Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

『ハルムスの幻想』

2009-03-31 00:01:04 | 映画
きのうのフィルムセンターのことから書こうか迷いましたが、記憶がより早く薄れそうなこちらを先にアップします。

スロボダン・D・ペシチ監督の『ハルムスの幻想』。
一応断っておきますが、実写映画です。

東大でハルムス関連のちょっとした催しがあって、そこで観てきたのですが、まあおもしろいものではないです。ハルムスが逮捕されるまでの生活と彼の種々の作品とを前触れなしに交叉させつつ、そこに天使という幻想的なキャラクターを紛れ込ませた映画。

ハルムスについてはここでも何度か取り上げているのですが、ロシアのだいたい1930年代前後の作家・詩人です。ぼくはこの人の作品が好きで、日本語はもちろんロシア語でも読んでいます。日本では一般にほとんど知られていない作家で、今日東大の教室も閑散としていましたが、しかし近年急激に日本でも注目されるようになっています。日本における海外文学界で圧倒的な知名度を誇る柴田元幸氏の『モンキービジネス』(原著の題名は英語だったと思いますが)で紹介され、つい最近もやはり柴田元幸編の『昨日のように遠い日』で短篇が数編訳されています。他にも『ハルムスの小さな船』という一冊丸々をハルムスの作品で構成した単行本が出版されましたし、『飛ぶ教室』という児童文学の本でもハルムスが扱われています。絵本も出ています。つい4、5年前まではこんな状況が来るとは想像だにしていませんでした。たぶん柴田先生がハルムスに興味を持ったことが大きいでしょうね(それがいつかは聞いてないですが)。一般の読者にもハルムスの存在が知られるようになりました。

映画の話に戻ります。『ハルムスの幻想』では、ハルムスの作品が(もちろん実写化されて)随所に挿入されます。したがって、彼の作品(さっきから「作品」という中性的な名詞を用いていますが、これはハルムスの書くものが「小説」という概念から逸脱しているため)を読んだことのない視聴者は、映画を観ても意味不明だろうと思います。ハルムスの伝記的部分とその作品部分とが何の境界線もなく溶け込み入り混じっているので、分かる人には分かる、という些か倣岸な映画と言えるかもしれません。ぼくは幸い元ネタを色々と知っていたので、チンプンカンプンという事態は避けられましたが、最初にも書いた通りさほどおもしろくないことには変わりません。

この映画に対しては、総括的な興味というよりは、断片的な興味をそそられるというのが普通の鑑賞態度だと思われます。今日の催しでも質問として挙げられた、事物のシンボル(例えば梁は何を象徴しているのか、など)や、天使の翼の技術的問題(あるいはそれに関する監督の意図)、天使の両性具有性、ワンカットの長回しなどは、その一例でしょう。これに加えてぼくが関心を持ったのは、色彩です。カラーで始まった映画はモノクロに変わります。伝記的部分がモノクロで表現され、ハルムスの作品の実現はカラーで表現されるのかと思いましたが、そう単純ではないようです。例えばモノクロの中にも空だけが青や赤錆色に塗られていたりします。ちなみにこの画面設計はカレル・ゼマンの映画を想起させます。彼は実写とアニメーションとを混交させたトリッキーな作品を撮っていますが(ぼくの想定しているのは実写がモノクロのもの)、そのような混在性が、実写の建物と人工的な空の色との対比に見出せるような気がします。ところで映画において色彩が意味ありげに使用されている例として、タルコフスキーの『鏡』を挙げないわけにはいきません。これは基本的には過去と現在とで色が使い分けられるのですが、やはり複雑な基準があるようです。

この映画の中ではハルムスは割と常識人のように描かれていますが、実際にはエキセントリックな人物であったようです。映画のハルムスは天使についてこのように言います。彼らは天使をおかしなもののように見るが、おれにはそう思えない、と。これはハルムス本人に向けて言われている言葉のようにも思えます。そうすると天使とハルムスとは親近性があることになりますが、事実、分身的な関係性にあったのではないかと推測できます。それは、天使がハルムス本来の「異質性」を肩代わりしていた点、また最後にハルムスが翼を持った天使(?)になる点からも判断できます。

先の天使について述べた言葉から想像されるように、ハルムスが何を異質なもの、奇妙なもの、不条理なものと見ていたかということは興味深いテーマで、この映画は実にその「奇妙なもの」について語られた作品であるように思いました。ハルムスはソ連社会そのものを奇妙なものと感じていたのではないか、とぼくは個人的に考えているのですが、ハルムス的な意味不明さの溢れるこの映画も、ハルムスにとっては真っ当な世界を切り取ったものなのかもしれません。

新海誠ふうのCM

2009-03-29 00:12:27 | アニメーション
去年の12月から放送されるようになった大成建設のCM,今日初めて観ました。驚きました。新海誠じゃん。

でも新海誠のHPにはそんな情報書かれていないので、一体どういうことなんだろうと思って先ほど検索してみたら、なるほどね、と納得。以下、その解説記事。

                          ★

映像のタッチから、CMを見た視聴者には人気アニメーション作家の新海誠監督の名前を思い浮かべる人も多いようだ。しかしこのCMには新海誠監督は関わっていない。監督・キャラクターデザイン・作画に田澤潮氏、美術に丹治匠氏と新海誠監督の代表作のひとつ『雲の向こう、約束の場所』のチーフスタッフによるものだ。
 そして撮影には『秒速5センチメートル』の制作にも携わった竹内良貴氏が参加した。竹内氏は今年、自主制作した『まよなかのいちご』が第12回広島国際アニメーションフェスティバルにコンペティション入選や、第14回学生CGコンテストで佳作などと各所で評価を得てもいる。

                          ★

丹治匠の存在が大きいですね。あの風景描写は新海誠直伝ですからね。それにしても、こんなCMがあるとは今日まで知りませんでした。見たことがない人は、たぶんびっくりしますよ。まんま新海誠ですから。もしこれを別の人が作ってたら剽窃じゃないのってくらい、まんまです。実際別の人が作っていたわけですが、まあチームみたいなものですからね。

あの透き通るような、グラデーションのかかった空の色、清々しい雲の形、いいですね。ぼくは新海誠の美術によって、世界を見る目が鍛えられたような気さえします。何気ないものにも美しさを見出す目、のようなものを。それは宮崎駿の言う「イバラード目」と同義ですが、イバラードが現実から飛躍した世界のように映じるのに対して、新海誠の美術は本当に現実と地続きですからね。どちらがいい、と判断することはできませんが、後者の方がより馴染みやすいような気がします。イバラードも素敵なんですけどねえ。

木曜のアニメ総括

2009-03-28 01:20:26 | アニメーション
ところでルパンVSコナンは思ったよりずっとおもしろかったですね。最後がちょっとカリオストロぽかったですけど。二人が敵対するのではなくて協力するという展開は予想通りで、お約束も押さえるところはきちんと押さえていました。ただちょっとルパン一味の活躍が目立たなかったかな、という印象はありますが(盗みのシーンがないよ)。エピローグで彼らの魅力を引き出して余韻を残すあたりはけっこう上手いですけど、カリオストロに頼りすぎって感じも。それにしてもどうやってルパンたちはコナンの正体に気付いたのでしょうか。脚本はもう一山あるとなおよかったですが、しかしけっこう楽しめました。最近のルパンのテレビスペシャルよりはよっぽどね。

