Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

封印された天使

2010-12-30 16:28:02 | 文学
自分で読んで憂鬱になってしまうような記事を書くものではないな、と思う。このあいだはとても気分がくさしていたので、ああなってしまったのです。なかなかポジティブな考え方を身に付けられないで困ります。誤解のないように言えば、基本的には知らない知識を仕入れたり、未知の人と出会ったりするのは楽しいものですが(むしろぼくは比較的そういうのが好きな人間の部類に入ると思う)・・・ある特定の場合においては・・・そうじゃない。つまり、自分の劣等感を刺激するような場合、ということです。劣等感や、その反対の優越感が全くない人間はいないと思うので、綺麗事だけを並べても仕方がないですね、劣等感と優越感の微妙なバランス関係の中にある人間関係において・・・もちろん目上の人は対象外であり・・・したがって・・・ぼくは・・・もうやめておこう。

レスコフ「封印された天使」を読む。中編小説で短いのですが、やや時間をかけて読む。なんとなくロマンチックなタイトルに惹かれますが、中味はそれほどでもないです。要はイコンの物語でして、天使の顕現があったとか、そういう物語ですから多少は神秘的なところもあるようには思いますけれども、たぶんこの小説のポイントは語り口調にあるのであって、それは翻訳からも十分に伝わるものでして、そういう語り口のおもしろさ、情感、躍動感といったものに乗せられて、一気読みしてしまう小説なんだなあと思います。まあぼくは3日に分けて読んでしまったのですがね。

最後の種明かしはどうなんだ、と解説にはありましたが、まあこれは今なら一種の「ためらい」創出の手法の一環ともみなせるわけで、むしろ評価の高まる発条にもなりうる箇所なのかもしれません。「ためらい」というのはトドロフに言わせると幻想文学を幻想文学たらしめる要素なわけですが、物語を完全な神秘とするか、それとも日常からの説明の余地を残したものにするか、というためらいが重要なわけですね。ただし、レスコフの小説はいわば「信仰小説」とも呼ぶべきもので、日常からの説明を必要とはしていないかもしれないな、とは思います。でも、そこがレスコフのバランス感覚なのかも。

イコンの知識を披歴する箇所が随分多く、恐らくここは日本の読者にとってはいささか退屈だろうと想像しますが、ロシア人にはおもしろいのかな。それともそうでもないのでしょうか。一種の情報小説だ、と解説には書かれていましたが、情報小説というのは、特定の時代背景の中で読んでみて最大の魅力を発揮するものでしょうか。そうだとしたら、後世の日本人が読んでみても、あんまりおもしろいとは感じないのも無理からぬことなのかも。

まあしかし、翻訳はうまい。自分も日本語を磨きたいな、と思いますよ、本当に。

カツオ

2010-12-28 23:33:32 | Weblog
ものづくしでいこうと思ったけどいくらなんでもブラックになりそうでやめたむかつくものというテーマ。

でも、少しだけオブラートに包んで挙げてみる。

人に言ったことはないのですがね、カツオ君ってちょっとむかつきませんか。もしかするとぼくだけなのか。生意気過ぎませんか。どうでしょうか。あれをむかつくと感じてしまうぼくの心が問題なのか。

自分の知らないものってのは、むかつきませんか。もちろん時と場合によりますが、イライラさせられることがあるのは確か。知らない知識、事実、情報。へー、そうなんだあ、と感心できるときもあれば、自分が知らないというだけで無性に腹が立ってしまうこともある。その情報をもたらすのが誰か、ということでイライラするかどうかが決まってくるような気がしますが、どうでしょうか。

もうすぐ今年も終わろうかという12月28日夜、どうしてこんな嫌なことを書いているのだろう。なぜこんなことを書かなければいけないのだろう。この胸につかえている、ぬめぬめした真っ黒いへどろのようなものを吐き出してしまいたい。全身から黒いへどろのようなものが噴出してきそうな気がして、布団から跳ね起きた中学3年の日。爆発しそうな身体をもてあましたぼくは、どうしたのだったろう。いまぼくはどうすればいいのだろう。

暗い暗い、氷のように冷たい水底に膝を丸めて沈んで、胸からは鉄球をぶら下げて、ぼくは、再び水面に上昇できるだろうか。下から見上げる水面は陽光を数多ちりばめて宝石よりも美しく輝き、光は波にたゆたい、踊っているけれども、いるはずだけれども、ぼくには顎を上げる気力はない。せめてカオナシのように汚物を口から吐き出して体が軽くなればいいのに、と思う。世界をぼくの体内に渦巻くへどろで汚し、その黒く濁った街の上で、ぼくは小さく笑いながら、幸せに昇天する。

思ったことなど

2010-12-28 00:12:19 | Weblog
クリスマスの日に近所の図書館へ出かけたら、がらがらでした。土曜日なのに。皆さんどこかへ遠出でしょうか。まったくもう。

さて。エヴァの映像を見ていたら、少し憂鬱になってしまった。エヴァはやはり衝撃的なアニメだったなあ。動画も凄かったし。ミサイルを片手で受け止めて、ミサイルがぐしゅぐしゅと縮んだり四方に分裂したりするシーン、そしてもちろん走るシーン、色々と凄かった。

