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仮説演繹法と「帰納の飛躍」

2009年07月04日 | サイエンス

はたして、データの蓄積によって科学は発展するのか?

 

ある科学者が未知の生物Aを発見したとする。

2匹目、3匹目・・の生物Aも発見されるが、1匹目との共通点は「眼が3つ」というコトである。

その後、発見された4匹目、5匹目・・とデータを蓄積していくコトで、ついには「すべての生物Aの眼は3つである」という仮説が導かれる。

このような推論の仕方を「帰納」という。

この仮説から、「まだ見つかっていない100匹目の生物Aも眼が3つであろう」という推論が導き出される。これを「演繹」という。

 

実際に100匹目の生物Aも眼が3つであれば、仮説の確からしさが増す。

これが200匹目、300匹目・・と同様であれば、さらに仮説の確からしさが増すが、これを「確証」という。

逆に400匹目に発見された生物Aの「眼が4つ」であれば、「すべての生物Aの眼は3つである」という仮説は否定されるが、これを「反証」という。

 

仮説が反証されるとより多くのデータを蓄積し、帰納によって新たな仮説を立て、演繹によって確証していく・・という作業が繰り返される。

 

データの蓄積→帰納→仮説→演繹→確証(or反証→データの蓄積→帰納・・)

 

・・という流れで、これを仮説演繹法という。

 

ちょっとやそっとじゃ反証されない仮説は「法則」になり、いくつかの法則が体系化されれば「理論」となる。 

これが科学の本質であり、これを見る限り、データの蓄積が科学を発展させる・・と考えても差し支えなさそうである。

 

しかし、実際は、仮説を立てる際に重要な役割を占める「帰納」の限界が指摘されている。

つまり、いくら膨大なデータであっても、”有限”の生物Aを観察するコトで「”すべて”の生物Aの眼は3つである」という無限の事柄を説明する普遍命題を導き出すコトは出来ないのである。

 

演繹によって仮説が正しいかどうか検証するのだから、仮説の段階では、とりあえず有限の観察結果から普遍命題を仮定してもいいのではないか?

 

・・という意見もあろうが、検証作業も有限の回数しか行えず、どれだけ膨大なデータによる確証が得られようとも、確からしさは増大しても、”絶対的”な確からしさは得られず、”すべて”の事柄を説明する普遍命題を立証するコトは不可能なのである。

 

この有限から無限への不可能な飛躍を、ジョン・スチュアート・ミル「帰納の飛躍」と呼んだ。

 

帰納という方法では、普遍命題を永遠に導き出すコトはできないのだが、科学は有限のデータから普遍命題である法則や理論を導き出しているのである。

この科学の本質ともいえる仮説演繹法のほころびはまだあるのだが、その話はまたいずれ・・。

 

 

 

 

 


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