Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

砂アニメーション

2010-11-30 22:57:41 | アニメーション
NO CORRAS TANTO- Sand animation


砂アニメーションです。短編アニメーションをあまり見たことがない人には、こういう映像はかなり衝撃的ではないでしょうか。監督はCesar DIAZ MELENDEZ. タイトル「NO CORRAS TANTO」は、「Take it easy」の意味らしい。めくるめくメタモルフォーゼにくらくらします。是非一度短編アニメーションのすばらしさを堪能してみてください。ぼくは「砂アニメーション・オン・グラス」が好きなので、この作品はとても気持ちいいですね。

いわゆる字幕テロについて

2010-11-29 17:40:26 | テレビ
龍馬伝の最終回、しかも龍馬暗殺シーンにおいて、まさかのテロップ。愛媛県知事選の当確のニュースでした。これに対してNHKには批判が殺到、らしい。

ぼくもこれにはさすがに憤った。暗闇の中での緊迫の攻防が、でかでかと出たまっ白いテロップ(いわゆる字幕テロ)で台無し。NHKは○○で××じゃないのかと、ドラマが終わった後一人で毒づいておきました。

龍馬と中岡が和解し、打ち解けた瞬間、突如として押し入った幕府派による惨殺劇。まるでソローキンばりの急転直下!一瞬にして暗闇になり、無言の惨劇はやけにリアルで、ただ切りつける音と物が倒れる音だけが聞こえる。それまで元気だった主人公が突然襲われ、絶命する。この理不尽さがちょっと恐ろしかった。あ。テロップだけは皓皓と輝いていました・・・

龍馬伝は、全体を通しての視聴率はいまいちだったみたいですが、けっこうおもしろかったです。役者陣の奮闘が目立ちました。福山サンも思ったよりずっとよかったですが、何より大森南朋と香川照之。特に後者のいわば「怪演」。すごかったです。竹中直人に匹敵するんじゃないかと個人的には思っておりますが、とにかくものすごい役者だ。上川隆也はあまり出番はなかったけれども、最後の最後の「龍馬ーーーー!!!」という咆哮で魅せてくれました。さすが。いい役者がいい演技をすると、それだけでドラマはおもしろくなります。『龍馬伝』は色々なところでリアルな描写にこだわったみたいで、その関係かどうか知りませんが長回しを多用してカット数を大幅減、それが役者の自然な演技、というか、演技力を引き出していたように思います。

それにしてもあの惨殺シーンは迫力がありました。リアルな描写の集大成ではないかと。暗殺の理不尽さ、死への恐れ、希望が消尽することの無念、生の儚さ、そういったことが殺しの恐怖にくるまれて無言の映像からひしひしと伝わってきて、『龍馬伝』の中でも屈指の名シーンだったと思います。それだけに、制作陣はあのテロップに怒髪天を衝く思いでは・・・。何より視聴者の気が殺がれてしまった事態を無念に思っていることでしょう。NHKの罪は重いぜよ。

嫌気がさす日のこと

2010-11-29 00:00:00 | Weblog
結局のところ、諸悪の根源は「研究」にあるのではないか、という思いが頭にこびりついて離れません。何らかの形で本に関わりたい、読書を続けていきたいという思いもあって今のような生活を続けていますが、でもこの生活様態がかえって読書からぼくを遠ざけているのではないか、と感じるのです。

単純なことです。研究するには専門分野に詳しくなければいけませんから、当然の如く専門書を読みます。すると、それ以外の本を読む暇はなくなってしまいます。

専門書がぼくの興味を惹く、魅力的なものであったら、まだ我慢もするかもしれません。でも、これがくそおもしろくもない。そもそも研究対象に関心がいまいち湧いてこない。ぼくの読みたいと思う本は専門書からは遠く隔たった、専門とは一見何の結びつきもなさそうな本なのです。でも、そういう本を読んでいる時間は今ありません。仮に手に取ったとしても、「こんなものを読んでいる暇はない」と焦って、とてもじゃないですが集中できません。没入することは不可能です。

だから専門書に切り替えるのですが、これがよく分からない。難しい本を読むのがぼくは基本的には嫌いで、もっと楽々と頭に入ってくるような文章の方が好きなのですが、読まなければならない本の大抵は難解な本です。何度も何度も読んでいれば分かるようになる、と人は言いますが、その「何度も何度も」がぼくには耐えられない。「そんなことをしている暇はない」と焦るばかりなのです。

