ゴルフィーライフ(New) ~ 龍と共にあれ

目指すはスクラップ・ブックか、はたまたビジョン・ボードか。
隠れ家CLUBゴルフィーにようこそ♪

LIFE ITSELF ~ コトとしての生命

2013年01月27日 | 人間と宇宙~哲学を科学する

モノとしての個体の枠を取り払うこと、モノとしての生命を相対化すること。

現実に存在する生物個体としてのモノからいったん離れて、
その生きているコトとしてのプロセス、進化に徹底してこだわる。

進化のダイナミクスに照準を合わせ、モノから決別して徹底的にコトにこだわったときに浮かび上がってくる生命のプロセスを
「共進化(coevolution)」と著者は定義する。

時間は、世界や物質から切り離して相対化されたときに、プロセスやスケール(モノサシ)としての概念が残った。
生命もまたそのようにプロセスそのものに帰結し得るものなのか。
一方、私たちが「生命」という時には、モノとは不可分の個体の生命をさすケースが殆どだと思う。
時間は流れない、世界が流れる - She's Leaving Home )

■ 共進化(coevolution)としての生命

 著者のいう「コト的生命観」から抜粋を続けながら。

二種の生物間でお互いに利用したり、搾取されたりといった影響を与えあったり、
同種の生物間、あるいは生命と社会的環境や文化的・言語的環境の間でも「共進化」は起こっている。
そして、生命が共進化を起こしているのではなく、共進化こそが生命プロセス(コトとしての生命)そのものである。
自らの生涯という比較的短い時間スケールの中で、自らを変えることができる(表現型可塑性=学習)、相手を変えることができる、ということが、人のアイデンティティにほかならない。

モノと不可分な、個体の生命である「私」。しかし、「私」の範囲をとらえ直すことはできる。
~ 私一人の私、という利己主義だけが本来の生物の生態ではない。
  個体としての生命だけを考えるのではなく、もう少し大きな生態系のなかで続いてゆく私がある。
( 神が宿る風景 ~ 私の範囲をとらえ直す )

■ インテグレートしてゆく発想

共進化という生命プロセスを考えるには、対象物を細分化していく「要素還元論」ではなく、
対象物を統合し作り上げていく「構成論的手法」が大事になってくる、と。

近代科学が様々な分野において実績をあげてきたのは「要素還元論」的手法に依存している。
理解しようとする対象をバラバラに分解して、構成物を丹念に調べてゆくことによって、対象を理解しようとする。

” 時間空間の大きなスケールの中において、共進化という生命のプロセスにアプローチすることを志す場合には、要素還元論的方法は明らかに無力である。”

「構成論的手法」は実に難儀を伴うものだと思う。
生命の本質が、要素に還元できないもの、バラバラにしてしまうと失われてしまうものであるならば、
本質を失った要素を単純に積み上げたところで、肝心な部分が欠落してしまうことは、容易に想像がつくからです。
仏つくって魂入れず、魂は別のところから持ってこないといけなくなる。
音楽家のバレンボイム氏は、音楽はインテグレートすることだと語ったが、
インテグレートするためには、プラスアルファの魂、霊性(インスピレーション)のような何かが要るのだと思う。

(クレシェンドの瞬間は教えることができない)

このプラスアルファを生みだす魔法が何なのか。

この本でも「ラングストンの蟻」の話が引用されていたが、
シンプルなルール(自然法則)のなかで、一種の「場」のなかで、
個体が環境と影響を与えながら運動しているときに、ある臨界点で魔法が現れたかのように思えるだけのことなのか。

神秘を創造するシンプルな仕組み )

量子力学においても、宇宙生成時のトンネル効果のような、魔法のような現象が事実として観測されている。
トンネル効果というアイデアは、無(真空)から有(粒子)が出現するという、無から有へのベクトルを実際にリンクづける役割を持った、インテグレート的発想だといえなくもない。
宇宙の始まりのタネ )  

このように現象をインテグレートしてゆく意思(WILL )のようなパワーは、やはり存在するのだと思います。
現象化しないために、WILLは目に見えないが、至るところにWILLは存在しているはず。
石や木や水と私たちの関係について )

