Peace Waveの平和な日々~行く雲、流れる水のように~

気が向いたら、ボチボチ更新しようかと・・。(笑)

ゆく年・・

2010年12月31日 | Peace Wave

 

今年もあっ!・・という間に1年がすぎました。

あっという間・・といっても、それなりにいろいろありますがね、毎年・・。

 

皆さんにとっても、よい年だったでしょうか?

 

言うほど、景気の回復も感じられない現実ですが、不景気、不景気・・といっても、結局は、生きていかにゃあなりません。

泣いて過ごしても、笑って過ごしても同じ人生なら、愉快に、楽しく、笑って過ごしたいものですね。

Peace Waveもおかげさまで、なんとか、今年1年も乗り切るコトが出来ました。

感謝です。

来年もまた、Peace Waveをよろしくお願いします。

 

寒さ厳しい折、風邪などひかぬよう、くれぐれもお体には気をつけてください。 

それでは皆さん、よいお年を!

 

                    

         癒しの空間・ほぐし&ストレッチ      

    Peace Wave(ピースウェイブ)    

          営業時間 10:00~22:00 

          木曜定休     

         広島市中区白島中町14-31西武ビル2F                                                                                 

             070-5426-6965


文七元結

2010年12月30日 | 人生覚書き

本所達磨横町に住む、左官の長兵衛

腕はいいが博打に凝り、仕事もろくにしないので家計は火の車。

博打の借金が五十両にもなり、年も越せないありさまだ。

今日も細川屋敷の開帳ですってんてん、法被(はっぴ)一枚で帰ってみると、今年十七になる娘のお久がいなくなったと、女房のお兼が騒いでいる。


おまえさんが博打で負けた腹いせに、あたしをぶつのを見るのがつらいと、身でも投げたら、あたしも生きていないと、泣くのを持て余ましていると、出入り先の吉原・佐野槌から使いの者。

お久を昨夜から預かっているから、すぐ来るようにと女将さんが呼んでいるという。

 

博打で着物も全部売り払っており、吉原界隈へ着ていくものがないと、いやがる女房の着物を奪い、慌てて駆けつけてみると、女将さんの傍らでお久が泣いている。

実はお久、自分が身を売って金をこしらえ、おやじの博打狂いを止めさせたいと、涙ながらに頼んだという。

こんないい子を持ちながら、なんでおまえ、博打なんぞするんだと、きつく意見され、長兵衛、つくづく迷いから覚めた。

お久の孝心に対してだと、女将さんは五十両貸してくれ、来年の大晦日までに返すように言う。

それまでお久を預り、自分の身の回りを手伝ってもらうが、一日でも期限が過ぎたら客を取らせるよ、娘がかわいいなら、一生懸命稼いで請け出しにおいで、と言い渡されて長兵衛、必ず迎えに来るとお久に詫び、佐野槌をあとにした。

 

五十両を懐に吾妻橋に来かかった時、若い男が今にも身投げしようとするのを見た長兵衛、抱き留めて事情を聞くと、男は日本橋横山町三丁目の鼈甲(べっこう)問屋・近江屋卯兵衛の手代・文七

橋を渡った小梅の水戸さまで掛け取りに行き、受けとった五十両をすられ、申し訳なさの身投げだという。

どうしても金がなければ死ぬよりないと聞かないので、長兵衛は迷いに迷った挙げ句、これこれで娘が身売りした大事の金だが、命には変えられないと、断る文七に金包みをたたきつけてしまう。

 

一方、近江屋では、文七がいつまでも帰らないので大騒ぎ。

実は、碁好きの文七が殿さまの相手をするうち、うっかり金を碁盤の下に忘れていったと、さきほど屋敷から届けられたばかり。

 

夢うつつでやっと帰った文七が五十両をさし出したので、この金はどこから持ってきたと番頭が問い詰めると、文七は仰天して、吾妻橋の一件を残らず話した。

 