したがって、今ぼくは好きな本も、専門書も、どちらも読むことができません。ただ機械的に辞書を引き引き英語やロシア語を訳し、重要だと思う箇所をメモする作業をしています。でも、それにももう飽きた。ぼくは倦んでいる。何もしなくなって今日で3日目。明日からは論文を書かなくてはいけないので、今度はそちらの作業に移ります。

このような生活は、自分の望んでいた生活なんだろうか。読書ができないのが辛い。映画も、ドラマも、アニメも、今は見る気持ちがどうしても起きません。めんどくさいから。そんなことをしている暇はないから。やる気が一切起きない。好奇心から何かを為そうとする気概はとうに失せました。こんなことになった原因、その元凶は研究を第一義に置く今の生活なのではないだろうか。

この生活から抜け出すことができれば、もっと心に余裕を持ち、読書もはかどり、色々なことが好転するのではないか、と感じられるような、そういう切羽詰まった気持ちになっています。

文学への興味は薄れた。研究とは何か。何であるべきか。読みたい小説はある。今の自分には読めないのではないか、という恐れ。好奇心や関心の減退。疲れ。・・・思いつくフレーズを重ねてみると、ネガティブな言葉が並びます。その中に混じる、研究とは何であるべきか、という問い。この問いに真剣に向き合う時間もない。

唐突に、新海誠のことが頭に浮かぶ。実を言うとぼくは『ほしのこえ』を作りたかった。でも、今の生活を続けていたら、ぼくにはそれを作ることは一生できない。作ろうと試みることさえできない。ぼくは小学生の頃から大学では文学をやると決め、作家になることをぼんやりと夢見ていた。それに近い道を選んだつもりでいた。でも、本当はその道からは無限に遠ざかっていたのかもしれない。どうして文学を、読書を、愛せなくなってしまったのだろう。ぼくはどうしてしまったのだろう。

紅白

2010-11-27 23:49:02 | アニメーション
先日、紅白の出場歌手が発表されましたけれども、どういう基準で選んでいるんですかねえ。たぶん美川憲一が落とされたことが一般的には一番の驚きだったと思われますが、でもちょっとアニメに関心のある人たちの間だったら、放課後ティータイムが入らなかったことに注目が集まるのだろうと思います。

ぼく自身、ひょっとすると出場するのではないか、と内心期待していたのですが、やはりダメだったみたいですね。彼女たちは歌番組には出演していないみたいですし、TVはNGなのかな。NHKはアニメーションには寛容と言うか、実はかなり積極的かつ冒険的な放送局なので、案外出演交渉をしていたのかもしれないな、なんて憶測していますが、でも紅白を楽しみにしている世代の人たちの多くは恐らく放課後ティータイムのことを知らないでしょうし、それに実際に歌を聞いたところで、「!?」って感じでしょうから、紅白にはそぐわないと関係者が判断したのかも。

真相は分かりませんが、個人的には残念ですね。

紅白とは関係ないですが、同じくアニメのバンドのメイズについて。このあいだの放送の、学園祭ライブで歌ったシーンはよかった。もう学園祭ライブとか手垢にまみれているような気がしなくもないですが、作画に気合が入っていて、目を瞠りました。ドラムとか。

焼きリンゴ(3)

2010-11-26 22:17:39 | Weblog
今日は朝早くに病院に行って、それから学校に行こうと思っていたのですが、病院の待合室にいるときから妙に体が重く、だるいので、登校せずに家に帰ってきてしまいました。大学は今だぶんイチョウの黄葉がピークを迎えているでしょうし、また図書館に本を返却する予定もあり、というか授業があったんですけども、無念の帰宅。こんなに体が鉛のようになるのは久しぶりです。ですが、午後になると体調も回復し、今はまた元気になりました。ふう。

というわけで、突然降ってわいたような休日。よし、焼きリンゴを作ろう。
きのう教えてもらった通り、紅玉を使いました。芯を大きなスプーンでくり抜いて、そこにバターと砂糖を詰める。汁がこぼれるというので深皿にリンゴを載せます。教えてもらったホームページも参照して、リンゴの周囲にフォークで小さな穴をぷすぷす開けて、皮にバターを塗りたくる。これで準備は完成。後は焼くだけ。

いつでも開けて中を見られるように、と思って手軽なオーブントースターで焼くことにしました。20~30分間加熱させるそうなので、とりあえず20分、と思ったら、つまみが15分までしかないので、10分+10分で加熱しようと思い改めてとりあえず10分のところにつまみを合わせる。

7,8分経った頃から、リンゴの中に詰めていたバターと砂糖の溶けたものが大きな音でジュージューと鳴り始めました。心配になって蓋を開けたら、なるほど汁がこぼれ出てお皿の上でジュージュー言っている。ですが少量なので、そのまま放置して加熱しつ続けることに。オーブントースターから白い湯気が上がり、これは大丈夫なんだろうかと愈々不安は募りますが、まだ10分しか経っていない。

