考えるのが好きだった

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昔の女の子が文学部志望だったワケ

2007年01月30日 | 物の見方
 「男性が政治と歴史が好きなワケ」女性版、「文系」の話である。

 同じ「文系」と言っても、「文」と「法経」では大きく異なる。私が高校生だった頃、女子の文系は、教育学部か文学部が相場だった。法学、経済に進む女子は少数派だった。それが当然だと思い、疑いを持っていなかった。

 その「謎」が解けた。
 
 「男性が政治と歴史が好きなワケ」に書いたように、男性は「人間関係」がお好きである。「人間関係」とは、その場に於ける力関係で、かなり相対的なものである。
 ところが、女性は、相対的な人間関係に頼っていたのでは、実は生きていけないのである。なぜなら、「赤ん坊」である。目の前にいるこの存在は、やれ乳をやらねばならぬ、襁褓の始末をしてやらねばならぬと、やたら「手」が掛かる。「物量」である。これは、絶対的なモノとの関係をどうするかに集約されることを意味する。つまり、女性は、基本的に、感覚に準拠しなければやっていけない絶対性が重視される世界に住んでいたということである。

 で、「文学」である。文学は「人間の心情はどのように発現するか」に根ざすところに位置している。小説が具体例を挙げながらも共感を呼ぶのは、何らかの「人間の心情」という絶対性が普遍として内在しているからだろう。もちろん、小説も「人間関係」を扱うが、「駆け引きそのもの」の面白さというよりも、「(駆け引きの有無に関係なく)生じる心情、及びその変化」に着目する。で、これを普遍としてうまく描き出したものが古今の名作たろうものだ。(ちなみに、駆け引きの面白さを狙うのは歴史小説であろうか。)

 しかるに、法学・政治経済は、前の記事で述べたような「人間関係」である。相手がこう来たら、こっちはこうする、という「駆け引き」が中心になる相対的な世界で逡巡する醍醐味で、時代によって価値が異なる相対性が重視される。

 だから、本質的に絶対性に依る女性は、文学を好み、相対的価値観を主眼とする法学などは余り好まなかったと想像される。これはある意味、自然の営みだったと言うことである。

 ところが、ここ10~20年の女子生徒は、男子並みに法学・経済を好む者が増えてきた。しかるに男子生徒で文学を好む者が増えてきたという事実はない。第一、大学の文学部は縮小傾向にある。増えているのは、情報、医療系であるが、ちなみにいずれも「人間関係」に根ざす学部学科である。
 
 情報は、人間が介在せずに存在しえないものである。コンピュータという最新機器を使っても、扱う内容はすべて大きな意味での「人間関係」になろう。
 医療系は、人体という「自然」を対象とする絶対的感覚的世界に思われようが、生徒の志望の動機は、「人と接したい」「ありがとうと言われたい」「(注射がうまい看護師より)笑顔が素敵な看護師になりたい」で、いずれも人間関係に重きを置く考え方である。

 というように、今の時代、「何でもかんでも人間関係」なのである。(そう言えば、そんな内容の記事を書いたこと、あるなぁ。。)

 う~む。。いかに、現代日本が、頭でっかちの感覚不在社会になってきたかがわかるというものだ。

 ついでに、思いつき。(って、上記も全部が思いつきにすぎないけど。笑)

 日本は、たぶん、外交が下手である。日本は四季の変化に富む、感覚に依存した風土である。よって、世界規模で言えば、日本は全体的に感覚依存の絶対性が支配する社会ということになる。従って、「外交」というその場の人間関係に基づく真の駆け引きに弱くなるのも、何だか納得できそうである。


10 コメント

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Unknown (heisan)
2007-01-31 01:57:06
> ここ10~20年の女子生徒は、男子並みに法学・経済を好む者が増えてきた。
ここ10~20年,人間社会というアリーナの基盤がどんどん堅牢になってきた,ということの一つの証左なんでしょうなぁ.