だんなは、世の中には親切な方もいるものだと感心、翌日、文七を連れて達磨横町の長兵衛宅へ。

途中の酒屋でお礼にと酒を求め、長兵衛の家を尋ねると、そこの夫婦喧嘩をやってる家だから、すぐにわかりますよという。

 

喧嘩の最中にやって来た近江屋と文七に驚いた長兵衛、裸同然の女房を枕屏風に隠し、昨日金をやった文七と再会、近江屋も訳を話し、五十両を返すという。

しかし、長兵衛、1度やったもんは受け取れないと、江戸っ子のやせ我慢でつっぱねているが、奥から女房が袖を引くので受け取ることになった。

「この金のおかげで昨日から寝てないんです」

 

人が困ってる時に、自分を犠牲にしてまで助ける心意気に感服した近江屋は、ぜひ、親戚付き合いして欲しい、文七は身寄りのない身、ぜひ親方のように心のまっすぐな方に親代わりになっていただきたいと願い出た。

 

話がまとまり、こんなめでたい事なので、お酒を差し上げたい、それから肴も差し上げたいとの申し出に長兵衛、

「待って下さい、酒は好きだから喜んでいただくが、肴は塩だけで結構」

 

すると、なんと!肴は駕籠に乗って帰ってきた、文金高島田に着飾ったお久だった。

昨夜、文七から吾妻橋での一件を聞いた近江屋が、みんなを寝かせたあと、話を頼りに佐野槌へお久を身請けしに行っていたのだった。 

過ぎたる肴と、長兵衛はお久と裸同然の女房と3人、抱き合って涙した。

 

これが縁で、文七とお久は夫婦になり、文七と長兵衛は正真正銘、本当の親子になった。

 

後年、文七は麹町は貝坂に小間物屋を出し、工夫を凝らした元結をあみ出した。

それが評判で店は大変繁盛し、人はそれを「文七元結」(ぶんしちもっとい)、「文七元結」と、持てはやしたという。

                    

                      


「お笑い」考

2010年12月28日 | 最近、思うコト

先日、10年間続いた漫才日本一を決めるM-1グランプリが終了した。

優勝賞金1000万、プロ、アマ問わず、コンビ結成10年以内なら誰でも参加できるというこのイベント、今年は史上最多の4835組が参加し、9年連続決勝に進出していた笑い飯が悲願のグランプリを獲得した。

グランプリを決める上位3組に残ったのは笑い飯、ノーマークのダークホース、スリムクラブ、そして敗者復活から勝ち上がってきた昨年王者のパンクブーブーの3組。

 

さすがにM-1常連の笑い飯やパンクブーブーのネタはよく出来てる。

笑い飯の”サンタウロス”のネタなんか、去年の”鳥人”のネタを思い出させ、メチャメチャ面白かったが、よく作リ込まれた、計算されたネタであるほど、あたかも、今はじめて話しているかのような自然な話術が求められる。

いかにも作りこ込んでますよ・・とゆー部分が見えると、わざとらしくなり、面白くない。

ジャルジャルはその辺を見せるコトで笑いにしようとしていたが・・。

 

スリムクラブは、面白かったが、作り込んだネタ・・とゆーより、かもし出す雰囲気で笑ってしまう・・て感じ。

その辺が「ホンマにこいつら、面白いんか?」・・と、審査する側も悩んだトコなのだろう。

もう、あそこまでいくと、単に”好み”の問題だと思うが・・。

 

最近、「緊張」と「緩和」・・とゆー「お笑い」のセオリーを聞いたコトのある人も多いだろう。

松本人志千原ジュニアなんかもよく言ってるが、もともとこれを言い出したのは上方落語の奇才、桂枝雀なのだそう。

 

興味ある方はこちらをどーぞ。

 

「すべらない話」も 現代落語だと松本人志も言ってるが、”サゲ”―つまり、漫才でいう”オチ”を4つに分類して古典落語を解く語りぶりから、その緻密な頭脳をうかがわせる。

