考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

丁寧な授業の欠点

2009年04月25日 | 教育
 授業は丁寧でわかりやすい方が良いという考えは、学習が授業でのみ行われるものだ、という考えから来ていると思う。そりゃ、噛んで含めるように教えて貰った方が生徒はよくわかるに決まっている。

 ところが、高校の学習内容は、授業中だけで習得できるものでない。家庭学習は必須である。この家庭学習の量如何で、成績の大部分が決まる。これはたぶん進学校の常識。
 よって、学習進度もある程度、速い方がよい。予習すべき量が増えれば、それだけ学習時間が増えて、脳味噌のトレーニング量が増えるから生徒は自ずから自分を鍛えることになる。

 英語の授業だと、新出単語の一つ一つを授業で確認しているようではいけない。辞書で調べてあるのが前提である。下手に意味の確認をすると、予習してない生徒の思うツボである。だって、その時間に辞書引きをしたり、人の言った内容を写して終わりになるから。更に、辞書引きが正しかったか不適切なもの(間違い)だったは、さほど重要でない。間違いは、授業中に発見できるものである。それで、自分の間違いを自分で気が付く力を養うのが本物の勉強なのである。これは、注意力を喚起していれば授業を通してひとりでに出来るようになる。(私はこれが出来るようになるためのアドバイスもするけど。なんて親切なのだろう。親切すぎるかもなぁ。反省・笑)それでも、たとえ勘違いや間違いが一つ二つ残ったとしても、構わない。多量に勉強をすれば、同じことが何度も出てくる。何度も出てくれば、ひとりでに間違いは是正され、当初の間違いが余剰の知識として、応用力に繋がったりして、間違いどころか「肥やし」にすらなる。決して忘れない、強く印象に残る事項となることもある。
 授業には、消化不良がそれなりにある方が伸び代が大きくなるのである。

 ところが、授業はわかるものだ、わかりやすい方が良いのだ、という前提に立つと、生徒は水が高いところから低いところに流れるかのように「間違いってはいけない」と考える。教える側は、消化不良になるからよくない、という考えに縛られる。生徒が学ぶべきことは、全て教授者である自分が教えなければならないと思い込む。これが最も悪い。生徒は間違いに怯え、学習内容も意欲も剥ぎ取られ、マイナスの方向にしか導かない。これは、意外に気付かれていない(と思う)隠れた事実である。
 
 ↑こういうことがわかるかどうかで、教える側にしても学ぶ側にしても、成績は伸びたり伸ばしたり、今一つになったりするものだ。わかっていれば、学力は意外に伸びる。

 上にしるしたことは、私は、一種の「符牒」めいたものだと思っている。通じる人には通じる。通じない人には通じない。(リアルワールドで検証済みである。経験的に間違いないと思っている。)その人がどの程度の勉強をしたかどうかも、こういった言に対する反応ではっきりとわかる。

 高校の勉強なんて、そもそも、「全部わかる」なんてことはあり得ないのである。「わかる授業」という考え方がそのものが、先生も生徒も傲慢にしていると言える。傲慢さほど学力を低下させるものはない。全国的に学力が落ちて当然である。

 で、これ、高校の話ね。私の話は、全て基本的に、高校の話。

2 コメント

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小学校の話 (taketyann)
2009-04-29 18:40:09
高校生だけでなく、小学生にも共通する部分がたくさんあるように思います。

小学校では約1000文字の漢字を習いますが、3~6年で約200文字ずつ振り分けられます。
ところが、高学年になると国語の週当たり授業数が減少するし、画数も多く抽象的な意味合いの漢字が増えるので、とても授業中に丁寧に指導する時間がありません。いきおい、家庭で書く練習や意味調べなどをさせる割合が増えるわけです。

新出漢字を使って短文をつくる、といったのがポピュラーな課題ですが、ちゃんと辞書を引いて用例を調べて短文を書く子とそうでない子の差は大きいですね。こういったことを面倒がらずにできるか否かが、その後の学力に大きく影響してくるんでしょう。

高校生ぐらいなら「自分で予習復習をするのは当たり前」でも通るでしょうが、小学校レベルで「調べて来い」の類の課題を多く出すと、格差があまりにも大きくなるので、授業の中で完結するやり方をついつい取ってしまいます。

よかれと思ってしていることが、将来的に子どもを駄目にしているのではないか…。ほり先生のブログを読むといつも感じるのがこれです。

家庭学習の重要性 (ほり(管理人))
2009-04-29 23:36:12
taketyannさん、コメントをありがとうございます。

意味調べはともかく、短文作りの課題は、私は嫌いでした。だって、作れないんだもん。。(笑)そうか、辞書の例文を書けば良かったのか。。(今頃気が付いてどうする・笑)でも、授業中にやることもあったですね。

私は、小学校の頃の宿題と言えば、ドリル学習を思い出します。低学年のときは、遊びに行きたくて仕方がないのに、宿題が終わらないと祖母が家から出してくれなかったので印象に残っているのでしょう。毎日30分くらいは掛かったような気がします。よく勉強をしてたんだなぁ。。もちろん、同級生の皆が皆宿題をしていったわけでなかったですが。私は宿題をしながら、日が暮れちゃうよ~って、心の中で泣いてました。

高学年の宿題は、あまり覚えてません。調べ学習もあったと思います。やっぱり30分くらいは掛かったのかしら? 宿題するのに1時間掛かったことはなかったと思うのですが。
何をさせられたのかなぁ?覚えがありません。多岐にわたっていたのかもしれません。白紙図に書き込みをするとか色を塗るなどのプリント学習だったかもしれません。漢字や計算のドリルはもちろんあったと思いますが、意味調べもあったでしょうね。纏めみたいなこともさせられた気がします。
授業中に単元毎の業者テストをしましたが、テストのための勉強はしたのかなぁ? 覚えがないなぁ。。試験勉強は、私は中学受験をしたので、1ヶ月くらい、2時間近く勉強をした気もしています。教科書を読み直したり、算数などは自分で問題集をしたような。。。本屋にはよく連れて行って貰っていたのでそのときに買ったのでしょうね。(そうだ、それで、N中学の問題で、時計の針の角度を求める問題とか、難しくてできなかったです。あ、でもこれは、中学に入ってからかな。方程式を使えば簡単にできるとわかったような覚えが。。)入試科目は音楽や図工、体育、家庭科まですべてありました。

↑全くレスになってませんね。トシ取ってるもので、思い出話が多いなぁ。(笑)

>その後の学力に大きく影響してくるんでしょう。

これは高校でも同じですよ。まあ、高校は、宿題というより、予習のことが多いですが。(高校で「宿題」と名を売って課題をだすようになったのはここ十年でしょう。)
小学校から高校まで、家庭学習は常に重要です。
大学だってそうだろうなぁ。大学こそ、そうでしょうね。(私は不勉強でした。)「研究」なんて、授業ですることではないから。演習の発表とかも家庭学習の成果を発表するのでしょう。
う~ん、そうか。小学校の宿題が、大学の研究と繋がるんだ。なるほど。

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