親友という言葉を使いたくない理由は、友達という言葉の中に既にして親友という意味が含まれているからだ、と中学のときに思っていた。それとも、誰か別のクラスメイトの考えだっただろうか。いずれにしろ、それはぼくらの考えだった。ぼくであるのかクラスメイトであるのかは、今となってはどうでもいい。起源を探索する必要のないときもある。かりにぼくの考えだったとしても、それはぼくらの共同体の中から生まれた考えであるはずだし、また別の人の考えだったとしても、やはりそうだからだ。

来年はとりあえず早々にジブリ美術館に行かなくては。あとメディア芸術祭。ともに2月中か。ちなみにシュルレアリスム展がやはり六本木で開催されるらしい。これにも行かなくては。1月には授業の発表があって、論文の締め切りがあって(出せるのか?)、ついでにレポートもあるはず。提出期限はいつだろう?やれやれ。

一か月以内にダンセイニの小説を読みたいんですけど、時間は取れるのでしょうか。とりあえず今年中に英語の論文を読まないと。めんどい。やる気しない。

4月からどうしよう。

今日の朝日新聞の悩みの相談室だかなんだかの三人のコメントはなかなかよかった。

来年になったらちょっと遊びに出かけたり外食したりしたいものだ。

なぜ年末になると、しまった、という気になるのだろう。

トキメキをいつも求めていけますように、と念じて、とりとめのない記事も終わりにしましょう。胸にはいつもトキメキを。あ、ぼくの座右の銘です。いやほんとに。

スリムクラブ

2010-12-26 22:41:06 | テレビ
なんだこれ!?
なんなんだ、これは。
いったい、なんなんだろう・・・

と、自問し続けています。スリムクラブって一体なんなんだ。左の方の人は、昔エンタで怪物フランチェンをやっていましたよね。さっきwikiで調べてみたらやっぱりそうだった。

それにしても、この漫才は、漫才と呼べるのかどうかもよく分からないですが、とにかくおもしろかった。誰かが言っていたように、漫才ってやっぱり二人の掛け合いが基本だと思うのですが、彼らのそれは、「しゃべり」よりも「間」の方が長いと思えるような、かなりユニークなもの。しかし、そのあまりにも「長すぎる間」とあまりにも「ゆっくりとしたしゃべり」が、漫才ではほとんど体験したことのないような種類の笑いをもたらしてくれました。変化球どころか、ある意味で反則技、でも猛烈におもしろい。

ジャルジャルのネタもユニークだったのですが、少々笑いが不足していたかな、と。スリムクラブはユニークだし、笑えるし、革新的でおもしろい、というのはすごいことだと思う。

あの声では彼らは早口の漫才はできないだろうし、右の方の人はしゃべり方がいかにも素朴で洗練されていなかったので、彼らは漫才がひょっとしたら下手なのかもしれないけど、でもおもしろい。もしM-1が漫才の上手い人を決めるのではなく、その日最もおもしろかった人を決めるのであれば、間違いなくスリムクラブが優勝だったと思いますよ。また、とにかく規格外で実力が未知数の彼らに投票することは、躊躇われたのかもしれないし(ぼく自身が審査員だったら、やはり彼らを優勝させていいんだろうか、と悩むと思う)、笑い飯に同情票というか功労賞的な票が入ったのかもしれない。パンクブーブーの一発目のネタはちょっと飛び抜けていて、正統的な漫才でここまで上手く且つおもしろくできるのだ、と見せつけられましたが、二本目がやはりまずかった。なぜ同じネタを入れるんだ、と多くの人が思ったはず。二本目もきちんと揃えてくれば、二連覇もあったかも、と思わせるほどの完成度の高さでした。笑い飯とパンクブーブーはだから二本目のネタの差かな。共に実力も爆発力もあるだけに、どっちが優勝してもおかしくはなかった。後者は去年の覇者だし、その意味では笑い飯が獲ってめでたしめでたし、かも。スリムクラブがいなければ。これが何度も言うように、とにかくおもしろかったのでねえ。

う~む、スリムクラブ。もう一度見たいですねえ。超絶におもしろかったです。笑いのレベルが、色々な意味でケタ違いだった気がします。

フロイトとドストエフスキイ

2010-12-26 00:09:14 | 本一般
『龍馬伝』の最終回について記事を書いた頃から、このブログへのアクセス数が増えたような気がします。これが『龍馬伝』効果ってやつか・・・

さて、岩本和久『フロイトとドストエフスキイ 精神分析とロシア文化』(東洋書店、2010)を読了。最近のドストエフスキー・ブームがこんなところにまで、とか思って読み始めたら、違いました。フロイトとドストエフスキーとの関係を扱った本というよりは(ドストを精神分析の手法で解釈するというよりは)、ロシア文化と精神分析との関係、つまり、ロシアでどのように精神分析が受容され、ロシア出身の精神分析家たちがどのようにロシアを見ていたのか、といった事柄が語られた、たいへん勉強になる本でした。勉強になる、というのはこの本を読んでいるときに得た感想でして、とにかく知らないことが多くて(自分の無知ゆえかもしれませんが)、なんでこんなに(著者は)色々知ってるんだろう、と思って少し鬱になっていたりもしたのでした。まあしかし、ぼくは精神分析は完全に門外漢なので、知らなくて当然なのだ、と開き直ってみる。

