Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

しかしそれはおれではないが

2009-12-31 17:35:52 | Weblog
少し思ったことを。

ボルトの世界新記録についてタイソン・ゲイは、「人間がこんなに速く走れることが分かった。残念ながらそれはおれではなかったが」という意味のことを述べたそうですが、この言葉にぼくは大変共感します。共感、と書くと、なるほど少しおかしいかもしれません。ですけれども、これと似たような発想はぼくにもあります。

世界には真理がある。あるいは、ほとんどの人間が到達できない高みというものがある。
多くの人間はその真理を究明したいと考えているし、より高いところへ昇りたいと思っています。ところが、それは誰にでもできることじゃない。そういうとき、悲しくなるわけです。自分はこの世に生を受けて、何もすることができない。何も成すことができない。いやそもそも、何かを成すことなど可能なのだろうか?そんなとき、誰かが、それは一人でもいい、とにかく自分以外の誰かが、いまだ見たこともなかったような頂きに到達する。ここに山があったぞ!こっちの方が高いぞ!ぼくはそれを見て、引き裂かれた気持ちになるのです。もちろん、うれしい。このような高みがあったのか、人生は、世界は、まだまだ捨てたものじゃないな、このようなことが可能なのだから。しかし一方で、つらい。というのは、それが自分ではなかったから。

「選ばれた人間」としか形容しようのない人間がいます。その他の人間は、恐らくこの世で偉大なことを成し遂げることができない。偉大なる幸福を得ることもない。しかしながら、巨人の到達した高みを見て、世界は生きるに値するのだ、と感じ取ることはできます。それがたとえささやかすぎる幸福であったとしても、ぼくはその巨大な足跡を見て、世界の豊かさを想像します。でも、それが自分でないことが残念であるという気持ちは根強く残ります。

巨人たちは、ぼくらのつつましい業績から思いがけない原石を発見して、それをダイヤモンドへと磨きあげるでしょう。ぼくにはそれくらいの手助けしかできない。自分が巨人でなくて残念だ・・・という怨恨感情を抱きながら、やるせない時を送るのは苦痛です。

世界の美を我が手でつかみ取る人がいる。その光景を羨望して世界の美を想像する人たちがいる。後者を肯定的に語る思想をぼくは持ちたい。自分でなくて残念だ、と思うのではなくて。

一年の最後の日にこんなことを書いてしまい、自分でもいかがなものか、と思いますが、なかなか悩みの種はつきません。来年は、「肯定する思想」に出会えたらいいな。ということで(?)、皆様よいお年を。

あなたまかせのお話

2009-12-30 01:09:58 | 文学
レーモン・クノー『あなたまかせのお話』を読了。
それにしても最近の読書にはまるで脈絡がない・・・

この本にはクノーのほぼ全ての短編と、クノーと文芸ジャーナリストとの対談が収められています。ページ数的には2:1。ただし、対談の方が活字が小さくびっしり詰まっているので、分量的には同等か、ひょっとすると対談の方が比重が大きいかも。逆に言えば、短編の数はそれほど少ない。クノーってあまり短編は書かなかったんですね。なんだかなあ、というものから、おもしろい、というやつまで様々でしたが、とりあえず幾つかの作品について。

「ささやかな名声」は、異端的思想の学者(文学的狂人と言うらしい)の名声への執着の物語。取り立てて言うほどの作品ではないかもしれませんが、本の順番的に、ようやくはっきりと筋のある小説に出会えたと思ってかなりおもしろく読むことができました。ユーモアもあって、いい。話の途中で、どうやらこの人物は既に死んでいるようだぞ、と察知することが可能になる仕掛けも、興味深いですね。だから最後の種明かし(?)は不要という意見もあるでしょう。すなわち最後の一文は余計ではないか、ということですが、こういう問題は難しいですね。個人的にはなくてもよかったですね。

「パニック」と「何某という名の若きフランス人 Ⅰ、Ⅱ」は非常にハルムス的な短編。時代も1930年代に書かれたもの。「パニック」は長期滞在するための部屋を探す男が、結局すぐに出て行ってしまう、というだけの一見他愛もない話。どうやらこの男は何かを感じ取っているらしいのですが、それが何なのかは明示されません。「何某」においては、登場人物の動機づけが欠如しています。筋もはっきりとせず、つかみどころがない。物語の結末がほとんど放棄されており、葛藤とその後の解決というものも存在しません。心理的動機づけの消去、原因・結果の破綻、一貫した筋の崩壊、といった特徴がこの短編の主要なそれとなっています。それは20世紀前半の小説には恐らくしばしば見られるものであり、1920年代から30年代のヨーロッパ文学を横断的に研究することができれば、より多くの例が見つかるでしょう。