> 頭でっかちの感覚不在社会
まぁこれも見方によりけりかと.というのは,「かのアリーナは絶対に瓦解しない」という仮定のもとでは,この感覚不在へと向かう方向性は,生存戦略上十分に賢い方法だと思われるからです.「自分たちは生涯,アリーナの外で生きることは無い」→「アリーナの外のみで通用する生活術を学習する必要性・必然性は無い」となるのでしょう.

自分の生活領域をどこに,或いはどれくらいの広さに設定するかだと思います.「とにかく人知の及ぶ限り広く設定するほうがよい」かどうかは,意見の分かれるところでしょう.

余談:
 上の話の,背景にある話をば少し.
 僕は生命と言うのも一つのアリーナだと思うんです.生命の誕生に関しては,原始の地球において,アミノ酸などの幾つかの有機物が自己言及的に体系化・組織化した過程があっただろうと考えられていますが,これって一つのアリーナの形成過程だと思うんですよ.
 もともとバラバラであった要素が,離合集散を繰り返す過程で,観察者から見て明らかな「塊」が出現し,全体として統制の取れた仕組みが形作られていく.
 物質から生命へ至るための条件と人間社会の連携の様式が変化する現象を司る条件とに構造上の共通点があるとすればそれは色んな意味で素晴らしいことだと思います.
システムの安定性 (ほり(管理人))
2007-01-31 21:47:02
heisanさん、コメントをありがとうございます。

>アリーナの基盤がどんどん堅牢になってきた

>「かのアリーナは絶対に瓦解しない」という仮定のもとでは,この感覚不在へと向かう方向性は,生存戦略上十分に賢い方法だと思われるからです.

内田先生が、男性は、システムの維持を前提にしてるってなことを書いてましたが、heisanさんのおっしゃることも同じですね。
女性も男性と同じ方策をとるようになったと。

>もともとバラバラであった要素が,離合集散を繰り返す過程で,観察者から見て明らかな「塊」が出現し,全体として統制の取れた仕組みが形作られていく.

私の視点だと、「集団と個」の関係に類するかしら。生徒集団でも、「個」としてみる場合と、集団として見る場合とで全然違う時がありますから。今の教育問題は、集団と個を区別せずに捉えようとするところに原因があるはずです。
Unknown (heisan)
2007-02-01 15:36:38
> heisanさんのおっしゃることも同じですね
というか,内田先生が最初ですけどねw(僕は内田説を読んで頭を垂れて,それをもうちょっと拡張できないかと考えているので).アリーナという言葉を使ってみたのもそれに則っていることを暗に示すためでした.

> 「集団と個」
僕はまだこれがちゃんと分かっていないみたいです.勉強します(笑
「公理」のすごさ (ほり(管理人))
2007-02-01 21:16:50
heisanさん、コメントをありがとうございます。

>というか,内田先生が最初ですけどね

heisanさんも、内田先生ファンでしたね♪ 
養老先生にしても内田先生にしても、凄いのは、言ってることに応用が利くことです。だから、読んでいて面白い。

オルテガの「大衆の反逆」(中公クラシックス)を読み始めたのですが(って、どこまで読めるかわからない。苦笑)、まだほんの数ページですが、何だか面白そうなんです。で、「個人と社会」ってことを言ってるようなのです。ってことは、「個と集団」じゃないかなと勝手に考えて、ちょっと楽しみです。
Unknown (heisan)
2007-02-01 23:29:35
ファンというと(盲信的な)追っかけみたいなイメージがありますからちょっと違うかなぁ(笑
世の中には「面白い」(≡楽しくて且つ有益な)ことを言う人がたくさん居るので,そういうblogを見て回ってるとなかなか良いです.こういうweb上の「面白い」流れが(もまた),世の中を住み良い方向へ変える力を持っていると信じています.

blogと言えば,こちらもお勧めです.もうご存知かもしれませんが.
ttp://blog.livedoor.jp/khideaki/
ごめんなさい (ほり(管理人))
2007-02-02 20:18:26
heisanさん、コメントをありがとうございます。

失礼しました。ごめんなさい。自分と一緒にしてはいけませんね。(って、養老ファンの私♪♪)