さて、『フロイトとドストエフスキイ』というタイトルは、そうして考えると、「精神分析とロシア文化」という副題の一種の置き換えであると考えられます。つまり、フロイトは精神分析を、ドストはロシア文化を代表しているわけです。フロイトと精神分析はともかく、ドストをロシア文化の代表者とみなしていいのか、という批判はありうるでしょうけれども、この本はドストに一定の項を割いているわけですし、精神分析批評に関連するロシア文化の代表者であることには違いありません。

精神分析批評というものは、ぼくにとってはあまり馴染みのないもので、ときには少々うさん臭く思われるのですが、たぶん図式化がいけないのですね。フロイト自身の書いた幾つかの論文は非常におもしろく読めたと記憶しています。だから、あらゆる批評がそうであるように、精神分析批評にもよいものと悪いものとがあるわけで、後者がしばしば目につくので、どうもうさん臭く感じられるのでしょう。

この本は、ある芸術家を精神分析という理論を用いて鮮やかに料理する、というタイプの本ではなくて、もっと概括的な、ロシア文化と精神分析との様々な関係を眺望するものですが、しかしときに鳥瞰し、ときに接眼するようにも思われ、実際、ゾーシチェンコを取り上げた終章はゾーシチェンコと精神分析との関わりがかなり丹念に描かれているように思い、一番おもしろかったです。

身体を疎外してしまう言葉という枠組みを持つフロイト的精神分析に、身体性を前景化させるパヴロフ的生理学を対置し、物語を拒絶して身体性を求めるゾーシチェンコにパヴロフとの類縁性を見るこの論文は、本書の白眉ではないかと思いました。ただし、ゾーシチェンコの作品における身体イメージが、ちょっと象徴的に過ぎるような気がして、もっと具体的な身体性について詳しく知りたかったです。が、紙幅も限られているでしょうし、なかなか難しいのかもしれませんね。

平易な言葉で書かれた本ですので、ぼくのように精神分析に疎い人でも、またロシア芸術に詳しくない人でも、誰でもおもしろく読めると思います。でも知らない名前がかなりたくさん出てくると思うので、びっくりしないように。

不安

2010-12-24 00:21:39 | Weblog
読書するに当たっての自分の気持ちを言い表す言葉が、ようやく見つかりました。まず、不安。そして恐れ。迷い。寂しさ。

本を読んでいる最中に具合が悪くならないだろうか、と不安で不安で堪らなくて、読み始めることができません。この不安は恐れへとしばしば高まります。だから、読むのをやめようかどうしようかとひたすら迷い、惑います。そしてこのような自分を少しだけ冷静に見たとき、とても寂しい気持ちになります。どうしてこんなことになってしまったんだろう、と。悲哀に似た寂しさ。

ドラマや映画を見始める時も、これよりは弱いものの、同様の心理状態に陥ります。

心の根幹を、ぼっきりとやられてしまったような感覚。もうぼくは勇んで読書をすることは一生できないのだろうか。本を読むということが恐怖そのものだとしたら、ぼくはこれからどうやって生きていけばいいのか、本当に分からない。勉強はもう続けられないだろう。

本を読むのは好きなのに。好きだったはずなのに。こんなにもその行為を恐れなくてはいけないのか。ああどうか、昔に、昔に戻してください。さもなければ・・・

どこでアニメを見ようか

2010-12-22 00:08:55 | アニメーション
先日、某動画配信サイトが閉鎖されてしまいました。ショック・・・

さて、深夜アニメをどこで見るか、ということですが、もちろんリアルタイムで見られればそれに越したことはないのですが、翌日が朝早いという人には難しいですよね。録画するのもめんどいし、それほどのことではない、という場合、やはり頼るのは一部のサイトだったりします。ところが、これは違法なんですよね。

う~む、よく考えたら、制約があり過ぎてこの話題についてはたくさん書けないな。選択を誤ったか。というわけで、このネタについてはこれでおしまい。

ボックス・アニメーション

2010-12-20 22:16:48 | アニメーション
Box Animation - Vancouver Film School (VFS)


こんな映像作品もある。これはアニメーションなのか?それはともかくとして、なかなかおもしろい。なんというか、本来動かないはずのものを動かす喜びや楽しさに溢れている気がして。こういうのを見ると、幸せな気持ちになってきますよ。この映像を見つけたときは、「おっ」って思った。ちなみに学生の作品。

スプートニクの恋人

2010-12-19 22:59:14 | 文学
思い返してみれば、去年も別にモノクロという年ではなくて、色々あったな、と思う。ただ、ここ何年かぼくは全く成長していないし、さしたる環境の変化もないので、ずっと停滞しているように感じられるのです。歳だけは取りますけどね。

