節度使の自立化が進み、その有力者達の支持を受けた“禅”の一派は成長し、彼らの支持、協力を得られなかった禅派は衰退したと思われる。また、五洩や南泉が亡くなって間もなく「会昌の廃仏」が行なわれた。そんな唐末の時代だった。
尚、言うまでもない事だが、五洩と南泉は兄弟弟子であり、彼らの師匠は言わずと知れたあの馬祖道一である。

さて、そろそろ本文に入ろう。

『景徳伝灯録』巻八・南泉普願の章(テキスト132頁12行目・南泉章の冒頭より)

「池州南泉禪師者、鄭州新鄭人也。姓王氏。唐至徳二年、依大隗山大慧禪師受業。三十詣嵩嶽受戒。初習相部舊章、究毘尼篇聚。次遊諸講肆、歴聽楞伽華厳、入中百門観、精練玄義。後扣大寂之室頓然忘筌、得遊戲三昧。」

〔池州(安徽省)の南泉普願は、鄭州新鄭(河南省)の人なり。姓は王氏なり。唐の至徳二年(757)、大隗山の大慧禅師に依りて受業す。三十にして、嵩嶽に詣りて受戒す。初め、相部の旧章を習いて毘尼の篇聚を究む。次いで諸々の講肆に遊びて、楞伽と華厳を歴聴し、中百門観に入りて玄義を精練す。後に大寂の室を扣き、頓然と筌を忘れ、遊戲三昧を得たり。〕

◆解説
○池州(安徽省)=凡そ500年後に日本の道元が中国留学し修行した浙江省寧波の天童景徳寺がある。そこから直線で凡そ500km西に池州がある。
○鄭州新鄭(河南省)=池州から北北西へ凡そ600km。
○大隗山=参考書に拠ると、大隗山は具茨山ともいい、新鄭県の西南四〇里とある。
○大慧禅師=『宋高僧伝』(988成立)「国訳」(史伝部一二219頁)では、大慧禅師を南嶽懐譲とするが、懐譲は744に亡くなっている。南泉が受業したのは至徳二年(757)なので有り得ない。つまり「国訳」の説明は誤り。近年研究及び参考書では、大慧禅師は「不明」となっている。
○嵩嶽に詣イタりて受戒す。=『宋高僧伝』では「詣嵩山會善寺(日+高)律師受具。」〔嵩山会善寺の(日+高)律師に詣りて、受具す。〕と書かれている。ここは成立年が早い『宋高僧伝』が正しく、『伝灯録』のミスか。
○相部の旧章を習いて=参考書を頼れば、四分律の三派(相部・南山・東塔)の一つで、相州日光寺の法礪(569~635)が創めた学派。旧章とは彼が造った『四分律疏』一○巻の事と説明している。四分律とは、小乗律の一つで408年に漢訳。中国や日本に一般に行なわれた律宗は全て四分律に依っているという。注釈書は、南山道宣の〔行事鈔〕及び〔資持記〕が最も有名らしい。道宣はまた、あの『続高僧伝』を645年に成立させていて、645年と言えば、玄奘三蔵法師がインド留学から帰国した年だというのは常識。
○毘尼カイリツの篇聚ヒンジュンを究む=参考書では次の如く。具足戒の分類方法。篇は二五○戒を波羅夷・僧残・波逸題・題舎尼・突吉羅と、罪法の重いものから軽いものへ五篇に分類すること。その五篇に倫蘭遮(末遂罪)を加えたものを六聚。更に突吉羅を悪作(身業)と悪説(口業)に分けたものが七聚。
○中百門観に入りて玄義を精練す=三論、つまり龍樹の『中論』『十二門論』とその弟子題婆の『百論』の教えをよくねり上げたという事。因みに三論宗は、中国では吉蔵(549~623)が大成。さて南泉は、要するに幅広く教学を学んだ後に、大寂(馬祖)の室を叩くのである。
○筌を忘れ、遊戯三昧を得たり=仏法の奥義を得て、方便としての教学を投げうった。と、参考書が説明している。これは『荘子』外物篇第一二章に「筌センなる者は魚に在る所以ユエンなり。魚を得て筌を忘れる。」に由来する。筌とは魚を取るかごの事で、魚が取れたら筌は必要ないという事。更に続けて次の如く言う。「得意而忘言」〔意を得て言を忘れる〕つまり、意味がわかったなら、あとはもう言葉(或いは教学)は必要ない。
逆に言えば、ろくに意味も知らないのに「禅は学問ではない!」などと言って勉強しようとしない禅者は愚かだし、Wikipedia程度で知った気になるのは救いようがない。
尚、禅思想の下敷きとして老荘が存している事も、常識である。