残り10分加熱しないといけないのですが、既に最初の10分でかなりいい感じに仕上がっているように見えたので、5分だけ加熱することにしました。2分ほど経ったときでしょうか、突然トースターの中がパッと赤く煌めきました。さすがに驚いて、蓋を開けます。相変わらずバターと砂糖の溶けたものはジュージュー沸騰している。また閉めて、トースターを見守ることにしましたが、すると再び赤い光が。これはやはり危険なんじゃないだろうか、と思って、加熱はここでやめ、焼きリンゴは完成したとみなすことにしました。まだ12分しか経っていませんが、見た目はなかなかいい感じなのです。

リンゴを取り出して、ナイフでちょんちょんとつついてみると、やわらかい!やはり完成ですね。早速丸ごと一個の焼きリンゴを試食することに。ナイフを入れてみると、上の方はさくりと切れるのですが、下の方は少し力がいる。熱の伝わり方が均等ではないのか、それともリンゴの底の方はくり抜かなかったので芯がまだ残っていのか、定かではありませんが、ともかく硬度が違う。でもまあいいや、と思って一口食べてみると、けっこういけるじゃないですか。お店で食べるのと遜色ないほどの出来栄え。と個人的には思いました。少し歯ごたえがある部分も、かえってリンゴのよさを残している気がして、これはこれでいい。おいしい。甘味も酸味もほどよく、やっぱり焼きリンゴはいいなあ。あっという間に一個たいらげてしまいました。

明日もまた作ってみたいと思います。ただ、うちのオーブントースターは駄目ですね。赤く光りましたからね。危ないです。明日はレンジのオーブン機能を使って調理する予定。今日はシナモンをふるのを忘れてしまったので、明日は是非こちらもぱらぱらと。

ネットをぶらぶらしていたら

2010-11-26 00:00:35 | Weblog
ネットの海にダイブしてみたら、ブログで自分が書いているのと同じようなことを書いている文章に出くわした。だからどうっていうわけではないですけど、ちょっと背筋が寒くなりました。

それはそうと、幾つかアニメーションのレビューでも書いておきたいなあと思いつつも、明日は朝が早いのでもう寝ます。みなさまいちにちお疲れさまでした・・・って、新海誠の決めゼリフを借用しつつ、夜の海にダイブするのであった。引用がいっぱい。

焼きリンゴ(2)

2010-11-24 01:08:52 | Weblog
なぜ「(2)」かというと、2009年の12月にもぼくは「焼きリンゴ」というタイトルでブログを書いているからでした。

丸々一個のリンゴを甘くして焼いた焼きリンゴがぼくは好きで、といっても、これまでの人生でまだ二度しか食べたことがないのですが、ともかくそれはリンゴも甘いものも好きなぼくにとってはなんだか夢のような料理なのです。

で、これまではお店で食べるものだとばかり思い込んでいたのですが、どうやら焼きリンゴって家庭でも簡単に作れるそうですね。たしか去年だったと思うのですが(それとも今年早々?)、ちびまる子ちゃんたちが焼きリンゴを焚き火で作っていました。うちでは焚き火は無理ですが、電子レンジだかオーブンだかでできるらしい。で、冬が来たのでうちでも焼きリンゴを是非作ってみたい。が、レシピが分からない。たぶんネットで探せばすぐに見つかるのでしょうが、ものぐさなのでめんどい。誰か教えて。

このあいだ友達に焼きリンゴのレシピを家の人に聞いといてくださいとお願いしていたのですが、別にこれは催促じゃないので、気にしないでください。でももし機会があったら聞いといて下さい。

さて、リンゴを丸ごと使った食べ物でアッフェルバウムとかいう名前の商品がありまして、アップルとバウムクーヘンの合体おやつです。これは、丸ごと一個のリンゴの周りをバウムクーヘンでくるんだ奇抜な食べ物で、ですがご想像通り、とてもおいしい。本当においしい。しっとりとしたバウムクーヘンと瑞々しいリンゴのえも言われぬコラボレーションはまさに画期的な発明であり、発案したユーハイムには何か賞を贈りたいくらいですね。

というわけで、リンゴを丸ごと使った料理がぼくは好きなのです。他にもあるのかなあ。でもとりあえず、焼きリンゴのレシピが知りたいのであった。

つづき(2)

2010-11-22 00:02:24 | アニメーション
庵野秀明『新世紀エヴァンゲリオン』(TV版)、宮崎駿『ハウルの動く城』(どうだ驚いたか!)、新海誠『ほしのこえ』、石原立也『CLANNAD』(どうだ驚いたか!)、川本喜八郎『道成寺』、政岡憲三『くもとちゅうりっぷ』、高畑勲『太陽の王子ホルスの大冒険』、山村浩二『頭山』、沖浦啓之『人狼』、今敏『千年女優』

もういい加減この企画を引っ張るのにも飽きてきました、というか、これは企画だったんだろうか?

