Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

REDLINE

2011-11-30 23:26:02 | アニメーション
小池健監督のアニメーション映画『REDLINE』、観ました。おもしろかった。

とにかくぶっ飛んでて、ハチャメチャで、こういうのを一生懸命作っている人たちがいるかと思うと、感動してしまう。

アメコミ風の、とにかくスタイリッシュでイカれた人物・メカニックのデザイン、単純すぎるストーリー、何でもアリの展開、ここまでやられたら後は笑うしかないでしょう。

ずっとずっと未来の話で、宇宙最速を決めるカーレース「レッドライン」での攻防を描いたアニメ。まあ攻防っていうか、「攻攻」って感じですけどね。友情だの恋だのが絡んできていますけれども、それはほとんど「お約束」であって、映画の核はストーリーにあらず、カーレースでのデッドヒートでしょう。

武器攻撃OKのレースなので、レーサー同士がミサイルを打ちまくったりするわけですが、レッドラインが開催されることになった星「ロボワールド」はその開催を断固反対、レースをぶっ潰そうとして、軍隊をレースに投入したものだから、ただでさえ物騒なレースがほとんど戦争状態になって、揚句には生物兵器(巨神兵みたいなやつ)までが登場して、なんじゃこりゃあという展開に。

ここまでぶっ飛んでるアニメーション映画を観るのは久々。いやあ、おもしろかった。しかるべき人たちからしっかりと評価されているのかどうか分かりませんが、こういうのを評価してもらいたいものだ。

色々と書きたかったんだけれども、明日は朝早いのでこのへんで。

集団、集合、集積

2011-11-27 23:29:18 | お仕事・勉強など
きのうの昼食は、ぶりの押し鮨を食べました。近所のスーパーで全国の駅弁フェアをやっていたので。ちなみにぼくの食べたのは富山の駅弁らしい。有名なのかな?

さて。
集団的な、あるいは集合的ないし集積的な知性というものについてふと思いを巡らせました。たしか誰かがこのようなことを言ってたなあと思ってさっき検索してみたら、なるほど、よく知られた学問分野の一つのようですね。

ブログを始めるようになって、とりわけ始めた当初は、色々な方のブログを覗き見したりしていましたが、分かったことがあって、それはプロの評論家以外の人たちにも相当な読み手がいる、ということ。確かに数こそ少ないですが、しかし厳に存在している。また、掲示板の類には以前からお邪魔することがありましたが、そういった場所に出没しているHNしか知らない人たちの意見にも、時折り非常に鋭いものが見られ、幾度も目を啓かされる思いをしました。

文学研究とは一体なんでしょう。なぜ、ごく限られた人たちだけがそれを為すことでお金を得ることができているのでしょうか。彼らの専門性とは一体何なのでしょうか。つまり、彼らを一般人と区別している「特性」とは何なのでしょうか。それは知能でしょうか。それとも知識でしょうか。あるいはもっと別の何かでしょうか。なぜ、ハイレベルな教育を受けた者しか文学研究で生計を立てることができず、例えば大学教育を受けていないフリーターがある文学作品に対する新しい学説を本の形で提唱できないのでしょうか。どうして、大学の先生や作家は文学研究を行うことでお金を得ることができるのでしょうか。もちろん、彼らの本業は教えることであり、小説を書くことですが、そうだとすれば、文学研究とは一体なんなのでしょうか。

今のところ文学研究とは、一定以上のお金を持っている人間にしかできない高等な遊びの一種ではないかと思うことさえあるのです。それには知能も知性もいらない。ただ、本と、それを買うお金と、それを収納できるだけの場所があればいい。当然ある程度の訓練は必要でしょう。でもそれは、研究を続けていれば自然と身に付くものです。つまり、文学研究に携わることのできる資格、言い方を変えれば、文学研究者を一般人と区別する専門性とは、ありていに言えば、お金の有無ではないか。

ぼくらは、大学に囲い込まれることによって、文学を研究する正当性を持ち得ています。大学の文学部に入れば、お金さえあれば誰でも文学を研究できるのです。一方ではこれはすばらしい制度であると言えますが、他方ではこれは杜撰な制度です。

専門知識については?研究を長年続けることで得られる知的な視点もありうるのではないか?こうした専門性は、一般の読者よりも優れているのではないか?・・・そのようにも考えられますが、しかし最初に述べたように、一般の方々(文学研究を生業としていない方々)にも、非常に高度な専門知識と極めて斬新な視点を持っている人がいるのです。

これまで文学研究はいわば特権階級によって独占されていたように思われてなりません。ネットの集合的な知性が、彼らに取って代わることができないものか。つまり、特権階級から奪冠し、ネットに戴冠する。

ほとんどまとまっていない考えをぼやいただけなので自分で読み返してもツッコミどころが多いのですが、大枠としては言いたいことは言っている。まあなにか、富山のぶりを食べたら、こんなことが頭に浮かぶようになりましたよ。