「森のはずれで」に登場する喋る犬、といったキャラクターや、そういう超自然的な事象が少しの不思議もなく存在している、といった状態がたぶんこの小説の大きな魅力なんだろうと思います(解説にもそんなことが書かれています)。日常への非日常の介入、そしてそれへの反応、といった事柄がクノーの文学のテーマだったとすれば、「森のはずれで」はまさしくそれを体現した物語であると言えます。ただ、このような手法は当然妖精物語と類縁性があり、もっと言えば幻想文学と関わりがあります。そのような範疇で捉えるならば、クノーの文学はありきたりのものになってしまう気がします。日常と非日常、という区分は、極めて有効ではありますが、しかしながら些か物事を図式化しすぎるきらいもあります。このことは、「日常/非日常」の現象レベルにおいても言語レベルにおいても同様でしょう。現象レベルというのは、「森のはずれで」における喋る犬、といった出来事やキャラクターの言動、つまりは言葉で書かれた現象そのもののレベルのことで、言語レベルというのは、その言葉のレベルです。日常的な言葉と非日常的(通常用いられない言葉・語法)な言葉があるとされます。

しかし、非日常的な言葉を用いて現実感覚を刷新する、という文学理論のあり方に、ぼくはどうしても賛同できかねる、ということが最近になって分かりました。その概念自体は興味深いのですが、現実認識を刷新するためには、日常的な言語を用いても可能ではないか、と思うからです。きのうのダールの短編で、「運がいい」という言葉がありましたが、これは非常に俗っぽい言い方です。ところが、このような手垢にまみれた言葉が、ダールの小説では思いがけない光を放散しているのです。一つの言葉が輝くために、ストーリーが準備され、その言葉の置かれる場所が勘案されます。あくまでも日常と非日常という二分法にこだわるならば、「運がいい」という日常的な言葉は、日常的な使用法でありながらも、しかし非日常的な認識を読者に植え付けてしまいます。そしてそちらの方が、多くの読者の共感を得られるだろうと思うのです。というのは、非日常的な言葉や語法で書かれた小説を読むのは、大抵ずいぶん骨の折れる作業ですからね。

現象レベルで言っても、恐らく日常的な出来事が非日常的な出来事に感覚されうることは大いにあるでしょう。「パニック」などはその好個の例かもしれません。そちらの方が当然より密やかで、そして巧みな小説であることでしょう。「日常」と「非日常」という区分があって、小説がそのどちらかに分類されるというよりは、両者は容易に交代しうるものであって、その区別は便宜的に使用されるにすぎません。確かに、両者が明確に分かたれている場合、あるいははっきりと分かるように共存している場合があります。その一方で、日常の仮面を被った非日常、という場合があります。後者の場合は、ひょっとするとトドロフの「ためらい」の思考に接近しているのではないか、と感じています。「森のはずれで」は前者の場合ですね。だからこそありきたりの小説に見えるのでしょう。

ただ、この小説には他にも興味深いモチーフがたくさんあるため、単なる「よくある小説」には堕していません。

クノーの対談についても書くはずが、もう長くなりすぎましたね・・・

飛行士たちの話

2009-12-29 01:14:44 | 文学
ロアルド・ダール『飛行士たちの話』を読みました。
以前に一度読んだことがあるようなないような・・・まあ覚えてないから同じことなんですけどね。

ダールは異色作家と呼ばれていますが、ぼくが彼のことを知ったのは実は宮崎駿を通してで(正確には宮崎駿を論じる叶精二を通して)、出会い方がたぶん他の人とはちょっと違います。宮崎駿はダールを愛読していたそうで、というのもダールは飛行機乗りだったからでしょう。宮崎駿が戦闘機とかに興味があるのは周知のことですよね。

ダールはパイロットであり、パイロットとして戦争に参加した体験が、『飛行士たちの話』として小説化されています。この本は幾つかの短編から成りますが、いずれもぼくの思い描いていたダール作品とは違いました。ぼくはダールというとけっこうユーモラスで読んで楽しい作家というイメージがあったのですが、この短編集はわりとシリアスで、しかも当然飛行士の話ばかりなので、やや辟易。解説には、ダールの作品には傑作は少ない、ということが書かれていて、妙に納得してしまう始末。

その中から、これはおもしろい、と思ったものを二作。
まずは「ある老人の死」。
本書に収録されている短編の多くでは、夢と現の境が曖昧になるシーンが描かれます。例えば、きりもみしながら落ちてゆく飛行機から脱出して、意識を失い、いつの間にかベッドの上に寝ていた、というような出来事を、このように整然とではなく、一つ一つの事件の境界線をぼかしながら、ほとんど一緒くたにして描いています。「ある老人の死」でもその手法は活かされていて、語り手の男の生と死が、付かず離れず、といったふうに描写されます。男は死んでしまいますが、しかしそれがまるで生きているかのような男の視線から語られるところにこの小説の凄みと不思議があります。ある意味で非常に幻想的な、印象的な一作となりました。

「彼らは年をとらない」は、ひょっとするとウィキペディアに載っているかも。宮崎駿『紅の豚』の。同じ光景が現れます。『紅の豚』で、ポルコが戦闘の後に真っ白な雲海の上に飛行機を滑らせ、はるか上空にどこまでも続く飛行機の列を見たシーンは、たぶん多くの観客の記憶に残っていると思います。その出来事があって、ポルコは豚になってしまうのですが、このエピソードは「彼らは年をとらない」から取られています。もちろん「原作」では飛行士は豚にはなりませんが、同じく真っ白い雲海の上に飛行機を滑らせ、無数の飛行機の列を見ます。全く同じシーンです。

