仁、そして、皆へ

そこから 聞こえる声
そして 今

壁の向こうの溜息の意味10

2010年05月31日 17時17分46秒 | Weblog
 ヒカルはミサキを攻めるつもりなどなかった。だが、意識の奥底で感じていた劣等感とも言うべきものがミサキに対する語気をいくぶん荒くした。ヒカルは緊張と驚きで自分が何だか、小さく感じた。ミサキの言葉が救ってくれたのに、自分自身の劣等感ゆえに、どこかで自分を、自分の自尊心を守ろうとして、ミサキに対して、攻撃的になってしまった。
 ヒカルの表情をミサキが寂しそうな顔で見た。
 そのミサキの表情をヒカルも見た。
 ヒカルは、顔を伏せた。
「ゴメン、ミサキ、力になろうと思ってきたのに・・・。」
「ううん。」
ヒカルはミサキの手をグッと握った。
「ヒカル、聞いて。」
「なあに。」
「私、東京に行ってから、はじめてのことばかりだったの。あの団体に入ってからの時間は今、思うと、とても長くて短かったように思うわ。私は、恋もしたことがなかった。皆に守られて、何も知らなかった。
だから簡単だったのかもしれないな。騙すのが・・・・。
ふふ、いまは騙されたと思えるけど、あのころは自分が一番汚くて、自分がすべての不幸の元凶だと思っていたの。
そこから、ヒカルが救ってくれた。
あなたに恋をした。
私はほんとに人を好きになったことがなかったの。
そう、気付いたの。
あなたのためにと思うこと。あなたがいると思うこと。
全ての不安が消えていく時間。
あなたと一緒にいれば、何も怖くない。
そう思えるの。」
ヒカルは涙腺が開いていた。考えてみれば、もし、あの時、ミサキでなかったら、自分はこんな大胆な行動に出れただろうか、そう、ミサキだから、ミサキが自分を強くしてくれたのだ。
「ミサキ。」
ミサキの手を取り、立ち上がった。抱きしめた。今度は、ミサキをくるっと回して後ろから抱きしめ、膝の上にのせて座りなおした。
「私ね。ヒカルと「ベース」に移れた事、すごく、嬉しかった。「ベース」にいけたから、自分を取り戻せたんだと思うわ。不思議だった。あなたと私は独立しているのに、全体で一つの家族のように思えた。ほんとうの家族より、ずうっと、ずっと近い家族のように思ったの。
特にね、新しい仁が生まれてから。
そして、今度のことがあった。私の家族がここにもいることに気付いたの。今、こちらの家族がね、困っているの。だから、力になってあげたいの。「ベース」で感じることができた温かさをね。私がまわりに向けられたら、家族の形も変わるように思えるの。」
「そう。」
ミサキがヒカルの手をグッと握り締めた。身体をよじるようにして振り向いた。
「ヒカル、私のわがままを聞いて。」
「いいよ。」
「何があっても、私と一緒にいて。」
「えっ。」
「もし、ヒカルと別れなさいって言われたら、私を連れて「ベース」に逃げて。」
「何をいうんんだよ。こちらの家族・・・・。」
「もし、こちらに戻れといわれたら、ヒカルも・・・・。」
「わかった。ミサキ、僕も同じだよ。ミサキと離れるつもりはないよ。」
ミサキはくるっと全身をヒカルのほうに向けた。そして、二人はキッスした。

壁の向こうの溜息の意味9

2010年05月27日 17時19分39秒 | Weblog
 ヒカルにもたれながら、ミサキは揺れた。ミサキは単純にヒカルといることが嬉しかった。そして、右手が、掌がヒカルに触れた。電流のような刺激、けれど、セーブされた刺激。心地良かった。
 ヒカルがポツンといった。
「違うんだね。」
「なあに。」
「ヒデオさんと話したことがあったんだ。生まれるところが違うとずいぶん違うものだなって。」
「何のこと。」
「ねえ、ミサキ、どうして・・・・・、僕との暮らしに満足していたの。」
「何を言っているの。」
「だってこんな大きな家に住んでいたんでしょ。お手伝いさんもいて。」
「うーん、ヒカルは何が言いたいの。」
「何がって・・・。」
「私はあなたと出会えたことが奇跡のように思うわ。あなたが私を受け入れてくれたことも。そう、あなたと一緒にいれること、それだけで充分よ。」
「あんな小さな部屋でも。」
「うん。私ね。ちいさいころから独りの部屋を与えられたの。だから、あんなふうに暮らしができるなんて思わなかった。いつもね、ヒカルを感じて生きていられる。お仕事で、昼間、いなくても、ヒカルの臭いを感じることができる。とても、嬉しかった。」
「そうなの。」
「父も母も忙しくて、あまり、一緒いた記憶がないの。でも、父は月に一度、皆でいられる時間を作ったの。第三水曜日、私は、学校を休んだの。」
ミサキは続けた。
「ほんとうに幸せそうな家族のようだった。」
「家族でしょう。」
「でもね。水曜日以外は一人でいることが多かった。だから、ずっと一緒にいられることがとても嬉しかった。」
「なんていうか。」
「私、お料理もね、ヒカルと暮らすことができたからできるようなったのよ。だから、「ベース」でもおやくにたてたの。」
ヒカルはミサキの言葉に救われた。言葉使いがいつもと違うような気はしたが、境遇の違いを意識しなくてよくなってきた。
「ところで、どんな話なんだろう。」
「解らないって言うとヘンね。」
「なに。」
「聞いてはいないの。でも、これからのことだと思うわ。」
「これからのことって。」
「父があの状態なので、私にこちらに戻るように言われると思うの。」
「そんな、「ベース」の農場はどうするの。」
「うん。」
今度は、ミサキが言葉に詰まった。