修士論文って

2011-11-25 22:55:09 | お仕事・勉強など
今朝の新聞に小さく小さく記事が出ていたんですが、来年度から、博士課程進学者は修士論文を書かなくてもいいことになるそうです。その代わりに筆記試験と面接試験を課されるらしい。記事によれば、早くから専門分野だけに特化してしまうことを避け、幅広い知識を習得させるためらしい。まあ、従来だって筆記試験と面接試験はあったわけですから、修士論文がそこから抜け落ちた形ですね。もっとも、ぼくの通う大学では内部進学者は筆記試験は免除されていましたが。というのも、修士課程に入学するときに筆記試験を課されるからで、それに通っているので博士で改めて試験を行う必要性はないとみなされているからでしょう(ぼくはそのように認識していました)。

理系も文系も一緒くたに制度が改正されるのでしょうか。あまりに記事が小さかったために何も書かれていませんでしたが、気になります。

修士までは知識を広めて、博士になってから専門を深く勉強するのがよい、という考えには確かに一理あり、ぼくの経験はまさにその典型例なので、いわば時代が追いついてきた、といった感慨もなくはないほどなのですが、でも、弊害も大きい。

修士までぼくは色んな国の文学を読んだり、批評理論を勉強したりしていましたけれども、専門が定まっていなかったために当然専門知識は一切ありませんでした。だから今、とても苦労しています。もちろん、ばりばりのやる気まんまんマンだったら平気なのでしょうけれども、人間はそういつも気力が充実しているわけではないので、気力が落ち込んでいるときに専門性を磨くというのは大変なことなのです。また、外国文学を研究する場合、修士論文を書くために色々な文献を調査するにあたって「やむをえず」外国語の文献を多く読むという体験をすることが一般的だと思うので、論文を書かないとなると、外国語を読む訓練をする機会が奪われるのではないかなあと心配です。これも、やる気まんまんマンだったら自ら進んで原書を読むのでしょうけれども、人間というのはそう一様にできる人ばかりではない。

博士課程に合格できなかった人は(修士論文を提出していないのに)修士号を得られるのか、といった初歩的な疑問点も解消されていない記事だったので、気にかかることは多いですけれど、想像するに、博士課程に進学すると、その分野だけを何年も勉強している人といきなり同じ土壌に立たされることになるので、専門性がない一年生や二年生はかなり苦難を強いられることになると思います。まるで自分のように。だから心配だ・・・

愛の形

2011-11-25 00:43:58 | アニメーション
『魔法少女まどか☆マギカ』について。
これから視聴するという人は読まないで下さい。
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まだ分からないところが部分的に残っていますが、作品について今更だけどちょっと考えてみた。

本作において、魔法少女というのは魔女に孵化するまでの過渡的段階、いわば幼虫やさなぎに相当するわけですが、魔法少女となったからには彼女たちは死ぬか、あるいは魔女にならなければなりません。そのように仕組まれています。もちろん契約の際にはそうした事実は語られることはないので、少女たちはただ自らの(誰かの)望みをかなえるためにだけ魔法少女となります。ところが、まどかだけは最後まで魔法少女になることを躊躇い続けるために、やがて魔法少女と魔女の秘密を知ることになります。はっきり言って、こんなハイリスクな契約は誰も結ぼうとはしない。真実を知らないのならばいざ知らず、自分が近い将来必ず死ぬことになる、あるいは魔女になってしまう=世界に害悪をもたらす存在になってしまうと知って尚、どうして契約を交わすことができるでしょうか。何かを希望することによって魔法少女となったのに、その末路は何かを絶望することによって魔女になること。その宿命を背負わなければいけない。しかし、まどかは決断する、魔法少女となることを。過去、現在、未来のあらゆる魔女を消滅させることを希望して。

これはある意味で反則技とも言えると思う。魔法少女→魔女という世界の理を捻じ曲げてしまうことだから。物理法則を無視し因果律を破壊した、世界の書き換え。ほむらの行為によって因果の糸が集中することになったまどかにだからこそできた、強大な力の行使。本作ではきちんとこの「反則技」が可能なものとして設定されている点がすばらしいところなのですが、それはここでは措きます。問題にしたいのは、まどかの愛。彼女は絶望に陥る魂を愛で包み込み、それを救済する。そして大切なのは、それが見返りを求めない愛であるということ。まどかはその望みの必然性によって、過去と現在と未来とに存在することになりますから、したがって人間ではありえなくなります。通常の魔法少女もまた既に人間足りえていませんが、まどかの場合は、その人間的形状さえも失うことになります。あらゆる時空間に遍在する、概念としてのまどかに昇華するからです。そして書き換えられた世界にはまどかという人間は記憶の中にさえ存在しません。魔女を発生させないという概念となって遍在するのみです。これはまどかの無償の愛です。少女たちの切実な希望を絶望に変えないための、希望を希望として守り抜くための、まどかの愛です。