この点でも興味深い小説なのですが、ぼくはこの小説の終わり方が好きなのです。この幻を見たフィン(『紅の豚』のフィオと似ていますね)はやがて死んでしまうのですが、幻はまもなく死ぬ人に訪れる予兆だったのでしょうか。それとも、この幻を見たことで、フィンは死に取り付かれてしまったのでしょうか。幻視体験を経て、フィンは墜落して地面に接触することを望み、それを羨ましいと感じるようになります。「運のいいやつだ」。フィンは仲間が死ぬのを見て、こう呟きます。死に魅入られ、死に取り込まれてしまうフィン。『紅の豚』では、死線をかろうじて潜り抜けたものの、生死の境を漂うポルコの見た幻、という臨死体験の意味合いが強かったように思いますが(お前はまだ死んではいけない)、「彼らは年をとらない」は、それとは逆に、死が自ら飛行機乗りを手招きしているような、そんな空恐ろしさを感じました。極限状態で戦い続ける者は、あまりにも死に接近しすぎてしまったのでしょうか。死は眩い光となり、男を誘惑し招き寄せ、抱きとめようとします。もはやフィンにとって、死ぬことは「運のいい」ことでしかなく、幻を見た時点で既に彼はこの世の人ではなくなっていたのかもしれません。

この二作品が、読んでよかった、と思わせる逸品でありました。確かに、こういう作品があるから、読むのをやめられないんですよね。

極短小説

2009-12-27 00:36:08 | 文学
『極短小説』を読みました。
英語で55語で書かれた超短編小説のアンソロジーです。
これらは新聞が応募したコンテスト入選作であるため、基本的には無名の人々の投稿が多くなっているようです。中には有名な人も混ざっていますが。
157編収められていますが、中でもおもしろいと思ったもののタイトルを以下に。

「夜は更けゆく」31ページ
「ハリーの愛」109ページ
「ギター」143ページ
「夜の驚き」175ページ
「一代記」290ページ
「これまでのいきさつ」346ページ

これだけではないですが、とりあえず。
最初の「夜は更けゆく」は、全て単語から構成された実験的とも言える一編。名詞や形容詞をずらりと並べ、それだけで意味を醸し出しています。つまり、単語と単語をつなぐ接続詞はおろか、主語と述語さえも全て取っ払ってしまったのです。もはやセンテンスでさえない。ここまで切り詰めることによって、逆説的に巨大な意味が背後に立ち現れてきます。

「ハリーの愛」と「夜の驚き」は同一の趣向の作品で、意外なオチで笑える、というパターン。そもそもごくごく短い小説にはこの「オチ」すなわち意外な結末が備わっている場合が多いようで、それこそがキーであると考える人もいるようです。結末でいかに読者を裏切るか、そこに神経を集中させ、作者は知恵を絞ります。ですが、結末を放棄してしまう超短編小説の書き手というものもこの世には存在していて、『極短小説』には収められていませんけれども、そんな作家もいるにはいるのです。とはいうものの、結末の放棄も結局のところ、読者の期待を裏切る効果を上げているのですが。

「ギター」は非常によくできた作品。だとぼくは思いました。その悲惨な結末も見事ではありますが、人間がギターの中に入り込んでしまうという些か幻想的でさえある内容に新鮮な驚きを感じました。乱歩の「人間椅子」のような作品もありますが、そういう不気味さはなく、非常にからっとしていて、人間の消失が騙されたようにあっけなく実現してしまいます。単なる意外な結末で終わらない、剰余部分の豊かな滋味深い傑作です。

「一代記」は、たったの55語で人間の一生を語っている点がおもしろい。まあ思い付きやすいテーマではありますが、けっこう滑稽な会話から成り立っているので、愉快です。ものすごいハイスピードの人生。
「これまでのいきさつ」は、更にスピードを加速させ、地球の歴史をたったの55語で語ってしまいます。これもやはり滑稽で、愉快。
パテルの『ビーズ・ゲーム』も短い時間の中で進化の過程を物語るアニメーションですが、「これまでのいきさつ」はこの作品を想起させます。ただ、パテルの方が断然優れている・・・

傑作もそうでないのもありますが、暇つぶしとしても楽しめるアンソロジーです。入手しやすいと思うので、ぱっと手にとってぱっと読んじゃって下さい。

これはクリスマスプレゼントだ

2009-12-24 23:49:14 | アニメーション
これはきっと、新海誠からのファンへのクリスマスプレゼントに違いない。

公式発表に先駆けて、新海誠が現在制作中の新作について少しだけ語りました。

http://www2.odn.ne.jp/~ccs50140/sayonara/index.html

少女が主人公で、冒険ものになるようだ!?