数学の先生のブログでしたね。内田先生のところのTBで読んだことがありますが、政治がかると私、ダメなんですよ。(笑)数学の先生とは、話が合う方だと思うのですが。

一般論としてですが、数学の先生でも、「社会科」型の人が結構います。私は「理科」型だからなぁ。。

Unknown (heisan)
2007-02-04 22:53:55
> 失礼しました。
いえ,とんでもないです^^;

ところで,「理科」型「社会科」型って何でしょう?
先の数学の先生のblogに言う「数学系」と「芸術系」のようなものでしょうか.
考え方の理科・社会 (ほり(管理人))
2007-02-06 19:41:46
heisanさん、コメントをありがとうございます。

えっと、私のものの見方の一つで(ということは、私の勝手な定義で・笑)、「理科」は感覚など自然に準拠する何か普遍というか絶対を重んじるモノの見方で、「社会科」は広義の人間関係でモノを判断するやり方、例えば「多数決が正しい」という見方です。

ロケットが多数決で飛ぶ、というのは社会科型、飛ばない、というのは理科型。前者は、ロケットが飛ぶという技術的な問題をクリアした上での話かな。で、資金源など、言ってみれば人間関係によってロケットは飛ぶという考え方。後者は、技術的なことを重視する見方。

というところです。

Unknown (heisan)
2007-02-07 02:43:16
お返事ありがとうございます.

理科型≡「五感から得られる情報のうち,人間同士で共有可能な情報」を優先的に重んじる思考様式.というところですかね.

「人の死」というものを定義する際,医学的定義と法的定義が存在しますが(医学的には恐らく明確な境界線は引けないと思う…なおも議論中だと思いますが.法的には,境界線を引く基準が存在する.なぜなら法としては,取り敢えず定めておくことがなによりも重要だからである.),これと対応する気がします.前者と後者では目的が違うのですね.前者は「五感から得られるあらゆる情報は人間同士で完全に共有可能である」と信じ,実際にそれを希求するところから話が始まると思いますが,後者は「我々がよりよく生きていくためには,どういうことを正しいと定め,どういうことをダメだとすべきか」という問題を解こうとするところに目的があるでしょう.

この両者を,先のアリーナの概念で結びつけるならば,それは,当然ながら,前者も後者もアリーナの存在は自明としています.ただ,前者は,アリーナという対話における前提・所与の枠組みに囚われず,五感から得られる情報を眺めてみよう,とするのに対し,後者は,アリーナという所与の土俵のうえで何ができるかをあれこれ試みる.
諸問題の原因 (ほり(管理人))
2007-02-07 22:02:44
heisanさん、コメントをありがとうございます。

理科型は、メンバーが誰であろうと、自然に帰結させて考えることが出来るのに対し、社会科型は、その場その時のメンバー次第で如何様にも基準や価値観が変更するって感じ。
まあ、厳密に言えば、「理科」だって、諸説紛々、何が正しいのかわからないところもあるけれど、それはそれで仕方がない。

で、いろんな問題は、理科と社会の対立から来るようにも思うのです。判断の基準が全く異なるから。

教育問題も、今は、社会科型思考で解決しようとしているからうまくいかないのだと思います。理科型の解決方法を考えると、突破口が見えるでしょう。

ただし、理科型の解決法は、ヒトのコドモがいかにして大人の人間になるか、を解明することから始めなければなりません。でも、たぶん、この視点で教育を捉える人がいない。だから、解決しない。

家庭教育でも学校教育でも社会全体においても、たぶん、何かあると思います。でも、分析的に解明しようとしない。で、今、私は「分析」という言葉を使いましたが、「外部環境」は分析し得ない。しかし、「子供という内部環境」は分析しうるのではないのかなと思います。いわゆる「教育論」がそれだったかもしれませんが、「大人になるとはどういうことか」という、「大人の定義」がされてないからダメなんじゃないのかな。
で、ふつーは、「喰っていければ大人」みたいにとられますが、「お金」がぐるぐる回る社会ではたぶんそうじゃない。より人間的な?人間になることが必要とされるんじゃないのかな。

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