さて、今週で終わった木曜のアニメの感想

「Genji」
とにかく美しく見せようという心意気の感じられた作品。画面の隅を暗くしたり、ときには全部を暗くしてただ台詞だけが聞こえるようにするなど、闇を効果的に使った演出もその「美しさ」に貢献していました。流れるような花や雪の描写もきれいでしたね。だから、そういう抒情的な演出を一貫させればよかったのですが、最終回におかしな格闘シーンを入れたせいで、美の統一性が少し崩れてしまったような気がして残念です。で、ストーリー自体はあんまりおもしろくなかったですね。まあストーリーに期待するアニメではないと思いますが。

「明日の与一」
普通の漫画を普通のアニメにした、という感じの作品。おもしろいシーンも幾つかありましたが、結局は子供だましかな。それは最終回で如実に現れてますよね。記憶が戻った理由が説得力のあるものではなかったことや、取ってつけたような兄妹愛など。ただ興味深いのはあのトリガヤ。なんで背が縮んでいくんだ!?漫画ではそこらへんが解明されるのでしょうか。別につまらないわけではないですが、優れた作品というわけではないです。

「CLANNAD」
これを超えるアニメ、いや同水準に達するアニメは、向こう5年間は出現しないだろう(少なくてもぼくは観ないだろう)と思います。とにかく群を抜いていました。ストーリーと作画の両面で。それに演出も。

とうとうCLANNADの放送は完全に終了してしまいましたが、ほっとした気持ちと、大事な人が旅立ってしまったような寂しい気持ちとがぼくの中に混在しています。総集編が必要だったかどうか分かりませんが、朋也があの記憶を持ち続けていることが明らかにされたのは、ひょっとすると大きかったかもしれません。この総集編は、単に時系列・放送順で振り返るというよりは、物語を再構成してこれまでの出来事を振り返っており、そこはさすがだなと思います。ただ、1年分の内容を25分でまとめるのですから、無理があるのは確かですが。

CLANNADは街の物語、友情の物語、恋の物語、家族の物語、そして人生についての物語でした。後半はどんどんシリアスになってゆき重苦しいムードが立ち込めるのですが、最後の最後に救われて、希望の物語になりました。アニメをバカにしている人や、関心のない人にはCLANNADを勧めたいですね。こういうものを観てしまうと、アニメを白眼視できなくなります。とにかくすばらしい内容でした。いつかまた、春原のバカっぷりを見れたらいいな。

エストニア最新作品集

2009-03-26 00:51:39 | アニメーション
ラピュタ阿佐ヶ谷で「エストニア最新作品集」を観てきました。ところが、ちょっとしたハプニングが。上映が開始されてスクリーンに映し出されたのは、カスパル・ヤンシスの「ウェイツェンベルグ・ストリート」。あれ?これって「エストニアの作家たち」のプログラムにあった作品じゃないの?まさか二つのプログラムに同じ作品が収録されてるってことはないよな。ということは、間違って上映されてるの?頭の中を色々な想念が駆け巡りましたが、とりあえず次の作品で間違いかどうかを最終的に判断することにしました。このカスパル・ヤンシスのアニメーションはけっこうおもしろいので、これを観終えてからにしようと思ったのです。

果たして次の作品も「エストニアの作家たち」の中にあったウロ・ピッコフの「人生の味」でした。これが始まるとすぐにぼくは真っ暗な部屋から脱け出しました。一応手持ちのパンフレットでプログラムを確認して、上映作品が間違いであるということを確信。受付へ急ぎました。「いま「エストニア最新作品集」が上映されているはずなのに、「エストニアの作家たち」がかかってますよ」と指摘すると、受付の人はさすがに驚いたみたいで、事務室みたいなところへ入ってゆきました。やはり間違いだったらしく、これから「エストニア最新作品集」をかけ直しますとのこと。ぼくはもう一度スクリーンの前に戻りました。途中まで流されていた「人生の味」はいきなりストップし、係りの人の謝罪とともに「エストニア最新作品集」が始まりました。これで一件落着。

それにしても、間違った作品がかかっていることをぼくの他にも知っている人がいたはずです。実際、上映後にそんな会話を耳にしました。ところが誰も行動を起こさなかった。あの時点でぼくが間違いを指摘しに行かなければ、最後まで別の作品が上映され続けていたかもしれません。そんなに受身で大丈夫なの、と心配になります。ぼくが特別行動的だというわけでは決してないのですが、何に対しても「ま、いいか」という精神ではいけないのでは、と疑問に思います。ミスをしたのはラピュタ側ですが、ミスをそのまま見過ごしてしまうのもやはり罪ですよね。報告することで傷口を広げずに済み、取り返しのつかない事態を避けられました。しかしこんなことってあるんですね。ちなみに、上映終了後にお詫びとしてラピュタの無料招待券をもらいました。ちょっと得しちゃいました。せっかくだからもう一本観てみようかなあ。

なんか作品のレビューを書く余裕がなくなってきました。少しだけ触れます。
カスパル・ヤンシス「マラソン」はおもしろかったです。このヤンシスという作家は注目ですね。今回のエストニア特集で最大の収穫でした。犯罪者がマラソン選手に紛れて警察の手から逃れる、というのが基本ストーリーなのですが、それに様々な滑稽な出来事が絡んで、ユーモア溢れる佳品になっています。

それと印象に残ったのは「ドレス」(イリナ・ガリン、マリ・リース・ヴァソフスカヤ)。ちょっとシュヴァンクマイエルを思わせる作風です。人体が何百年もの間に埃や黴に覆われていく様子、というのはこの作品を観てのぼくの個人的な直感なのですが、腐敗したようなヴィジュアルが退廃的で且つ廃墟のような神秘的な美しさをも湛えていて、目を瞠るものがあります。少し不気味なので好みではないのですが。

カナディアン・カトゥーン

2009-03-25 00:57:18 | アニメーション
東京駅の近くにあるフィルムセンターで開催されているカナダアニメーション映画祭に行ってきました。今日観てきたプログラムは「知性とユーモア:カナディアン・カトゥーン」。この題名どおり、とても楽しめました。概して海外の短篇アニメーションには「芸術的」過ぎて退屈なものが多いのですが、このプログラムの中にはそんなものは一つもありませんでした。作画の魅力とかタイミングとか音楽との協調とか、そういうものはとりあえず措いておきます。中味がおもしろいのです。