いまさっきETV特集で三人の若手アニメーション作家を特集しているのを見ました。ちょっと勇気が湧いてきた。岡田、有吉、倉田の三人。

さて、どうして『CLANNAD』を入れたのか、という話です。本当は『ハルヒ』にしようかと思ったのですが、同じ京都アニメーションからクラナドの方を選びました。正当的なものを選んだ、ということです。ハルヒは極めて実験的な作品で、幾つかの面でとても現代的な作品だと思います。時代を反映しているし、時代を作っている面すらあるように思えます。ですが、それにもかかわらず、ぼくはクラナドを選びました。

クラナドは、ある意味で「日本のアニメ」の現時点での到達点であるように思います。この作品は、幻想的で不思議な出来事を多く描きますが、しかしそこでは基本的には日常の描写に重点が置かれており、日常の仕草、日常の感情が大事に描かれています。その意味で、これはハイジの子孫であると言うことができ、高畑勲が目指した日常描写を継承していると考えられます。高畑勲が目指した、けれどもそれは「日本のアニメ」の一つの形でもありました。一部の日本のアニメは、「実写でも構わない」という言い方がときどきなされますが、実写でもできることをあえてアニメーションで表現することを日本のアニメは選んできました。クラナドはそのような日常描写の血を引いています。

オタク寄りのキャラクターデザインで、そうした日常生活を描き切ったところにクラナドの現代日本アニメにおける位置を見る思いがします。そしてその作品の完成度の高さ。アフターストーリーでの登場人物たちの繊細な感情表現の見事さ。これは「日本のアニメ」が培ってきた技術の結晶ではないでしょうか。これはまことに胸を打たれる作品で、是非次世代の人たちにも見てもらいたいと思わずにはいられません(もしクラナドがオタク意外の人たちから無視されるのだとしたら、それほど悲しいことはありません)。

この文脈で『人狼』も考えられます。これはセルアニメーションの到達点とも称される作品で、やはり「実写でも構わない」作品です。そうすると『人狼』より『攻殻機動隊』を入れた方がベスト10のバランスがいいのですが、前にも言ったようにぼくの好みでこっちを選んでしまいました。

『くもとちゅりっぷ』『道成寺』『頭山』は、今まで述べてきたようないわゆる「日本のアニメ」とは別の文脈の作品で、まあ『くもとちゅうりっぷ』は白黒の作品で古いからというのもあるのですが、そういうこととは別に、これらは個人/少人数制作の短編です。アート・アニメーションという言い方がときどきされますが、商業的な長編ではない、という意味では確かにそうなのでしょう。いずれも極めて有名な作品で、恥ずかしいくらいですが、ベスト10を挙げるに当たって、商業用の長編だけではちょっと日本の現状を反映していないように思われるので、あえて有名かつ優れた、そして評価の定まっている短編を入れてみました。他にもたくさん入れたいのはあるのですが(個人的にたむらしげるの作品が大好きなので特にそれを入れたかったですが)、10個だけなので仕方ないですね。

あと言及していないのは『ホルス』ですか。これはねえ、やはりぼくは記念碑的作品だと思いますよ。60年代にこれだけの大人向けの商業作品を作ってしまったというのは。

変わるものと変わらないもの

2010-11-21 00:41:03 | Weblog
なんとなくCLANNADチックなタイトルですが、今日はそれとは関係なくて、別の話。
昔の友人が、いまメディアアートのクリエーターをやっているということをきのう偶然知りました。どうやらその関係で色んなところで講師も務めているらしい。出世したものである。

大学の講師をしているらしいよ、と友達から聞いて、え、彼が!?そんなタイプではなかったのに、しかも同じ学年で早すぎるだろ、とかなり驚いて、帰宅した後その人の名前を検索してみたら、なるほどたくさんヒットする。しかも写真付き。でも大学の講師というよりはクリエーターらしい。つまり学者ではなく芸術家。なぜか納得する。いや、もちろんびっくりしたし、意外なんですけど、学者はありえないだろ、と思っていたので、芸術家と聞いて妙に腑に落ちたんだと思う。学者というよりは芸術家。そんなタイプだったんだと思います。