壁の向こうの溜息の意味8

2010年05月25日 16時23分00秒 | Weblog
 それから、二人は病院に行き、ミサキの父親を見舞った。父親は寝ていた。父親を見るミサキの視線に、ヒカルは親子を感じた。
 二人は病院でタクシーを拾い、ミサキの実家に向かった。タクシーは名古屋城をまわるように進んだ。大きな家の立ち並ぶ、一角にミサキの実家があった。ヒカルはびっくりするというのとは違うが、言葉を失った。
 立派な門があり、インターフォンを押すと綺麗な女性の声がした。
「ミサキです。」
「お帰りなさいませ。」
初老にちかい女性が門を開けてくれた。
「奥様は戻られています。」
「そう。」
ヒカルの心臓の音が聞こえた。いや、ヒカル自身の耳に響き、周りの音が聞こえ難くなっていた。玄関までの距離がずいぶん長いように感じた。軽い眩暈がヒカルを襲った。女性が玄関を開けた。
「応接間にいらっしゃいます。」
とにかく大きかった。何もかもが大きかった。小学校の廊下みたいな廊下。いくつものドアが廊下に面してあった。一つのドアから次のドアまでが長かった。
 
 ここは美術館か・・・・・。

 奥から二番目のドアが開いていた。その部屋は、綺麗に掃除が施され、磨かれた調度品が品よく配置されていた。
「あ、お帰り。」
ソファーに座っていたミサキの母親が笑顔で振り向いた。ヒカルを見ると立ち上がった。
「よくいらっしゃいました。」
「はい。」
といったもののヒカルは次の言葉が見つからなかった。
「緊張なさらないでね。」
見透かされていた。
「はい。」
「ミサキ、叔父様の予定があるから、八時に「佐助」さんにしたわ。いいわね。」
「はい。」
ヒカルとミサキの声がかさなった。
「まあ、中のいいこと。」
ミサキの母親は微笑んだ。
「その辺を散歩でもしてきなさいよ、時間まで・・・。もちろん、ミサキの部屋でもいいけど。どうぞ、くつろいでちょうだい。」
「はっ、はい。」
ヒカルはそれ以上何も言えなかった。頭を下げ、廊下に出た。
「どうしようか。お部屋に行く。」
ミサキは額から汗が流れているヒカルに気付いた。
「ど、どうしたの。」
「いや、何でも・・・。」
「お部屋に行こう。ね。」

 ミサキの部屋は、そのお屋敷の中央の階段を上った二階の一番すみにあった。ドアを開けるとそこも別世界のようだった。と、言うのは大げさだが、ヒカルにはそう思えた。下北沢のマサルのマンションの部屋にも驚いたが、ミサキの部屋もすごかった。いろんな思い出が、ドアのある壁に掛けられていた。それでも、それは部屋全体の一部でしかなかった。大きな窓が二つ、外の庭に面していた。玄関から、考えると裏手になるのだが、そこにもまた、綺麗に手入れをされた庭が広がっていた。窓側に机があった。その反対側には洋書を含め、アメリカ文学の巨匠の作品がズラッと並んだ書棚があった。その対面にはベッドがあり、映画にでも出てきそうな西洋の雰囲気が漂っていた。西洋という表現しかヒカルには浮んでこなかった。部屋の真ん中に小さなテーブルがあった。椅子が二脚。