思えば、この作品に登場する主な魔法少女たちは、見返りを求めない愛ということについて葛藤します。その意味で、今作のテーマの一つは間違いなく愛であり、そして主人公はまどか一人ではなく、個々の魔法少女たちであると言えるでしょう。
さやかは、密かに慕っている少年の怪我を癒すために魔法少女となりますが、それは取りも返さず他人のための見返りを求めない愛のはずでした。はずでした。しかしやがて彼女は精神的に追い詰められてゆき、やがて親友と少年との友好を見るにつけ、自分が見返りを求めていたことを知ることになります。愛というのは何らかの見返りを必要とするのか、それを問いかけてくるさやかのエピソードですが、自らの深層心理を知るにつれて、さやかの負の感情は増長し、ついに魔女と化します。いわば、さやかは愛の葛藤に押し潰されたわけです。誰かのために、ということが結局、自分のためだったということを悟り、さやかは魔女になったと言えますが、実はそれはこの世の必然であり、魔法少女は絶望して魔女になるか、あるいは魔女に殺されるしかないのです。

ところが、さやかは見返りを求めない愛を捧げる対象ともなっています。捧げる人間は二人いて、一人はまどか。もう一人は杏子。まどかは、さやかが既に「ゾンビ」となっていることを知って尚、抱きしめくれなんて言えないよ、と嘆くさやかを抱擁します。自分がもはや人間的な愛の対象にはなりえないと思い詰めるさやかを、まどかは懸命に愛そうとします。当然そこには何らかの見返りはありえません。また、杏子は、やはり最初は他人のために戦うことを決意しながらも、やがて自分のために戦う道を選んだ杏子は、さやかとは対蹠的であり且つ同位的でもあるのですが、彼女は魔女と化したさやかを人間に戻す術がないと知るや、さやかの寂しさを受け入れるために、自爆して共に死にます。個人的には、ここからエンディングのイラストまでの流れはぐっときた。そのイラストが催涙弾かよって感じで。

そしてほむら。彼女はまどかのために、何度も何度も同じ時間をループして、ただまどかのためだけに、仲間の死を幾度も体験し、自らも幾度も傷つき、悲しみ、嘆き、しかし絶望だけはせずに、夢中で同じことを試行してきました。これもまた、自らを省みない無償の愛でしょう。

キュゥべえの契約というのは、高い代償を支払わなければならないものですから、この物語は希望とその代償についての物語だとも言えるのですが、しかし愛という観点から振り返ったとき、これは愛とその代償についての物語と言った方がいいように思うのです。いや、愛 with 代償ではなく、愛 but 代償の物語です。

この世界には、あらゆることに表と裏があるように、あらゆることに代償が、その対価がある。希望の対価は絶望であり、愛の対価は代償です。だからこそ、魔法少女は必ず魔女になるのであり、無償の愛は悲劇的にしか終わらないのです。まどかは、そのような世界の理を捻じ曲げてしまったのです。したがって彼女は世界を新しく創造したとすら言えるでしょう。書き換えられた世界にも憎悪はなくならないとしても、しかし希望は絶望に変わらず、魔法少女は魔女と化さず、愛は無償のものとなりえます。まどかは無償の愛という概念として遍在し、宇宙はその法則に支配されます。

まどかはほむらの無償の愛を知り、ほむらもまどかの無償の愛を知るただ一人の人間となります。さやか、杏子、そしてマミもまた、誰かのために戦い、死んでゆきましたが、この作品は、「誰かのために」ということが、ただただ尊いものだという当たり前のことを声高に叫んだ作品のような気がします。何らかの代償なしに愛するということ、しかしそれがなされるためには世界を作り変えなければならない、という苦い認識が根底にあるとしても、その愛する行為をとにかく肯定したいのだという真っ直ぐな気持ちが表れているように思いました。

新海誠の生放送

2011-11-22 22:39:41 | アニメーション
ニコ生で新海作品がやっているので観ていたら、ついに追い出されてしまった。で、定員オーバーでそれから視聴できず。プレミアムじゃないので仕方ないとはいえ、う~む・・・。

まあ『ほしのこえ』は全編観られたのでよしとしますか。それでも一回追い出されたけど。

この番組は、追い出された時点で約55000人が視聴してたみたいですけど、コメを見る限り初見の人多すぎないか?ニコニコに棲息している人たちは新海作品を大体観ているものと思っていたんだけれども。

とまあ、今日はこの辺で。

栞の恋

2011-11-21 16:38:30 | 文学
ひょんなことから朱川湊人「花まんま」と「栞の恋」という短編を読みました。
個人的には「花まんま」よりも「栞の恋」の方がおもしろかった!
これはジャック・フィニイの「愛の手紙」と同じ着想の好短編で、栞/手紙を介して時間を超えたやり取りをする男女の物語です。とある商店街の古書店に置かれていたランボオの古い研究書を読みに熱心にお店に通う青年。彼に想いを募らせている女性があるときその本を開いてみると、中にイニシャルの書かれた栞が挟まっていた。やがて栞を手紙に見立てた「文通」が始まり・・・というお話。

