Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

湯河原での出来事(2)

2008-08-31 03:06:52 | お出かけ
二日目
朝の目覚めは悪かった。普段に比べて睡眠時間が短いせいでしょう。
朝食は夕食に比べて少なめ。前日の夕食は、多すぎてせっかくの天ぷらをほとんど食べることができませんでした。
さて、この日は天気予報では3時から雨で、それまでは曇りとのこと。翌日は曇りと雨マーク。本当なら、翌日の三日目に海へ行こうと計画を立てていたのですが、その日の天気は雨かも知れず、また少なくても今日は3時までなら大丈夫なようなので、今日海へ行くことにする。

バスで湯河原駅へ。そこから更にバスを乗り継ぎ、いざ海水浴場へ。ところが、どの停留所で降りたらよいのか分からず、バスの運転手さんに聞く。すると、「たくさんあるけど」、という気のない返事。どうやら海のそばに並ぶ多くの駅で降りれば、海水浴は可能らしい。3つか4つ停留所が近距離に並んでおり、とりあえず「海の家」という停留所で降りる。

海の家で水着に着替えて、浜辺へ。頭上では雲が晴れてぽっかりと青い空が見えている。気温も上がり、少し暑いくらいだ。でも、海の水は思ったより冷たい。初めは波打ち際で膝まで波を浴びる程度だったけど、少しずつ海の中へ入ってゆく。腰まで入ったら後は一気に頭まで。冷たい!

海の中には冷たいところと温かいところがあり、温度がまだらになっている。もっと全体が温かくなっていればいいのに、と思いながら、泳ぐ。海で泳ぐのは何年ぶりだろう。小額6年生のとき、遠泳で泳いで以来かもしれないな。ぼくの通っていた小学校は水泳に熱心で、最終学年で行う遠泳に向け、低学年の頃からよく授業で指導されていた。そのため、泳げない生徒はいなかった。ぼくは少しの間水泳スクールにも通っていたので、泳ぎは不得手ではなかったから水泳の授業は楽しかったけど、泳げない人にとっては大変だったと思う。

普通に泳げるのだけれど、海の、足の立たないところは正直怖い。最初はそこまで泳ぐつもりはなかったけど、いい気になって少し遠くまで平泳ぎで進んでゆく。それからすぐに引き返す。景色を楽しむ余裕はなかったなあ。

30分くらいして海から上がる。それから海の家で着替えて、昼食(定番の焼きそば)を取る。バスの来る時間までだいぶ暇があったので、しばらく海を見て過ごす。

帰り、宿のそばにある茶屋に寄った。そこでおしるこを食べる。家で作るおしるこは、あずきだらけで、ほとんどあんこを食べているようなものなんだけど、そこで食べたおしるこは、水のように滑らかだった。どうやるんだろう。不意に、雨が降ってくる。時は3時。天気予報どおりだ。珍しい。

その日の夕食にはしゃぶしゃぶが出た。豆乳しゃぶしゃぶ。しゃぶしゃぶと言えば、今年の初めに行った山形での米沢牛のしゃぶしゃぶが思い出される。お湯にしゃぶしゃぶして食べると、とろけるとろける。人生で最高のしゃぶしゃぶ、そして食事だった。今回のしゃぶしゃぶもおいしかったんだけど、山形のしゃぶしゃぶには及ばなかった。…なんかしゃぶしゃぶばっかり言ってますね。

前日に引き続き天ぷらが出たので、今度は優先してこれを食べる。衣がさくっとしてなかなか美味。デザートは黒ごまプリン(だっけ?)。初めて食べました。

三日目は明日書きます。

湯河原での出来事(1)

2008-08-30 02:48:20 | お出かけ
神奈川県の湯河原へ行ってきました。
実はここへは幼い頃に来たことがあるのですが、その記憶は全くなく、今回が初めてと言ってもいいくらいです。
28日(木)に帰ってきました。その日の内にブログを更新しようと思っていたのですが、家に帰ってから殺人的な頭痛に見舞われ、あまりの痛みに更新する余裕がありませんでした。今日はもう治りました。

一日目
踊り子号に乗っていざ湯河原へ。横浜を過ぎると景色に緑が多くなり、旅行している、という感覚が芽生えてきます。大船(おおふな)駅から観音像が見えるはずですが、どういうわけか見落としました。次第に人家が乏しくなり、列車は小田原を過ぎて湯河原に到着。

湯河原は小田原に比べてだいぶ小さな駅で、新幹線は停まりそうにありません。のどかな駅です。すぐに宿に向かうつもりだったので、寄り道せず、バス停へ。
バスは既に来ていて、乗り込みます。発車してから分かったのですが、少なくてもこの路線のバスは、バス停とバス停の間の距離が極端に短い。例えば「美術館前」という駅の一つ手前の停留所からでさえ、美術館はすぐ目の前に見えます。一部の停留所間の距離は100メートル程でしょうか。短すぎる…

目的地に到着。雨がいつの間にか降っていて、傘をさします。すぐ側には川が流れていて、ゴーゴーと音を立てています。宿は目と鼻の先。少し古臭い感じのホテルで、思ったよりも小さい。中に入ると、清潔感がありますが、やはりロビーは想像よりも狭い。売店がありますが、以前に泊まったことのある旅館に比べると、いかにも小さい。少しがっかりしましたが、ホテルの従業員に案内されて、部屋へ。