翻って自分自身について考えてみる。ぼくは、ぼくの小学校時代や中学校時代しか知らない人たちから、彼は今どうしているだろうと想像されたとしたら、彼らの予想のつく人生しか送っていないのだと思う。想定内の人生。クリエーターの彼は、たぶん想定外の人生だ。もちろん、どちらがいいという問題ではないことはぼくにも分かりますが、それでも、予想を裏切るような人生の方がおもしろいんじゃないのかな、と思ってしまう。

ぼくはあまり変わらなかった。一方で、ものすごい変貌を遂げる人がいる。ぼくはそこに留まりつづけますが、別の人たちは大変な距離を移動してしまう。この違いは何なんだろう。どうしてこのような違いが生じたんだろう。もちろん、ぼくだって変わりはしました。高校に入る前は、自分で言うのもなんですが、わりと無邪気な少年で、ある級友からは「いつもニコニコしているなあ」と言われたものです。ところが次第に寡黙になり、いつもつまらなそうな表情を浮かべることが多くなりました。もちろん気の置けない友人たちに囲まれればぼくもよく喋りかつ笑いますが、昔のようにしょっちゅうそのようにしていることはなくなりました。でもそれは性格の問題で、人生の進路として、大きく軌道が変更したというふうには思えないのです。例えば、ぼくが弁護士になったとか、作家になったとか、先生になったとか、そういうふうになったとしても、想定内だと思うのです。そうではなく、宇宙飛行士になったとか、警官になったとか、それこそメディアアートのクリエーターになったとか、そんな意外な変貌を遂げていたとしたら、ぼくはかつての軌道から自ら逸れたということになるでしょう。

ぼくの前にレールが敷かれていたとは思いません。でも、かつての友人たちがあいつはあっちへ進むだろうと思っていたであろう方向へ、ぼくは進んでしまっている。そんな気がしてなりません。もっとも、ぼくはまだはっきり進路が決まっているわけではないですから、その意味では、あいつがこんなに人生に手こずっているとは!と驚かれるのかもしれません。でも、それはマイナスの驚きですよね。プラスの驚きを与えたいなあ、と思うわけです。要は、人から「マジで!意外!すごいじゃん!」と言われるようなことをしていたかったというわけです。けっこう人からどう思われるのか、どう見られているのか、ということを気にするタイプなんですよね。人付き合いは悪いくせに。

変わっていない、ということは、どういうことなんでしょうか。人に驚きは与えないかもしれませんが、安心を与えたりするのかな、なんて思いもしますが、どうなんでしょう。君は相変わらずだなあ、というのは、実は「だからほっとするよ」という意味がその言葉の下に隠されているのではないか、そんな気もします。

また、ぼく自身、変わることを恐れているというのは事実です。より正確に言えば、大人になることを恐れている。変わってしまう人というのは、大人になることを恐れなかった人なんだろうか。それとも、彼らは実はちっとも変わってなんかいないんだろうか。そもそも変わるということはありえるのだろうか。

ベスト10のつづき

2010-11-19 01:28:21 | アニメーション
先日の国内アニメーションベスト10(自己評価)のつづき。

庵野秀明『新世紀エヴァンゲリオン』(TV版)、宮崎駿『ハウルの動く城』(どうだ驚いたか!)、新海誠『ほしのこえ』、石原立也『CLANNAD』(どうだ驚いたか!)、川本喜八郎『道成寺』、政岡憲三『くもとちゅうりっぷ』、高畑勲『太陽の王子ホルスの大冒険』、山村浩二『頭山』、沖浦啓之『人狼』、今敏『千年女優』

ということでしたが、前回は、なぜハウルを入れたかという説明で終わってしまったので、今日は残りの作品について、なぜ選んだのかを。

まず、『ほしのこえ』。新海誠の作品、とりわけ『ほしのこえ』は、映画としての完成度はそれほど高いとは思われません。では、なぜこの作品をベスト10に数えるのか。そもそも、もしも完成度を重視するなら『秒速』を選んでますし、完成度という基準をぼくは必ずしも万能だとは思いません。ストーリーに無駄がないとか、うまく伏線が張られているとか、キャラクターの行動に納得のいく理由が用意されているとか、そういうのは確かに映画を判断するうえでの一つの価値基準だとは思いますが、絶対ではありません。新海誠はこういう枠組みから逃れ出る作家です。別の評価があっていい。

