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円安政策や金利緩和の通貨政策だけでは、本当の不況脱出はできない。

2015年09月22日 15時09分51秒 | 日記
 韓国 中央日報が掲載している、日本の為替相場に関して、1985年のプラザ合意と言われる円高政策に合意してから後、急激に進む円高で日本が長い不況の道に落ち込んだ時点から、このコラムは始まります。

 プラザ合意は米国経済の不況を助けるための全く人為的な操作であった。米国はこの結果、ドルの赤字体制が減少したが、日本はその後も永く、20年どころか30年も不況が続く事になった。

 そしてつい数日前、9月16日に米国の格付け会社スタンダード・アンド・プアーズ(S&P)は、日本の国債格付けを4番目の段階である「AA-」から5番目の段階の「A+」に1段階引き下げると明らかにした。

 アベノミクスの効果が思っているよりも効き目がない。もう一段の金融緩和が必要ではないかとの催促だ。

 韓国 中央日報が、他山の石として、日本の為替問題をテキストに選び、解説している。

 韓国も決して経済状態が良いとはいえない。 日本、米国、中国や欧州と相次いで自国通貨の価値の切り下げや、金利の引き下げなどで、自国経済の浮揚を図っているが、果してこのような通貨政策だけで、経済は本当に良くなるのか、筆者は非常に懐疑的に見ている。

 このコラムその物は平易に解りやすく書いているので、休日の最後のお勉強には向いていると思い掲載いたしました。


(中央日報日本語版より貼り付け)

力で下げたドル…日本を30年苦しめる為替相場の報い
2015年09月22日 .

1985年9月22日、ニューヨークのプラザホテル。米国、英国、フランス、ドイツ、日本の5カ国の財相が集まった。世界貿易を牛耳る国の経済トップの会合は隠密に行われた。日本の竹下登蔵相は取材陣を振り切るためにゴルフウェア姿で空港に行き太平洋を渡った。会議が始まると米ベーカー財務長官は声を高めた。「円があまりに低評価され米国の貿易赤字が深刻だ。円高を誘導してほしい」。ドルを下げ米国の輸出競争力を回復し貿易赤字を減らしたいという内心を露骨に示したのだ。ベーカーの圧迫に財相らは円切り上げ、ドル切り下げに同意した。彼らは米国の赤字が続けば基軸通貨であるドルの地位が揺らぐことになることを懸念した。外国為替の需給により為替相場が決定される「市場経路」を経ない強制的・人為的決定だった。世界の為替相場史に最も厚い章で記録される「プラザ合意」はこのようになされた。

 2015年9月16日。米国の格付け会社スタンダード・アンド・プアーズ(S&P)は日本の国債格付けを4番目の段階である「AA-」から5番目の段階の「A+」に1段階引き下げると明らかにした。S&Pは引き下げの理由として、「経済成長を促進しデフレを打開しようとする日本政府の景気浮揚策は2~3年以内に経済状況を逆転させられないだろう」と明らかにした。「アベノミクス」を掲げた日本政府が中央銀行の輪転機を回してお金を印刷しインフレ誘導と景気回復を試みているが、短期間に景気の下落傾向を戻すのは難しいとみたのだ。

30年前のプラザホテルでの会議と2015年の日本銀行の輪転機の高速稼動。全く異なる時空間で起きた別個の2つの事件は実際には緊密につながっている。プラザ合意という30年前の羽ばたきはいまでも世界経済も隅々に竜巻を起こしているのだ。「場面1」はどのように長い歳月を経て「場面2」にまでつながるのか。世界の貨幣経済史を振り返ってみるとその謎が解ける。「為替相場の威力」と為替相場すら操る国際経済の「力の論理」が謎解消の2つのキーワードだ。

◇米国の双子の赤字解消に日本が犠牲に

再び1985年のプラザホテル。協約当時米国は切迫していた。1981年に45億ドルの黒字だった経常収支は同年1190億ドルの赤字に転換した。このうち429億ドルが対日赤字だった。財政収支・貿易収支がともにマイナスとなる「双子の赤字」を脱却するには景気回復が切実であり、最も容易な方法がドルの切り下げだった。

協約の威力はすごかった。円相場は1ドル=235円から一晩で20円の円高となった。1年後には120円になった。ドルが下がり日本が貿易黒字で稼いだ金で買い入れた米国国債の実質価値も半分になった。米国は日本に対する負債を座ったまま半分に減らし、日本は対米貿易で得た富の半分を1年余りで失った。