そこは横長の和室で、なかなか広い。畳の向こうの細長い空間にはテーブルと椅子が設置されています。その更に向こう、つまり正面には外の景色が広がり、雨とカーテンが景色をはっきりと見ることを妨げています。

とりあえずトイレの場所を確認。お風呂と一緒ではなく、窓の横にありました。なんとなく違和感があります。でもシャワー付きで、かなり広い空間に設置されていたので、そこは安心。ただトイレにしては広すぎるようで、落ち着かないような気もしました。

部屋に用意されていたお菓子を食べ、少しくつろいだ後、まだ雨の降る外に出て、すぐ近くにある滝を見に行きました。それは思ったよりも大きく、想像以上に迫力がありました。滝のよく見えるところから階段を上に歩いたところにあったお賽銭箱に5円玉を入れて、旅行の無事を祈ります。

ホテルに戻り、建物内の施設を見学。ゲームコーナー、卓球台、プール、温泉。
もう20年近く前のレーシングゲームがあり、懐かしくなりました。ちょっとやってみたいなあ。
プールへ行くには雨の降る屋上を少し歩かなくてはならず、他にもスリッパを脱がないといけなかったり、面倒だったので、別の機会に。

部屋に帰り、そろそろお風呂に入ろうということになり、温泉へ。なかなかお湯が出ないトラブルがありましたが、気持ちよかったです。露天風呂は水深が深く、座るとあっぷあっぷしそうになる程でした。

お風呂から戻り、部屋でテレビを見ようと番組表を見る。ブリーチがやっているのでそれを。原作の漫画はけっこう好きなのですが、アニメーションとしてはいまいち。

食事はまあまあ。普段に比べれば豪華ですが、驚くほど豪華、という程ではない。刺身の盛り合わせがあるのが海辺の町らしい。今夏、ほとんど食べていなかったそうめんがあるのが個人的にはうれしかったです。ただ、後の献立は忘れてしまいました。印象に残らなかったです。

食事は部屋でするのですが、その用意と片付けは仲居さんがしてくれます。なんとなくうるさい感じがしてしまいました。うるさい、と言うと迷惑そうですが、恥ずかしい、という感覚に近いかもしれません。ところで、ご飯は後にしますか、今もってきますか、と聞かれたけれど、他の人はご飯とおかずを一緒に食べないのだろうか?

食事の後はテレビを見て、就寝。

二日目と三日目のことは明日書きます。

北京オリンピック閉幕

2008-08-25 00:09:07 | テレビ
オリンピックが閉幕しましたね。
閉会式を全部見てしまいました。ただ、開会式での様々な「偽装」が明るみに出た後なので、少し冷ややかな目で見ていました。開会式は、単純に「すげー」とか思いながら見ていたのですが。

花火が上がれば、「どうせCGでしょ」
誰かが歌えば、「どうせ口パクでしょ」

こんな感じ。
一部の花火は、本当に音と映像がずれていたし、また有名なテノール歌手の歌声は、口の動きからして妙に不自然でした。といっても、これは先入観で見ていたからかもしれません。
しかしながら、人海戦術はさすが。
個々の人間の肉体の躍動感や集合となった人間の肉体のうねりは見事でした。

ところで、今回のオリンピックの目玉は、個人的には陸上短距離のボルトでした。100と200の世界新は圧巻でした。それとリレーも非常に速かった。足の運びとスピードが他の選手と明らかに違っていましたから。
でも他の短距離選手の足の動きも信じられないくらい速く、足も高く上がりますね。見ているだけで感動があります。

また、水泳のフェルプスは超人ですね。日本では、北島が連覇で二冠になったことを喜んでいますが、フェルプスは8冠(!)ですからね。しかも前回大会は6冠。すごすぎます。
陸上では10種競技なんていうものがありますが、多くの種目を一人でこなすのはかなりの運動能力とセンスが必要であることは、素人でも分かります。まさに選ばれた者にしかできないのでしょう。

ぼくも中学時代に陸上をやっていたので、基本的に走ることは好きですが、今考えると平凡な選手でしたね。確かに学校では走るのは速い方でしたし、跳躍も得意でした。でも、ぼくの学校のあった区域全体から見れば、ぼくくらいの選手はたくさんいたはずだし、全国レベルで考えれば、それこそ腐るほどいたのです。
小学校のときは、リレーでアンカーを任せられて、学校で1、2番の速さでしたが、他の小学校にはもっと速い奴がいて、井の中の蛙だったな、と思い知らされたことを今でも覚えています。

ぼくはもっと速く走りたかったし、もっと遠くへ跳びたかった。
でもその願いは叶いませんでした。
オリンピックに出場した選手というのは、その願いを叶えた人たちなんですよね。ぼくが果たせなかった夢を、果たしてしまった人。すごいなー。

ぼくはぼくの役目を果たすだけなのでしょう。でも、その役目がいまだ見つからない…
オリンピック選手は、やっぱりうらやましいなあ。

来週、神奈川へ

2008-08-24 00:37:28 | お出かけ
来週(日付が変わったのでもう今週か)、神奈川へ旅行してきます。

近いので物足りないような気もするのですが、あんまり遠いと交通費もかかるし、まあしょうがないなと。

ただ残念なのは、関東地方はここのところ急激に気温が下がり、天気も思わしくなく、海水浴ができるかどうか分からないことです。気温23度で雨模様だったらさすがに海には行けませんよね。今日じゃなくてよかったー。