さて、村上春樹『スプートニクの恋人』を読了。2,3年前までは春樹の小説は一つも読んでいなかったのですが(いや「レキシントンの幽霊」という短編だけは読んでいたか)、ようやく『スプートニクの恋人』まで辿り着きました。ゴールが見えてきました。

それで、感想を書かなくてはならないはずなのですが、どうやらまだぼくは上手く感想を整理できていないようです。言語化を拒否するもの。言語化を拒否するような体験だけが本物の体験だ、と春樹は書いているけれども、元来、小説の感想というものは、そのような体験なのかもしれないな、とぼくは昔から思っていました。言葉にすると、必ずなにがしかのものは零れ落ちてしまう。文字として刻みつけられる言葉は僅かに過ぎない。文字の周囲の無限大の空白へと、「感想」と呼ばれるものは逃げていってしまう。だから、なにがしかのものが零れ落ちると言うよりは、なにがしかのものしか言葉に定着できないと言った方が正確なのだろう。

村上春樹の小説自体もまた、その「感想」に似たものなのかもしれないな、とふと思う。言葉にされている領域の背後に、実は無辺の処女地が広がっている、というような。ぼくらは文字の上を探査することはできる。そこに何が書かれていて、どのように書かれているのか、調査することができる。でも、何が書かれていないのか、書かれていないことはどのようなことなのか、それを追究するのはとても難しい。つまり、そのような領域を言葉に換えるのは困難な作業なのだ。でも、小説を読むということは、本当はその文字の背後にある処女地を踏査することではないのか、という気がする。ぼくらは読み、感じる。確かに何かを感じている。文字の単なる行列の奥から、得体の知れない巨大な靄がぼくら目掛けて襲いかかって来るのをぼくらは止めることはできない。けれどもその靄を言葉にすることは、控え目に言って、非常に骨の折れる作業なのだ。もしかすると、それは不可能な作業なのかもしれない。

文章というのは、ある側面から見ると非常に論理的なものだ。いや、論理的でなくてはならない。でも、『スプートニクの恋人』という小説は、論理的な言葉で書かれているにもかかわらず、論理的でないことを書いている。幻想小説と呼ばれる多くの文学作品もまたそうではないか、と言われそうだけれども、それとは何か根本的な違いあるような気がしてならない。根本的な違い。それは、ごく抽象的な言葉を使えば、「気分」のようなものかもしれない。幻想文学の気分と村上春樹の気分。

二つの世界を巡る存在論的なこの物語は、どこかしら言葉と空白との関係を想起させるところがある。いま目に見える世界と、いま目に見えない世界。目に見える言葉と、目に見えない言葉の外側。もう一つの世界を目撃してしまった女性や、もう一つの世界に旅立ってしまった女性の物語に対して、こちら側の世界の人間には論理的な解釈を与えることができない。二つの世界の関係を論理的に結び合わせることは不可能なのだ。もう一つの世界は、こちら側の論理で説明できない、すなわち言葉にすることができないからこそもう一つの世界として存在しえているのであり、言葉の周縁や空白といった概念、要は行間というものもまた、言葉にされない限りにおいてその存在を保っていられる。それは当然のことだ。だからこそぼくは、『スプートニクの恋人』で描かれた世界は、どこかしら言葉の問題を照射するような気がしてならないのだ。

ぼくがこの小説の感想を書くことができないのは、この小説が「意味不明」であるからではなくて、必然なのだ。感想を言葉にすることが極めて困難であるのは、言葉というものの守備範囲がふつう思われているほど広くないからで、むしろ言葉にできないことの方が多くて、でもその言葉にされない未開の地をぼくが発見してしまったのは、村上春樹の小説を読んだからなのだ。つまり、彼の小説がぼくという人間の中に手つかずの地を用意したということになる。また一方で、彼は自分の小説の中で、言葉によってその未開の地の存在を指し示した。言葉にできない領域の存在を、示唆した。うむ、とても複雑に入り組んでいる。言葉、小説、感想。村上春樹は言葉で説明できない世界を描いたし、ぼくは言葉で説明できない感想を抱いた。でも言葉というものは、元来説明できないものが多いのだ。そんな気がしている。

今年という年は

2010-12-19 00:57:42 | Weblog
ちょっとばかし早いですが、今年を少しだけ振り返ってみました。
今年は、新しくバイトを始めたし、初めて一人でロシアにも行ったし、初めて学会発表もしたし、出会いがあり、別れがあり、こうして振り返ってみると、なかなか激動の一年だったのではないかと思います。うん、そうだな、これまでの停滞気味のモノクロの何年かに比べると、はるかに色彩に富んだ一年だった気がします。気がしますが、この自分のやる気のなさ、成長のなさはなんなんでしょうね、いったい。確かに色々とあったことはあったのですが、何も変わった気がしないのはなんでなんでしょうか。

