K.テツのひとりごと

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湖友会「史跡めぐり」藤原京を歩く その1(本薬師寺、朱雀大路跡)

2016年04月30日 | ハイキング、山登り

湖友会は私が以前勤めていた会社の滋賀支店のOB会です。

4月28日(木)、「史跡めぐり」の会に参加しました。今回は藤原京を歩く~本格的古代宮都の誕生~というテーマで、藤原京を歩きます。

大半の人は、近鉄京都駅で集合でしたが、私は現地(近鉄畝傍御陵前駅)で集合、参加人員は17名でした。現地ガイド福西さんの案内のもと本薬師寺跡→藤原京朱雀大路跡→藤原京資料→藤原京跡→奈良文化財研究所→県立橿原考古学研究所附属博物館と回ります。

天気予報では雨ということでしたが、薄日が射す天気模様、傘を片手にいざ出発です。

ここで簡単に整理します。

藤原京:我が国で初めて首都として計画的に造られた都市。日本書紀では「新益都(しんやくのみやこ)」という表現で登場する。最近の発掘調査によると東西、南北5.3kmにおよび、平城京をしのぐといわれている。それまでの都は天皇が亡くなる毎に遷都されていたが、藤原京は3代の天皇が使用。持統8年(694年)に飛鳥浄御原宮遷都、711年に平城京に遷都されるまで16年間続いた。天武天皇時代に計画され、道路整備から建設が始まった。

藤原宮:藤原京のほぼ中央にある南北約1kmの内裏、官衙があった。幅2.1mの内堀、幅1.8m高さ5.5mの堤、幅5.3m~10.3mの外堀、幅60mの空閑地に囲まれその外側に条坊道路が有った。

本薬師寺(もとやくしじ):(WIKIPEDIAより)奈良県橿原市の東南に位置する藤原京の薬師寺と呼ばれた寺院[1]。後に持統天皇となる皇后の病気平癒を祈って天武天皇が建立を誓願した官寺である。平城京遷都で薬師寺西ノ京に移ると、西ノ京の「薬師寺」と区別するために「本薬師寺」と称されるようになった[1][2]。本薬師寺は「元薬師寺」とも記されるほか[3]、平城京に造営された薬師寺(平城京薬師寺[4])に対して、「藤原京薬師寺」などとも呼ばれる[1]。これまでの発掘調査により、およそ11世紀初頭まで存続していたことが認められている[5]

現在は、橿原市城殿町(きどのちょう)の医王院(白鳳山醫王院)の境内に、伽藍の遺構のうち金堂の礎石の一部が残る。また、東塔や西塔の土壇および心礎などの礎石が[6]周囲の水田に残存しており[7]、本薬師寺跡として特別史跡指定されている

本薬師寺に入る道です。右手の木が茂っているところが、金堂跡。夏には両側にホテイアオイの花が咲き、カメラマンで一杯になるそうです。

 

本薬師寺は西ノ京の薬師寺と堂塔配置や大きさがうり二つなのです。これは西塔跡。左手向こう側の木が有るところが東塔跡です。

 

西塔の芯石。

 

白鳳山醫王院(左の建物)にある金堂の礎石。


庚申塚などが祀られていました。


こちらが東塔跡と、その礎石群。芯石には穴があいています。仏舎利を治めていたのです。


本薬師寺の真西に畝傍山がそびえます。


朱雀大路の跡です。ここは小高い丘、朱雀大路を作るために古墳を切り取ったのです。



耳成山との間に広がる平城宮跡。左裾の農事小屋のあたりに朱雀門が有ったのでしょう。


藤原京の周りにはこのような案内が沢山あります。


藤原京資料室に向かいます。続きは明後日のブログで。

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