英語でも落語をしてたというほどの秀才だ。

 

しかし、桂枝雀の落語を聞いたコトがある人はわかるだろーが、失礼ながら、まるで”アホ”が話してるみたいで、メチャメチャ面白い。

まあ、そーゆー”計算”や”作為”を読まれてしまうような芸ではまだまだだし、野暮なコトなのだろう。

 

 

ここ最近の流行語は、ここから生まれたとゆーくらい、お茶の間をにぎやかした「エンタの神様」「レッドカーペット」など、若手お笑い芸人のネタ見せ番組が次々終わっていくのと、今回のM-1終了は時を同じくしている。

あまりに芸人が増えすぎて、一発ネタの乱発・乱造、芸の低レベル化・・その証拠に、一発屋で消えてく芸人の多さと、そのサイクルの早さ・・。

ピン芸人は他人の悪口ばっか言ってるよーなものばかりだったし、正直、食傷気味だった・・。

 

そんな中でもM-1は、真面目に漫才をやって、芸を磨いてきた新しいスターを発掘して来たイベントといえるだろう。

 

しかし、自分も最近は年齢のせいもあってか、「お笑い」に関しては、古典落語に興味をもちはじめていて、どれを見ても同じよーなバラエティ番組には、興味がなくなりつつある。

既成のネタを、いかにも自然に演じてみせる・・とゆー最たるものも、やはり、落語だろう。 

 

正直、これ以上興味の幅を広げても収拾がつかなくなるので、あまり落語もつっこんではないので、そう詳しくはないんだけど・・。

 

まあ、単純に面白ければいーんよね・・。

 

今年も1年、いろいろあったけど、せめて、笑って年を越したいものだ・・。


亀田興毅、日本人初の3階級制覇達成!

2010年12月27日 | 格闘技・武道

昨日、亀田興毅WBAバンタム級世界王座決定戦を制して、日本人初の3階級制覇を成し遂げた!

日本人では過去にファイティング原田井岡弘樹が3階級制覇に挑んでいるが、いずれも失敗に終わっていた。

 

興毅は、これまでにライトフライ級フライ級での王座を獲得しており、スーパーフライ級をとばしての3階級制覇になる。

対戦相手は、過去、日本人とは7戦全勝、負けなしの日本人キラー、アレクサンデル・ムニョス

同級5位でWBAスーパーフライ級元王者とはいえ、今年初めに1度は引退し、10月に再起したばかりの31歳は、かつての勢いはなかった。

 

興毅はがっちりガードを堅め、ヒット・アンド・アウェーで要所、要所で的確なパンチを叩き込む。

最終12ラウンドにはダウンを奪い、3-0の判定勝ち。

もう少し畳み掛けるのが早ければ、KOも出来たのでは?・・と思えただけに、詰めの甘さは否めなかったが、見事、日本人初の3階級制覇を成し遂げた。

 

同じ日に行われた弟、大毅WBA世界フライ級タイトルマッチで防衛に成功し、兄弟が同時に世界チャンピオンになったコトも日本ボクシング界初! 

2人の前座を戦った三男、和毅もKO勝利で、デビュー以来の連勝を17に伸ばした。

 

それにしても、日本人初の3階級制覇という偉業を成し遂げたにもかかわらず、こないだの長谷川の2階級制覇よりインパクトがない・・とゆーか、感動が薄いのは、やっぱ試合内容のせいなんかなぁ・・。

 


草創期のキリスト教会

2010年12月25日 | 歴史・民俗

12月25日イエス・キリストの誕生日とされたのは、5世紀以降だという。

ギリシア正教では1月7日アルメニア教会では1月19日にクリスマスを祝う・・と、教派によってまちまちで、最近の学説では4月あたりではないか?・・とも言われているそうだ。

古代ローマで栄えたミトラ教では、ナタリス・インウィクティという祭典が12月25日にあり、太陽神ミトラスが、冬至を境に日が長くなるコトを、太陽神が「復活する」祝日として大々的に祝う習慣があったのを、キリスト教が習合し、イエス・キリストの誕生祭を祝うようになったのだという。