合掌

景徳伝灯録・15( 南泉と五洩について)

2010-07-24 09:14:16 | 日記
写真は、先日訪ねた比叡山延暦寺・根本中堂。

さて、先日某授業で、夏季レポートの課題が出題された。その内容は次のようなものだ。
某参考書に中国禅の禅者たちが数十人取り上げられていて、その中から一人を選んでレポートする事になったのだ。
誰を選ぶか、かなり悩んだ結果、私は南泉普願を取り上げる事にした。
南泉といえば先ず「南泉斬猫」という残酷な話しばかりがクローズアップされて、はっきり言って私も最初は大嫌いだった。
しかし学問をするうえで、好きだ嫌いだなどと稚拙な事を言ってる場合ではないし、禅僧である私は、固定化した概念を持たない。従って好き嫌いの区別などにあまり執着しない。
「え~!?ウソだぁ~」と思われるかたもいらっしゃると思うので正直に白状しておくと、物事に執着しないのは私が禅僧になる前からの性格なのだ。幼い頃からそーゆー人間で、例えば最初食べた時に吐くほど嫌いな食べ物でも「この前はこの前。今食べたら美味しいかも。」と思って食べちゃうw
だから私には“食わず嫌い”は一つもないw
まぁ、生まれつき天然の“禅僧らしさ”みたいなものの一側面を持っていたのかも知れないw
そんな自画自賛はともかくw、
しかし“執着しない”“とらわれない”というのは“禅”において最も重要な要素である事は忘れてはならない。

さて南泉は、我が曹洞宗の祖、洞山良价に強い影響を与えた禅者の一人として極めて重要なので、南泉を夏季レポートに取り上げる事にしたのである。
このブログでは、景徳伝灯録・5(ここから本題)で、テキストの135頁4行目から南泉について書いている。
しかしそれは巻八・南泉願の章の途中からに過ぎない。
そこで今度は、巻八・南泉願の章の冒頭部分から、再び南泉を取り上げ、私自身の勉強にも役立てたいと思ったわけである。

ところで、南泉の影響を受けている我が曹洞宗の祖、洞山良价だが、彼は、先ず五洩霊黙(ゴセツまたはゴエイ)に学び、次に南泉普願、サンズイ爲山霊祐、雲巌曇晟の順に参じている。

私の残りの大学生活一年半は、常に洞山良价を意識しつつ、五洩と南泉を研究し、もし大学院に進んだら、爲山と雲巌を研究してみようかと、今はそう考えている。
そこで、南泉について再び触れる前に、先ず五洩霊黙について、ここでは少しだけ触れておきたい。

某参考書による彼についての説明をそのまま引くと次の如くである。
「五洩霊黙(747~818)南岳下。毘陵(江蘇省)の人。俗姓は宣氏。官吏に登るも、馬祖道一に参じ玄機に契う。出家受具の後、石頭希遷の侍者となること数年、貞元初年(785)天台山沙道場に、二年の後、浦陽に住す。更に越州(浙江省)五洩山に移り、元和一三年三月二三日示寂。世寿七二。法臘(僧侶になってからの年数)四一。(祖堂集では三一年とする)〔祖堂集一五〕〔宋高僧伝一〇〕〔會要四〕〔伝灯録七〕」


『景徳伝灯録』巻七・五洩山靈黙禪師の章は、手元のテキストでは125頁4行目から掲載されている。
だが今は、五洩に深入りしない。
五洩の章末のみ僅かに示すにとどめる。
同、14行目から。(五洩が亡くなるシーンより)

「~時有僧問、和尚向什麼處去。師曰、無處去。曰、某甲何不見。師曰、非眼所覩。(割注)洞山云、作家。」

〔~時に僧有りて問う、「和尚は什麼処イズコに去ユく」。師曰く、「去くに処無し」。曰く、「某甲、何ぞ見ざる」。師曰く、「眼の覩る所に非ず」。洞山云く、「作家なり」。〕