一人で制作したものを商業ベースに乗せてしまい、それから少人数で商業作品を作り続けている、というこの出自と経歴がまず新海誠の特異なところです。ふつう、日本では劇場用長編を作るのはTVシリーズで修業を積んだ監督であり(もちろん例外もいるが)、大規模なスタジオで長編を制作し、他方、一人ないし少人数で制作する人たちは商業作品でない短編を主に作っています。素人が一人で作った、ということが画期的だと当時評されたのは、こういう背景があってのことです。もっとも、多くの人は短編アニメーションの制作事情など知らないでしょうから(ぼくも含めて)、一人でアニメーションを作った、ということそのものが驚きの対象であったということもあるでしょう。多少の事実誤認があったにせよ、ともかく新海誠は一人でもアニメーションを作ることができるということを世間に広く知らしめたのであり、そしてその作品が驚異的にクオリティの高いものだった、ということが『ほしのこえ』がアニメーション史において重要な位置を占めている理由の一つです。

予告編はネット配信され、作品はパソコンの画面上で作られ、公開されたのが2002年、まさに新海誠は21世紀の申し子であったと言えます。しかし彼の革新性はそのような歴史性を帯びたものばかりではなく、作品自体にも表れていました。まず、風景への異常なほどの拘り。アニメーションというものは、大抵の場合は人物やストーリーが主要な要素であり、監督を務めるのも元アニメーターだったり専門の演出家だったりします。ところが新海誠は風景を描くことに執念を燃やし、風景を映画の主要な要素にまで高めてしまった。その一度見たら忘れられないほど美麗で透明感のある風景は、新海作品と言えばまず浮かんでくるイメージであって、とくに『ほしのこえ』は人物描写の弱さも相俟って、風景美が突出しています。かつて、ジブリの描く緻密で美しい風景はよく話題になりましたが(今ではそれほど珍しくなくなっているが)、新海誠は一人でかつてのジブリ的風景を乗り越えてしまっている。これはとてつもないことだと思います。
それからテーマ性。思春期の少年少女の想いをストレートにぬけぬけと描き切った『ほしのこえ』は、恐らくはパーソナルな作品だからこそ許された自由さで伸び伸びしており、世界観が社会性を欠いていることを逆に武器にしています。余計なものをそぎ落とした、まるで詩のようなこの作品は、その意味でも画期的でした。

また、メカに乗る戦闘美少女という設定はいかにも日本的であり、エヴァやマクロスを参照しながらもそれでいて独自色の濃いものに仕上がっており、やはり21世紀の「日本のアニメ」を語る上で『ほしのこえ』は外せないと思うのです。

・・・あれ、ベスト10について語るつもりが、新海誠オンリーになってしまった。次回はCLANNADから始める予定ですが、注意して短めにしよう。

世界のアニメーションシアター

2010-11-18 00:26:25 | アニメーション
下北沢はトリウッドで現在開催されているWAT。ヨーロッパの短編アニメーションがたくさん上映されています。どれも近年制作されたものばかりというのがうれしい。
ぼくはとりあえずプログラムA、B、Cを見てきました。近日中に残りのD、Eも見るつもりです。

プログラムB~Eが「ヨーロッパショート」であるのに対して、Aは唯一の作家特集。イザベラ・プリュシンスカの短編が4本入っています。これが、なかなかの傑作だった。「ブレックファースト」「あと7分」「ジョゼットのひとり遊び」「ベルリンの野うさぎ」と続く中で、いきなり最初の「ブレックファースト」に目を瞠り、そして、「ジョゼットのひとり遊び」で度肝を抜かれました。この作品、A・B・Cの3つのプログラムの中で、個人的には最高でした。

チラシの解説を読むと、イヨネスコの児童書をアニメーション化したものらしい。イヨネスコの児童書か、そりゃおもしろそうだな、と期待していたのですが、案に違わず、そのどこか奇怪な世界に戦慄しました。歪んだパース、少女の囁き、母の不在、少し不気味な父の語り。少女の内面世界と外的世界とが混ざり合い、それに父の一種の冗談が現実を不条理に変え、世界は混沌として謎を孕み、めくるめく幻想世界が展開してゆきます。幻想、と言ってもいわゆるファンタジーではなく、現実と地続きの、条理と不条理との区別のつかない少女の心象風景に近く、それはどこか比喩を実際と取り違える人の迷妄にも似て、あるいは言葉遊びの世界の現実化とも一脈を通じる、すこぶる曖昧で未分化な、美と醜・歓喜と恐怖・安心と不安といった背離するものが一体になった、がさがさと心の騒ぐ暗い幻想です。