 

ところで、イエスはキリスト教の教祖・・というのが、我々の一般的な理解である。

イエスが来られた当時のユダヤ教は、祭司を頂点にサドカイ派パリサイ派律法学者熱心党(ゼロテ派)エッセネ派といった教派が存在しており、古代ローマ帝国の属国であるユダヤには、ローマから派遣されたエドム人の王、ヘロデ・アグリッパが君臨、事実上、ユダヤ人社会においては大祭司が権力を握っていた。 

当時のユダヤ教に、これだけ多くの宗派が存在していた・・というコトは、モーセが説いたオリジナルの”原始ユダヤ教”が、大きく変質してしまっていたコトをイミする。

本来、人のためにある律法が、人が律法のためにあるかのような本末転倒な事態が日常茶飯事になっており、律法学者らにとって、安息日に癒しの業を行うイエスは、安息日を破る律法の破壊者であり、癒しの業自体が「悪霊のかしらベルゼブルによる」(マタイ12:22~24)ものと非難された。

 

しかし、そもそもイエスは、何も「キリスト教」という新興宗教を興そうとしたのではなく、”原始ユダヤ教”への原点回帰―すなわち、神の本来の教えに立ち返るコトを訴えたワケで、意識としては、当然、ユダヤ教徒であり、イエスらは、いわば、ユダヤ教”イエス派”とでもいうべき群れだった。

当時、イエスを異端と排斥し、殺してしまったユダヤ人社会がイエスを受け入れていたなら、大きく世界は変わっていたに違いないだろう。

 

彼ら、イエスの12使徒や弟子たちによる草創期のキリスト教会は、共同体のような生活(使徒行伝2:44~47)をしており、これを「エルサレム教団」と呼ぶ。

いわゆる、初代教会、あるいは原始キリスト教会である。

 

当然、エルサレム教団は全員がユダヤ人であり、このユダヤ人キリスト教徒と、パリサイ派や律法学者といった保守的なユダヤ人ユダヤ教徒とが対立した。

 

これは教義上の解釈の問題においての対立であろうが、文化的な対立もあった。

ヘブライストヘレニストの対立がそうで、ヘブライストとはヘブライ語(アラム語)を話すユダヤ人キリスト教徒のコトで、ヘレニストとはコイネー・ギリシア語を話すユダヤ人キリスト教徒のコトである。

各地へ離散したディアスポラのユダヤ人が多く使っていたのが、地中海沿岸に広まっていたコイネー・ギリシア語で、アラム語を話すユダヤ人に匹敵するほどの勢力になり、聖書にも「そのころ、弟子の数がふえてくるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちから、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して」苦情が出た(使徒行伝6:1)とある。

 

異邦人に対して布教を行っていたヘレニストのステパノの殉教によって、さらに対立は激化、その過激な布教活動がパリサイ派らとの衝突を招き、エルサレム教団そのものにも迫害の手が及んだ。

これによって、エルサレムにこだわらないヘレニストが、追放に近いかたちで追い出され、アンティオケアという都市に集結、ここを拠点として異邦人への布教を大々的に開始した。

これがもう1つの原始キリスト教会、パウロ率いる「アンティオケア教団」である。

 

ペテロ率いるエルサレム教団が従来のユダヤ教の律法を守り、ソロモン第2神殿への礼拝を行っていたのに対し、アンティオケア教団はイエスの福音を教義の中心に据え、神殿にこだわるコトはなかった。

(カテゴリー/人生覚書き:「岩と呼ばれた男」参照http://blog.goo.ne.jp/kinto1or8/e/02346f9ffe6b0725180514d8f87f4ea5

 