喪失の先にあるもの、か。
確かに新海誠はこれまで一貫して喪失を描いてきましたね。『ほしのこえ』では少年と少女が時空に引き裂かれてしまうし、『雲のむこう』ではいったん少年たちは少女を失い、そして取り戻した後も、結局はどうやらまた少女を失ってしまったようでした(最初に映される「現在」のヒロキの様子からそれと察せられる)。『秒速』ではもちろん少年と少女は離れ離れになります。少年は大きな喪失感を抱えたまま青年となります。

何かを伝えたい(けど伝えられない)という切実な気持ちを新海監督はこれまでテーマに選んできたようですが、今回の作品では、伝えられなかった後の出来事が語られるのでしょうか。「さよなら」を言うために、とありますが、喪失してしまった後にさえメッセージ(伝えたい)がありうることを描こうというのでしょうか。
いずれにしろ、「喪失」と並んで、(ディス)コミュニケーションの問題もやはり大きなテーマになりそうです。

ちょっと楽しげな作品になりそうな雰囲気が絵柄からは伝わってきますが、実際はどうなるのでしょう。これまではシリアスでしたけどね。そしてどこか異国の風景を思わせます。もしそうなら、新海監督にとっては大きな挑戦でしょうね。ああしかし、まだ実は何も分からない状況なんですよね。公式の制作発表の日を待つしかありません。

楽しみです。

外交的・其の弐

2009-12-24 00:18:12 | お出かけ
きのうのつづき。

そんなわけでして、今日、そのロシア人の方と会いました。
結局のところ総勢4人で浅草をぶらぶら。
男はぼく一人だったので、両手に花ですね。たぶん。

もんじゃとお好み焼きを食べたのですが、当然彼女たちは作り方を知らないので、ぼくが代わりに土手を作って、汁を流し込み・・・という作業を監督(?)しました。ほとんど自分でやってしまったので、ちょっとおせっかいかな、とも不安になりつつ、でも早くしないと!と思って。

でまあ、自分のロシア語の会話力っていうのは、初学者レベルだな、というのを改めて痛感。いいですか、改めて痛感です。何度も痛感しているのですが、また痛感してしまったのです。もういい加減、腰を据えて勉強しろよってことですね。周りの人はみんなできるのに、ぼくだけができないなんて、悲しすぎますよね。とりあえず聞き取れるようにならないことにはお話になりません。で、来週からマジで勉強を開始するつもりです。進学するとかしないとか、もはや関係ありません。プライドのために、誇りのために、矜持のために・・・全部同じですけど、とにかく自分のために頑張ります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ぼくは今、漫画の最初の頁にいる主人公だ。
落ちこぼれの劣等生。
何をやらせても中途半端。
やる気もなければ夢も描けない。
だからこそ、彼はそこから始められる。
ああそうか、だからこそ、ぼくは始められる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

浅草の遊覧船に初めて乗りました。景色がとってもきれいでしたよ。
空が赤から群青へのグラデーションを見せていて、さわやかに晴れ渡っていました。
風がちょっと冷たかったですけどね。美に対する対価、なのかも。

外交的

2009-12-22 23:21:31 | Weblog
最近ぼくは外交的です。
ブログをきっかけにお近づきになった方と実際にお会いしたり、久々に友人と会ったり。
今日は、2年前まで授業が一緒だった友達からロシアの話を聞かせてもらいに大学まで行ってきました。

で、ロシア人の友達を紹介してくれる、というので、ぼくは素直にうれしいわけです。もしその人と友達になれれば、ロシア語能力が向上するのではないかと思うから。あと、単純に異国の方と知り合いになるのはわくわくしますもんね。どうやらその紹介してくれるかもしれない人というのは、日本のアニメが好きらしくて、ぼくもアニメーション全般が好きなので、話が合うのではないかと考えています。といっても、いわゆるオタク系のはぼくは知識がないのですが、その人はどうやらジブリが好きらしいということで、だったら負けませんよ、というわけです。

日本語が話せるそうなので、その点もありがたいですね。

というわけで、最近のぼくはいささか外交的なのです。

鍋焼きうどん

2009-12-22 00:37:06 | お出かけ
鍋焼きうどん、食べました。

何かの記念に食べようと思っていたのですが、年末だし、論文も提出したし、ということで、食べてみました。

インスタントでなら食べたことはあるのですが、ちゃんとしたお店では初。
オーソドックスなのを選びましたが、ゆずの皮が入っていて、ほのかに香りが。なかなか美味でした。新宿にはうどん専門店というのがあって、そこで食べたのですが、他にはすき焼き風とか、チゲ風とか、色々あってかなり迷いました。次は肉がたくさん入っているのを食べてみたいですね。ぼくの選んだのには鶏肉が入っていて、それはなんだかとてもおいしくて、こんなに鶏肉というのは味が沁み込んで旨くなるものなのかあ、と正直驚きました。

で、ぼくが鍋焼きうどんにこだわる理由ですが(なぜ何かの記念が鍋焼きうどんなのか?)、『耳をすませば』で、雫が物語を書き上げた記念に西老人から鍋焼きうどんをごちそうになるからです。それだけです。

なぜ『耳をすませば』がそんなに好きなのか、ということは実はあまり人に話したことはない気がしますが、中学の頃の思い出と深く深く結びついているからなんですね。いつか誰かに話そう。

というわけで、鍋焼きうどんは大変おいしかったですよ。また友達とディナーでもしたいですな。

江戸川乱歩の不気味な話

2009-12-21 00:33:25 | 文学
河出文庫の『不気味な話1』を読了。江戸川乱歩の短編が収められています。既読作品もたくさんありましたが、それは飛ばして未読作品のみを読みました。