繰り返しになりますが、フィニイの「愛の手紙」によく似ています。ただし、内容の既視感に辟易したというようなことはなくて、むしろ「再びの心地よさ」に浸ることができました。再びの心地よさ、という妙な表現を使いましたが、この「心地よさ」は、ぼくの場合たぶんフィニイの短編に由来するものではない。もっと遠くの、もっと深い淵源があるのです。恐らくその一つには、時空を超えた恋物語という点で新海誠の『ほしのこえ』を挙げることができるのでしょうけれども、今回ぼくの感じた「心地よさ」は、どうやらそれとは違うらしい。では何かと言えば、やはりアニメーション映画である『耳をすませば』です。図書カードを介した恋物語、という今から思えばレトロな設定と、昭和40年代の古書店という舞台設定とは、ノスタルジーという点で共通しています。そしてもちろん、図書カード/栞というやはりノスタルジックなギミックを用いている点が、両者の相貌を近似したものに見せています。だからこそぼくは、「栞の恋」を読んだときに「あの心地よさ」にもう一度浸ることができたのだと思います。

しかし、『耳をすませば』が上映された当時はまだ図書カードは過去の遺物とはなっていなかったわけで、それはノスタルジックな要素にはまだなっていなかったと思います。したがって、ぼくの感じた心地よさというのは、『耳をすませば』にある種のノスタルジーを感じてしまう今のぼく個人の感受性に由来しており、他の人には当てはまらないのかもしれません。もちろん、図書カードや栞というアナログな媒体を用いている事実は変わりないのですが。

ところで、ヒロインの女性はランボオのことを知りませんが、彼女がランボオを江戸川乱歩と勘違いするところはおもしろかった。それにしても、どうしてランボオだったんだろう。『地獄の季節』に、後世の人間をして「栞の恋」を発想させるような素材があったかしらん。読み返してみたいとも思いますが、たぶん読み返さないんだろうなあ、ぼくは。

そういえば昔、図書館で借りてきた本の図書カードに自分の拙い感想をびっしり書き込んでからその本を返却したことがありました。でもたぶんそれは、『耳をすませば』に倣ってというよりは、漱石の『三四郎』に同じような場面があるのを念頭に置きながらやった行為だったように今では思い出されます。それともこれは過去の改竄?いずれにしろ、その本をぼくが再び借りることはありませんでした。

消失

2011-11-21 01:25:08 | アニメーション
涼宮ハルヒの消失を観たんですけれど、こんなにおもしろいとは思っていませんでした。で、色々と感想を書きたいような気がするんですけれど、まず第一に明日は朝が早い、第二に何から書いていいのか分からない、ということで、走り書き程度になります。

何がこんなにおもしろかったんだろう。長門が異様に可愛かった、というのがキーになっているように思われるのですが、そのことと、こんなにもおもしろかったということとがどのようにして結びついているんだろう。

迷惑だと考えていた日常が、実はとても大事なものであるということに気が付く、つまり日常の価値を発見する物語なわけですが、まずはそのテーマがぼくの好みですね。それと、単純に長門とキョンのありえたかもしれない恋を垣間見ることができたこと、これもぼくの嗜好に合っていたのかもしれません。

日常の価値を再発見するというテーマは、震災後の現在はいよいよ切実なテーマになってきているわけですが、日本のテレビアニメというのは日常の一コマを切り取った作品が増えてきているので、その流れの中に『消失』を位置づけることができるのかも。このかけがえのない当たり前の世界、普通の日常を愛おしく思うという感慨は、失われゆく現在とも背中合わせなわけですから、そこには切なさも同居しているので、それは何らかの物語になる素材なのだと思います。

そしてその日常というものは、長門との恋物語に発展しえたかもしれない。ハルヒのいる日常と、長門のいる日常と、どちらか一方を選択することをキョンは迫られたわけです。これに対して彼は、日常性を肯定するという行為をもってハルヒのいる世界を選択しました。つまり、キョンにとって日常というのはハルヒのいる日常に他ならなかったわけですね。

それはそうと、このシリーズでおもしろいのは、キョンと誰かとの関係が恋に発展しそうで実は全くそうならない、というところだと個人的に感じています。そこに何となくもどかしさみたいなものがあって、いい。だからこそ、今回の長門との関係性はまさしくそこをストレートに突いたものであって、ぼくの気に入ったのかも。

とまあ、こんなことを考えてみました。いやあ、おもしろかったなあ、それにしても。なんでこんなにおもしろいのかなあ・・・最初の疑問に戻ってしまったけど。

わたしが来たのは、罪人を招くためである。

2011-11-19 17:25:58 | 文学
医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。
――「マルコによる福音書」第2章第17節