時がたち、布教が進むにつれ、アンティオケア教団では異邦人キリスト教徒が増え、ユダヤ人キリスト教徒との間に軋轢が生じるようになる。

異邦人キリスト教徒にも、ユダヤ人と同じように割礼を受けさせ、律法を守らせるべきか? ―エルサレム使徒会議の結果、異邦人に対しては、ユダヤ人の伝統である割礼を施さなくてもよいコトになり、これがキリスト教がユダヤ教の戒律から離れ、世界的な宗教へと発展していくための大きな転換点となった。

 

そんな中、いわゆる”アンティオケアの衝突”がおこる。

律法によって、ユダヤ人が異邦人と同じ食事をとるコトは出来ないが、アンティオケア教団では区別なく、同じ食事をとっていた。

たまたまアンティオケア教団を訪れていたペテロも、異邦人と共に同じ食事をとっていたが、そこへエルサレム教団から派遣された使者がやって来て、異邦人と同じ食事をとるトコロを見られたくないペテロが態度を変えたコトをパウロが非難、ペテロとパウロの対立―すなわち、エルサレム教団とアンティオケア教団の対立は決定的になった。

それでもエルサレム教団とのつながりは求めるパウロは、自らアンティオケア教団を離れ、単身、布教活動をするようになる。

 

紀元37年、古代ローマ帝国の皇帝にカリグラが即位、自らを神とし、自分の像を崇めるよう強要したが、偶像崇拝を禁ずるユダヤ人はこれを頑強に拒み、徹底的に弾圧された。

しかし、それが彼らのアイデンティティを刺激し、さらに信仰を強固にした。

また、そうした迫害が続く中、パウロとペテロは布教のため、ローマに上り、彼らの説くイエスの教えは奴隷や下級市民の心をとらえ、爆発的にキリスト教徒が増えていった。

被支配階級の団結を恐れた支配階級の人々が、キリスト教徒がテロや放火を行っているなどのデマを流し、紀元64年に皇帝になったネロは、実際にローマ市外に放火、これをキリスト教徒の仕業として、熾烈な迫害を行い、パウロをはじめ、多くの殉教者を出した。

表立って活動していたローマにいるキリスト教徒は1人残らず迫害され、惨殺されていった。

 

また属国ユダヤを統治する、ローマから派遣されたヘロデ王にとっては、ユダヤ人が反乱などを起こすと自分の立場が危うくなるため、キリスト教徒をスケープ・ゴートにして利用しようと考え、迫害した。

日頃からユダヤ教徒は、キリスト教徒に対し、嫌悪感を抱いていたため、彼らを迫害すれば、自ずとユダヤ人ユダヤ教徒はまとまるだろうと踏んだのだ。

 

このようにユダヤ人ユダヤ教徒によるユダヤ人キリスト教徒の迫害は、相変わらず続いていたが、イエスを十字架につけたのは「ユダヤ人」である・・という認識が、実際にイエスを殺したユダヤ人ユダヤ教徒のみならず、ユダヤ人キリスト教徒にまで拡大・・。

 

すなわち、紀元1世紀頃、ユダヤ人キリスト教徒のエルサレム教団は、同じユダヤ人であるユダヤ教徒から迫害され、ローマでもキリスト教徒として迫害され、同じキリスト教徒であるアンティオケア教団の異邦人キリスト教徒とも対立、さらには、単に「ユダヤ人」である・・というだけで、神の子、イエス・キリストを殺したと、同じキリスト教徒からも迫害されるという、内部からも外部からも、2重3重の迫害、弾圧、差別を受け、孤立無援の状態だったのである。

 

キリスト教徒のコトを”クリスチャン”と呼んだのは、アンティオケアの非キリスト教徒が最初だというが、今では美しい響きをもったこの言葉も、当初は「キリストに狂った者」・・というほどのイミをもった差別的な言葉だったという。

今では世界宗教として世界中に信者をもつキリスト教であるが、草創期のキリスト教会は、いわば、当時の既存の社会秩序をおびやかす、カルト集団に他ならなかった。

 

救世主として来られたイエスを慕い、迫害を受け、殉教していった者たちの姿を見ながら、本当の世界宗教としてのキリスト教は、誕生したのである。

 