洞山は五洩の弟子であるが、ここでは、やや批判的に見て「作家なり」と言っているのか…。
今は深入りしないが、残念ながら五洩と洞山の直接の問答は『景徳伝灯録』巻七・五洩の章には無いようだ。
但し、ここで五洩が言った「去くに処無し」というのは、実に味わい深い禅僧の言葉であろう。
更に、五洩の末期の言葉「眼の覩る所に非ず」は、ずっと後に洞山が“無情説法”を解決した時の言葉と同じような響きに感じるのは私だけだろうか?
同、『景徳伝灯録』巻一五・洞山良价の章(テキスト289頁11行目より)
「無情説法不思議。若將耳聴作聲不現。眼處聞聲方可知。」
〔無情説法は不思議なり。若し耳を将って声を聴かば現れず。眼の処で声を聞いて方めて知るべし。〕とある。洞山は、五洩の影響もしっかり受けていた。とみるのは私見だが、要するに「“眼で見る、見られる”とか、“耳で聴く、聴かれる”などという対立関係を立てているうちは、何も知り得ない!」ってやつだろう。

次回から、南泉の冒頭から見ていきたいと考えている。

合掌

坐禅止観

2010-07-19 12:33:53 | 日記
今回は『景徳伝灯録』はお休みして身近な出来事を書く。

1人で大学の坐禅堂を借りてのびのび坐ろうと思っていたが、私の都合と大学側の都合が合わなかっただけでなく、もう夏休みに入るので、この計画は後期に先延ばしする事にした。

また、夏休み直前の連休を利用して、比叡山延暦寺と京都への旅行に出掛けた。京都にはもう何度も行っているが、比叡山は今回が初めて。
我が道元禅師も学ばれた比叡山には、以前から一度は訪ねてみたいと思っていた。
ここは、我が曹洞宗に限らず、鎌倉仏教諸宗派の母山と言っても過言ではない。一度は参拝すべきだろう。
そんな比叡山に、「延暦寺」と言うお寺は無い。東塔、西塔、横川などからなる総称が延暦寺なのだそうだ。
因みに写真は、横川にある 我が道元禅師の出家の地である。
そして、比叡山のメインはやはり東塔にある根本中堂で、その内部はとても印象的だった。ここは比叡山第一の仏堂で、最澄が788年に一乗止観院として創建したのが始まりだという。一堂が内陣と外陣の二つに仕切られている天台宗仏堂の独特な形をしていて、内陣内部を仄かに照らす“不滅の法灯”は1200年消される事なく灯し続けられているという。
その根本中堂から程近い場所に延暦寺会館があって、そこで一泊した。
翌朝には坐禅も体験。
延暦寺ではどのように坐禅指導をしているのか、そこに興味があった。

僕は、在家の頃に多くの坐禅会に参加してきた。
臨済宗寺院や曹洞宗寺院ばかりではなく、真言宗の瞑想や天台宗の止観も体験済だ。
出家としても、曹洞宗僧侶になる前に、上座部仏教僧侶としてタイで瞑想三昧の修行を経験してきた。
だが、ここ比叡山延暦寺では、どのように一般の体験者に指導するのか興味があったのだ。

比叡山延暦寺の坐禅指導担当のお坊さんは先ず、坐禅を「坐禅止観」と表現なさっていた。坐禅の“坐”は“座”と書くのは間違い。屋根を意味するマダレに坐の“座”では、室内に座る事に限定した意味になってしまう。その様な限定をしないのが本来なので“坐”と書くのが正しいという。釈尊も室内で坐られたわけではない。
また、坐の字の二つの“人”は、二人を意味するのではなく、肉体の自分と本来の自分の事という。あくまでも自分一人を指す。
坐禅の“禅”の字の“単”もまた、自らを意味するという。しめす偏に単で、己れをしめす。つまり坐禅とは「坐って己れを示す」。坐禅止観とは、「坐って自らを示し、それを止めて見よ」という事であると説明なさっていらした。

また、警策の事を「禅杖」と言っていた。
坐蒲は座布団とも違う分厚く四角いクッションのようなものだった。

さて、坐禅のやり方は臨済宗のように対坐で、数息観を行なう。禅杖も臨済宗のように、正面から左右の背中に3発づつ、計6発打っていた。
印象に残ったのは坐禅終了後の次の言葉だった。

「皆さんいかがでしたか?坐禅の時間が長いと感じたかたは、ご自分がそういう人間だという事です。短いと感じたかたは、短いと感じるかただという事。眠いと感じたかたは、そーゆーかた。つまりお一人お一人が、ご自分だけのご自分の真実を感じていただけたかと思います。これが坐禅です。」 というようなお話しだった。
なるほど。なかなか面白いお話しをお聴き出来たと思う。
僕も大学の参禅部で、或いは一般参禅者のかたにご指導申し上げるときに、参考にさせていただこう。

合掌

景徳伝灯録・14( 悟了同未悟!)