やむにやまれず行動は起こしたけれども、ぼく自身の能力を向上させることはできなかった、ということですね。やれやれ。

さて。どうしてこうネガティブな思考スパイラルから抜け出せないんだろうか、といつも思いますが、まあ仕方ないです。今日は早めに寝て、明日は早めに起きようっと。

ジブリの新作

2010-12-16 23:39:58 | アニメーション
来夏のジブリ新作『コクリコ坂から』が発表されましたね。監督は、驚くべきことに、宮崎吾朗。う~む、鈴木敏夫がごり押ししたんだろうか。彼が監督を務めると作品に批判が集中しそうだから、歴代ジブリ作品のファンとして、ちょっとつらい。自分もまた批判するかもしれないと思うと、それもまたつらい。

ところで、『コクリコ坂』という少女マンガは昔から宮崎駿が言及してきた作品なので名前だけ知っていたけれども、実はまだ読んでいません。で、今回の宮崎駿の企画書を読んでみて、「あ、おもしろそうだな」と思った。しかるべき人が脚本を書いてしかるべき人がコンテを切り、しかるべき人が監督を務めれば、物語はおもしろくなるんではないかと思いました。

もともとぼくは少年少女の淡い恋だの青春だのが好きで、こういう物語は好きになりそうなのです。でも宮崎吾朗に、その少年少女の淡さ、結びつくか結びつかないかのあわい、どのように心を通わせ、どのように信頼し合うに至るかという過程がきちんと描けるのだろうか、と心配です。更に言うと、「ゲド」と「アリエッティ」両方の脚本を書いた丹羽圭子にもぼくは大きな不信感を持っています。ゲド戦記というのは、結局のところ、少女がいかにして少年に心を開いたのか、開くことができたのか、という心の交流が最大のポイントだったはずなのですが、そこがおざなりに描かれてしまった。テルーが唄を歌ってアレンが涙を流す。次の瞬間、なぜかテルーがアレンに心を開いている。この物語の展開にどうしても納得できず、この作り手はキャラクターの心というものを大事に扱えないのではないか、と思ったものです。

『コクリコ坂から』もまた、少女と少年との触れ合いが大事になるようだ。この繊細で微妙なニュアンスを、宮崎吾朗と丹羽圭子のタッグが描き切れるのか、そこが甚だ不安なのです。本来なら、この作品は近藤喜文さんに打ってつけの題材だったのに、まことに残念です。

非常に興味深い題材ですが、物語の展開の仕方や盛り上げ方に大きな疑問符を付けざるを得ない脚本家にまたも任せてしまっていいのか、と疑念を抱いている、というよりむしろ不思議でなりません。監督の手腕よりも、脚本家のそれが気になります。

それともう一つ。宮崎駿の企画書の中で、トトロの舞台は1953年、つまり昭和28年だと明言されました。これは画期的かも?実は時代設定には2説あり、一つがこの昭和28年、もう一つが昭和30年代、というものでした。パンフレットには後者が記載されており、また一般にもこちらが浸透していますが、宮崎駿は昭和28年のつもりでこの映画を作ったんですねえ。・・・いまこれを書いていて、昭和28年説がどこに載っていたのかを記しておこうと思ったのですが、どこにも見つからない・・・おかしいなあ、どこに載ってたっけ?

ちなみにサツキの年齢も、小学6年生なのか4年生なのかがいまいち判然としないところがあります。当初は4年生のつもりで設定されて、後に6年生になった、と考えるのが一番だと思いますが、どうでしょう。

国境の南、太陽の西

2010-12-14 22:58:22 | 文学
村上春樹の『国境の南、太陽の西』を読む。3日間で3冊の本を読む、という久々のハイペース。大学に入りたての頃みたいだ。今日は仕事だったので読めなかったけど。

さて、この作品は中編にしては長いし、春樹の長編にしては短い、いささか中途半端な分量の小説です。と同時に、彼自身の文学史においても、どうやら少し中途半端な位置を占めているようで、出版された当時は高い評価を受けなかったそうです。実際、一般の読者の中でも厳しい意見を持つ人は多いみたいですね。

自己の中に欠落感を抱き続けている男が、37歳になって、その欠落こそが自分なのだと気付く、というアンチ・自分探しみたいな話、という要約も可能だろうと思うし、欠落感をめぐる男女の関わり、といった捉え方もできると思います。いずれにしろ鍵概念はやはり欠落感や喪失感といった春樹らしいものだと考えられます。

ハジメは小学生のときに出会った島本さんのことが忘れられず、それからの人生、ずっと欠落感を抱き続けていた。島本さんもまたそうだったということが、後で分かる。ハジメは、中学生のときに島本さんと離れ離れになってしまった後も、決して彼女を手放してはいけなかったということに気付き、37歳で再会を果たした彼女を、もう手放すまいと心に決める。しかし、島本さんは去り、ハジメは一度捨てたはずの家族との再生への道を歩みだす。