圧倒された。

「どうしようヒカル。もう一度着替えたほうがいいかなあ。」
ミサキはヒカルの額に手を当てた。
「あ、待って、今、オシボリもって来るね。」
廊下を駆けるミサキの足音がした。
「ふー。」
ヒカルは大きく溜息をついて、椅子に腰を下ろした。

 なぜ、ミサキは僕と暮らしてこれたんだろう。
 ヒロムの部屋ならともかく、池の上のあの狭い部屋で。
 しかも、不平の一つも言うことなく。
 この世界に住んでいた人間が、なぜ。
 僕とは世界が・・・・。

ドアが開いた。
「お待ちどうさま。」
ミサキがオシボリのった小さなトレイをもって、戻ってきた。トレイをテーブルに置いて向かい合うように座った。
「大丈夫。」
「うん。大丈夫。」
ミサキはヒカルの額の汗をオシボリでぬぐった。
「そうだ。上着脱いで。」
そういうとヒカルの後ろに回り、上着を脱がせた。汗ばんだヒカルから先ほど一つになったときの残り香が立ち上った。ヒカルはハッとした。

 お母さん、きづいていたのかなあ。

ベッドの横の大きな洋服ダンスを開け、ミサキは上着をかけた。そして、足音を忍ばせて、ヒカルの後ろから、抱きついた。
「ふふ。どうしたの。」
ヒカルはミサキの腕を抱えた。
「どうしたって言うか。なんというか。」
「それはそうよね。もし私があなたのご両親と会うとしたら、すっごく緊張すると思うわ。」
「それもそうなんだけど・・・。」
「なあに。」
「ミサキ、僕なんかでよかったのかな。」
「なにが。」
「えっ・・・・。」
ヒカルはお言葉が続かなかった。

壁の向こうの溜息の意味7

2010年05月21日 16時46分05秒 | Weblog
 ヒロムのマンションで始まった二人の生活。
 全てを許しあえるまでの時間。
 仁との遭遇。
 「ベース」。
 
 二人の中での信頼感が、けして、離れることのない気持ちの砦を築いていた。

 それには、何の躊躇もなかった。ミサキがヒカルの服を一枚一枚で丁寧に脱がせた。全裸にするとベッドに座るように誘った。しわができないように気をつけてハンガーにかけ、クローゼットに入れた。振り向くとそこにヒカルがいた。ヒカルはまず、ミサキの眼鏡をはずした。薄っすらと化粧をしていた。スッピンでも綺麗なのに、さらに、美しさが増しているように思えた。全裸にすると、ヒカルも丁寧に服を片付けた。見つめあい、キッスをして、ゆっくりと溶け合った。何の不安も感じなかった。溶け合うことが嬉しかった。

 その時間が過ぎて、二人は外に出た。二人の時間を演出した場所は外から見るとずいぶんと古ぼけていた。表通りにぬける路地を歩いていると脇の路地から荒々しい声がした。
「まだ早いよ。」
声は脇の路地の奥のほうから聞こえた。二人は覗き込んだ。
「お兄ちゃん、来るのはいいけど、店が終わってからにしてよ。」
作業服の浮浪者がギャベジカンの前に立っていた。若い板前が睨みつけていた。浮浪者は薄ら笑いを浮かべて、少しづつ、そこから離れた。目が合った。
「あっ。」
ヒカルは思わず大声を出した。浮浪者が振り向いた。二人をジーとみると作業服の浮浪者は走り出した。ミサキの脇を駆け抜けた。その瞬間、ミサキの肩が浮浪者の肩とぶつかった。ミサキの身体がフワッと浮いた。倒れる前にヒカルが抱きかかえた。
「なにを・・・・。」
ものすごい勢いで浮浪者は表通りに消えた。
「大丈夫。」
「うん、平気、ありがとう。」
ミサキを抱き起こした。
「何処も痛くない。」
「うん。」
「びっくりしたね、」
「ほんとに。」
若い板さんが心配そうに見ていた。二人は軽く会釈をした。
「アイツ、最近、よく来るんですよ。スンマセン。」
二人はもう一度、頭を下げた。
「似ていなかった。」
ヒカルが言った。
「なに。」
「今の男、ミサキを突き飛ばした男。」
「ええ。」
「この前も見たんだよ。」
「そう。」
「それで、誰かに似ていると思ったんだけど・・・。ヒロムさんに似ていなかった。」
ヒロムという名前を聞いて、ミサキの表情が一変した。
「いるわけないわ。あの人が名古屋にいるなんて。イヤ。気持ち悪い。」
「そうか。そうだよな。いるわけないか。」
「ヒカル、ヘンなこと言わないで。ね。」
「うん。」