2010-07-14 22:55:08 | 日記
まずは余談。
前期の参禅部部活動は、早いもので今週で終わり。
先日は私の企画で参禅部の仲間と、大本山S寺見学をしてきた。全員ではなく希望者だけの参加ということで、私を含めて参禅部員8名で行って来た。
見学後は、インド人がやっているインド料理屋さんで飲み会。楽しい一日となった。
また、我が師匠からお電話をいただいた晩に、久しぶりに師匠の師匠のお寺に坐禅に行った。
ここの坐禅会は人気があって、いつも坐る場所が無くなりそうになるので、私は搭袈裟して、一番隅のお骨が並んでいる場所で坐禅する。
また、こちらの方丈様をはじめ、我が師匠と兄弟弟子で我が大学の大学院生でもあるDさんや、我が師匠と同安居のWさんら、お坊さんたちだけでなく、居士の方々も、私を温かく迎えてくれる。
皆様方と、このご縁に心から感謝している。

さて本題に入る。
『景徳伝灯録』巻九・サンズイ爲山霊祐章(テキスト149頁2行目より)

「一日侍立。百丈問、誰。師曰、靈祐。百丈云、汝撥鑪中、有火否。師撥云、無火。百丈躬起、深撥得少火、舉以示之云、此不是火。師撥悟禮謝、陳其所解。百丈曰、此乃暫時岐路耳。經云、欲見佛性、當觀時節因縁。時節既至、如迷忽悟、如忘忽憶、方省己物不從他得。故祖師云、悟了同未悟、無心亦無法。只是無虚妄凡聖等心、本來心法、元自備足。汝今既爾、善自護持。」

〔一日侍立す。百丈問う、「誰ぞ」。師曰く、「霊祐なり」。百丈云く、「汝、鑪中を撥ハネよ、火有りや」。師撥て云く、「火無し」。百丈、躬ミズカら起タちて、深く撥ね、少ワズかの火を得たり。挙アげ以て之に示して云く、「此れは是れ火ならずや」。師、悟を発し礼謝して其の解ゲする所を陳ノぶる。百丈曰く、「此れは乃ち暫時の岐路ワカレミチなるのみ。経に云く、『仏性を見んと欲せば、当に時節因縁を観ずべし』と。時節既に至らば、迷えるも忽ちに悟るが如く、忘るるも忽ちに憶するが如くにして、方めて己が物の他より得るにあらざるを省サトる。故に祖師は云う、『悟り了らば未だ悟らざるに同じく、心無く亦た法も無し』と。只是タダ虚妄凡聖等の心無くして、本来の心法は元自モトヨリ備足す。汝は今既に爾シカり。善く自ら護持せよ」。〕