でも、旅行しているときも気温は30度に届かないという予報が出ています。やっぱり30度ないと、晴れていなければ肌寒いのではないかと思います。裸だから。もともと海でたくさん泳ぐ予定はなく(クラゲもいるだろうし)、波打ち際で海を満喫できればそれでよいと思っていたのですが、それでもある程度は水をかぶるでしょうし、寒くないか少し不安です。

去年、金沢へ行ったのですが、その二日目がやはり雨に祟られて、かなり寒かったのを覚えています。おまけに夕食を食べたところが冷房ガンガンで、凍えそうでした。けれども翌日はからりと晴れて、気温は覚えていませんが、適度な暑さのよい日でした。兼六園を快適な気分で見て回ることができました。

今回の旅行期間中、晴れる日はないという予報が出ています。ただ天気予報は日によってころころ変わるし、また当たらないことも多いので、晴れに期待してしまいます。

暑くなり過ぎるとそれはそれで困りますが、少しは暑くないと夏らしくありません。晴れていて30度くらいがちょうどよいのではないかと思います。天気をサイコロに例えるなら、晴れの目が出ることを願っています。さてサイコロを振るのは誰だろう…

ところで、これまで旅行先では日本の文学者の記念館に何度か足を運んできましたが、今回は無理そうです。周辺にそういう場所がないのです。今までは、宮沢賢治(岩手)、泉鏡花(石川)、徳田秋聲(石川)、斎藤茂吉(山形)、松尾芭蕉(山形)などの記念館を訪れてきました。この中で一番充実していたのは宮沢賢治の記念館です。一番小さな施設だったのは泉鏡花です。

神奈川にどんな文人の記念館があるのか知りませんが、今回旅行する周辺には目ぼしいところはありませんでした。その代わり、星の王子さまミュージアムに行くことにしました。文学者の記念館のような硬さはなく、より一般向けのような気がしますが、サン=テグジュペリは好きですし、前からどんなところか気になっていたので、いい機会かもしれません。旅行から無事帰ってきたら、感想を書こうと思います。

というわけで、今日はこの辺で。ニーチェの入門書を少し読んでから寝ます。

ツァラトゥストラ

2008-08-23 03:09:05 | 文学
もう時間が遅いので少しだけ。

『ツァラトゥストラはこう言った』(岩波文庫)を再読。と言っても、下巻の一部分だけ。永遠回帰の問題が如実に描かれているところだけを読みました。

永遠回帰というのは、人間について言うと、端的に言えばもう一度同じ人生を始めることで、自分のそれまでの人生を肯定していなければならない。
一切が回帰する。この瞬間は既にあったことだし、そしてこれからもあること。自分も、他の全ての事物も、一切は行き、帰ってくる。

訳者によれば、ある一瞬のためにそれ以外の全ての苦悩を帳消しにして心から回帰を願うことができる、というニーチェの思想が永遠回帰の思想に深く関わっている。その一瞬のためならば、他の全ての人生は辛くても受け入れる、ということ。
『ツァラトゥストラ』でも同様のことは語られていて、嘆きに対しては「終わってくれ」と願うものだが、しかしよろこびは「断腸の悲しみ」よりも深く、それは永遠を欲しているから、嘆きも含めて一切に「戻ってきてくれ」と欲するのである。

ちょっと分かりにくいかな?要するに、苦悩よりも喜びの価値を重視して、人生を肯定する思想のようなのですが。よし、もう一度!と。もっとも、それほど単純化できる話ではないかもしれないけど、とにかくそういう肯定的な一面はある。

ところで、こういう思想は、その一瞬のために他の全ての人生は投げ出してもいい、という主張につながりますが、これはドストエフスキーの小説に同様の台詞がありましたね。
ところが、それがどの小説のどの部分だったか、思い出せない…5年くらい前だったら完全に記憶していたと思うんだけど。『悪霊』と『罪と罰』にあったような。ないような。『カラマーゾフ』だったかなあ。
誰か教えて~

200メートルで世界新&精神薬について

2008-08-21 00:49:27 | テレビ
ジャマイカのウサイン・ボルトが100メートルにつづき200メートルでも世界新で金メダルを獲得。しかも両方とも驚異的な記録。特に200メートルは、不滅といわれたマイケル・ジョンソンの19秒32を破っての達成。記録は19秒30。

100メートルは後半に両手を広げて明らかに減速していたけど、200メートルは最後まで全力疾走。100メートルも全力で駆け抜けていたらどこまで記録が伸びていたんだろう。ものすごい選手だ。

話は変わって。
新しい薬ジプレキサの副作用で、体全体が非常にだるい。この薬を服用して体のだるさや眠気を訴える人は大勢いるそうで、自分もその一人らしい。全身の脱力感が酷くて、昨日は一日中寝ていた。ただ、今日は昨日よりもよくなっていて、先生の話では、だんだんだるさに慣れてくるらしい。慣れるだけで、だるさはなくならないのか?と聞いたら、いや、なくなってくる、という返事。それならばいい。期待しよう。