生物や医学の世界でも、対象をメスで切り刻む要素還元論的手法に拠った従来の西洋医学ではなく、
包括的に人の心身をインテグレートして捉えていこうというアプローチが生まれてきているようです。

( → 須藤研究室 - 工学的な視点による再生医療を)

この本が指し示すところは、なかなかに深い。

具体的にブログに書き出すのは、なかなかに難しいのですが、興味深いテーマをあと2つほど上げておきます。

■ 進化と学習

~ 進化は、世代を超える長い時間スケールの適応プロセスである。
  一方、学習は、一個体の生涯という短い時間スケールの適応プロセスである。
  二つのプロセスがどう関わるかという問題はなかなか奥深くチャレンジしがいのあるテーマである。

著者は、学習はそれなりに(メカニズム的にも、エネルギー的にも、時間的にも)コストがかかるものであるから、
進化のプロセスで淘汰されるものだと説明している。

このドラスティックな学習の役割の変化によって進化を促進する現象はボールドウィン効果と呼ばれるらしい。

すなわち、
低いレベルから高いレベルへの進化を考えてみたときに、
高いレベルを学習して体得できる「可塑性の高い個体」は適応性が高いということになり、学習(可塑性)はメリットとして働く。
しかし、進化によって、生得的に高レベルな個体が多数を占めるようになると、学習がうまくいくかどうかに依存している 「可塑性の高い個体」は、その学習のコストが不利に働いて淘汰されてしまう。
メリットであった学習が、レベルの底上げによって、コストとなりデメリットに変わる。

私たちは一個体である限り、学習して、あるレベルに達したら、
次のレベルへと学習を続けなくては、進化論的には淘汰されてしまうものなのだ。

■ 人間は根幹的な部分で、生きているコトをモノから相対化する志向を持っている

「知の逆転」でノーム・チョムスキー(ニューヨークタイムス誌が”生きている人の中でおそらく最も重要な知識人”と評し、プラトン、フロイト、聖書と並んでもっとも引用回数の多い著者とされるMIT言語学教授)が指摘しているとおり、人類をホモサピエンスとして大躍進(great leap forward)させたものは言語。

ヒトは言語を獲得したとき、今 目の前に存在する物事に対して即応的にシグナルを発するという段階から、
時間的にも空間的にも離れた場所に存在する物事を記述できるようになった。
これは、現前するモノにしばられていたヒトにとって、非常に大きな飛躍であった。

「人間の、その意識のなかには、空間への志向、地球からの離脱への憧れがあるのだ。」
アーティストには普遍的にそのようなモチベーションが存在し、アート作品の中にも現れている。

心的現実性こそが重要である 」、
~ 客観的現実に人は生きるのではなく、自分の心や意識で感じる心的現実に一番の影響を受けながら生きている
アーティストに限った話でもなく、その通りだと思います。

 現代的な用法によれば、目の前にある机やコップこそが「具体」であり、信頼に足るもの。
  一方で、言語や数学、自我といったものは「抽象」であり実在性が低い。

  しかし、プラトンの体系にしたがえば、具体と抽象の関係は逆転する。
  目を閉じて思い浮かべる観念の世界のほうが、
  よほど確固とした精神世界における「具体」=「イデア」につながっている。
  目の前のコップなどは、イデアの不完全な影にすぎないのである。

~ 現実は、私たちの生存を支える不可欠な条件である。
  しかし、仮想が現実に比べて劣るというのでは決してない。
  
モーツァルトやアインシュタインといった創造的な天才の中では、
  むしろ仮想が現実よりも魂に近かったのではないか。

 「LIFE ITSELF」、
この本にあなたの名前がないのはおかしいと思う。

LIFE ITSELF George Harrison

私一人の私、という利己主義だけが本来の生物の生態ではない。
個体としての生命だけではない私。
 

I Me Mine The Beatles-Last Recording

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 前の記事へ | トップ | 夜のしじまに ~ 鼻唄作曲家 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