最初の「ハエを飲み込んだおばあちゃん」はパンフレットに「マザーグース的なカナダの民謡をもとにしたセル・アニメーション」とありますが、非常にシュールな内容ながら、歌詞の反復の生み出すリズム感とユーモアが効いていて、つかみはOKという感じでした。おばあちゃんがハエを飲み込んで、それから鳥を飲み込んで、猫を飲み込んで、犬を飲み込んで…という連鎖をどんどん繰り返してゆきます。鳥はハエを退治し、猫は鳥を退治し、犬は猫を退治し…と歌われます。で、最後には馬を飲み込んでおばあちゃんは死んでしまいましたとさ、というお話。意味なんてありません。このテンポを楽しむだけです。途中で「どうやって飲み込んだの」とツッコミ(?)が入るのですが、それを無視して歌が続いてゆきます。そういうところはノンセンスというものに自覚的でいいですね。

次の「会社でへとへとになった日」は個人的には一番笑えました。内容はどうってことはなくて、ある男が絵だか写真だかが壁にたくさん掛けられた部屋(会社の事務室?)で歌を歌い続け、その際中に電話が何度もかかってくるが、出ようとしない、というだけの話です。そして5時になるとそそくさと帰ってゆく。こんなのもアリなのか、と軽い衝撃でした。タイトルとのギャップがまた何とも言えないですね。

「あやとり」はこのプログラム中で唯一意味がはっきり分からない作品でした。と言ってもつまらないわけではなくて、観ていればなんとなく楽しめます。これは絵が個性的で、こういう色の塗り分け方もあるのか、と新鮮な驚きがありました。ちなみに監督はポール・ドリエッセンで、当プログラム(10作品)の中ではぼくはこの人とジャネット・パールマンしか知りませんでした。

そのジャネット・パールマンとデリック・ラム監督の「どうしてボク?」にはけっこう文学的な香りを感じてしまいました。ある会社員が病院で医者から「余命5分」と宣告されたところから始まる物語。この5分の間に、男は笑い、自暴自棄になり、絶望し、様々な感情を経験します。しかし最後には残された時間を有意義に過ごすために、残り30秒で外の世界へと出てゆきます。30秒では何もできないかもしれません。しかし、世界の見方を変えるには十分な時間です。ユーモアと滑稽を綯交ぜにしつつも、どこか人生論的な教訓を語ってしまう手腕に脱帽。その教訓もユーモアのオブラートに包まれているかもしれませんが、そこがまたいいところでもあります。このような短時間に人生を丸ごと凝縮し感情の山谷を表現してしまうところが文学的で、ヴァムピーロフの「天使と二十分」を思い浮かべました。内容はまるっきり異なりますが、短時間で登場人物を取り巻く状況と彼の感情が様変わりしてしまうところが似ている気がしました。

「特別な配達」はミステリー仕立ての短篇。男が外出先から帰ってみると、玄関の階段で郵便配達夫が首の骨を折って死んでいた!どうやら雪に足を滑らせたらしい。自分が雪かきをしなかったせいだと思った男は、色々と画策してこの死を隠蔽しようとするが…
男が郵便配達夫に変装したり、実はこの死んだ郵便配達夫は男の妻の浮気相手だったことが分かったり、事件は思わぬ方向へ転がってゆきます。7分の短篇でこれほど起伏に富んだ物語も珍しいのではないでしょうか。

最後の作品「大喧嘩」は、何とも不思議なアニメーション。ゲームで喧嘩をしてしまった夫婦の物語なのですが、テレビではノコギリの番組が放送されていて、夫もノコギリが大好き。喧嘩の最中もテーブルをギコギコやって、妻の怒りを一層激化させてしまいます。結局仲直りするのですが、外では核戦争が勃発。夫が玄関の扉を開けようとした瞬間、一瞬であの世にトリップ。これでお仕舞いです。

他にもおもしろい作品が揃っていますが、全てを紹介すると長くなるのでこのへんで終わりにします。それにしてもNFB(カナダ国立映画制作庁)のアニメーションは本当に多種多様で、すばらしいですね。

入社試験に物申してみる

2009-03-24 00:58:35 | お仕事・勉強など
会社の筆記試験には、国語やSPIや作文などがありますが、算数からも出題されることがあります。で、この算数の問題に「ちょっと待てよ」と言いたいのです。

ぼくは今日、中学入試レベルの算数の問題を解いたのですが、色々と考えさせられました。まず、どうして高校入試レベルじゃないんだと。大学入試レベルの数学は難しすぎるし、第一もうほとんどの人(文系)が高校の数学など忘れてしまっているでしょうから、専門職でない限り、高校の数学は出すべきではありません。しかし中学の数学は?実は小学校の算数よりも、中学の数学から出題した方が受験生にとって公平だと思います。

というのも、小学校の算数って、中学受験をしたかしていないか(あるいは小学校から進学塾に通っていたかいないか)で、成績に大きな差がついてしまうからです。旅人算などはふつう学校ではやりません。塾でのみ教えられます。これは一例ですが、算数の問題というのは塾で徹底的に勉強すれば解けるようになる一方、そうではない一般の人たちは手が出ないのです。もちろん学校レベルの問題なら解けるでしょう。しかし学校では習わない、ある程度やり方が決まっている問題というのは、これはもう塾での経験がものを言います。中学受験ができる(中学から私立に通える)裕福な家の子供は得をするという構図が出来上がっている気がします。こういう問題は入社試験で出すべきではないはずです。

他方、高校受験というのはほぼ全ての生徒が体験するものであり(大学卒の資格をもつ受験生なら当然全員)、中学レベルの数学なら不公平感はなくなります。これができなければその人が悪いわけです。もちろん早慶レベル以上の難しい問題に対処するには特別な訓練が必要ですが、基礎知識だけで解ける問題を作成すればいいわけです。中学受験をして高い偏差値の学校に入るよう努力する小学生は特殊ですから、彼らだけが有利になってはいけないはずです。算数っていうのは特別な領域だと思います。ぼくは高校の数学は文系なりにけっこうできたのですが(今ではすっかり忘れていますが)、算数はさっぱりです。これは訓練をしないと解けないのです。でも中学の数学ならば、さぼりさえしなければ皆基本的な訓練はしているはずですから、これから出題すれば公平になるのです。

さて、ぼくは算数の筆記試験を受けたのですが、100点満点中40点分くらいが塾でしか扱わないタイプの問題でした。塾で懸命に勉強していれば必ず目にしたことのあるだろう問題が三題です。落ち着いてじっくり考えれば、今なら答えを導き出せたかもしれませんが、何しろ時間がなく、結局解けませんでした。しかし、これはもう仕方がない。他ので頑張ろう、と思ったのですが、図形の問題が分からない…。これができないのでは言い訳できんぞ、とか考えながら解こうとしていたのですが、焦ってしまったのか、頭が混乱してしまいました。実は、この問題は帰りの電車の中で答えを出せました。頭の中に図形を思い浮かべて考えたのですが、3分くらいで解けました。簡単じゃないか!なんでこんなのが分からなかったんだ…とかなりショック。ちなみにもう一題あった空間図形の問題も時間内に解けませんでした。これができないのはもうぼくがバカだとしか言えないです。

けれども、塾でしか習わないような問題を出すのはやめて欲しいです。この図形の問題とか、誰にとっても初めて取り組むような問題がいいのです。それができなければ仕方ありません。しかし中学受験をした人が得をするような問題はお断りですぜ。