それにしても、ルーランを飲むのを止めた途端、もう3年程ほとんど毎日苦しめられていた胸の重みが解消された。胸の重み、と書くと全然たいしたことなさそうだけど、これがとんでもなくつらい症状で、本当に地獄を見た。だるさだけなら横になれば落ち着くけれど、胸の重さは横になっても消えない。それにそわそわした感じが伴い、このそわそわ感と胸の重苦しさのダブルパンチは、ぼくに絶望を与えるのに十分だった。本当につらかった。ぼくはこれまでの人生で人を傷つけたことがたくさんあったかもしれないけど、それにしたって、その報いにしては巨大すぎるような気がしていた。ぼくはこれほどまでの苦しみを味わわなくてはいけないのか?そう何度も問うたものだ。

しかし、ルーランを止めた途端に、その症状が消え失せた。まだあと一週間くらい様子を見ないと分からないけど、このままであってほしい。ルーランという薬はそういう症状を発生させる薬ではないらしいのだけど、薬の効き目には個人差があるらしく、絶対にないとも言い切れないようだ。とにかく今はルーランを止めジプレキサを試し始めた時期で、体の調子がいつも通りじゃない。願わくは、胸の重みがこのまま消え、だるさも次第になくなっていってほしいものだ。

もしルーランが胸の重みの原因だったとしたら、ぼくはこれまでわざわざ具合悪くなりに病院へ通っていたことになる。医療費にもう10万円は費やした。これでは笑うに笑えないし、泣くに泣けない。神経衰弱の症状を改善するために病院へ行っている、と考えれば慰められるけど、その代わりにあの胸の重さを得ていたとしたら、その代償はあまりに大きい。早く、ルーランが原因だと気付くべきだった。3年間、自分も医者もそのことに気付かなかった。それは、医者からすれば、ルーランにはそういう副作用はもともとないからだし、自分からすれば、薬というものがそれほど劇的な効果を持つことを知らなかったからだ。体の具合を悪くする薬があるなんて。情報としては知っていたかもしれないけど、まさか自分がそういう薬を飲んでいるとは夢にも思わなかった。

初めは、幻聴だった。それがきっかけで病院へ行ったんだけど、幻聴は結局二回しか聞こえず、あとは胸の重みとの戦いになった。幻聴が聞こえた頃、精神的に非常にしんどかったので、それで脳の神経がすりきれていて、そういうことになったんではないかと思っている。状況さえ改善されれば、なんともない、と。しかし病院ではなぜか対人恐怖症と診断され、恐怖を和らげる薬ということでルーランを処方された。でもぼくは人に対しても社会に対しても人並み以上の恐怖を感じたことはほとんどないし、その診断には納得がいってなかった。

ところが今日、別の精神科を受診して、その先生から、ルーランというのは対人恐怖症の薬ではなく、幻聴などを抑えたりする、神経衰弱に効く薬だという説明を受けた。それなら納得がいく。二つの病院で薬に対する解釈が違っているが、後者の説明の方が、ぼくとしては安心できる。だって、もしルーランが対人恐怖症のための薬だったとしたら、ぼくは自覚もしていない病気のために薬を飲み、そのせいで具合が悪くなっていたことになるから。それではあんまりだと思う。わざわざ高いお金を払って具合を悪くしていたとは!馬鹿丸出し。でも、ルーランが神経衰弱のための薬だったとしたら、いちおうその症状は改善されたわけだし、たしかに割には合わないけど、まあ少しは効果があったということになる。

それにしても、ぼくは異常なのか、正常なのか。ルーランを飲んでいたときは、たしかに異常だった。ジプレキサを服用している今も、異常だろう。でも薬をやめたらどうだ?薬をやめたら、すっかり正常になるんではないのか?幻聴が聞こえたのはたまたまそのとき神経が擦り切れていたせいで、言うなれば転んで怪我をしていただけで、もうその傷口は癒えたのではないのか?薬をやめたらどうなるんだろう…

まだ何も分からない。とにかく今はジプレキサを飲んで経過を見ることにしよう。

妄想代理人

2008-08-19 02:30:20 | アニメーション
『妄想代理人』は異常だ。異常なほどおもしろい。今敏の代表作ではないでしょうか。
実は第一話だけ2004年に既に見ていたのですが(あるいはその翌年に)、それ以降の回は見ておらず、このたび思い切って全部見てしまいました。4年前に少し見ただけでも、これはおもしろい、と感じていたんですが、その予想は間違っていませんでした。

まず、平沢進によるオープニング音楽がよい。圧巻。絵も、皆笑っているんだけど、それがかえってちょっと無気味。

物語は、キャラクターグッズを考案する仕事に就いている鷺月子という若い女性(ほとんど中学生に見える!)が何者かに襲われるところから始まります。それは、黄金のローラーブレードを履き黄金のバットを持った小学生らしい。しかし、月子の狂言ではないか、という疑いも浮上。果たして「少年バット」は存在するのか、それとも月子の狂言なのか。そんなとき、新たな被害者が…!というところで第一話が終わります。

4話まではノンストップで物語が突き進みます。途中から、こういう展開!?って感じの話になってゆき、最後に謎が一つに収斂されてゆきます。

『妄想代理人』は凄い作品です。アニメ好きでなくとも、見ることをお勧めします。テレビアニメなのに、作画もよく描けていて、特に最終話は圧倒的。けっこう実験的な試みもなされていて、ガイナックスかよ、という演出も。
うつのみや理(さとる)が作画監督をしている(たしか)第8話だけ明らかに作画が違っていますが、いいんでしょうか。作品的な統一を第一に考えると、これはマイナス要素でしょう。でも、長いテレビアニメだと、こういう作画の不統一はよくあることです。でもこれほどまで違っているのは珍しいかも。だって、人物の顔が、それまでとはまるで別のアニメなんだもん。話自体、かなり変わった回ではあるんですが、こういうのはどうなんでしょう。劇場作品では許されないと思うのですが。ま、独自のタッチでなかなかよく描けてたと思いますけどね。