壁の向こうの溜息の意味6

2010年05月20日 15時56分44秒 | Weblog
 時間が流れた。いつもより速く、幸せな時間が流れた。二人の会話は緊張感のない会話に還元され、これから訪れる時間、その大切な話の部分はスルーされた。
 
 鳥やは駅前通から路地に入ったところにあった。人の背丈とおなじくらいある大きな赤提灯が、軒にぶら下がっていた。鳥やの文字は店の主人の意気込みを感じさせる勢いのある筆字だった。昼食時は過ぎていたが、半分以上の席が埋まっていた。

「何にする。」
メニューを見ながら、ミサキが言った。
「よく、来るの。」
「うん、小さいときからあったから、父、母とよく寄らせてもらったの。」
「ふーん。じゃあ任せるよ。」
「エヘ、いいの。すきなものたのんで。」
「もちろん。ミサキ、ビール頼もうか。」
「うーん。ま、いいか、どうせ、夕食の時にはお酒出るものね。」
 二人は乾杯した。それだけで嬉しかった。軽い酔いと幸福な気分の中で、二人は手を絡めた。
 店を出てタクシーを拾う前にヒカルが言った。
「少しでいいから、二人きりになれる場所に行かない。」
 ミサキは微笑んだ。ミサキの右手は制御しない状態でヒカルの左手を取った。タクシーに乗るのをやめて、二人は繁華街の裏手にあるその場所に姿を消した。

壁の向こうの溜息の意味5

2010年05月17日 11時44分10秒 | Weblog
 百貨店を出るまでの間、ミサキを見た店の関係者は皆が会釈した。皆が微笑んでいた。
エントランスを出る前には、フロアー長が走ってきた。
「また、お越しください。」
恭しく頭を下げられるとミサキは笑顔で手を振った。

「荷物、大変ね。」
「コインロッカーに入れておこうかな。」
「駅に戻ろうか。」
「うん。」
普通の会話だった。いつものミサキだった。
「ヒカル、背広を着たヒカルも素敵ね。別人みたい。」
「別人みたいなのはミサキだよ。」
「えー、どこが。」
「うーん。」
百貨店から少し離れるとミサキは、また、腕を絡めた。
 いつものミサキだった。
体温が伝わった。嬉しかった。言葉はその体温の中に閉じ込められた。
 ヒカルは自分が知らないミサキのことを考えた。

 宗教団体から二人で逃げた。そこからのミサキのことはヒカルが一番、知っていると思った。が、大学に入る前のミサキについてはほとんど何も知らなかった。二人で暮らすことを、ミサキの両親は許してくれた。寛大な両親だと思った。自分のことを振り返ると、親のことなど、ほとんど考えていなかった。今、名古屋にいた。ミサキが生まれてから十八歳まで育った場所にいた。そこはヒカルの見てきた場所とは違う景色だった。

親戚、友人、知人、家族。
街、道、川、木々、風、臭い。

空気が、ミサキを取り巻く全ての空気が、ミサキを守っているような雰囲気。
緊張感を必要としないミサキの顔。
余裕とも、落ち着きとも見えるミサキの表情。
いくぶん距離を感じた。

荷物を駅のコインロッカーに入れて、また、おなじ道を歩いた。
「何か食べようか。」
「いいね。」
「何にする。」
「うー。お勧めは。」
「そうね。鳥やさんでいいかしら。」
「いいよ。」
「ところで、今回は何の話なんだろう。」
「何って・・・・。父のことだと思うけど。」
「何か聞いてないの。」
「それがね。母は、おまえの大切な人にね。二人にね、大事なお話があるのって・・・・。」
「大事な話・・・。」
「でもね。私、嬉しかったの。母がね。ヒカルのこと、私の大切な人って言ってくれたのよ。
ああ、良かったって思ったの。」

壁の向こうの溜息の意味4

2010年05月13日 17時16分41秒 | Weblog
 シャツも、ネクタイも、靴も借り物だった。
 典宏さんは、四着をヒカルの首の下に当てて確かめるとそのうちの一着を選んだ。そして、ヒカルをフィチングルームに案内し、ズボンの長さを合わせると、裏に走った。
「シングルでいいよね。二十分で仕上げさせるから、その間に中身を見繕うか。」
戻って早口でそういうとヒカルの首、肩、腕を採寸して、また、売り場を早足で回った。会計用の台の上にシャツと、ネクタイ、ハンカチ、アンダーウエアー、靴下、セカンドバッグまでのった。次にヒカルの手を引いて、靴売り場に行き、リーガルを選んだ。そうこうしているうちに女性が限りなく黒にちかいダークブラウンの背広とズボンを持ってきた。
「試着室で、着替えちゃいなよ。」
ヒカルはびっくりする速さでことが進むのに戸惑った。ワイシャツをズボンに入れたくらいで典宏さんの声がした。
「開けてもいい。」
「どうぞ。」
典宏さんはワイシャツをフィッティングし、ネクタイを結んでくれた。フィッチングルームの前にはリーガルがそろえてあった。
「それ、いいかな。」
ヒカルがそれまできていた衣類を指差した。
「あ、はい。」
ガバッとひとまとめにして持ち去った。
 上着に腕を通してリーガルをはいた。ミサキが嬉しそうに微笑んだ。