いずれも佳作揃い。さすがは乱歩です。甲乙つけがたくて、どれが一番か、とここで挙げるのは難しいほどです。その中から、ちょっと気になったものをピックアップします。

「目羅博士」。

この話が非常に気になりました。これが特に傑作だった、というわけではありません。ある作品にとても似ていたからです。エーベルスの「蜘蛛」。これにそっくりなのです。あまりにも似すぎていて、怖いくらいです。エーベルスの「蜘蛛」が何年に書かれたものか、知らないのですが、乱歩はこの作品を読んでいたに違いない、と言わざるを得ません。モチーフが完全に同じなのですよ。99パーセント乱歩は「蜘蛛」を知っていたはずですが、それを模倣している点で、この「目羅博士」の存在というものがかなり明確になってくるのではないか、とぼくは考えています。ふつう、このようなほとんど剽窃じみた模倣はタブーで、文学上の価値を減ずるものとみなされるのかもしれませんが、少なくともこの作品の場合は、実は模倣が妥当なのです。

「蜘蛛」にしろ「目羅博士」にしろ、ある部屋の一室で縊死が連続するという怪奇事件が起こります。それを究明しようとしたところ、どうやらそこには「模倣」が絡んでいたらしい、ということが分かります。「蜘蛛」では間違いなくこの「模倣」が最も重要なテーマで、これこそ首くくり事件の真相なのですが、それをあからさまに押し出しているわけではありません。エーベルスは、模倣というものの恐怖、模倣に元来備わっている根源的な恐怖を抉り出していますが、しかしそれを声高に語るわけではありません。それを代弁するのが乱歩なのです。乱歩は「目羅博士」の中で、青年に次のように言わせます。「まねというものの恐ろしさがおわかりですか。人間だって同じですよ。人間だって、まねしないではいられぬ、悲しい恐ろしい宿命を持って生まれているのですよ」(p.279)。

青年は鏡の恐怖について語り、合わせ鏡のようになったビルディングの一室で起きる縊死事件を物語ることになるのですが、その物語の鍵はまさしくその「まね」、すなわち模倣にあるのでした。部屋を借りた男たちは、模倣の魔力に捕われて首をくくってしまうのです。この作品は、「蜘蛛」よりもなお一層「模倣」を強調したものとなっており、非常に「模倣的な」作品です。しかしそれは、「蜘蛛」の鏡となっているという点でもやはり「模倣的」なのです。この二重の意味での「模倣」が「目羅博士」の根底を支えており、模倣的でありながらも、ここまで「模倣文学」とでも言うべきジャンルを体現してしまった点において、逆説的なオリジナリティ溢れる作品となっています。

無論、これはインターテクスチュアリティの一つの現れであり、「蜘蛛」という模倣文学が他の作品の模倣を呼び寄せてしまったとも言えるでしょう。幸か不幸か、ぼくはこのどちらの作品が真に歴史的に先行するものなのか知りません。けれども、二つとも「模倣」ということを第一に据える小説であってみれば、どちらがどちらを模倣しているか、ということは実はそれほど重要ではなくて、ただその模倣そのもの、模倣せざるを得ないような人間の「悲しい恐ろしい宿命」こそが照明を当てられるべきで、模倣する側がどちらであろうとも、模倣の本質を炙り出していることに変わりはないのです。

この二つの小説では、しかしながらどちらが模倣しているのか、ということは大きな問題になります。逆に言えば、作品の中ではそれらが錯綜しているのです。それゆえ悲劇が生まれます。とすれば、「模倣」と「被模倣」とを区別することは、模倣の魔力を解放することであり、両者の混同にこそ、模倣の模倣たる所以があるのかもしれません。したがって、乱歩とエーベルスの小説を「模倣文学」とみなすのならば、やはり両者のきっぱりとした影響関係を詳らかにするのではなく、かつてエリオットが提唱したような同時的な文学史を念頭に置いて、並列的に並べてみるのが賢明ではなかろうか、と思うわけです。模倣し合い、模倣を呼び寄せる関係がここに出現します。これこそがインターテクスチュアリティ(文学相互の絡み合い)の大前提であり、要諦であると思われます。

というわけで、今日はちっとばかし小難しい記事でしたが、ぼくは乱歩がこんなものを書いていたのか、とひどく吃驚したのでした。

バッタ君 町に行く

2009-12-20 01:26:22 | アニメーション
早速見てきました。
昆虫たちが、人間の侵入と開発によって生活の場を脅かされて、新天地を求める話。

今見ると、そこそこおもしろい作品です。ただぼくは思うのですが、この作品を自分から進んで見ようと思う人は、たぶん作品のおもしろさというものを第一に求めているわけではないですよね。やっぱり有名な作品だし、フライシャーのだし、見る機会も最近はないから一度は見ておきたい、といった理由で見るんだろうと思います。だから、アニメーション表現のおもしろさに注目することはあっても、ストーリーのわくわく度っていうのはそんなに期待していないのではないか、と。で、実際のところ、そこそこおもしろい作品ではありますが、ここだっていうような盛り上がりはないし、後に述べるように最後のシーンにも違和感が残ります。