このアニメは、話をちょうど三つにぶったぎれるのですが、ぼくとしては、その前半が特におもしろかったです。とにかく先が気になって仕方ない。まさに息をつかせぬ展開。
後半は、現実と非現実との境目が曖昧になってゆく、という今敏的な物語に。少し『パプリカ』を思わせます。でも、『パプリカ』よりおもしろいと思います。

おもしろさ、という点だけで評価すると、『妄想代理人』はぼくがこれまで見てきたアニメーション作品の中で、間違いなくトップクラスに入ります。このおもしろさは異常なほどです。本当に多くの人に見てもらいたいですね。

ジブリ汗まみれ(8月17日)

2008-08-18 00:11:48 | アニメーション
毎日何かが起きるわけではないので、ブログに書くことが毎日あるわけでもありません。日によったら、何も書くことがない!なんて日もあるものです。今日はそんな日。さて、何を書こうか。まずは表題以外のことで、とりあえず思いついたことを。

木曜日、オリンピックの野球の試合開始が一時間ずれ込んだ関係で、その後の番組が大幅に遅れました。ぼくにも非常に影響がありました。
『ひだまりスケッチ』。
これの開始時間が、1時間35分遅れの午前3時。遅いよ!
でもこの日は入学式だったので、見てよかった。前回の放送の「大人になってしまったの~」以上の発言はなかったけれど(「私はまだなのに」の爆弾発言も)、ほのぼのとした回でした。恒例のお風呂シーンはやっぱりゆのっちバージョンが一番好きです。

で、今週の放送は、『西洋骨董洋菓子店』と時間がかぶってしまいます。仕方ない、『ひだまり』優先でいきます。

それでは、本日の「ジブリ汗まみれ」。
宮崎駿インタビューでした。『ジブリの森とポニョの海』という本に収録されている内容を流したらしい。この本、欲しいのですが、このまえ書店で探したところ見つかりませんでした。題名を忘れていたこともあり。ジャンルが分からなかったこともあり。近いうちにまた探そうと思います。
で、インタビューの内容でしたが、あまりたいしたことではなかったようです。ただ冒頭の、アニメーションを作るというのは、体の記憶を思い出すことなんだ、という宮崎駿の発言は印象深かったです。ある状況になったとき、体がどういう風に動くのか、ということは体が記憶しており、アニメーションを描いていると、そのことを自然と思い出してゆくのだそうです。それと、ストーリーが浮かばなくて、白い紙を前にして困っているとき、困りきっているとき、フタが開く、と言っていました。これは、『千と千尋』のときのインタビューでも同様のことを述べていました。頭のフタが開くそうです。どういうことなんだろう…

明日は久々に朝が早いので、今日はそろそろ寝ます。おやすみなさい。

フジテレビのオリンピック中継って

2008-08-16 03:31:28 | テレビ
今日はもうだいぶ遅いので簡潔に。

フジテレビで陸上競技を中継するというので、チャンネルをあわせたんだけど、なかなか中継しない。で、ようやく男子100メートルの予選を放送し始めたんだけど、日本人の出番が終わると、急に画面が切り替わってスタジオへ。そして、日本女子のバドミントンの試合へと転換。なんだこれ?
陸上を放送するんではなかったの。バドミントンをやるのはいいが、ちゃんと陸上を放送してからにしてくれ。予選とはいえ、パウエルもボルトもまだ走っていないというのに、中継を切り上げるのはどうかしている(いや、本当におかしいと思う)。日本人の試合だけが大切なのか。

更に、柔道や水泳も部分的に放送。陸上はどうしたの?世の中には陸上ファンという人もいるわけで、別に日本人が出場していなくても、陸上競技を見るのが好きなんですよ。世界のトップ選手が出るなら尚更。
それで、フジテレビは、その陸上を放送する、とはっきりテレビ欄に書いているわけだから、それを真に受けて、陸上だけをたっぷり放送してくれるんだな、と楽しみにして、チャンネルを合わせる人がいるのです。それが、なんだこれは、日本人の出ているレースしか放送しないじゃないか。NHKは全部やるぞ。

陸上以外の競技を中継だかなんだかした後で、パウエルとボルトのレースをオンエアしていたが、当然録画だった。せっかくライブでできたのに、なんでわざわざ録画を流す必要があるんだ。臨場感が台無し。

結局のところ、フジテレビは、日本人の出ている試合だけを全部細切れにして放送して、その競技の全体を放送するということをしない。これでは競技への理解が深まらないし、トップレベルが実感できないし、お好みの選手も発見できない。
陸上はNHKがやってほしいよ。

反復の画家・草間彌生展

2008-08-15 01:18:39 | お出かけ
大江戸線の勝どき駅のすぐそばで開催されている、草間彌生展に行ってきました。

大江戸線はとても深いし、電車も狭く圧迫感があって、はっきり言って嫌いなのですが、他に最寄り駅もないようなので、仕方なく大江戸線に乗りました。

大江戸線に乗り換える前の電車に、昨日ぼくがレビューを書いた『「宮崎アニメ」秘められたメッセージ』という本を読んでいる女性がいました。しかも読み始め。声をかけたくなっちゃいましたが、さすがに自粛。まあ、そりゃね。