「そのとき人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。そのとき、多くの人がつまづき、また互に裏切り、憎み合うであろう。また多くのにせ預言者が起って、多くの人を惑わすであろう。また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(マタイ24:9~13)

 

 

 

 

 

 

 

 


愛とは

2010年12月24日 | 人生覚書き

たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢にょうはち)と同じである。

たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。

たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。

 

愛は寛容であり、愛は情深い。

また、ねたむことをしない。

愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。

不義を喜ばないで真理を喜ぶ。

そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。

           

                  コリント人への第一の手紙13:1~7

 


岩と呼ばれた男

2010年12月24日 | 人生覚書き

イエス十二使徒の中、最年長で、常に筆頭にあげられるリーダー的存在だったシモン・ペテロ

「ペテロ」は、ギリシア語で「岩」のイミで、シモン・ペテロは、いわば、”岩のシモン”といったトコロだろうか・・?

「あなたをケパ(訳せば、ペテロ)と呼ぶことにする」(ヨハネ1:42)とあるように、本来はアラム語で、同じく「岩」のイミをもつ「ケファ」(Cephas)と呼ばれた。

元は漁師で、弟のアンデレと共にガリラヤ湖で網を打っているトコロを、通りがかったイエスに、人間をとる漁師にしよう(マタイ4:19)といわれ、弟子になった。  

 

「あなたこそ、生ける神の子キリストです」(マタイ16:16)

・・と最初に信仰告白し、イエスからこう言われる。

「あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう。」(マタイ16:18~19) 

ヨハネヤコブと共に3弟子の1人で、常にイエスにつき従い、後に初代ローマ教皇となる 

 

―そう聞くと、聖人にも列せられている人物だけに、”岩”のように揺るぎない、堅固な信仰をもっていた・・と思うが、聖書を読むと、意外にそそっかしいトコロがうかがえたり、そうばかりではないコトがわかる。

・・だからといって不信仰だと言うのではなく、とてもまっすぐで、人間味あふれる人柄であると同時に、人間的な”弱さ”もあわせもつ人物だったと、親しみを覚えるのである。

 

たとえば、有名な最後の晩餐と呼ばれる場面で、弟子たちの足を洗うイエスに、自分の番になったペテロは、自分の足を洗わないで下さいと言ったが、それに答えてイエスは、

「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」

それに対するペテロの返しが、なかなかナイスだ。

「主よ、では、足だけではなく、どうぞ、手も頭も」(ヨハネ13:5~9)

・・・・。


また、海の上を歩いて来るイエスを幽霊だと思っておじ惑い、恐怖のあまり叫んでいる舟の上の弟子たちに、「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」と声をかけた時も、ペテロは真っ先に答えてこう言う。

「主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」。

イエスは、「おいでなさい」と言われたので、ペテロは舟からおり、水の上を歩いてイエスのところへ行った。

しかし、風を見て恐ろしくなり、そしておぼれかけたので、彼は叫んで、「主よ、お助けください」と言った。

イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかまえて言われた、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」(マタイ14:22~31)

・・このように、自らがイエスの奇跡を体験しながら、ちょっと風が吹くと恐ろしくなり、疑っておぼれてしまい、「信仰の薄い者よ」とたしなめられている。

 

イエスが、自分が殺されるコトを語った時など、ペテロは自分のわきへイエスを引き寄せて、とんでもないコトです・・といさめ、イエスから「サタンよ、引き下がれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(マタイ16:21~23)とまで言われている。

 

さらには、いよいよ十字架に架けられるかという時、「悲しみのあまり死ぬほどである」という、深刻なゲツセマネの祈りの場面で、イエスが必死で祈っている時も、一緒に目をさましていなさい・・と言われたにもかかわらず、眠ってしまい、「あなたがたはそんなに、ひと時もわたしと一緒に目をさましていることが、できなかったのか。」と怒られた。