国語で挽回したかったのですが、どうかなあ。漢字はできましたが。でも「一入」(ひとしお)って難しくないですか?あと「時化」とか。「悼む」も漢字で書くとなると意外と出てこないですよね(ぼくは「哀悼」という熟語からやっと思い出しました。昔はこのくらいぱぱぱっと書けたはずなのに)。これで他の受験生たちに差をつけられたらいいのですが。

作文もいまいちでした。当たり前のことしか書けず。う~む、駄目っぽいです。

ちなみにぼくは小学生の頃、進学塾に通っていましたが、受験しないものだから、本当にただ通っているというだけで、全く勉強しませんでした。ですからどういう問題が中学受験で出るのかは知っているのですが、その解法は知らないのです。おかげでこのザマですよ。へっへっへ。←ポルフィーリー

だらだらと愚痴を書いてきましたが、これは正当な抗弁か、それともただの負け惜しみか。たぶんどちらも真ですね。

初音ミクとマクロス

2009-03-23 01:06:12 | アニメーション
初音ミクが週間オリコンチャートでたしか4位に入ったというニュースが先日流れましたが、これで思い出したのは『マクロス プラス』。この映画では(ここでは映画版に基づいて話します)、シャロンという電脳の歌姫が美しい声で歌って、それで観客を魅了してしまいます。ついには世界中が「彼女」の歌声に洗脳されてゆきます。実体を持たない、まるで蜃気楼のようなこの「歌手」の歌がなぜこれほど人々の心に訴えかけるのか。人が歌わなくても人は感動できてしまうのか。機械と人間との様々な関係を描いたマクロスはそのような問題提起をします。

でも、シャロンって初音ミクのことですよね。やはり実体のないヴァーチャルな存在が人々を魅了してしまうところは同じです。ということは、現実がマクロスに追いついたということでしょうか。まあマクロスではシャロンは知能を持ってしまい暴走するのですが、でも現代もその前段階か前々段階まで来ているのかもしれません。

それにしても、よいメロディーと歌声があれば、パッションもそこから自然に生まれてくるのでしょうか。その曲や詩に込められた熱いメッセージみたいなものを歌手が心で表現する、というような時代は終わりつつあるのでしょうか。もちろんそうではないはずですが、しかしかつて吾妻ひでおによって漫画の記号絵が性的な対象になったのと同様、ヴァーチャルな歌姫がリアルな歌手以上に魅力的に映る日が到来しているようです。二次元にしか興味がない、などと冗談で言う人もいますが、本当に現実と虚構の境界線が曖昧になっているのですね。

ぼくはこうした現状に別に批判的ではないし、むしろ日本のアニメのキャラクターは本気で好きですが、やはり感慨深いものがあります。そういえばアニメ自体も手描きが駆逐され、コンピュータ全盛ですが、それは少しさみしいですね。アナログとデジタルの力関係が完全に逆転してしまっていることも、なんとなく悲しいです。それでも機械仕掛けのモノにも愛着を持ってしまう。自分の中でも現実と虚構の敷居が崩されているのかもしれません。

機械と人間の共存、とはよく言われますが、たぶん人間の種々の機能を拡張する道具として機械が用いられているので、その方向性で進んでゆくと、いずれ両者の融合ということに本当になってしまいそうな気がします。そうなるともはや機械と人間の区別、ヴァーチャルとリアルの区別も今とは根本的に変わってしまうのでしょうか。結果的に「人間」的な部分が尊重されることになるのでしょうか。100年後の未来を見てみたいですね。その中で生きるのは怖い気がしますが。

プリート・パルン『ガブリエラ・フェッリのいない生活』

2009-03-22 00:11:57 | アニメーション
現在、ラピュタ阿佐ヶ谷で開催されているラピュタアニメーションフェスティバルは、エストニア特集です。そこでエストニアを代表する作家プリート・パルンの最新作『ガブリエラ・フェッリのいない生活』を観てきました。

最初に断っておきますが、ぼくはプリート・パルンの作品はどちらかと言えば苦手で、特に『ホテルE』は悪い意味で衝撃でした。意味が分かる分からない、つまるつまらないの次元ではなく、生理的に気分が悪くなったのでした。退屈なアニメーションはたくさん観てきましたが、こんな作品は初めてでした。とても評価している人がいるのが信じられないくらいです。

だから、この『ガブリエラ・フェッリ』も観る前から不安で、決して楽しみにはしていませんでした。ところが実際に観てみると、想像よりも楽しめました。様々なストーリーが交叉して最終的に一つに収束してゆく方法は『草上の朝食』を思わせますが、今作は更にユーモラスでコミカルな表現が加わり、飽きさせません。また特筆すべきは音楽、というか効果音で、泥棒の手の動きがあの「シャキーン」という刃物を出したときの音なのは抜群の選択だったと思います。それで物語全体にメリハリが付くんですよね。他の登場人物にしても、どこかアニメ版『鉄コン筋クリート』を思わせる肉体の動きとその動作に付けられた効果音がよく映像にマッチしていました。絶妙だったと言ってよいでしょう。リアリズムではない、ある種の感覚的な合わせ方(動作と音の)ですので、好悪は分かれるかもしれませんが、ぼくには心地良かったです。

『人狼』のような写実を突き詰めたアニメーションと、『ガブリエラ・フェッリ』のようなデフォルメされたキャラクターが超現実的な世界を闊歩するアニメーションと、どちらがより優れているか、という質問には答えがありませんが、『ガブリエラ・フェッリ』は後者のタイプの一つの到達点ではあるかもしれません。構成や演出も上手いですし、バランスがよかったです。もっとも、誰が観てもおもしろいと感じるか、と聞かれれば、「ノー」ですけどね。ぼく自身、すばらしい作品だとは思いますが、それほど楽しめたわけではなかったですから。

そういえば、公式パンフレットのパルンへのインタビューで、パルンがおもしろいことを言っていました。曰く、「(私は)エストニアの中で村上春樹について一番詳しいとおもう」。その理由として、エストニア語に訳された春樹の作品は2作だが、自分はロシア語で15冊くらい読んでいるから、とのこと。なんて純朴な人なんだ。それだけで一番詳しいと言ってしまえる素朴さに乾杯です(皮肉ではないです)。それともただの冗談ですかね?