この物語は、なんなのだろう、と思いました。何ももたらさない物語なのではないか。欠落感を持った人間が、希望を欠落させてしまう話。人はこんな風にして生きていかなければならないのか、と重苦しい気持ちになります。ハジメは40歳に近くなって、ようやく彼の青春を終わらせたのかもしれない。その意味で、これはパラダイス・ロストの物語、人生へと踏み出す物語、と言えるのかもしれません。けれども、その人生というのは、いったい光に満ちているのでしょうか。欠落そのものが自分なのだ、と気が付く主人公の生は、果たして充実することがあるのでしょうか。ぼくは否定的な答えを用意せざるを得ない。人生に首を縄で締めあげられ、打ちのめされる、そんな物語ではなかったか。暗澹たる泥濘の中に、しかしぼくは妖しく烈しく煌めく光を見る。

光。
村上春樹の小説は、いわゆるエロチックな描写が多く、少年少女時代に初めて彼の作品を読んだ読者には、その印象が強く残っていると聞いたことがあります。『ノルウェイの森』などがその最たる例でしょう。『国境の南、太陽の西』もまた、そういう例になりうるかもしれない。中学生がこれを読んだら、女子だったら「あらまあ、いやん!」と言って卒倒するかもしれないし、男子だったら、「まじかよ、うほお!」と言って卒倒するかもしれない。いずれにしろ、卒倒するかもしれない。それほど印象に残る性愛シーンがあります。でも、この作品にあっては、それが光だと感じた。ぼくは、性愛描写の必然性というものを、春樹に限らず、ひょっとするとこの小説で初めて認識したかもしれません。

島本さんとぼくが初めて一夜を過ごすとき、島本さんは、「ちょっと変なこと」をすると言う。それは実際、最初の行為においては「ちょっと変なこと」で、妙にエロチックな行動だ。だからこそ、たぶん若い読者の多くはその煽情性に劣情を大いに刺激されてしまうのだろう。でも、島本さんがこうした行為を選ぶに至ったのには、ちゃんとした理由がある。島本さんがどれほどハジメのことを想っていたのか、どれほど狂ったように愛していたのか、どれほど想像の中でもだえ、どれほど苦しみ、どれほど彼の全てを欲していたのか、その一切が彼女の行為に集約されているんだとぼくは思った。彼女は想像の中でハジメを愛した。想像の中でしか愛せなかった。その哀しみと、いまこうしてようやく現実のハジメと体を重ねられる、という戸惑い、そして歓喜。島本さんの「ちょっと変なこと」には、こうした感情もまた集約されている。

島本さんのこの心を貫かれるような強烈な想い、これがこの作品の光なのだとぼくは思った。あるいは、もしかするとそれは影だと人は言うかもしれない。黒い光、とだからここで書いておきます。小説には必ずしも人生を豊かにしてくれるようなテーマ設定はいらない。この作品には、ただ狂おしい愛がある。実は、それで十分なのではないのか、と今ぼくは思う。この小説がたとえ何も肯定的なものをもたらさなくても、それでいいのではないか、と。人生に平手打ちを食わされ、愛というもの自体の深い慟哭を聞く。それは、読書の醍醐味の一つなのかもしれないな、と感じるのでした。イズミも、ハジメも、島本さんも、ハジメの妻も、みな愛に斬り殺された犠牲者だ。彼らは殺されたに等しいと思う。愛。愛。愛。ああそうか、これは、愛の物語だったのか。

となり町戦争

2010-12-13 00:19:07 | 文学
全くレビューを書く気がしなかったので、YouTubeで「悠久の翼」を聞いて元気を出す。ちょっと力が湧いてきたぞ。

さて、ということで、三崎亜記『となり町戦争』のレビュー。
と書いた途端に、またもやる気が減退してきた~・・・でも少しくらいは書いてやろう。

『となり町戦争』は、ちょうど6年ほど前に文学界で大きな話題をさらった三崎亜記のデビュー作。あれからもう6年にもなりますか、とそっちの方が感慨深いなあ。小学校に入った子がもう卒業かよ。・・・それはまあいいとして、小説すばる新人賞を受賞、直木賞の候補にもなりました。井上ひさしがこの作品を熱烈に支持したことは有名みたいですね。

突如となり町との戦争が勃発し、偵察員として戦争に半ば強制的に参加させられることになった「僕」。しかし、戦争と言っても、「僕」にとってはリアリティの一切剥ぎ取られた、ほとんど存在していないかに思える「見えない戦争」であり、どこで戦闘が起き、人が殺し、殺されているのか、実態がまるで掴めない。「僕」はただ車でとなり町を通る国道を走り、自分でその意味も分からずにただ見たことを報告書に記し、提出するほかありませんでした。ただ、郵便受けに入れられている広報の「戦死者」の数だけが、戦争が起きていることを示す唯一の証拠でした。

「僕」はやがて本格的に戦争に巻き込まれてゆきますが、しかし徹底的に「見えない戦争」であることが貫かれ、「僕」はひたすら受け身になって指示された通りの行動をし、危険を回避します。自分が本当に危うい状況に陥っていたのか、それすら実感できない。戦死者と紙一枚隔てて車に置かれても、「僕」にはその戦死者の姿を見ること能いません。「僕」は結局最後まで戦争の姿を見ることができず、実態が掴めず、日常を生きることしか叶いません。果たして戦争は起きていたのか。戦争が終結した後、「僕」はこう考えます。「たとえどんなに眼を見開いても、見えないもの。それは「なかったこと」なのだ」。戦争は「僕」の中では始まっていなかったし、また終わってもいないのだ、と。