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 「ごめんなさい。今日は一緒に行けなくなりました。」
 メールの文面はそれだけだった。彼は携帯を手にしたまま冷笑を浮かべ、しばらく後にそれをポケットに突っこんだ。
 彼にとってそれは予期したメールだった。そうなるのではないか、と彼は一週間も前から漠然とした不安を覚えていて、いやもっと言うならば彼女と約束を交わした一瞬後にはもう不安に囚われていた。
 彼が手当たり次第に女性を遊びに誘うようになったのは最近のことだ。恵まれた容姿を備えていた彼は、しかし中学、高校と男子高に通っていたせいか女っ気がまるでなく、その傾向が大学卒業まで続いていたため、自分でも女性には興味がないのだと思っていた。ところが大学院に進学して初めて女性と深い関係を持ち、そして別れてからというもの、彼は女性と交流する楽しみを知った。気遣い、心配り、白い肌、優しい眼差し、自分のさして面白くもない話に身を乗り出して聞いてくる好奇心、そういったもの全ては彼がこれまで経験したことのないものばかりであり、女性特有のものであるように思われたのだった。
 彼女と別れてできた心の空洞とやらを埋めるために女漁りをしているのだとは彼は考えなかった。第一、彼には下心がなかった。誰か女性と二人きりでどこかへ出かけたとしても、それ以上の関係を彼は一切望まなかった。美術館に行けば二人で並んで鑑賞し、夕食を共にし、ひとしきり談笑した後は、そのまま何事もなく手を振って別れた。彼はそれで満足だった。そうして2週間ばかり時が過ぎると、再び誰かを誘って別の場所へと赴くのだった。
 寂しいのだと彼は思っていた。けれどもそれは彼女と別れた寂しさではなく、自身の人生そのものから来る寂しさだと思っていた。いわゆるモラトリアムで大学院に進学したものの、研究生活には覇気がなく、研究対象にも興味を抱けなかった。自分は何のためにここにいるのだろう、と彼はよく考えた。夜、大学からの帰りに突然の雨に降られた際などには、とりわけそういう重苦しい観念が彼の頭を支配した。まるで自分の体が夜に塗り込められてしまったように彼には感じられ、自分という存在の儚さと脆さに思いを巡らした。
 よく知りもしない女性を片っ端から遊びに誘うことに彼は何の抵抗も感じていないつもりだったし、そういう点における倫理観は欠如していると自分で考えていた。しかし、女性から初めて断りのメールを受け取ったとき、彼はそれを予期していたこと、常にそういう事態を恐れていたことをやはり初めて悟った。こうした不安や恐怖が何に由来するのかは彼にはよく分からなかったが、実はこの遊興への罪悪感が彼の心の深い所に根差していて、それが原因なのではないかと曖昧に感じてはいた。
 彼は女性の裡に救いを求めていた。自分を今の状態から助け出してくれるもの、たとえそれが仮初だったとしても、たとえ僅かな心の慰安に過ぎなかったとしても、せめて一瞬でも苦しみを忘れさせてくれるものに縋りたかった。それだけだった。それなのに、この罪悪感はどこから来るのだろうと彼は訝しんだ。もちろん、我々は彼の独りよがりな思惑を断罪することができる。自分ひとりのことしか問題にしない彼の驕慢、その狭隘な心を蔑むことができる。しかし彼の思いは切実だった。やるべきことは淡々とこなしがら、これからの行く末を必死で考え、自らを責め、恥じ、嘆いた。そして女性に救いを求めた。もし彼が間違えていたとしたら、それが一人の女性ではなかったことだ。

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キリストを必要とする人間ではなく、キリストが必要とする人間を書こうと思った。いや、単なる暇つぶし。もう時間だ。書きっぱなしで終わり。続きはない。

些細な傷

2011-11-18 22:35:13 | Weblog
何も書かない方がいいっていう日もある。例えば今日。

何に不満なのかは判然としないけれども、とにかく不満だ。疲れた。意欲がない。
些細な傷と戦っているよ。それが些細だということ自体とも戦っているよ。

誰かに笑われているような気がして家から出られなくなったってことはないけれど、誰かのひそひそ笑いに始終びくびくしているよ。人との交流が不安で学校に行かない日もあるよ。大きな物音がすると体が縮こまるよ。子供の叫び声にも怖気をふるうよ。

何か、大切なものが見つかりそうな気がするんだ。何だろう。

反常識的考察

2011-11-18 00:29:23 | 文学
はっきり言ってしまうと、毎度まいど授業に出席したり、シンポジウムにしょっちゅう顔を出したり、友達といつも和やかに談笑したり、そういう連中は文学をやる資格がない。と、昭和の文学青年なら言ったかもしれないが、ぼくもそう思う。いまどき時代遅れな奴と思われて蔑まれ見下されるのが関の山だが、だいたいにして文学をやる資格のある人間というのは文学にしか居場所を見出せない人間なのであって、現実世界にちゃんとベストプレイスを用意されている幸福な連中は、正直なところそういう資格持ちの人間にとっては邪魔なのであり、不愉快でさえあるのである。だから今の自分は文学にさして関心を持ちえないのだな、と思う。つまり、小さなサイコロに閉じ込められていたような一昔前に比べれば現実世界である程度の処世術と言うか居心地の良い場所を手に入れたぼくにとって文学がかつてのように切実な問題になりえない理由は、ぼくのこうした思想に照らせば明らかなのだ。