さて、この展覧会に行った最大の理由は、ぼくが修士論文のテーマに「反復」を掲げているからなのですが、実際絵を見てみると、なるほど、モチーフが反復されています。人間の目のようなものや横顔が執拗に反復され、連続しています。目はほとんど細胞分裂を描いているようにも見えます。
昨今は反復をモチーフにした作品が色々な芸術分野で様々な作家によって制作されていますが、草間氏は、50年も前からこのモチーフに取り組んできたようです。したがって、近年の反復の流行に即応している、というわけではなさそうですが、結果的に現代の反復の作家の代表選手として捉えられるでしょう。

ちなみに、目の反復は、つげ義春の『ねじ式』や宮崎駿の『千と千尋の神隠し』にも登場しましたね。また、細胞分裂(というか細胞)を執拗に描く若いアニメーターも最近出現しています。

展覧会の全体的な感想ですが、この草間さんという人は、ちょっと異常だな、というのが正直なところ。別に悪い意味ではないのですが、細部へのこだわりと反復強迫にはほとんど病的なものが感じられます。こういうのを天才と呼ぶのでしょうか。

さて、話は変わりますが、オリンピックの野球が1時間ずれて始まったので、1時25分開始のはずだった「ひだまりスケッチ」も大幅に時間がずれてしまいそうです。非常に困りますね。何時から始まるのか、いまちょっと確認してこようかと思います。それではまた。

「宮崎アニメ」秘められたメッセージ

2008-08-14 01:11:15 | アニメーション
「ポニョ」が公開される前後、「ポニョ」のことをよく書いていた頃は、ブログへの訪問者数が400人を越える日もあり、なかなか盛況だったのですが、最近は、何を書いても(何も書かなくても)100人前後で安定しています。何も書かない日でも100人、ということは、定期的にここを訪れてくださる方がいるわけで、大変うれしいことです。けれども、何かを書いても100人というのは、一体どういうことなんでしょうか…。これはもう、定期的な読者はほとんどいなくて、過去の記事の検索によって毎日訪れる人で数が一定になっているということなんでしょうか?謎です。

さて、佐々木隆『「宮崎アニメ」秘められたメッセージ』(2005)という本を読みました。
アニメというものは実写と違い画面に現れるもの全てに意味がある、という立場から書かれた本です。それゆえ、宮崎アニメに見られる様々な事象を謎解きしていくという姿勢が生まれます。
そこまではまあ納得できなくもないのですが、少々極端すぎるきらいがあります。この本はいわば深読みの試みで、はっきり言って強引なところが少なくありません。悪く言えばこじつけがたくさんあります。それを、断定口調で述べていくので、妙な居心地の悪さと不信感が芽生えてしまいます。

たとえば、『となりのトトロ』のサツキは五月に由来する名前ですが、「五月には五月晴れと五月闇という明暗の対照的な言葉があります」と言って、サツキという名前に映画の前半と後半の心理上の明暗を象徴させてしまいます。そればかりか、五月には憲法記念日と子どもの日があることから、この映画では憲法も子どもも問われている、ということを述べます。

ここまでくると、それはちょっと行き過ぎだろう、と思うのが自然ではないでしょうか。「なんて深い洞察!」と思う方もいるかもしれませんが、こういう解釈が可能なら、なんでもあり、になってしまうと思うのです。結論として、(この映画は)「子どもの子どもとしての良さを守ろうとしている」と述べるところは特に反対しませんが、それを言うために子どもの日や憲法記念日を持ち出す必要があったのか、疑問に思います。

それと、ハウル論で気になったのは、この映画はハウルの成長の物語だと述べるくだりです。それは、ハウルが「ぼくはもう充分逃げた。ようやく守らなければならない者ができたんだ…きみだ…」と言うところから導き出されるのですが、ぼくは、この論理には反対しています。他にも同様のことを述べる人がいるのですが、このハウルの台詞で、ハウルが勇敢になった→成長した、と考えることは、宮崎アニメを見てきた人間からすると、ちょっとありえないと思うのです。なにも「ハウル」を宮崎アニメの歴史の中からしか捉えなければならない、と言っているわけではありません。「ハウル」をお終いまで見ただけでも、そう判断できます。「守らなければならない者ができたんだ」と言って戦いに赴くことは、戦争を肯定することです。戦争にはいかなる正義もないはずです。「守らなければならない者」があるからといって、人を殺してもよいものでしょうか。正当化されるのでしょうか。それをすることが人間の成長だと、この映画は訴えているのでしょうか。過去の宮崎アニメはそういうことを描いてきたでしょうか。否です。
実際、戦争に赴いたハウルはどうなってしまったかというと、ほとんど獣と化し、完全に無表情な顔をして、うずくまってしまったではありませんか。これがハウルの成長した姿だと、佐々木隆氏は言うのでしょうか?