シュペルヴィエル『ひとさらい』

2009-03-21 00:05:05 | 文学
フランスの作家シュペルヴィエルの『ひとさらい』(澁澤龍彦訳)を読みました。
この本、高価な本のようで、古本屋で4、5千円で売られているのを見たことがあります。ぼくは図書館で借りました。

ビガという名前の大佐が子供を誘拐して家で育てる、という話。ただし、誘拐と言ってもこれはいわば「善意の誘拐」であり、恵まれない境遇にいる子供たちをさらってきては、家庭に温かく迎え入れます。もし子供が家に帰りたければ解放します。ときには捨て子を連れ帰り、ときには女中の手からかどわかし、自分の養子として育てます。「ひとさらい」という題名から、てっきりあくどい人物が出てくるのかと思いきや、そうではないので裏をかかれます。こうした巧妙な設定はおもしろいですが、しかしオーソドックスな小説とも言えそうで、なぜこんなものをあの澁澤龍彦が訳したのだろうかと不思議に思いながら読み進めていました。すると、中盤にかけて、本筋がひとさらいのテーマから逸れてゆきます。

大佐は少女を自分の娘として家に連れ帰るのですが(これは誘拐ではなく父親の了承を得ている)、次第にこの少女に恋情を募らせてゆきます。かつて誘拐した15歳の少年(後に2年の月日が流れる)と一つ屋根の下で少女を育てることになったので、この少年に嫉妬心を燃やし、様々な想像を巡らせて懊悩します。しかし大佐は思い切って少女に手を出せるほどの覚悟がなく…というよりは、自制心と節度がありすぎるのでそういう野蛮な挙に出ることができません。ただ欲情だけが愈々強まり、一夜で白髪と成り果てます。恐らくこの小説の主眼はビガ大佐の少女への色欲にあります。少年、少女、大佐、そして彼の妻との関係が複雑に交叉し、愛の幾何学模様を形成しています。また解説でも触れられているように、他にも親子愛などが描かれていて、総じて愛の万華鏡となっています。

ゴンブローヴィチの『ポルノグラフィア』もやはり大人が少年少女の恋を歪んだ間接的な情欲で汚してゆく物語であったと記憶していますが、これがかなり暗い欲望を加速度的に描いていたのに対し、『ひとさらい』はあっさりした印象です。いわゆるロリコン男の正常とは呼べない愛を描出しているわけですが、そんなにどろどろしていないのです。それには文体の力もあると思います。

ところでこの翻訳は、訳者が大学を卒業してから2年後くらいになされたものだそうです。少し古風で、今では使われない言い回し(普通は「~とはぐれた」と言いますが、ここでは「~にはぐれた」となっている、など)が散見され、また確かにそれほどの名文ではないのですが、そんなに若い時期に訳していたなんてすごいですね。やっぱり優れた人は若いときから優れているんですね。

花粉を何とかしてほしい

2009-03-19 00:02:19 | Weblog
きのう、電車に乗っている間、ぼくはほとんど20秒おきに鼻をかんでいました。花粉症になったのは高3の春で、それ以来この時期になると鼻水や目のかゆみに苦しんでいます。周りを見渡す限り、ぼくは患者の中でも症状の重い部類に入ると思います。こんなにひっきりなしに鼻をかんでいる人は、少なくてもぼくは見たことがありません。

映画館に行くのも躊躇われます。鑑賞している最中に鼻をかむと周りに迷惑ですし、恥ずかしい。それに集中して観ることができません。マスクは、経験的に言って効果がありません。マスクをかけていてもいなくても、くしゃみと鼻水は止まりません。かえってマスクを外す手間がかかって邪魔です。加えてぼくは眼鏡をかけるので、レンズが曇ります。もちろん曇らないマスク、というものを試していますが、やはり効果が見られません。第一マスクをしていると顔が非常に熱くなって、頭がぼんやりしてきます。

2,3年前まで薬で花粉症を抑え込もうとしていましたが、まるで効き目がありませんでした。薬局で売っているものの中では最も威力があると聞いた噴霧型の薬も何の役にも立ちませんでした。病院で処方してもらった薬も同じです。ただ、一度だけ、薬で症状がぴたりと止まったことがあります。たしかプレドニゾロンとかいう名前の錠剤です。花粉症対策としてではなく、別の病気で処方されていた薬なのですが、これがアレルギーを抑える効果があるようで、抜群に効きました。これほど強力な薬があるとは知りませんでした。しかし、強力な薬というものには副作用があります。この薬、服用すると顔に湿疹ができるのです。ぼくは比較的多量の薬を飲んでいたためにその顕れが目立ったのかもしれませんが、もうこりごりです。服用をやめると治ったので一時的なものだろうと思いますが、あの薬に頼る気持ちはないですね。

花粉症になってよかったことが一つだけあります。それは、人前で鼻をかめるようになったことです。今でもよく覚えているのですが、ぼくは中3のとき風邪で鼻をぐずぐずさせていて、英語の授業中にそれを見かねた女の先生がぼくにティッシュを渡して、これで鼻をかみなさい、と言いました。廊下でかんできてもいいのよ、と。たぶん、ぼくが鼻をかまないのは人前でそういうことをするのが恥ずかしいからだと察して、それで皆から離れた廊下で済ませてきなさい、と言ったのだと思います。でも当時のぼくは強がって、廊下に出ようとはせず、かといって鼻をかむこともしませんでした。そんなことを恥ずかしがっていると思われることが恥ずかしかったからでもあるし、また廊下に出ても音が聞こえると思ったからでもあります。ぼくは結局我慢しどおしました。

ところが高3の春、もう恥ずかしがってなどいられなくなりました。鼻をかまずにいればどんどん鼻水が垂れてくるのですから。やむを得ず人前でも鼻をかむようになりました。こうしてぼくは少し強くなったのでした。もっとも、今でもまるっきり平気で鼻をかめるというわけではなく、少し恥じらいがあるのですが。男ならもっと大胆に豪快に、とは思うのですが、どうやらぼくはどちらかと言えば女性的みたいですね。

AIR

2009-03-18 01:02:46 | アニメーション
CLANNADも最終回を迎えたことですし、以前から観たいと思っていたAIRを観ました。二日で。たった今。

これってバッドエンディングと捉えてよいのでしょうか。それともバッドの中に希望を求める話?バッドともハッピーともつかないラストでしたが、しかし悲しい物語であることは確かです。

第5話から、キました。それまでは、正直イマイチだと感じていたのですが、第5話から一気に引き込まれました。CLANNADでいうと風子のエピソードに近いですよね。ただこの「みちる編」も結局はハッピーエンドだったし(とはいえやはり悲しい話でしたが)、アニメ全体としても幸福な結末を迎えるものだとばかり思っていたのですが、こんなことになるとは。

「みちる編」では、美凪の母が彼女のことを「みちる」と呼んだ瞬間、さーっと風子のことが思い出されて、いったいどういうことが起きているのかが何となく理解できたのですが、案に違わずみちるは幻の少女でした。後編の第6話で泣きました。

二度目に泣いたのは「昔話編」(どういうふうに各エピソードが呼ばれているか知らないので、勝手に名付けます)。

三度目に泣いたのは「母娘編」。観鈴が浜辺で「ママ!」と叫び、晴子が駆け出す瞬間、じわっと目に涙が浮かびました。

たぶんCLANNADよりも洗練されていなくて、幻想性がむきだしの形で顕れています。空にいるという少女を探しているっていう設定に、ぼくは実は少々抵抗がありました。現代の、二十歳過ぎた男がそんなの探して旅しているなんて、どう考えてもおかしい。そう思ったのです。ちょっとロマンチックすぎて、リアリティがなさすぎる。作品世界に入り込めませんでした。

