K.テツのひとりごと

行動記録、趣味の話などを書いてゆきます

4月度 信長公記を読む会

2016年04月10日 | 講座・会合

4月5日(火)10時から信長公記を読む会がありました。出席者は22名でした。5年前の4月5日に開講されたこの会、1回目は21名で始まったそうです。現在は会員数28名、今回から「平家物語を読む会」と同様に会報(『信長公記』余録)が配布されることになりました。その冒頭には開講のいきさつが掲載されています。

開講前の砂川先生のお話は岩波書店発行の「文学」が本年限りで休刊になること。「日本も末だ・・・」

l今回読み進めたのは 巻六(12)大筒・丁野攻め破らるゝの事 の途中から (13)刀根山の戦并一乗谷攻め破るの事。 浅井・朝倉合戦も佳境に入ったところです。

大づく城を取った信長はすぐにようの山城に取りかかる。ようの山城の城番である平泉寺の玉泉坊は降参。信長は「朝倉義景は今晩退散するから追撃するように」と配下の諸将に再三言ったが、諸将は出陣しようとしない。業を煮やした信長は先駆けをする。 ・・・・朝倉軍は橡の木峠越えと利根越しの二手に分けて敗走。どちらを追うべきか諸将の意見がまちまちだったが、信長は「引檀・敦賀の身方城を目指すだろうから利根越しの引檀口へ人数を割け」と命を出す。刀根山で追いついた信長軍は大勝。朝倉一族を含め主だった将兵を含め3千を討ち取った。

①レジュメの上杉謙信宛て信長書状、小早川左衛門佐宛信長書状にも首3千討ち取ったとあり、信長公記が史実を反映している事がうかがえる。しかし太田牛一のものの見方、考え方が入っている事に留意する必要がある。

②桐野作人氏は信長を評し「軍事カリスマ」と言ったが、勝機を見逃さない信長の読み、用兵の巧みさ読み取れる。

③信長が引檀口の方追えと言った件、信長はラッパを放っていて敵の動きを知っていたのかもしれない。

④信長が先駆けしたのを知ったあと、諸将は慌てて追いついた。滝川・柴田・丹羽・蜂屋・羽柴・稲葉らは「面目ない」と謹んで申し上げたが、佐久間1人が涙ながらに「左様に仰せられ候共、我々程の内の者は、もたれ間敷」と自讃、信長の怒りを買う。このような内輪の話は外には出にくいので、信長公記に書いてあるのはとても貴重。これが佐久間の命取り(8年後に折檻、遠国に流されるひとつの要因)になったのだ。

⑤この戦に光秀、藤孝が参戦していないがなぜか。「義昭、本願寺に対する抑え」のほか「朝倉との関係」が有ったのかもしれない。

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