◆解説
○侍立す=側に仕え立つ。
○誰=疑問詞。
○撥=ハツ、はねる、かかげる、おさめる、ひらく。参考書では「撥れ」(さぐれ)と読んでいる。
○鑪=いろり。
○火の有る無し=I先生のお話しでは、「ここでの火は、煩悩の事を言いたいのでしょうかねぇ。 はじめ鑪中の表面を少し探る程度では火は見つからない。修行僧もまた、表面的には煩悩が消えたように見えても、奥底には僅かでも煩悩の火が残っている事を指摘しているのかも知れませんね。」との事。
例えば、涅槃と音写されたニルヴァーナ(S)nirvana(P)nibbanaという語の原意は吹き消した状態を言い、原始仏教では貪欲・瞋恚・愚痴の三毒の煩悩の“火”を吹き消し、煩悩を滅することという説明が某参考書にある。
○仏性を見んと欲せば~=参考書では、『涅槃経』巻二八(T-12-352a)とあるが、調べたところ(T-12-532a)が正しい。「仏性を見んと欲せば、応当マサに時節形色を観ずべし」による。
○時節因縁を観ずべし=参考書でも説明している通り、法眼は百丈のこの語をうけて次の如く言う、「出家人但随時及節便得。寒即寒。熱即熱。欲知佛性義、當觀時節因縁。」〔出家の人は、但だ時に随い節に及べば便ち得ヨし。寒ければ即ち寒く、熱ければ即ち熱し。仏性の義を知らんと欲すれば、当に時節因縁を観ずべし〕という。『景徳伝灯録』巻二四・法眼章(テキスト481頁4行目)。
また、道元の『正法眼蔵』「仏性」の巻でも、この語を主題の一つとしている。
但し、道元の出典は『涅槃経』ではなく、この『景徳伝灯録』爲山章から引いている。道元の『正法眼蔵』には引用句が頻出するが、その多くがこの『景徳伝灯録』からの引用らしい。
しかも正しく引用せず、道元自身の解釈で勝手に変更してしまっている所もあるようだ。その一例がここにある。
原典である『景徳伝灯録』爲山章のこの部分では「時節“既”至」である。道元はこれを「時節“若”至」に変更している。若至ニャクシのほうが、道元の主張を説明するうえで都合が良かったのであろう。
○己が物の他より得るにあらざる=ほかから得たものなどではない。
○悟り了らば未だ悟らざるに同じ=悟ってみて 何か今までと違うようでは悟りではあるまい。違ったならそれは邪道な野狐禅だろうし、そもそも何か通常と違った精神状態 所謂トランス状態などを求めるのは、ドラッグ(麻薬)を求める邪心に等しい。我が曹洞禅はその手の外道を嫌う。
禅は、その歴史の初期に於いて神会が身体による坐禅の否定を示し、やがて馬祖が、特別な精神状態などに道はない「平常心是道」を説いた。身による坐禅という行為こそあれ「只坐れ」と示す曹洞禅には、唐の時代に形成された禅宗の核が息づいている。というのは私の認識である。
○本来の心法は=『臨済録』示衆、「道流、心法無形、通貫十方。」〔諸君、心法は形無く、十方に通貫す。〕(手元の『臨済録』39頁より)

今回はこの辺までとする。

合掌

最近の参禅部

2010-07-09 08:35:14 | 日記
今回は、久しぶりに『景徳伝灯録』から離れて、日常の話題を少々。

今年も我が大学にオープンキャンパスの時期がやってきた。
我が参禅部は、毎年オープンキャンパスの時に、仏教学部の先生に付いて坐禅堂案内をしてきた。
しかし、今年は参禅部にお声がかからなかった。
参禅部なのにオープンキャンパスの坐禅堂で、出る幕がないというのはとても残念だ。
今年の春に、前々部長のIさんが卒業して、4年生になった前副部長K君は就活でほとんど部活に来なくなった。
こうして「参禅部の一つの時代が終わったなぁ~」と、しみじみと寂しく感じてしまう。
その上、新一年生のA君(仮名)は、僕が先輩として坐禅作法を教えても あまり反応してくれない(わかりやすく言うと“返事もしてくれない”)。それどころかキャンパス内で会って、こちらから声かけても挨拶さえしてくれない。彼は一年生とは言っても紆余曲折あったのだろう、年齢は20代後半位だ。年齢的なプライドが 彼を「先輩に挨拶も返事もしない人間」にしてしまったのだろうか。
この件は、現部長Uさんにも相談したが、「現段階では、彼に参禅部を退部してもらうほどの事とも言えないので、様子を見ましょう」という事になった。
まぁ、これからはなるべく、僕から彼には声をかけなきゃいいだけだし、直堂などの作法も僕から彼には教えなきゃいいだけだ。彼が他の部員に迷惑さえかけなければそれでいい。

さてとw、気分転換に、そのうち個人的に大学の坐禅堂を借りきっちゃおう!
そして、150人も坐れる広い坐禅堂で僕一人で黙々と坐禅三昧でもすっか!w

坐禅堂を個人的に借りる手続きについては、既に大学側に聞いてあるし。勿論お金なんかかからない。

そうそう 僕を含めて数人の参禅部員は、我が大学坐禅堂で坐禅中に 生身の人間ではない人(あの世の人?)が背後を通るのを体験しているので、僕一人で坐禅する時には、その人(?)に直堂をやってもらおうww

クソ暑い夏の坐禅が、涼しくなって良さそうだww

その時には、こっちも坊さんらしく、搭袈裟してマジ坐りしちゃうよw!