それから、またイエスが祈って戻って来ると、また寝ていたので、イエスはペテロたちをそのままにしてまた祈りに行き、戻って来ると、まだ眠りこけていた(マタイ26:36~45)・・とある。

 

イエスに最も近い弟子であるペテロでさえ、イエスが最も苦しまれている時に、共に祈るコトが出来ず、眠りこけていたのである。 

もっとも有名なのは、イエスの処刑の際の、ペテロの3度の否認であろう。

 

「主よ、わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です」。

するとイエスが言われた、「ペテロよ、あなたに言っておく。きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」。(ルカ22:33~34)

 

そして、イエスの言葉の通り、イエスのコトを3度、知らないと言ってしまう。

「死に至るまでも・・」と言った、その口の、舌の根のかわかぬうちに・・である。

その瞬間、鶏が鳴き、イエスの言葉を思い出したペテロは、激しく泣いた。(ルカ22:54~62)

 

しかし、イエスは復活した後、ペテロを訪ね、3度、「わたしを愛するか」と尋ねる。 

その度に「わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」と答える。

イエスもその度に「わたしの羊を養いなさい」と言う。

 

イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。


ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。

イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい」(ヨハネ21:15~17)


イエスは、ペテロの3度の裏切りを、3度、あなたを愛します・・と答えさせるコトで、償わせ、許したのである。

 

それ以来、ペテロは回心し、その後も使徒の長として熱心に伝道活動を続け、ヘロデ王によって投獄されるなど、迫害を受けながらも教会の育成と信仰に務めた。

パウロと共に二大使徒と呼ばれ、異邦人への福音が任されたパウロに対し、割礼を受けた人々(ユダヤ人)への福音が任された(ガラテヤ2:7)といわれるが、コルネリウスをはじめとする異邦人に対して、初めての洗礼を授け(使徒行伝10:44~48)、後の使徒会議(A.D.48)において、無割礼での入信を認める発言をする(使徒行伝15:7~11)のもペテロである。

 

皇帝ネロの時代(A.D.54~68)、パウロに続いてローマに向かい、かつてサマリアにいた魔術師シモンを打ち負かしたが、女性に夫との不浄な関係を絶つように諭したとして長官アグリッパや皇帝の友、アルビヌスの不興を買ってしまう。

仲間の勧めでローマを逃れようとしたところ、逆にローマに入ろうとしていたイエスを見かけ、「主よ、どちらへ行かれるのですか?」と問いかける。

 

映画にもなった有名な「クォ・バディス」というラテン語は、この時のペテロの「Domine 、Quo Vadis ?」(主よ、いずこへ行かれるのですか?)という問いかけのコトである。

 

その問いかけに対し、イエスは「再び十字架にかけられるためにローマへ・・」と答えたといい、その言葉によって悔い改めたペテロは、再びローマに戻って処刑されたという。

その際、イエスと同じ十字架刑はおそれ多いとして、逆さまに十字架に架けられて処刑されたと伝えらていれる。

  

ローマの郊外にあったバチカンの丘のペテロの墓と伝えられる場所に、後世になって建てられたのがサン・ピエトロ大聖堂

ペテロの墓の上に、現在のローマ・カトリックの総本山、バチカンがあるのである。

イエスが「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言われたごとく・・。

 

ちなみに、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂の「サン・ピエトロ」とは、「聖ペテロの~」というイミである。

 

 
 

 


第3の気持ち

2010年12月22日 | 格闘技・武道

長谷川穂積は、先日、日本人初の1階級とばしての2階級制覇を成し遂げたWBC世界フェザー級チャンピオン

(カテゴリー/格闘技:「長谷川穂積、2階級制覇!」参照http://blog.goo.ne.jp/kinto1or8/e/da8cfe19cd65f81a5874e999a9480585

以前いたバンタム級では、国内歴代2位の10連続防衛を成し遂げ”絶対王者”と呼ばれた日本ボクシング界のエースである。

 

持ち味はスピードで、「打たせずに打つ」ボクシングがモットー。

ズバ抜けた反射神経と、高速回転の連打は、1秒間に10発(!)のパンチを繰り出すほど!