現場の人間以外にはリアリティのない現代の戦争というテーマをこうしてグロテスクに小説化したこと自体は一定の評価をされてしかるべきなのでしょう。かなり野心的な試みと言えます。戦争は起こらなかったのだ、という主人公の下した結論はまことに小説的で、この作品の「オチ」として相応しいようにも思えますが、けれども一方で、戦争のために夫婦となった女性を戦争の終結とともに喪失することを、「戦争の痛み」として実感するということは、どういうことなのでしょうか。この痛みがあるのなら、「僕」は戦争を感じられたのではないのか。しかし、この戦争の実感は、いわば喪失ゆえの存在感であり、実体を求めることはできないのです。彼女は確かに失った。失ったということは、戦争が終結したからである。終結したということは、戦争はあったということなのだ。けれども、そもそも戦争が始まらなければ彼女は「僕」の前に姿を現さなかった。彼女がいなければ、彼女を失うこともなかった。彼女は今いなくなってしまったが、それは実は戦争の始まる前とまるで同じ状況なのだ。したがって、戦争は「僕」に何かの異変をもたらすものではなかった。戦争は「僕」にとってはまさしく始まりも終わりもしていないのだ。ただし、「喪失感」だけが残った。この喪失感こそが、戦争があったことの、彼女がいたことの証に他ならない。この心的な痛みこそが、「僕」の主任の言う忘れてはならないものだったのだ。

それにもかかわらず、「僕」は戦争の事実を認められない。というのも、実感できないから。見えないから。ぼくはここに、少しだけ違和感を感じてしまう。この作品では、喪失からむしろ実体を想像させるシーンがたしか一度か二度はっきりした形で出てきたと思うのですが(病院の前の患者の集団)、この連想がなぜか戦争に関しては「僕」の頭に上らないのです。女性の喪失が戦争の痛みだという認識にとどまり、その喪失が戦争の存在を指示することに、どういうわけか気が付かない。だからこそ、彼は戦争の始まりと終わりをもともとなかったものにするのです。矛盾、なのかもしれない。作品の不備なのかもしれない。でも、この作品は全体としてなんだか「よく分からない」という靄に包まれています。戦争が始まったのも終わったのもよく分からない。戦争の状況や進展もぼんやりしている。ぼくの業務とその結果の関係も謎。だから、「僕」の考えというのも、実は描出されつくされてはいないのではないか、という疑問が湧いてきます。それとも、単に、人間の心はそう簡単に割り切れるものではないということでしょうか。喪失感が戦争のリアルを感じさせる。でも一方でこの戦争のリアルをどうしても感じられない。この感情は両立するものなのかもしれません。

一般の方のレビューを見てみたら、作者のメッセージは何か、ということを相も変わらず追いつづけ、見失った人がいました。国語教育の弊害。また、戦争の描写がなくてつまらないとか、盛り上がりに欠けるとか、そういうややトンチンカンな意見もあったようです。ぼくは、この作品はエンターテインメント性に富んだ分かりやすい小説ではないと思う。はっきりとしたメッセージの打ち出された、一方通行的な小説ではない。作者のメッセージも、作品の内容も、戦争の内実も、とことんぼかされた、かなり高度な小説です。読者はこの作品の様々な細部から、いかようにも作者の声を忖度できるし、作品を解釈できる。テーマが戦争であるだけに、その意味で問題小説だと言えるでしょう。

最後に、文体のこと。非常によく書けているところとそうでないところとが、どちらも散見されました。前者に統一されることがあれば、かなり立派な小説になっていたのにな、と少し残念。151ページの二人が体を重ねるシーンは、抒情的で感慨深い喩えが用いられていて、とりわけ印象深いことを付記して擱筆。

パノラマ島綺譚

2010-12-12 01:34:52 | 文学
江戸川乱歩の小説を読了。やはりおもしろい。『パノラマ島』は、これまでなんとなく読んだ気になっていたのだけれど、よく考えてみるとまだ一度も読んでいないので、手に取ってみました。読んだ気になっていたというのは、昔読んだ、全46冊の二十面相シリーズの『影男』という作品の中に、パノラマ島が登場するからです。大人向けの『影男』にも登場するのかしら。

この『パノラマ島』は漫画化されたことでも有名ですが、確かに視覚化してみたい小説であるかもしれません。と言っても、映像化したらあまりにグロテスクなシーンで終わってしまうのですがね。しかしながら、そこさえうまくクリアすれば、そして意匠を凝らせば、比類なき映像が完成するに違いありません。この蠱惑的な、もしこう言ってよければ悪魔的でさえある光景を緻密に描出した『パノラマ島』は、乱歩の傑作の一つです。悪魔的、と言うのは、それが実際のところ人外境を描いた恐ろしいものだからなのですが、同時に、人外であればこそ至上の美を湛えた、めくるめく幻影で人を惑わし狂いもさせる恍惚な誘惑を秘めているからでもあります。この作品ほど、愛と死、憎悪と愛情、芸術と狂気、美と醜を混然一体のままに表現した小説をぼくは知りません。最後のシーンはまさに美と醜とが分かちがたく結びつき、二匹の蛇のように絡み合った、どちらがどちらとはもはや到底判断付かぬほどに合体した、一種の壮観、美醜を絶した一つの恍惚、人知を超えた天魔の凄絶な悪戯であると言えましょう。