もう一つ言うと、会社を辞めたり、学校を辞めたり、とにかく今の自分が乗っているレールから自ら降りることは、必ずしもマイナスではないと思う。諦めたとか、逃げたとか、夢破れたとか、誹謗されることがほぼ全てだろうが、そんなことを言う資格や権利は本来誰にもない。進むのも引くのもまた己の人生であり、「逃亡」を嘲笑したり軽蔑したりすることは、余りにも傲慢すぎる恥ずべき行いだ。

と、いうようなことを「しらふ」という小説を読んでぼんやりと考えた(正確を期せば「考え始めた」)。たとえこれが反常識的であるとしても、こういう考えが殊更に人の嫌悪を惹起せずに、せめて頭の片隅に留まってくれることを願う。

いや、しかし、よくよく考えてみると、文学が切実だった時期など果たして自分にあっただろうか?ぼくは嘘を言ったかもしれない。暗黒期には文学という光さえ感知できなかった。もちろん、文学が光であるとしたら、だが。・・・結局のところ、自分の意見などというものはほとんど存在していない。昨日と今日と明日の意見は全て異なりうる。明日になれば、誰かと頻繁にコミュニケートするのが文学をやる者のあるべき姿だ、というような意見に変わることさえ可能性としては考えられる。

どっちだって同じことだ!

と書いてみて、誤解されるのが怖くて補足したくなる。つまり、こんな議論はもうどうでもいいのだ。今日、こんなことを考えた。それでもう十分。

せめて、土に。

2011-11-16 22:55:33 | 音楽
2,3日前の朝日新聞に高校生の短歌が載っていて、それが存外よかった。正確な詩句は忘れてしまったのだけど、「廊下に落葉(らくよう)が落ちているけれど、それは土にもなれないのだな(私もまたそうかもしれない)」というような内容だった。ね、いいでしょう。他の歌にも光るものがあった。

で、『千年幸福論』に「遺書」という作品が収録されているのだけど、そこでは「私は土になるのです」と歌われている(あるいは朗唱されている)。こんな私なぞは吹き曝しくらいがちょうどいい(まさに雨ざらしがちょうどいい!)、だから私は土になる、誰かに踏まれる土になる。

これは自分を卑下し卑屈になっている歌では決してない(誰かに対して謙遜している歌であるはずは当然ない)。そうではなく、覚悟の歌だ。覚悟の詩だ。だからこそ「遺書」というタイトルが冠せられているのだと思う。

私は誰かに踏まれる土になります、と宣言するまでには、途方もない艱難辛苦が、挫折が、滂沱の涙があったのだと思う。そういう生き方を選ぶということは、でもたぶん多くの大人たちがしてきたことだし、していることだ。つまりぼくらは皆、途方もない艱難辛苦と挫折と滂沱の涙を経験している。だから秋田氏の歌詞が凡庸だなどと言うつもりは毫もない。そうではなく、だからぼくらは彼の詩に共感できるのだ。そして、そういう我々に共有される感覚をクロースアップし、大抵は流されるままに土になることを受け入れてしまうぼくらの受動性に、「遺書」という覚悟を決めた言葉でぼくらを向き合わせてくれた。彼は土になることを自ら選び取る。悲愴な決意を秘めて、あるいは莞爾として?

ああそうか、ぼくは土になろう。微笑みを浮かべながら。

けれど高校生は、土にもなれない不安を歌う。秋田氏は、土になる覚悟を歌う。
たおやかな花にはなれないけれども、せめて土に。でも土にもなれなかったらどうしよう?だから覚悟を決めないと。土だって立派な生き方だよ。

千年幸福論

2011-11-15 23:22:27 | 音楽
地下鉄にへばり付いたガム踏んづけてもう何もかも嫌になった。ああもう全部止めだ。ここにしがみ付いてる価値はない。そもそも前から気に食わなかった。イライラすんのは割にあわない。辛酸舐める日々の逆境。夢が重荷になってりゃ世話ねぇ。

長い間このブログを読んで下さる方がいるとしたら、ああまた言ってやがるな、と思うでしょうか。でもこれはぼくの言葉ではありません。秋田ひろむ氏の「逃避行」という歌の歌詞です。こうして見るとよく分かるように、ここで歌われているのはぼくだ。

amazarashiの1stフルアルバム『千年幸福論』、届きました。本当は一日早いんですけどね。で、すげえ。特にこの「逃避行」、いやこれって本当に、ぼくのことじゃないか。もっと言うなら、「夜の歌」と「逃避行」の二連発が半端ないですね。

「希望は唯一つで 諦める訳は捨てるほど ぬかるんだ道に立ち尽くし 行こうか戻ろうか悩んで
結局歩き続けて その向こうで光が射して その時僕らは思うだろう 「今まで生きていて良かった」
その一瞬の 為だったんだ 今まで積み上げたガラクタ 多くの時間 多くの挫折 数えきれない程の涙」