 ヒカルのポケットはパンパンだった。
「財布とか、セカンドバッグに入れたほうがいいよ。」
何から何まで、という感じだった。セカンドバッグに詰め替える前にヒカルは恐る恐る聞いた。
「お会計は・・・。」
「え、いいよ。美咲ちゃんのボーイフレンドから御代はいただけませんよ。」
ヒカルが困ったような顔をするとすかさず続けた。
「心配しなくていいよ。在庫処理か、サンプル扱いで、平気だから。」
「そんな・・・。」
「典宏さん、ありがとう。」
「どう致しまして・・・・、上には内緒だよ。」
「アリガト。」
ミサキは兄に甘える妹のようだった。ヒカルは、その親密さに一瞬、嫉妬した。が、簡易スーツケースに今まで来ていた衣類がきれいに納まり、靴が、メーカーのネームの入った手提げに入れられ手渡された時には、全てが整然と進んでいくさまに感動していた。
「ほんとうにありがとうございます。」
深々と頭を下げた。

一瞬、ミサキが自分とは違う世界の人のように思えた。



壁の向こうの溜息の意味3

2010年05月11日 17時19分42秒 | Weblog
 もう初老と言ってもおかしくない滝沢さんに対するミサキの態度にヒカルはいくぶん違和感を持っていた。はじめて、ミサキと名古屋にきたときから、それは続いていた。
「ねえ、年上の滝沢さんに・・・・。」
と話しかけたことはあったが、言葉は続かなかった。滝沢さんはミサキのことを美咲さんと呼んでいた。ミサキが滝沢さんを見下しているという感じでもなかった。

 ミサキの店、いや、ミサキの父親のその父親の父親が始めた店。店というのは当らなかった。百貨店という言葉が一番、適していた。おりしも、高度成長とバブルの流れが、その店を大きくした。ミサキが店内に入ると、アルバイトや若い店員以外の関係者は必ず、近づき、恭しく挨拶をした。そして、アルバイトや若い店員に耳打ちした。
 一階のフロアーに入ると中年の店員が走った。課長クラスのフロアー長が現れ、ミサキに頭を下げた。
「お嬢様、本日は。」
「ヒカルの背広が見たいの。」
「はい。」
そういうとエレベーターまで案内し、3階の紳士服売り場の担当に伝えておくといった。
 ヒカルを連れて来たことをミサキは一瞬、考えた。
 
 お店の噂になるかもしれないなぁ。

が、それはそれ、そんな思いは一瞬で消えさった。
 ヒカルは非常に恐縮した。ヒカルの知らないミサキがいた。前回は滝沢さんに連れられて、病院に行き、ミサキの実家には寄らずに「ベース」に戻った。ミサキからの重要なお話という連絡を受けて、マサルにまた、背広を借りた。

 背広を着てきてよかった。

 ミサキは「ベース」のミサキとは別人だった。まして、あの宗教団体の頃のミサキとも違っていた。黒縁の眼鏡は同じでも、薄く柔らかいそうな生地のワンピース、乳白色の下地にに紫の花が踊るワンピース姿、太陽の光がその生地を通りぬけ、乱反射し、天使の羽を作り出しているかのような・・・・
ヒカルはそう感じた。嬉しかった。そして、複雑だった。

 紳士服売り場の主任が二人をエスコートした。ミサキを見るなり、嬉しいそうに微笑んだ。
「美咲ちゃんのボーイフレンド。」
「典宏さん。」
ミサキも嬉しそうに微笑んだ。
「いとこの典宏さんよ。」
「ヒカルです。」
頭を下げた。
「社長はどう。」
「意識は回復したの。でも、しばらくは病院かな。」
「そう。」
「典宏さん。ヒカルの背広、見立ててよ。」
「いいよ。」
そういうとヒカルを見た。ジーと見た。
「これ、借り物でしょ。」
「はい。」
「吊るしで、あうのあるかなあ。今日、着て行きたいの。」
「そうなのよ。」
「じゃあ・・・・。」
そういうと足早に売り場を探索した。一分も立たないうちに四着の背広を手にして戻ってきた。