ハウルは何物からも逃げていました。しかしソフィーはそれを全て受け入れたのです。だからハウルが戦争へと向かおうとしたときも、ハウルを止めようとしました。逃げているのがハウルなのだと。ハウルは外面だけのよい、実際は情けない男かもしれませんが、でも、ソフィーはそんなハウルを温かく見守ります。この映画は、ソフィーのとてつもなく大きな友愛の物語でもあると思っています。そしてハウルはハウルで、そのソフィーを小さい頃から待っていた…。
「ハウル」という映画はよく分からない、という感想を耳にすることは多いですけれど、ツボにはまったら、とんでもなく感動できる映画です。とはいえ、ちょっと脱線しすぎたかな…

話を戻します。この本には、興味深い指摘もありました。その代表的なのが、ナウシカとクシャナのアナグラム。Nausicaaという文字を組み替えれば、Cusianaaになるというのです。なんと!ナウシカとクシャナが表裏一体の関係にあることを示す、非常によい事例でしょう。偶然かもしれませんが、こういう発見はおもしろいですね。

それと、最後にもう一つ批判しますが、全てのものに意味があるとして、全てのものに意味を見出す行為は、果たして有効なのでしょうか。分からないものを分からないままにしておくことが大事なときもあるのではないかと、最近は考えています。全てを説明すると、世界は嘘臭く、ちっぽけなものになってしまう気がします。秘密を秘密のまま描き出している映画があったとしたら、その秘密をわれわれの言葉で説明しようとするのではなく、やはり秘密として受け止めることが必要になるときもある、と思います。いつの日か、言葉を超えた、ある感覚で世界を理解することができたらいいな。

広島国際アニメーションフェスティバル

2008-08-13 00:44:10 | アニメーション
広島で山村浩二の『カフカ 田舎医者』がグランプリを取ったそうです。今年のメディア芸術祭で見ましたが、非常に素晴らしい出来でした。あれなら確かにグランプリに相当します。なお、アヌシーで最高賞を取った加藤久仁生の『つみきのいえ』も、主要賞を受賞。よろこばしいことですね。こちらは未見なので、機会があればすぐにでも見てみたいものです。

8月12日の朝日新聞朝刊に『スカイ・クロラ』評が載っていました。公開中ということもあってか、それほど内容に踏み込んだ記述はありませんでしたが、好意的な評価でした。実際、批判するべき箇所はあまり見当たりません。

自分の話。
先週は比較的体調がよかったのですが、今週に入ってから急に具合を悪くしています。といっても、今晩は大丈夫なのですが。昼間は大変調子が悪く、ずっと寝ていました。胸がぐ~っと重くなって、体が非常にだるくなります。かなり苦しいです。もういい加減、こんな症状からはおさらばしたいものです。通院していますが、いくらこの症状を訴えても、改善してくれるような薬を処方してくれません。ちゃんと伝わっているのかと、心配になります。気になるのは、食後の薬を飲んでから30分後くらいにだいたい決まって具合が悪くなっていることです。薬の副作用の所為じゃないか、と勘繰りたくもなります。

ひょっとすると、本当は体は正常なのに、薬のせいでこんなことになっているのかも…と考えると、やりきれなくなります。一度、薬を全部やめて、様子を見てみたいものです。

修士論文を書かなくてはいけないのですが、構想が固まりません。100枚くらいならどうにかなると思いますが、200枚となると、厳しい。参考文献が欧文になってしまうので、読み込むことができない、というのが一番の悩みです。ちんたらやっていたら、読んでいるだけで半年が過ぎてしまいかねません。どうしよう…。そろそろ本気で考えないといけませんね。

ちょっと気晴らしに小説でも読んで、それから考えることにしようかなあ。でもそんなことをしていると、焦るばかりという気もしますが。

なんか、話題がアニメーションからだいぶ離れてしまいました。たまにはこんな日があってもいいかな。

雪、無音、窓辺にて。

2008-08-12 02:57:26 | アニメーション
ブログを始めた当初は文学の話題が先行していたような気がするのだけれど、今となってはほぼ全てアニメーション。これでいいのか、と思い悩む日々。

さて、涼宮ハルヒの激奏の中で、双璧をなすのは何と言っても「God kows…」と「雪、無音、窓辺にて。」だと思われます。どちらも好きなんだけれど、ライブを見てしまうと、後者の方が好きになります。茅原実里のあの振り付けがものすごくいいです。出だしを間違えるところも。

「この銀河を統括する情報統合思念体によってつくられた対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェース、それがわたし。」

「最初からわたししかいない。情報の伝達に齟齬が発生するかもしれない。でも、聞いて。それがわたしがここにいる理由。あなたがここにいる理由。…信じて。」

それにしても、あの振り付けは独特で、本当に好き。ハレ晴れダンスよりも好きです。

ハルヒは色々と楽しめる要素があっていいですね。とても現代的だし。時間軸をあえてばらばらに崩した演出がとにかく気に入っています。文学では、コルタサルが『石蹴り遊び』という小説を書いているのですが、それに通じるものがあります。まっすぐなストーリー(リニアなストーリー)を嫌うのはポストモダンの特徴と言われますが、やはりその亜種として分類される可能性のある作品でしょう。


ところで、最近寝る時間がかなり遅くなっています。今日も既に午前3時。起きるのが12時頃なので、睡眠時間は取れているのですが、健康上問題ないかな、とちょっと心配。夜の方が調子いいのでつい夜更かししてしまうのです。でもその調子いい時間をこうしてパソコンに費やしているのですから、もったいない気がします。