米国が世界の貨幣市場に力を行使したのは当時が初めてではなかった。米国の前歴は華麗だった。プラザ合意14年前の1971年8月15日日曜日の夕方。米国のニクソン大統領はテレビドラマ『ボナンザ』を中断させて緊急声明を発表した。「ドルの金兌換を停止し、国内物価を統制して、輸入品に多額の課徴金を賦課する」という内容だった。紙に数字を印刷した物質にすぎないドルという紙幣の価値を金で保障することをやめるという一方的宣言だった。当時財政赤字に苦しんだニクソン政権は金本位制放棄とドル切り下げという簡単な解決法を選択したのだ。これにより30年近く世界経済の流れを支配してきたブレトンウッズ体制は壊れた。

その後米国はドルの価値を金や他の財貨に連係しない「名目貨幣制度」を選択し不況の兆しが見えればいつでもドル供給量と為替相場に手を加えるという方法に依存し始めた。よく考えればプラザ合意も「ニクソンショック」という羽ばたきが作った必然だったことになる。英国の経済学者J.V.ロビンソンはこのような米国の政策に対し、「他国の経済を犠牲し自国の利益だけ追求する近隣窮乏化政策」と話した。

◇効果の限界に直面したアベノミクス

プラザ合意後に円が切り上げられ日本の国内総生産(GDP)成長率は1985年の6.3%から翌年には2.8%に下落した。日本政府は急激な円高で輸出競争力が落ち不況の兆しが見えると、低金利政策を使うほかはなかった。日本銀行は1986年から翌年初めまで1年余りにわたり政策金利を5回にかけて5%から2.5%に引き下げた。金利が下がると流動性が増え始めた。証券市場に集まった資金は日経指数を3年間で3倍に引き上げた。1987年に日本の株式市場時価総額が米国を上回った。不動産市場はさらに深刻に揺れ動いた。地価は1年で70%ずつ跳ね上がった。1990年になると日本の全不動産価値は2000兆円を超えた。米国の全土地の4倍に当たる金額だった。日本経済の隅々に浸透したバブルは膨らむだけ膨らんだ。失われた20年はこのように幕を上げていた。

日本銀行は不動産暴騰を抑えるため金利を急激に上げた。1989年5月に一気に0.75%上げたのをはじめ、1990年8月までの1年余りの間に5回にわたり3.5%金利を上げた。金脈が干上がり結局バブルがはじけた。景気は冷え込み不動産価格と株式市場は急落した。1980年代末から1990年代末までの10年間で株価指数は3万8000円台から6000円台と6分の1に落ち込んだ。1989年に購入した1億円の住宅の価格は2009年には2800万円まで下がった。

日本経済は1991年以降22年にわたり低成長状態に陥った。失われた10年が20年になり、いまや30年に伸びる危機にさらされた。金利をゼロ水準に下げても経済回復効果はなかった。政府負債がGDP比240%に迫る世界最高の負債比率では財政支出拡大にも限界があった。この状況で安倍晋三首相は勝負として量的緩和のカードを切った。「金融を緩和し円を下げること」に頼ることにしたのだ。

2013年4月から2年間に日本銀行は1兆4000億ドルに相当する円を印刷し国債保有を2倍に増やした。米国は金融危機が起きた2008年末から4年余りの間に量的緩和を通じ本源通貨を倍に増やした。ところが日本はその半分の期間である2年で本源通貨を倍に増やしたのだ。日本がはるかに大胆な量的緩和措置を取ったのだ。日本は現在年間80兆円の量的緩和を持続している。

アベノミクス効果で日本経済はしばし回復傾向を見せたが再び停滞している。先月の貿易赤字は5697億円で7カ月来の最高値を記録した。4~6月期の経済成長率は前四半期比マイナス0.3%で3四半期ぶりに下落傾向に転じた。食品とエネルギーを除いた8月の消費者物価も前年同月比0.6%の上昇にとどまった。S&Pが日本の格付けを低くした背景だ。

日本の量的緩和は世界的な通貨戦争も呼び起こしている。財政危機で厳しい状況に置かれた欧州も量的緩和を実施しユーロ引き下げに出た。中国は経済のハードランディングを防ぐため人為的に人民元を低くしている。これに対し韓国は不況型だが経常収支黒字が41カ月にわたり続き、為替市場に介入する名分は弱い。韓国企業の輸出競争力は下がり続け経済が低成長の泥沼から抜け出せずにいる。

 日本国内ではアベノミクスの効果は出尽くしたという指摘とともに追加量的緩和に対する声が出ている。ウォールストリートジャーナルは17日付で「日本銀行は年間80兆円規模の国公債を買い入れているが十分ではないという指摘が多い」と報道した。日本銀行の輪転機は近く稼動速度を高めるかもしれない。30年前の力の論理が作り出したバタフライ効果は今後も続くという話だ。(中央SUNDAY第445号)

(貼り付け終わり)