しかし、段々と世界観が掴めてきて、この物語はある種の神話が構造化されているのだと気付き始めました。基層には翼人神話が横たわっている。現代の世界で起こる出来事は、その神話/伝説の名残であり、過去と現代は地続きなんだ。それがはっきり分かるのは「昔話編」を経てからですが、今もその伝説が生きて影響を及ぼしていることは、もっと最初の方で示されています。ぼくがそれを理解するのには第5話を待たなければならなかったのですが、しかしそれからは急速にこのアニメに惹かれてゆきました。

CLANNADもその世界に没入するには「風子編」が必要でしたから、ひょっとするとぼくは世界に入り込めるまでに時間がかかるのかもしれません。

それにしても、悲しい物語でしたね。国崎がいなくなったときに、悪い予感はしていましたが。次の世代、またその次の世代へとバトンを渡し、いつか幸せになれるように、というような標語みたいなものはよく聞きますが、実際にそれを実践してこんなにも切ない結末になるとは。

記憶の話、輪廻の話。母娘の話。

オープニングのイントロが好きでした。それとエンディングの大空を羽ばたく翼人の映像。普通エンディングってスタッフの名前がずら~っと並んで、そこを比較的単純な絵が映し出されるのですが、スタッフの名前が消えて、画面一面に青い空と入道雲が広がり、その真ん中をゆっくりと翼人が飛んでゆく。こんな見せ方もあるんだなと驚きました。

繊細な作画に加え、石原立也の演出は相変わらず冴えていました。音楽と映像とのマッチングが、たしか6、7話だったような気がするのですが、新海&天門コンビを思わせるタイミングの演出の仕方で、切なくさせます。切ないと言えば、各エピソードでフィーチャーされた登場人物たちが、その後の物語に一切出てこないのは切ないですね。それだけに、彼女たちは特別な存在になってゆきます。

うすうす感じていることなのですが、ぼくは本よりもアニメの方が好きなのかもしれません。大学院で文学について勉強しているぼくは、たぶんジャズや映画を好きになるべきなんでしょう。アニメーションにしたって、ノーマン・マクラレンとかスーザン・ピットとか、そういう監督の作品を愛好していればよかったのだと思います。洗練されたもの、いわゆる高尚と呼ばれるもの、センスの光るもの、そういうものの方が、たぶん役に立つし、人に自慢のできる趣味なんでしょう。ところがぼくは、記憶を失う少女の話とか、少年と少女が淡い恋をする話とか、心に傷を抱えた少年少女の話とか、少年が飛行機を造る話だとか、そういう物悲しい、あるいは単純な冒険もののアニメが好きなのです。そう、「アニメ」が。かわいい少女、かっこいい少年の登場するアニメ。現実離れした服装と言動。美しい背景美術。そしてひたすらに一途な思い。

ぼくは大人になんてなりたくなかった。楽しかった少年時代を「いい思い出」として振り返ることもできない。過去を引きずって生きてきた。当時の出来事や当時感じたことを忘れてゆくのが怖い。でもたぶん、多くの人は子供時代のことを「思い出」として心の片隅にしまい込み、現在のこと、未来のことを考えて生きるのでしょう。それは賢い生き方です。でもぼくにとって過去の体験は、どこかにしまい込まれて埃を被った思い出ではなく、今に溶け込む思い出として生きています。いや、そういう思い出を持ち続けていたいと思っています。あの頃の記憶を失くしてゆくのが恐ろしいでのす。中学生のとき、ぼくはどういうふうに感じていたのか。何に怒り何に悲しんだか。ここ数年で、多くのことを忘れてしまった気がします。それがとても寂しくて、悔しい。

だからぼくは、少年少女の心の触れ合いを見るのが好きです。日々忘れてゆく大切なことを再発見できそうな気がするのです。これが大切なことなんだと、確認しているのです。ぼくにとって大切なのは、少年がどのようにして少女を好きになったのかとか、少女がどうして少年に心を開いていったのかとか、彼女らが何を夢見、何に泣いたのか、そういうことです。そういった、儚くて壊れやすい感情の機微にぼくはいつも敏感でありたいし、それを意識し続けることは、自分の少年時代を忘れないための手立てでもあるような気がします。そしてAIRやCLANNADは、このような繊細な感情を描いて見せてくれます。新海誠の諸作品、宮崎駿の作品、近藤喜文さんの『耳をすませば』は、全てこうしたアニメーションです。

「人は思い出がないと生きていけない。でも思い出だけでは生きられない。」

ぼくにとって思い出以外の生きる糧は、結局のところ、思い出を活性化させる何かなのかもしれません。

ラピュタアニメーションフェスティバル

2009-03-15 23:22:24 | アニメーション
ラピュタアニメーションフェスティバル2009に行ってきました。

3月15日~4月11日まで。今年はエストニアのアニメーション特集です。エストニアに興味のある人は行ってみるといいでしょう。もっとも、日本でエストニアに興味のある人がどれくらいいるか疑問ですが…。ただ、エストニアはアニメーションの盛んな国で、世界的なアニメーション監督プリート・パルンが輩出している国です(ところで「輩出」って二通りの使い方がありますよね。「~を輩出する」と「~が輩出する」と。どっちが正しい?)。世界のアニメーションに関心があるなら、やっぱり観ておくべきですね。

今日観てきたのは「エストニアの作家たち」というプログラム。71分。上映作品は、

カスパル・ヤンシス「ウェイツェンベルグ・ストリート」(11分)
ウロ・ピッコフ「人生の味」(12分)
ウロ・ピッコフ「バミューダ」(11分)
プリート・テンダー「モンブラン」(11分)
プリート・テンダー「フォックス・ウーマン」(10分)
マッティ・キュット「リトル・リリィ」(16分)

「人生の味」と「バミューダ」と「モンブラン」はよく意味が分かりませんでした。「人生の味」は体のマッサージの場面から始まって、その様子は誇張された表現でおもしろかったのですが、次第に意味不明に。解説を読むと「愛と食べ物の関係をブラックユーモアで描く」と書いてあるのですが、食べ物が出てきた記憶がほとんどないのです。確かになくはないのですが、そんなに重要だったとは…

「フォックス・ウーマン」はストーリーは明快なのですが、結局どういう話だったのかがよく分かりません。性格の悪い美人の狐が天国にいる叔父に会いに行ったところ、そこで破廉恥な振る舞いをしたために地上へ突き落とされてしまいます。毛皮のコートを剥ぎ取られた狐は、なぜか馬糞を体にまとい、花を頭に挿します。そこへ鶴(だっけ?)が来て、自分にも花を挿しておくれよと頼むのですが、狐は「これは釘で打ち付けているのだから、お前にもそうするよ、もしそれでいいなら花を自分で見つけておいで」、という意味のことを言います。実際に鶴は花を持ってくるのですが、釘を頭に打ち込まれて死んでしまいます。狐は鶴を食べてしまい、残った骨で笛を作りました。というお話。なんだこれ?インディアンの伝説だそうですが、今で言ったらナンセンスものでしょうか。まあ楽しめないことはありません。