「夜の歌」で歌われているこの希望のために、ぼくらは皆人生を走り続けている。でも本当にそんな希望なんてあるのか?いつの間にかその「希望」とやらにがんじがらめにされて、「夢」とやらが重荷になっているんじゃないのか?行くか、戻るか。amazarashiのテーマだし、ぼくのテーマでもある。ところが「逃避行」ではこう歌われる。「死に場所を探す逃避行が その実 生きる場所に変わった/そんな僕らの長い旅の先はまだまだ遠いみたいだ」。

逃げて、逃げて、逃げて、逃げまくって、どうだおれは死んでやるんだと嘯いて、でもいつしかその逃避行を生きていることに気が付いて。「僕の場合は逃げ出したいから なのに今も戦っているよ/それでいいだろ」。それでいいだろ?逃げたっていいじゃねえか、それでぼくらが遠くまで行けるんなら。どこまで逃げられるのか、見せてやるよ。


秋田さんの小説「しらふ」が封入されていて、読んだのですが、秋田さん大丈夫かなあ、と途中で思ってしまった。けっこう症状出ちゃってますよ。いや、上手いとか下手とか、そういう価値基準をぼくをこの小説に当てはめるつもりは最初からなくて、とにかくストレートに感情が吐露されていることを期待していたのですが、まさに期待通りと言うか、いやいやこれは期待以上だろ、って感じで、で、秋田さん大丈夫かなあ、と感じてしまったわけです。すいません、なんのことだか分からないですよね。やっぱりこんなにも鬱屈とした気持ちを抱え込んで生きているんですよね。だからこそこういう詩が書けるし、こういうふうに歌えるんです。あなたの苦悩はよく分かる、なんて軽々に言いたくは絶対にないけれども、ぼくも、苦しんでいます。それでいいですか?それで、伝わりますか?

最後の「未来づくり」、歌詞もさることながら、曲が本当にいいですね。というか、歌詞と曲とが完全にマッチしていて、まるで暗い海の底にあったものが明るい方へと徐々に徐々に浮上してゆく過程が見えるようです。それはこのアルバム全体の構成にも言えることですが。

待ち合わせができない人

2011-11-15 00:33:21 | Weblog
読まなければいけない本が何冊もあるのですが、とにかく面倒で読もうとすらしてない・・・ということばかり書いていると読む方もうんざりですよね、だから今日くらいは別の話。

携帯を持っていない中学生の時のお話。
ぼくら3人は映画を見に行こうということになって、近所の駅で待ち合わせをすることにしました。ぼくはけっこう几帳面な性格なので、時間よりもわりと早く到着しました。しばらく友達を待っていましたが、なかなか彼らはやって来ません。なんとなく不安になったぼくは、そのままその場所を後にしてしまいました(で、どこへ行ってしまったんだ?)。

翌日聞いた話では、友達の一人はなぜか駅近くの書店で立ち読みをしながらぼくらを待っていたようです。だから当然、ぼくらがお互いに気が付くことはなかったんですね。で、時間になったから慌てて待ち合わせ場所に駆け付けたけれども、ぼくは既にどこかへ行ってしまっていていない(だからどこへ行ってしまったんだ?)。

結局、待ち合わせ場所に3人が揃うことはなく、映画は観に行けませんでした。
・・・という、待ち合わせができない人の話でした。

ちなみに、ぼくは今でも待ち合わせがちょっと苦手だったりします。が、携帯があるので、何とか無難にこなしています。

これでも必死に生きている

2011-11-12 23:54:10 | Weblog
あああああ。

雪よ降れ、白鳥を背景に塗り込めるほど。ぼくと白鳥との区別がなくなるほど。

久々に「夏影」やそれに類する歌を聴いていました。いいね。

今日は大学で大々的に文学のシンポジウムが開催されていたのですが、ぼくは参加しませんでした。つい先日までは出かける心算でいたのですが、結局そうしなかった。

不活発な学生。あるいは極端に引っ込み思案な学生。それとも単に独りよがりな学生。無気力な学生。怠惰な学生。そんな印象を持たれても仕方ないな。

しかし、ぼくはこれでも必死に生きている。

嫌なことや辛いことがあると、ぼくはすぐに意気消沈してしまう。挫けてしまう。それでもぼくはそれを何とか乗り越えて生きてきた。ときには逃げた。ときには大回りをした。でもどうにかこうにか最終的には前に進んできた。他人から見ればそれは遅々たる歩みかもしれない。怠けているようにさえ見えたかもしれない。でもぼくは必死になって、苦しみながら、嗚咽を漏らしながら、我慢に我慢を重ねて、堪(こら)え切れないものを堪えて、地団太を踏み、泣き叫び、怒鳴り散らし、歯を食い縛って、歩いてきた。