言葉を尽くして桃源郷を表現しようとする乱歩の筆は名文であり、その恐るべき、且つ美の極北たる光景は、読者をして幻惑させずにはおきません。これほどの妄想と執着がたった一人の人間の小さな頭の中に渦巻いていたことに思い巡らすと、奇異の感に打たれ、あるいはまた、人間の想像力の無際限であることに強く感動してしまうのです。

江戸川乱歩は、世界文学の錚々たるメンバーの中においてもちっとも遜色ない、日本が誇る大作家であると断言できます。この奇想、この名文、この蠱惑的魅力。稀代のストーリーテラーとしての才能ももちろん具わっている、無欠の偉大な文学者です。

ちと褒めすぎか?いやいや、それほどまでに、高く昇りつめた、それとも深く潜りすぎた、余人の及びもつかない作家であります。

メディア芸術祭のアニメーション入賞作

2010-12-10 01:01:44 | アニメーション
メディア芸術祭で湯浅政明の監督作が大賞を取ったことは、別段驚くべきことではない。
優秀賞は、『カラフル』『マイマイ新子』『フミコの告白』『わからないブタ』『The Wonder Hospital』の5作品。『フミコの告白』が優秀賞というのにはちょっと驚きました。他のコンクールでも受賞しているようだし、今年は旋風を巻き起こしましたね。あとは順当か。ただし最後の作品についてはよく知りません。メディア芸術祭のサイトが異様に重くて、この作品をクリックしてもちゃんと飛んでくれない。YouTubeでちょっと見てみましたが、これだけではよく分からない・・・

審査委員会推薦作品(長編部門)は以下の通り。

イヴの時間 劇場版 吉浦 康裕
宇宙ショーへようこそ 舛成 孝二
劇場版マクロスF~イツワリノウタヒメ~ 河森 正治
涼宮ハルヒの消失 谷川 流(原作)/石原 立也(総監督)
チェブラーシカ 中村 誠
緑子/MIDORI-KO 黒坂 圭太
Angel Beats! 麻枝 准
荒川アンダー ザ ブリッジ 新房 昭之
装甲騎兵ボトムズ 孤影再び 高橋 良輔

『緑子』以外は一般的にも有名なのかな。黒坂圭太はしかしカルト的人気を誇るアニメーション作家。

審査委員会推薦作品(短編部門)は以下の通り。

8 bits Valere AMIRAULT / Jean DELAUNAY / Sarah LAUFER / Benjamin MATTERN
CITY KIM Young-geun / KIM Ye-young
DUST KID KIM Kihyun / JUNG Yumi
farm music 大桃 洋祐
Googuri Googuri 三角 芳子
hezarfen Ari TOLGA / Romain BLANCHET / Rémy HURLIN / Georges HUANG
NHK 星新一ショートショート「午後の恐竜」 加藤 隆
Sleep Claudius GENTINETTA / Frank BRAUN
telegraphics Antoine DELACHARLERY / Lena SCHNEIDER / Léopold PARENT / Thomas THIBAULT
TWO TEA TWO 一瀬 皓コ(デコボーカル)
海からの使者 のすふぇらとぅ
強迫的な秩序についてのカエル 永迫 志乃
くちゃお 奥田 昌輝
こまねこのクリスマス -迷子になったプレゼント- 合田 経郎
魚に似た唄 竹内 泰人
ちいさな恋人 キム イェオン

個人的には「8bits」がお薦め。おもしろい。あと「City」の作者の別の作品は見たことがあって、それはまだ未熟さを感じさせながらもとてもすばらしいものだったので、今作にも期待。大桃洋祐は色彩感覚に優れた作家さんだと思う。今作の動物による演奏というモチーフは彼のオリジナルではないけども、評価するべきはそこではなくてやはり色彩のような気がします。Claudius GENTINETTAは去年の「ケーブルカー」の作家。実力者です。のすふぇらとぅも一部で人気が高い。竹内泰人は「オオカミとブタ。」が有名か。これは手間をかけて作った労作。すごい。
ところでメディア芸術祭にはサザーランドなんかは応募しないのでしょうかね。誰が応募しているのか分からないので、受賞結果については何とも言えないです。ちなみに、やはり応募しているかどうか分からないけど今夏の最大の話題作なんかが選ばれていないのは正当な評価だと思う。

なお、アート部門の審査委員会推薦作品に選ばれたNuit Blanche(Arev MANOUKIAN 監督)は傑作。これは優秀賞以上でもよかったのでは。