アニメーション表現の魅力。それは、何人かの人が言っているように、明らかにモブシーン(群衆シーン)のものすごさにあります。昆虫たちが人間に追われて(というか、工事に追われて)逃げ惑うシーンの異様なほどの動きっぷりには、目を見張るものがあります。あと、感電して踊るダンスなども楽しい。

このアニメーション映画では、人間の動きはリアルに描かれ、昆虫の動きは誇張して描かれます。人間の動作は、実写の動作をそのまま写して作画されているので(ロトスコープ)、非常にリアルなのですが、昆虫はアニメーターが自由に動かしているので、大袈裟な身振りで駆け回ります。ぼくは基本的に、ロトスコープとかライブアクションとかモーションキャプチャーとかは、アニメーション表現の一部であって、それをベースに置いてはいけないと考えていますが、庵野秀明も言うように、この映画でのロトスコープの使用法は適切だと思います。人間の世界と昆虫の世界とをうまく描き分けることに成功しているから。

この映画にはしかし色々と甘いところがあって、これも何人かの人たちが指摘していることですが、金の力が全て、という話になってしまっているのですよ。結局、虫たちが助かるのも、金のある人間についていったからであり、金の積みあがる様子とビルが建設される様子とが重ねあわされているのは、いかにも下品で、眉をひそめざるを得ない。また、たしか高畑勲が言っていたと思うのですが、最後の庭園が人間たちにとって住みよい場所であって、自然の場所ではない、というのは非常に人間中心的な発想で、虫が主人公なのに、どこからこの発想が出てきたのかよく分からないのです。最後の展開自体がご都合主義的すぎるし(なぜか庵野さんはご都合主義はないと書いていますが)、金、金、金、の展開に持ち込むのはどういうものなんでしょうね。

と思っていたら、この映画はそもそも位階構造(上下関係のヒエラルキー)が基礎としてあって、「金」という問題は既に初めから設えられていて、実際、随所に金のことが話題に上る、ということが山村浩二の評論を読むとよく分かりました。とはいえ、虫が主人公なのにどうして人間の視点からしか物語が構築できないのか(画面は虫の視点なのに)、擬人化も行き過ぎじゃないのか、といったことがわだかまりになって残ってしまい、世界の多様性というものが発揮されていないように思うのです。

人間には人間の見える世界があり、虫には虫の見える世界がある。ところが、虫の世界を人間の戯画のように描いてしまったら、世界の多様性というものが失われてしまう気がします。もちろん、諷刺作品であればそもそもの目的が違うからいいのですが、「バッタ君」の場合は、金の恩恵にあずかる話ですし、ちょっとおかしい。「くもとちゅうりっぷ」とかに比べると、やはり完成度は劣ります。ナザーロフの「虫の生活」(という題名でしたっけ?)にも及ばないなあ。だから、ストーリーとか作品の構築のされ方とか、そういう点にはすごく問題があるように思います。

ただし、モブシーンはいい。わーっとたくさんのものが動き回る、というのはそれだけで魅力があります。宮崎駿が褒めるのも分かります。あと、人間と虫の描き分けもいい。ロトスコープという技術を活かしています。でもそれが世界観と結びついていないんですよねえ。それが何かちぐはぐな印象を与えてしまう。

ちなみにぼくの一番好きなシーンは、主人公と恋人が、石畳の隙間を歩いてゆくシーンです。迷路みたいで、楽しそうでした!

靴を買う

2009-12-18 23:00:17 | Weblog
このあいだ靴を買いました。
ぼくは26.5なのですが、27.0のものを。
靴って、メーカーによってかなりサイズが違うことがあるので、このくらいのずれはありがち、ですよね。むかし陸上部に所属していたのですが、その当時のスパイクのサイズが27.0でした。

ですが、それ以降はずっと26.5のままで、いくら靴を変えても靴によってサイズが変わる、ということはありませんでした。それで、今回サイズを変えるに当たってはちょっとしたためらいもありましたけれど、ええい、ままよ、ということで、購入してしまいました。

でもまあぴったりで、履き心地も悪くないので、正解だったようです。
ぼくはこの靴を勝手にフランケンシュタインに似ていると思っているので、あだ名はフランケンシュタインです。怪物の方です、もちろん。博士の方じゃありません。ところでこんなことを書くと、ひどく気味の悪い靴なんじゃないかと想像される方がいらっしゃるでしょうけれども、別にそんなことはないですよ。本当にぼくが勝手にフランケンシュタインに似ていると思っているだけですから。なんていうか、ルーマニアの紳士が履いているような靴ですよ。『ゲゲゲの鬼太郎』のバックベアードはたしかルーマニアの妖怪でしたっけ?ドラキュラもそうですし、ルーマニアっていうと、ぼくはなんとなく妖気を感じます。それで、ルーマニアの紳士が履いているような靴に見えるわけです。

この靴を履いて燕尾服を着こみ、ステッキを地面に突き刺し、山高帽を被って、ひげをぴんと立てれば、ぼくも立派なルーマニア紳士です。もちろん、ぼくの勝手な想像です。

出会い

2009-12-17 23:53:40 | お出かけ
今日、ブログを通してお近づきになれた、ntmymさんにお会いしてきました。名目上は杉並アニメーションミュージアムをご案内する、ということですが、ntmymさんとは是非一度お会いしたいと思っていたので、チャンスでした。

