考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

線を引く話の続きえんえん

2010年06月20日 | 教育
 デザイン系の学生の「コンピューターは、自分が引く線以上の線は描けない」という話をしたら、「でも、コンピューターだと数式を入れれば線を引けるんじゃないの?」と言われた。
 う~ん。。
 ほりは困ってしまった。
 全然、話が通じていない。
 たぶん、この人は、「自分の線」を「見た目がきれいな線」としか捉えていないんじゃないのか。捉え方がもの凄く荒っぽい気がした。たぶん、この人、壁にぶつかるまで何かをした経験がないんじゃないかと思う。能力は高くても、なんとなくてきとーにできた、みたいな感じだったろう。

 ほりが対応に困るのは、どう表現して良いのかわからないが、こーゆー捉え方をする人である。
 よく思うのだが、この違いは、何なのか? 通じる人と通じない人がいる。あうんの呼吸でもないし、何なのだろう?

 ひょっとしてそうじゃないかな?と思われるのは、明確な答えを求める人、物事には結論が先にあると考えていそうな人、自分の前提を問わない人、あるいは、場に応じて前提をころころ変えることに何ら疑いをもたない人(これは、前提を問わないのと同じである。)は、そういう発想をする。
 要は、「考えない人」ということか。行き先がわからないと思っている人は、こうした捉え方をしない。

 でも、よくわからない。

 「街場のアメリカ論」を読んでいる(斜め読み)が、無意識的な判断の陰に潜む「何か」の捉え方が、この本の面白さだと思う。内田先生は、この捉え方がうまい。「先生はえらい」も、結局は、学ぶことが成立する要諦がただ一つ、「先生はえらい」だということだ。

 しかし、今、だれもそんなことを考えない。「えらい」からには、何らかの合理的な理由が必要だと思われている。それで、そうした何か「合理的な理由」を考えることが「考えることだ」と思われているような気がする。

 でも、ホントは、そうじゃないのではないかと思う。 

 「考える」というのは、もっと、非合理的なワケのわからないことだと思う。
 「合理性」を求める人は、考えたくない人だと思う。考えないために考えているだけだと思う。
 入り口と出口が示された迷路のクイズで、あるとわかっている出口への行き方を考えるのが考えることだと思っているのではないのかなぁ。
 
 「まだ誰もそうは言ってない無意識的な答え」を求めるのは、そうでない気がする。

 よくわからない。

 コメントを停止すると、ここまでいい加減な記事が書けることに気がついた。(笑)


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