そのテクニックは世界でも定評がある。

 

その長谷川が、「第3の気持ち」と呼ぶものがある。

 

「第1の気持ち」とは、相手に向き合った時の気持ち。

 
「第2の気持ち」とは、ピンチになった時の気持ち。
 
 
「第3の気持ち」とは、さらなる極限のピンチ、絶体絶命になった時、無心の状態から湧き起こる気持ちだという。
 
普段は眠っている”心の奥底の強さ”・・といったトコロだろうか。
 
 
 
スピ-ドやテクニックは言うまでもないが、そうした気持ちの強さが、長谷川を強い王者たらしめている。
 
 
 
―しかし、そんな長谷川も、最初から精神的に強かったワケではない。
 
 
元プロボクサーだった父からボクシングの手ほどきを受けはじめた7才の頃、いかに練習をサボるか、逃げ出すかを考えてばかりの子どもだったという。
 
プロテストは、体力がなくて、1度落ちている。
 
デビュー当時は、5戦して3勝2敗・・特に目立った選手ではなかった
 
 
練習不足で体力がない上、気持ちが弱い。
 
相手が強いから、勝たれへんやろな・・と、負けると思って試合をしていた。
 
 
プロ2年目でトレーナーが変わったのが、長谷川にとっての転機となった。
 
当時39歳で、元刑事の山下正人さんは、ボクシング経験ゼロの駆け出しトレーナーだったが、人一倍、勉強熱心で、優しく大きな人間性、熱心な指導に引き込まれ、長谷川のボクシングに対する姿勢も変わっていった。
 
どんなに疲れていても、朝のロードワ-クを欠かさなくなり、持ち前のスピードに、技術とスタミナが加わるコトで、見る見るランキングも上がっていった。
 
 
そして3年後、辰吉を破ったウィラポンに判定勝ち、以来5年間、無敗のまま、王座に君臨し続けてきた。
 
 
―そんな長谷川が、本物の”強さ”とは何か?・・という質問に対し、”強さ”=”優しさ”とは思うんでね・・と答えていたのが印象深かった。
 
 
絶体絶命のピンチに陥った時、発揮される「第3の気持ち」の強さは、心の優しさ、大きさに比例するのかもしれない・・。
 
 
 
「強い”優しさ”をもってる、思いやれる気持ちが強い奴が、強い奴じゃないですかね・・」   by 長谷川穂積
 
 
 
 

おっと、もうこんな時期か・・

2010年12月21日 | 最近、思うコト

毎年、1月1日にはちゃんと着くように、12月25までには年賀状を出すようにしている。

1度、ウチの近所のポストに入れたら、回収に来なかったのか、えらいおそくに着いた年もあったので、それ以来、中央の郵便局など、確実に、間違いないトコに出すようにはしている。

・・といっても、着いてるかどうかは、こっちではわかんないんだけどね・・。

 

だいたい、毎年、年賀状は出すけど、10年くらい会ってない友人なんか、ざらにいたりする。

まあ、なかなか会うコトも出来ないけど、年に1回のコトだし・・と、一応は出しているが、問題は、「この人、どーしよーかなー・・」という人の場合・・。

 

その辺のボーダーが微妙で、ま、いっか・・なんて思ってると、向こうから来たり・・。

 

来年は卯年なんで、ウサギのキャラクターを年賀状に・・なんて探して、ドラゴンボール兎人参化にしよーかと思ったが、とりあえず、プリンターのインクをいっぱい使いそうで却下。

 

こーゆー、あまりカブりそうもない、穿ったキャラクターを使うのが好みではあるが・・まあ、いつも出す人は、着いてからのお楽しみとゆーコトで・・。

(目上の人には、いたって普通のものなんだけど・・

 

早いトコやんなきゃなー・・。

 

時間ないよ・・。