「リトル・リリィ」は、空を飛ぶことを願っている父が蝿を殺すことに我慢できない少女の物語。自分が飛べないものだから蝿にも空を飛ばせない、と彼女はおもしろい理屈を言い立て、もし蝿を殺すのをやめないなら私はご飯を食べない、と宣言します。やがて体が米粒みたいに小さくなった少女は、自動掃除機に吸い取られて、捨てられてしまいます。ところがそこでドングリに助けられ、蝿がやって来ます。蝿の体にはまるでネコバスみたいに入口ができ、そこへ少女はドングリとともに乗り込みます。こうして蝿に乗って少女は家に帰り、身長も元通りになります。父親は蝿を殺すのをやめました。

途中で少女が披瀝する高度な知識はおもしろかったですね。蛆虫によって傷の化膿を防ぐことができる、という趣旨の話です。こういう逸脱は小説でありますよね。

一番感心したのは最初のカスパル・ヤンシスの短篇です。若い男と女が同居していて、男は女の気を惹こうとするのですが、女は蝿(またしても蝿です)にご執心。蝿を相手に喘ぎ声まであげる始末。やがて男は向かいの部屋の水槽を泳ぐ魚に気をとられます。双眼鏡でそれを覗く男。その部屋の住人は自分が監視されていると勘違いし、ヒットマンを雇って男を射殺するよう要請。しかし間一髪で女が男を助けて弾丸は外れます(蝿に命中)。ええと、ラストを忘れてしまいました。男と女は仲良くなったんだっけな?

この短篇のおもしろさはストーリーそのものにあるわけではなく、男の軽快な動きや、なぜか蝿を相手にする女の不可解さ、見られることに強迫的な恐怖を感じてしまう向かいの部屋の男の行動などにあります。男と女の恋愛の機微を象徴的に描いたようですが、ユーモアがあってとても楽しめました。

それにしても。この時期のアニメーションフェスティバルは、実は勘弁してもらいたいのです。だって花粉症の時期でしょう?鼻水が気になって集中できないです。前みたいに12月初め頃に戻して欲しいなあ。

もう一つ「それにしても」。このプログラムの上映は、どういうわけかボリュームがかなり絞られていて、音が小さすぎました。どうしてこんなことになったのか分かりませんが、明日以降は改善して欲しいですね。

アニメーション学会

2009-03-15 02:15:01 | アニメーション
3月14日、日本大学芸術学部江古田キャンパスで催された、日本アニメーション学会の公開研究会に出席してきました。実はこの日は神奈川大学でロシア文学関係の学会(?)もあって、どちらへ行こうか直前まで迷ったのですが、専門よりも趣味を取ってしまいました。いかんなあ。特にテーマの一つとなっていたロシアの30年代の文学情況は、ぼくの専門と被っているのですが。それでもアニメーションの方を選んだという馬鹿さ加減。

しかし、おもしろかったです。色々な話が聞けましたし、最後のトークセッションはけっこう笑えましたしね。ところでいま少し頭が痛くて眠たいので、さっさと話を切り上げようと思います。

一人目の発表者は土居伸彰さんで、「越境するアニメーション――ソユズムリトフィルムを中心に」という題目。主に現代ロシアのアニメーション状況を紹介したものでした。その際に、ヒトルークの「ヴィニー・プーフ」、ノルシュテインの「霧の中のハリネズミ」、プリート・パルンの「I Feel the Lifelong Bullet in the Back of My Head」、コワリョーフの「妻は雌鳥」を上映。4人とも有名な監督で全員知っているのですが、実際に観たことのある作品は「ハリネズミ」だけでした。「ヴィニー・プーフ」のシリーズは別の作品なら観たことがありますが。ちなみにプリート・パルンはエストニアの作家で、明日からの(もう今日ですが)ラピュタアニメーションフェスティバルにてこの作品を含む様々な監督作品が上映予定。

ノルシュテインはヒトルークから影響を受けており、「ハリネズミ」と「ヴィニー・プーフ」は作風が似ている、という趣旨の話でした。で、この二作はとても楽しく観られるのですが、後の二作、パルンとコワリョーフの作品は意味不明でした。しかし土居さん曰く、その分からなさに意味があるそうです。コワリョーフはパルンの作品を観て衝撃を受けたそうで、実際「妻は雌鳥」のヴィジュアルはパルンのそれを思わせます。

ぼくはコワリョーフの代表作「ミルク」を初めて観たときやっぱり意味不明で、二回目の鑑賞でようやく何となく意味がつかめてきたのですが、これが非常に高い評価をかちえていると聞いていたので、こんな訳の分からないものがどうして、と内心不思議で、同時に自分の鑑賞眼のなさを嘆いていたのですが、どうやら意味のよく分からないものを作る作家のようですね。土居さんは「異質さ」と表現していましたが。もっとも、この「妻は雌鳥」を土居さんは解説していて、それを聞くとちゃんとしたストーリーがあることが分かり、驚きました。まあぼくも、妻が雌鳥だと気付かずにいた夫、という最初の設定くらいは理解していましたが、後半から皆目分からなくなっていました。しかしあの津堅信之さんでさえよく理解できていないようだったので、土居さんの理解力が異常なのかな。というか、どこかに解説があるのかもしれません。

ロシアにおいては政府による資金援助がアニメーション制作には必要かもしれない、という認識は、ノルシュテインのことを知っている人なら常識かもしれませんが、これってけっこう複雑な事情ですよね。社会主義体制下の方がよかったと言っているのですから。それにしても現在の金融危機でピロットスタジオが機能停止に追い込まれたとは知りませんでした。あの宝の山シリーズがもう作られないのか……これは世界的損失ですよ。ちなみにピロットスタジオというのは日本ではパイロットスタジオと表記されることもあり、英語表記を確認すれば明らかに後者が正しいのですが、でもロシア語ではピロットと読むんですよね。紛らわしい…

なんかさっさと話を切り上げると言いながら、長い文章を書いてます。後半は簡単に。

二人目の発表者は須川亜紀子さんで、題目は「魔法少女TVアニメーションの「フェミニスト・テレビ学」的読みの可能性」。なんというか、簡単なことを難しく言い換えている、という印象を受けました。わざわざアカデミックな言説に置き換える必要があるのかな、と疑問。もっと明快な言葉で説明して欲しかったです。ぼくもいちおう文学畑の人間ですから用語は分かるのですが、ここでその言葉を使う必要があるのかな、と考えてしまうわけです。TVアニメを学問するにはこういう真面目な言説が必要だと思っておられるのかもしれませんが、ちょっと滑稽でさえあるように感じました。ちなみに、質疑応答のとき、会場からあんまりな質問が飛んでいて、発表者に同情。どうやら質問者はフェミニズムが男性に攻撃を仕掛けるものだと思っているようなのですが、フェミニズムがそんな狭量な学問分野だと考えている人はアカデミックな領域には生息してませんからね。文学関係の学会ではまず出てこない質問だったと思います。その意味で新鮮でしたが…