杉並アニメーションミュージアムは、少々交通の不便なところにあるので、遠方からお越しの初めての方にとっては、けっこう行きづらい場所だと思われます。ntmymさんは、前から行きたいと思っていらっしゃったようで、そこで道を知っているぼくの登場というわけです。とまあ、こんなふうに一から書いているといつになっても終わらないですね。要点だけ述べると、ミュージアムではぼくはたむらしげるの『クジラの跳躍』をお薦めし、そしてntmymさんは、それと合わせて『つみきのいえ』をご覧になったのでした。かなり色々なことを御存知の方なので、オーソドックスなものばかり見させてしまったような気がして、もっと長くて濃いやつをお見せすればよかったなあ、などと後で後悔しつつ、ミュージアムを後にしました。

それから古書店を巡り、喫茶店に入ってかなり長いことお話をしました。
ああそうだ、最初に書こうと思っていたのですが、ぼくはコミュニケーションが苦手な人間だと自覚していて、たぶん周囲の人もそう感じていると思うのですが、初対面の方とお会いするのは実はけっこう好きで、わくわくしたりします。でもちょっと心配だったりして、退屈させてしまったらやだなあとか、そういうことですけど。で、ntmymさんは、(ブログとは違って)無口な方だと聞いていたのですが(というかぼーっとしているとうかがっていました)、実際にお話してみるとそんなことはなくて、話が盛り上がりました。ぼくの方が年下なので、気を使っていただいているのかな、無理に話をさせてしまっていないだろうか、などとやっぱり不安になりつつ、でもとても楽しい時間を過ごすことができました。ありがとうございます!

チェーホフについての話題で、ntmymさんは、実に深いところを感じ取っていらっしゃって、さすがだな、と。ブログでは非常に細やかな感受性で真剣に考察なさっているところに惹かれたのですが、その感受性の鋭さは伊達じゃないです。たった一つの短編(しかも初期の!)を読んだだけで、チェーホフ文学のある種の「冷たさ」に気がつくというのは、ぼくは実は相当ショックでした。とてもあったかい作家だとか、反対に、虚無的な作家だとか、色々なことを言われるチェーホフですが、物事を見つめる視線の冷たさのようなものは、確かにあるように思います。ぼくは最近そのことを忘れていました。

ラーゲルクヴィストの『バラバ』が運命的な本だというお話を伺って、興味をそそられました。今までは、キリスト教的な作家なのかな、くらいの認識しかなかったのですが、俄然読んでみたくなりました。

それにしても、ぼくは人と話すとき、ものすごく仲のよい人は別ですが、まだ相手のことをよく知らないときなどは、どういう話題がいいのかとか、どこまで話していいのだろうかとか、いつも迷ってしまって困るタイプで、なんというか、当り障りのない会話ができないのですが、ntmymさんとは、ブログを通じてお互いの趣味がもう分かっていた、というのもあるのでしょうけれども、不思議と突っ込んだ話ができて、しかもバランスのいいコミュニケーションが取れて、こんなことが自分にもできるんだ!と新鮮な驚きでした。はっきり言って、幸せな気持ちです。もうこうなったら、ぼくは姉のように慕ってしまいますよ!

そうそう、僭越ながら、たぶんお互い似ているところがあって、ぼーっとしている、という点は一緒のような気がしました。その「ぼんやり」で最近は日々焦らされているぼくは、なんだか力をもらいました。ぼんやりしていても生きることはできるんだ!という、当たり前かもしれませんが、でも、生きるんだ!という強い気持ちをいただいた気がします。

今日の体験はすごく巨大で、胸の内に溢れかえっていますが、うまく言葉にできないもどかしさがあります。またいずれお会いして、話し足りなかったこととか、そして新海誠のこととか、たくさん話したいですね。文学のことも、アニメーションのことも、同時に話すことができる人って、けっこう限られてますもんね。本当にいい人とお近づきになれたと思います。ネットも捨てたものじゃないですねえ。

ジブリ次回作は「借りぐらしのアリエッティ」

2009-12-16 23:22:10 | アニメーション
ジブリの次回作が決定しました。
2010年夏公開予定、「借りぐらしのアリエッティ」です。
原作はメアリー・ノートン「床下の小人たち」。
そして監督は、米林宏昌。

http://karigurashi.jp/

米林氏は、現在35歳か36歳と見られる、ジブリ中堅のアニメーター(後日注:36歳だそうです)。長編映画の原画に昇進したのは、宮崎駿『千と千尋の神隠し』から。そのときの担当シーンは、千尋のお父さんが「不思議の国」の料理をがつがつ食べるシーンなど。ぼくは個人的にはこのシーンをあまり評価していませんが、世間ではわりと話題になりました。
『ハウル』では、初めてハウルが颯爽と登場するシーン等を担当。ソフィを兵士たちから救出するところです。
また、鈴木敏夫によれば、『ポニョ』では有名な「ポニョ来る」のシーンを担当したとのこと。ぼくの記憶では、あそこは二木真希子さんが担当したはずなのですが、もちろんあれほどのシーンを一人で描いたとは思えないので、この二人が主要スタッフということかもしれません。