プログラムBで一番の注目作はやはり広島でグランプリを取った「アングリーマン~怒る男~」でしょう。これは家庭内暴力の話なのですが、父親の暴走と幼子の恐怖及び内罰感情とで緊迫する前半は特筆もの。ほとんどホラー映画を見るように恐ろしく、凄惨なシーン自体はないにもかかわらず、家庭環境の凄惨さが岩を背負ったように心を重苦しくします。ところが、全編を見終わると、これはある種のキャンペーン作品だったことが分かります。後半は転調し、再生への希望が描かれます。う~む、希望や救いを描くことはいいのですが、こういう描き方ってどうなんでしょうか。実話に基づいているとは言いますが、ぼくにはちょっと強引なような気がしたし、それにあっけなかった。あの前半の画面に漲る緊迫感はどこへ行ってしまったの・・・。ただ、切り絵のデザインはとてもハイセンスで、非常に好感を持ちました。ぼくは切り絵アニメが好きなので、個人的な嗜好に技術面がマッチしていました。とはいえ、傑作になり損ねた作品かな、という印象ですね。

プログラムCは、「水泳王ジャン・フランソワ」と「ミス・リマーカブルの就活」が印象に残りましたが、とりあえず後者について。
どうも最近、悲惨なアニメーションというものをよく見ている気がします。「メアリーとマックス」やハーツフェルトの連作、そしてこの「ミス・リマーカブルの就活」(ちなみに題名は普通に「就職活動」でいいんじゃない?と思うのですが・・・)。自己嫌悪に陥り、恋人を自ら捨て、何をやってもうまくいかず、親の干渉から逃れられず、才能や独創といった言葉に囚われ、やりたいことは見つからず、ついに自殺を選ぶ・・・
色々な面から見て、ハーツフェルトの方が上だと思います。その物語の畳みかけ方、哲学、悲劇の質、どれを取っても。加えて、この「ミス・リマーカブル」はエンディングが弱い。この物語をどう収束させるのだろうか、と期待と不安を感じながら見ていたのですが、不安の方が的中した形に。こういう肩すかしではなく、やはり納得のできるような、説得力を持つラストにしてほしかったです。エピソードに説得力を持たすのか、映像に説得力を持たすのか、考えどころではありますが、どちらも乏しかった。これも傑作になり損ねたかな、という感触。

今日は雨がちで日中の気温は10度を大きく下回ったそうですね。寒い11月だ。

国内アニメーション・ベスト10を考えてみる

2010-11-17 00:54:44 | アニメーション
このあいだのつづき。
これまた自分なりに考えてみます。もちろん暫定的なものということで。順位はなし。

庵野秀明『新世紀エヴァンゲリオン』(TV版)、宮崎駿『ハウルの動く城』(どうだ驚いたか!)、新海誠『ほしのこえ』、石原立也『CLANNAD』(どうだ驚いたか!)、川本喜八郎『道成寺』、政岡憲三『くもとちゅうりっぷ』、高畑勲『太陽の王子ホルスの大冒険』、山村浩二『頭山』、沖浦啓之『人狼』、今敏『千年女優』

どこかに久里洋二をぶっこみたかったのだけれど、難しいな、やはり10個はきついです・・・

それにしても、有名な監督と作品だらけになってしまいました。そのことに関して、あるいは関せず、色々と言い分はあります。まず、耳をすませばがないということ。今回は、個人的な嗜好を前面に押し出すことはやめたので、こういうことになりました。また、一作家一作品にしました。原則的に同じスタジオから複数の作品を選ぶのもやめました。ではガンダムがないのはなぜ?押井守がないのは?・・・悩みましたが、「ロボットもの」の括りでその代表はエヴァに、I.G.は人狼を代表にしました。って、もろに個人的嗜好ですが、二者択一のときは自分の好みで選びました。

今敏は哀悼の意も込めて。やはり完成度の高い『千年女優』がいい。それぞれには選んだ理由があります。エヴァはやはり革命的作品であるということ。テーマ、社会への影響、技術などなど、後の映画版もひっくるめて革新的な作品でした。