そうだ、いま思い出した。以前、近いうちに千と千尋について書くと予告しておいたのでした。今度こそ、近いうちに書こうと思います。それでは。

ジブリ汗まみれ

2008-08-11 01:03:54 | アニメーション
テレビの話題から。
8月9日の午後に放映されたポニョ特番。期待して見たぼくが悪かった…
ひどい内容でした。少しはポニョの裏情報でも聞けるのかと思いきや、くらげの話とか、くらげの話とか、くらげの話。

オリンピックの話。
オリンピック競技には、ルールをよく知らないものもたくさんあるので(ときには存在さえ)、そういうよく知らないものを見るのが楽しかったりします。長野五輪でカーリングを見たとき、こんなのがあるんだ、けっこうおもしろいぞ、と思った記憶があります。
でも、テレビで中継されるのは注目の日本人が出場している競技が多いようですね。そういうのは既に知っているので、あんまりうれしくないです。知っているものでも、個人的には、競輪が見たかったですね。ロードレースみたいなのをやっていたそうです。競輪って迫力があってけっこうおもしろいんですよね。
そういえば、柔道の内柴選手が金メダルでしたね。あの人、ぴょんぴょん飛び跳ねていて、見ていて楽しかったです。

さて、本題。8月10日の「ジブリ汗まみれ」には、押井守が出演。ポニョ論や宮崎駿論を展開。
ポニョは、宮崎駿の妄想が炸裂した作品で、あれは映画じゃない、と言っていました。ぼくもあれは映画とは呼べない、ということをこのブログでも何度か言ってきたので、意見が一致しました。また、妄想の炸裂というのは、個々のシーンの重視(整合性の軽視)ということにつながるようなので、この考えも一致。もっと話を押し進めるならば、ポニョに限らず後期宮崎駿の作品にはそのような傾向が見られると思っています。特に千と千尋以降。
リサがなぜ家に戻りたがるのか分からない、とも言っていました。映画的な必然性がない、と。確かにそうです。この部分は、ハウルにおける城の破壊と再建に似ていると思いました。あれも、理屈で考えると、なぜソフィーが城を壊したのかが分からないのです。
確かに疑問に感じる箇所ですね、両方とも。後期宮崎駿の作品は、理屈で見ようとすると、分からない部分が多いのです。ただ、そのときだけの一瞬の登場人物の感情によりそって見てみると、理解できてしまうこともあります。本当に理屈ではないのですが。

しかし、ポニョがそれ以前の後期作品と違っているのは、そういう理屈では分からない部分が、映画の前半に出てきてしまっていることだと思います。ハウルでは後半に集中していましたから、よく分からなくなってきた、というふうに多くの人が思ったのではないでしょうか。それと同時に、後半を理屈抜きの感性で見てしまった人にとって、ハウルはえもいわれぬすばらしい作品と映ったのではないでしょうか。

ポニョが映画としては成立していないのに、なぜ見ていられるかというと、押井守も言うように、表現がすばらしいから、ということになると思います。このブログでも何度も繰り返しているように、とにかくポニョはアニメーション表現が図抜けています。そこを評価してもらいたいですね。

押井守は、スカイ・クロラで空中戦にCGを用いた根本的な理由は、それを手描きで描ける人がいないから、と言っていました。いないのなら、CGに可能性を見出すしかない、ということを述べていました。若いアニメーターが育っていない、ということは前から言われていましたが、やっぱり深刻なんですね。もう皆40代後半だと。抜群に上手い人が育っていないようです。

宮崎駿は高畑勲の呪縛下にあった、ということを鈴木敏夫が述べていました。押井守によれば、ポニョはその高畑勲や鈴木敏夫の干渉が全くない、宮崎駿100%の作品だから、映画として成立していない、と。今までは干渉があったから映画としての風貌を保っていられたんですね。高畑勲は構造の人だから、宮崎駿は高畑勲から抜け出すために構造からも抜け出そうとした、というのは鈴木敏夫の弁。それに対し押井守は、それはおかしい、自前の構造を持てばいいだけの話じゃないか、と。
いかに高畑勲から遠くに行くことができるか、というのが宮崎駿の命題だったようです。いわば、父殺しを行えるかどうか。

とてもおもしろ対談でした。

オリンピックの開会式

2008-08-09 03:11:43 | テレビ
テレビで見ました。
長いですね。途中で見るのをやめてしまいました。一時間と少しセレモニーをやって、あとは各国の入場行進でした。

セレモニーは凄かったと思います。技術が凄いですね。演出面も、ああいうのを考えるのは誰なんだろう、と思っていたら、映画監督だそうですね。日本だったら誰が担当するんでしょうか。
最初の太鼓とか太極拳(?)とか、一糸乱れずに動いていて、ああいうのは社会主義国家だなあ、と妙なところで感心。
歌を歌った9歳の少女は非常に可愛かったです。「ポニョ」の大橋のぞみ以上。
ピアノを弾いていた(?)少女は、なんだかぼけ~っとしているように見えました。
人が空中を飛ぶシーンは、青天井なのにどこから吊っているのかなあ、と気になりました。
あと、全体的に綺麗でしたね。
紙を発明したのは中国なんですね。恥かしいことですが、知りませんでした。反省。

各国の入場行進はあまりにも長かったですね。さすがに飽きたので、見るのをやめました。でも、国の名前を中国語の発音で聞いていると、とてもおもしろかったです。それにしても色々な国があるんだなあ。

聖火は誰が灯したんでしょうかね。どうせ知らない人でしょうけど。ま、明日のニュースで丸分かり。