ちなみに、若干23歳だった米林宏昌氏は、『もののけ姫』に動画としてジブリ作品に初参加、当時のインタビューでは、冗談だとは断りつつも、つらい生活を告白しています。

コアなジブリファンであれば恐らく知っているだろう名前ですが、驚きました。もともとは、高畑勲が「竹取物語」を題材にした映画の監督を務める、という話だったのが、最近になって新人の起用を発表、そして本日、米林監督のデビューとなりました。

スタジオジブリは、周知のように、基本的には宮崎駿と高畑勲の監督作が基本ですが、近藤喜文(故)や宮崎吾朗といった監督も輩出しています。しかし、いずれも一度きりの監督業であり、「ローテーション」化してはいません。中には『耳をすませば』といった人気作(とりわけ中高生にとって)も生まれましたが、『ゲド戦記』の評判が散々だったことは記憶に新しいところ。後に有名になった細田守が『ハウル』の監督を降板したのはよく知られており、このあたりからジブリの監督を探す試みは迷走しているようにも見えます。今回は、比較的若いジブリ内部のスタッフを起用していますが、米林氏はあくまでアニメーターであり、その演出の手腕は未知数。

ぼくとしては、たとえ赤字になったとしても高畑勲を監督に据えて欲しかったのですが、もう仕方ないことですね。今は米林宏昌氏の能力に期待するしかありません。

ちなみに、ジブリには「ジブリ胴体論」という論理があり、監督は外部から連れてきて、アニメーション制作だけをジブリがやればよい、という考え方がありました。今回の措置はそれとは明らかに矛盾する行為ですから、もう方針を転換しているのかもしれません。

以上、現時点ではわりと詳しい解説記事になっているはずです。

焼きリンゴ

2009-12-15 23:48:50 | お出かけ
今日のことではないですが、このあいだ渋谷で焼きリンゴを食べました。
リンゴ丸々一個を焼いたやつです。
もう何年も前に、やはり渋谷で、ある人からご飯をごちそうになったことがあって、そのときにもぼくはこの丸々一個の焼きリンゴを食べました。で、それが衝撃的で、あれからずっとまた食べたいと思っていたのです。何が衝撃的だったかと言うと、なんと言っても丸々一個のリンゴを甘くして食べてしまおう、という料理自体で、というのもそういう料理があるのをぼくは知らなかったもので、焼きリンゴと言えばアップルパイに入っているような、三日月型に切った小さなものしか思い浮かべられなかったのです。

もともとリンゴは好きで、特に蜜入りリンゴは大好きですから、あのような料理はまさしく夢の料理でして、何か特別なことがあった日などには是非食べておきたいですね。と、たったいま思いました。500円くらいだったので、別に普通に食べられそうな気もしますが、おごっていただいて食べたのが最初だったものですから、なんとなく贅沢な料理のような気がしてしまって、だめですね、貧乏性で。

新宿で丸々一個の焼きリンゴが安く食べられるお店って、あるのでしょうか。たぶんあるのでしょうね。新宿ですからね。思い出の焼きリンゴ。また誰かおごってくれえ。

江戸川乱歩「蟲」

2009-12-15 00:09:41 | 文学
いまさっき読み終えました。これは・・・ちょっとおぞましすぎる・・・
前半は、厭人癖の男の異常な心理と実際の行動とを丹念に追っていて、乱歩らしいなと思ってぐいぐい引き込まれてゆきましたが、後半は、もはや常人にはついてゆけないほどの異常性癖が描かれていて、降参です。ここも乱歩らしいのかもしれませんが、この残虐性はぼくは正直言って苦手。思いがけないトリックとか、屈折した心理とか、そういうのは大好きで、文体も気に入っていますけれども、残虐趣味はちょっとなあ。サディズム程度(と言ったら変ですが)ならばいいのですが、こういうのはちょっときついですよ。書くのも憚れる内容で・・・

というわけで、今日は書くことがないですねえ。
明日以降も引き続き乱歩の短編を読む予定ですが、できれば「屋根裏の散歩者」とか、「人間椅子」とか、そういう作品を期待。死んだ女の防腐処理の仕方とか、もういいですから。

そういえば、今週は珍しく予定がいっぱいで忙しいです。年末ですからね。飲み会とかも、懐具合を見つつ、取捨選択していかなければなりません。

そうそう、ブログって誰が見てるか分からないところがおもしろいし、ちょっとおっかなくもありますよね。このブログも、最初にYさん(元気ですかー?)から見ましたよと言われて非常に驚きましたが、同じ学校の学生さんで知っている人が何人かいるようです。ぼくは別にロシア文学についてたくさん書くわけじゃないし、どうして知られてしまったのか、いまだに不思議でなりません。いったいどの記事でこのブログを知ったのか、いちいち聞いて回りたいくらいです。そして、なぜぼくだと特定されてしまったのか。ロシア文学とアニメーション、という組み合わせはそれほど特殊なのでしょうか・・・ぼくはどっちも中途半端ですけどね。