怒りにまかせて家の壁を蹴り壊したこともある。机の下にあるはずの板は、何度も蹴られたせいで既にない。机の表面には鋏で付けた幾つもの切り傷。手首を千枚通しで刺して肉を引きちぎった跡は今も残る。

平生のぼくの態度からすると、そんなことは誰にも想像できないかもしれない。しかし、この家の壁の穴が確かに存在しているように、そしてそれは他人には見ることができないように、ぼくの苦しみも存在し且つ見えない。

ぼくは人には優しい。損得は考えず、なるべく誠意を尽くす。自分という人間の弱さを知っているから、人の弱さを労わってあげたい。だからたぶん、ぼくは強い人間が苦手だと思う。弱さを知らない、あるいは弱さを隠す、力強く進む人間。

あああああ。

でももう嫌だ。疲れてしまった。優しくすることに、ではなく、自分の弱さと共に生きてゆくことに。何もやる気がしない。面倒で堪らない。朝起きるのも、歯を磨くのも、顔を洗うのも、食べるのも、風呂に入るのも、出かけるのも、服を着るのも、脱ぐのも、布団を敷くのも、畳むのも、要するに日常茶飯事が面倒で仕方ない。この忌々しい反復を繰り返しながら、一日一日と歳を取ってゆくのが堪らなく辛い。それに加えて、本を読み、論文を書き、書き直し、また本を読む暮らしは、地獄の責苦にも等しい。

他の人が当たり前にこなしてゆくことが、ぼくにはひどく億劫で、困難だ。この困難を必死に乗り越えながら、ぼくはいつの間にか、これまで切実だった問題に、何の関心も示さなくなっていることに気が付いた。タカキがそうして仕事を辞めたみたいに、ぼくも全てを投げ出したい。そしてまっさらな気持ちで、新しい一歩を踏み出したいと願う。

ぼくはこれでも必死に生きてきた。人から何と思われようと、心は全速力で、力を振り絞って生きてきた。ぼくはもう、やり終えているのではないだろうか?

プロコフィエフ短編集

2011-11-11 22:37:40 | 文学
本題に入る前に。

amazarashiが評価されない。なぜだろうと思う。YouTubeの公式映像にはかなり批判的な視聴者が多い。例えばけいおんの映画版の楽曲に否定的意見が多いのは、いわゆるアンチが多いからだろうと推測できますが、amazarashiの場合はよく分からない。これまでは、誰かが勝手に歌をアップして、それを耳の早い数少ないリスナーが見つけて聴くというパターンであり、そしてその結果は概ねよい評価だったと思われますが、今回初めて所属事務所が大々的にアップした途端、否定的な評価が増えた。

ぼくは、秋田ひろむ氏の歌は素晴らしいと思う。でも、ひょっとすると多くの人はそう思わないのかもしれない。確かに声や歌い方には特徴がある。ぼくにはそれがとても心地いいのだけれども、そう感じない人の方が多いのだろうか。歌詞もまた、反感を買うことがこれからもっと増えてゆくのだろうか。ぼくは秋田氏の歌を聴いていると、懸命に生きようとする人間の力強い姿が見えてくるし、その切実で篤実な歌い方や歌詞に胸が熱くなるのだけども。

評価されないということは、苦しい。ぼくにとっては最高のバンドなのに、「世間」は評価してくれない。こんなに夢中になって、こんなに熱心に聴いて、こんなに胸を打たれた音楽はぼくにとっては初めてだったのだけど、たくさんの人が「こんなもの」と言う。ぼくは、自分の感性が標準から大きくずれているとは思っていない。むしろ、標準すぎると思っているくらい。それなのに、ぼくが「いい」と思ったものが、他の人たちからは「だめ」と否定される。悲しい。悔しい。間違ってる、と激しく思う。なぜこのバンドの素晴らしさが理解されないの?ぼくは、ぼく自身が理解されなかったみたいに、悄然とする。

ドストエフスキーだって、誰からも評価されたわけじゃない。それは承知しています。でも、「ぼくはぼくが理解されないこと」に、何か精神的な吐き気を催すのです。

ああ、『プロコフィエフ短編集』の感想を書くつもりだったのに。結局、本題は最後に少しだけ。
「紫外線の気まぐれ」という作品が一番おもしろかったです。アメリカの石油王とエジプトの王との時空を超えた対話で物語は進みますが、語学ができない者にとっては笑える箇所が随所にあり、個人的にツボでした。

収録作はいずれも傑作ではないのですが、まあまあいける感じ。ちなみにプロコフィエフというのは「あのプロコフィエフ」本人でして、作曲の傍ら小説も書いていたんです。ちなみに日本にも来たことがあって、その「日本渡航記」が本書に収録されています。日本がけっこう下に見られているところに時代を感じます。


そういえば(話は元に戻ります)、ぼくが本当に好きなものは、昔からメジャーで大ヒットするような類の作品ではなかった。『耳をすませば』、新海誠、amazarashi・・・。そして今ふとあることに気が付く。これらと匹敵するほどに好きだと言える小説とは出会っていないかもしれない、と。