宮崎駿からはどうしてハウルが?アニメーション史的意味を考えるなら、やはりナウシカ、宮崎アニメの集大成と言うならばカリオストロかラピュタ、皆が大好きなのはトトロ、社会現象となったのはもののけ、国際的に評価されたのは千と千尋、後期の特徴を非常によく表しているのはポニョ、などなどなどなど、宮崎駿の代表作はたくさんあります。ではどうしてハウルを選んだのか?まず、前期と後期に宮崎駿の監督作をぼくは分けました。だいたいもののけが分岐点と考えていいでしょう(移行期間もあり)。そして、前期と後期とどちらから選ぶのかを考えました。前期には多くのファンがいて、後期には以前からのファンは戸惑ったりしており、昔ながらの漫画映画的な面白みは薄れているように感じられます。前期は映画的な結構が比較的しっかりしており、後期はそれを崩す方向に向かっている。ぼくは、現在進行形の宮崎駿を支持したいと思った。過去のいわゆる「宮崎アニメ」を持ち上げることは余りに容易い。けれども、方々で非難を浴びることがある後期の作品にこそ、ぼくは宮崎駿の天才を見ます。ハウルという作品は、その「後期性」が初めて非常にあからさまな形で露出した作品だと思うのです。もののけや千と千尋には既に物語上の不審点が存在し、あるいは必ずしも昔のような分かりやすいハッピーエンドが用意されているわけではありませんが、より多くの観客にとって物語の崩壊が明らかになったのは、やはりハウルからだと思うのです。また、この作品で宮崎駿は自作を語ることを封印しています。宣伝戦略もあったでしょうが、結果的にこのことは、ナウシカ以来作家性が問われてきた「宮崎アニメ」を、再び観客の側に返す契機になりました。作者から観客へ、というパラダイムシフトが行われたと見るべきです。時期はちょうどネットの隆盛と重なりあい、観客が宮崎駿の「意図」を無視して(と言うよりは意図を知る手立てがなかった)自由に作品について語り合うことが可能になりました。これは、「宮崎アニメ」の歴史にあっては画期的なことだったと考えます。もちろん、制作者への取材こそが作品理解に資するものだ、という考え方は根強くあるでしょうが、作者から観客へ、というシフトを重く見たいとぼくは思うのです。そういう意味では、専門外の人が我も我もと自論を展開したもののけも大きな意義を持っていますが、宮崎駿の態度や謎を孕んだ作品構造そのものが観客の多様な解釈を許容するハウルの方が、よりこのシフトを決定的にしています。他にも様々な要因がありますが、ぼくはハウルを宮崎駿の代表作とみなします。

それにしても、異様に長くなりました。残りの作品についてはまた後日ということで。

『パン種とタマゴ姫』とロシア

2010-11-15 23:06:41 | アニメーション
ご存じの通り、宮崎駿の新作短編が11月20日からジブリ美術館で公開されます。『パン種とタマゴ姫』。魔女のバーバ・ヤーガから逃げ出したタマゴ姫の物語、だっけ?

ともかく、バーバ・ヤーガという魔女が登場するらしいのですが、バーバ・ヤーガあるいはバーバ・ヤガーは、ロシア民話に登場する有名な魔女の名前です。ちょっと驚きましたよ。ロシア民話から人物を取ってきたことが?いやそうではなくて、改めてバーバ・ヤガーを持ち出してきたことが、です。改めて?そはいかなることか。

バーバ・ヤガーは、ロシア民話の中では森の中の小屋に住んでいるという設定になっていて、その小屋というのが、一本の鶏の脚に支えられているということになっています。小屋の下からにょきっと鶏の脚が突き出している格好です。さあ、これで「あっ」と思った方、いますか。思ってください。ハウルの城に似ているのです。あの城も、まるで「大きな小屋」みたいな外観でしたが、それを支えているのは二本の鳥の脚でした。ぼくはあれを見たときにすぐにバーバ・ヤガーを連想しました。同じように考えた人は他にもいたようで、ぼくはどこかで誰かがハウルの城とバーバ・ヤガーとを重ね合わせた文章を書いているのを読んでいます。

だからこそ、改めて持ち出してきたな、と思ったわけです。宮崎駿がハウルを作っていた当時既にロシア民話を読んでいたのか、それとも後から知ったのかは分かりませんが、意図してかしていないかはともかくとして、宮崎駿はロシア民話に直結するイメージの出てくる作品を二つ、作ったことになります。だからなんだ、と言われると困ってしまいますが、宮崎駿の監督作もロシア文学も両方好きなぼくとしては、そんな些細な偶然(?)がちょっぴりうれしかったりするのでした。

無駄話

2010-11-14 22:15:09 | Weblog
ウォッカ撲滅キャンペーンを張っておけばよかった。ウォッカは正直言ってかなり堪える。

さっきからどうも心の具合が悪い。もうドロップアウトしようかな、と投げやりな気持ちになっている。なんだかいらいらするし、これは疲れているからか?明日は早いし、今日は早く寝てしまおう。

色々と考えて書くのが今は億劫なので、このへんで失礼させてもらいます。こんな手抜きの記事でもいいんだろうか、とちょっと真剣に悩みつつ・・・