最後は「「アニメブーム論」の試み」と題した討論。というか各世代を代表する人たちが自分のアニメ体験を語る、という程度のものでした。でもこのセッションが一番おもしろかったですね。小川敏明さんという66年生まれの人が妙に情熱があって、ちょっと変な人というか、いかにもってな感じの人でおもしろかったです。場の空気も読んでなかったし。まあそれはいいんですが。印象的だったのは、ジブリアニメはアニメとみなしていない、という彼の発言。確かにジブリアニメを観る人といわゆるアニメファンとは別の位相にあるのであって、あんまり重ならないんですよね。だからアニメブームとジブリとは一切関係ない、という主張になるのですが、しかしブームというのはそれまでアニメなど観てこなかった観客層を取り込み、客層を拡大したという側面があるので、だとすれば、ジブリアニメ、特にもののけはアニメブームに一役買ったと言える気がします。おたくの世界だけで起きていることは必ずしもブームとは呼べないと思います。ジブリアニメを無視し、おたく的な作品だけに注目するのはあまりに狭い考え方ですよね。棲み分けができているという現実があるわけですが、しかしもっと広い視野でアニメーションという全体を捉える必要がある気がします。

なんか頭がぼんやりしていて自分が何を書いているのかはっきりしなくなっています。

そういえば会場に藤津亮太が来ていました。あんなに髪の毛が短いとは思わなかったぜ。

あと、客層はやはりアニメファンっぽい人が多かったです。むさい野郎がいっぱい。普通の人もいましたけどね。え?ぼくはもちろん後者ですよ。

天晴れ!CLANNAD

2009-03-14 01:19:34 | アニメーション
最終回でしたね。まあ番外編が来週放送されるみたいですが。

奇蹟の大逆転でしたね。
渚が亡くなってからというもの、ぼくは何となくどんよりとした気持ちで日々を過ごしていて、特に先週の放送の直後はかなり鬱々としていたのですが、というか、この容赦ない展開に怒りすら覚えたのですが、しかし最終回において、全てがひっくり返されましたね。こんな裏技があったとは。物語序盤から張られていた「もう一つの世界」の伏線が、ここで機能するとは思っていませんでした。サイドストーリーとメインストーリーとが最後に完全に交わり、新たな世界、希望の世界が始まります。

前回の放送を観た後ぼくは、朋也に襲い掛かったどうしようもない絶望を、彼の救いようのない現実を思い、制作スタッフの態度を疑ってしまいましたが、まさかハッピーエンドで終わるとは、この超絶の展開に心底驚きました。9回裏に100点差をひっくり返したようなものです。絶対にありえないと思われたことが起きたのです。それは朋也が「それでも渚に会えてよかった」と思い直したからであり、また彼の願いを街が叶えてくれたからであります。

CLANNADは不思議な物語ですね。最初はただの学園ものの恋愛コメディかと思いきや、風子のエピソードで幻想味を予感、定着させます。リアルとファンタジーの入り交じる、幻想的なアニメーションです。ファンタジーの持つ力のようなものを感じました。その巨大な力は最後の最後に爆発して、感動を呼び込みました。これほどの大どんでん返しって珍しいのではないでしょうか。構造的には夢オチみたいなラストですが、しかしちゃんとした伏線が張られ、初めから「そのような物語」として展開してきたことを考えると、まさにこのラストこそがCLANNADらしいラストだと言えそうです。

ちなみにCLANNADの並行世界にしろ、ハルヒのシュレディンガーの猫的/観測問題的な発想(世界はハルヒがいなければ存在しない)にしろ、京アニは量子力学が好きですね。まあこれくらいはどのアニメも使っている材料ですが。でもそれが最重要な要素、物語の核になっているので、印象深いです。ぼくはこういうことに詳しくないですが、理系の人がこういうアニメを観たら、やっぱりぼくなんかとは違う感想を持つのでしょうか。

それにしても、最終回を観てすっきりしました。気持ちが軽くなったような気がします。本当によかった。めでたしめでたしですね。だんご大家族ですよ。←意味分かんないですけど。

村上春樹『中国行きのスロウ・ボート』

2009-03-13 00:24:50 | 文学
収録作品は、「中国行きのスロウ・ボート」「貧乏な叔母さんの話」「ニューヨーク炭鉱の悲劇」「カンガルー通信」「午後の最後の芝生」「土の中の彼女の小さな犬」「シドニーのグリーン・ストリート」。執筆順です。

これは村上春樹の第一短編集です。『羊をめぐる冒険』に前後する時期に書かれたそうです。

さて、感想ですが、「ニューヨーク炭鉱の悲劇」からぐっと上手くなったような気がしました。春樹らしさが出た、というか。その前の二作品はどうも成功していないようだなと感じていたのですが、「ニューヨーク」で一気に洗練されたというか。しかし、この二作品は前日の夜中、眠い目をこすりながら読んだので、それほどおもしろく感じなかったのは、ぼくの体調のせいかもしれません。

基本的に現実の情景を描いた作品集だと言えそうです。「貧乏な叔母さんの話」と「シドニーのグリーン・ストリート」だけはいささか幻想的ですが、それ以外は地に足の付いた物語です。特に「午後の最後の芝生」などはこれといった事件は一つも起こりません。しかしながら、実に妙な味わいを残す佳品です。芝刈りのアルバイトをしている「僕」が、その最後の仕事場で体験する出来事がこの小説の主要部分です。ガールフレンドと別れた「僕」は、お金をためる必要を失って、バイトを辞めることにします。最後に派遣された家で、「僕」はいつも通りにきちんとした仕事をし、それでその家の寡婦から褒められます。「僕」は昼食とお酒をごちそうになり、ある部屋に案内されます。そこは典型的な女の子の部屋で、「一ヶ月ぶんくらいのほこり」の積もった机が置いてあります。奥さんから本棚や化粧品、洋服ダンスなどを見せられた「僕」は、奥さんに質問されます。彼女についてどう思うか、と。この部屋の住人はどのような人物か、「僕」は推理することを余儀なくされ、別れたガールフレンドのことを考えながら、答えます。

これは一体どういうことなのでしょうか。女の子の洋服ダンスを今日はじめて会ったばかりの青年に見せる寡婦の異常さ、そしてどういうわけか「一ヶ月ぶんくらいのほこり」の積もった机。女の子はなぜこの家にいないのか。一人立ちしたのか、長期の旅行(留学)に出ているのか、それとも…。この女の子の部屋が娘の部屋だとはどこにも書かれていないことも気になります。そもそもどういうわけでこの寡婦は部屋の住人の人物像を「僕」に当てさせようとするのか。種明かしはなく、謎のままにこの小説は終わります。現実の出来事だけを描きながら、不思議な世界を垣間見せてくれる物語。奇妙な魅力の詰まった作品です。ちなみに、「「あなたのことは今でもとても好きです」と彼女は最後の手紙に書いていた。」という文は、新海誠の『秒速』で変形させて「引用」されていますね。水野がタカキに宛てたメールがそうです。新海誠は村上春樹のことが好きだとたしか公言していたと思いますが、実際、その映画には春樹の小説から取られた表現が散見されますし、『雲のむこう』には春樹の本が画面に現れます。

「シドニー」はどうやら児童向けの小説のようで、そのように書かれています。この作品にはまたしても羊男が登場します。春樹は気に入っていたんでしょうね。

総じておもしろい短編集でした。そろそろ長編をまた読んでみたいところです。