稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

東大阪市、花園ラグビー場近くに「河内松原!?」

2019年08月06日 | 旅行や街角メモリー
「河内松原」と聞くと、大阪府松原市の河内松原駅がまず頭に浮かぶ。
ところが、もう一つ、大阪には「河内松原」がある。


(東大阪の河内松原)

場所は大阪府東大阪市。
府道702号を奈良方面に東進した花園ラグビー場付近。
交差点の表示に「河内松原」とあるのだ。

最初は面食らったが、ここは昔の奈良街道で、
険しい勾配で有名な暗峠(くらがりとうげ)の手前の宿場町だったのだ。

東大阪観光協会のサイト内の「街歩きMAP」には、
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松原宿の道標(道しるべ)
大坂と奈良を最短で結ぶ暗越奈良街道の道標には「右なら・いせ道、左大坂道」
と刻まれており当時の面影を伝えています。この地は江戸時代に奈良街道の中で
唯一置かれた宿場です。俳人松尾芭蕉は伊賀上野から大坂へ行く最後の旅路に
この道を通っています。
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と書かれてある。

東大阪観光協会
http://www.higashiosaka-kanko.jp/index.html

ともかく気になったので、宿場の跡を散策してみた。
宿場跡は看板と道標だけだったが、まあ納得出来て良かった。







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奈良暗越街道と松原宿(まつばらじゅく)
奈良暗越街道は、生駒山頂の南側、暗峠(標高455m)を越え、大坂と奈良間を
最短距離の八里八町(34km)でつなぐ、古代以来つづく古道の一つです。
江戸時代にはいって、この道は脇往環として発達し、大和・伊勢をむすぶ
旅客貨物の重要な交通路となり、伊勢参りなどでにぎわいました。
幕府は、明暦年間(1655~58)以降、街道の支配のために街道間唯一の宿場として
「松原宿」を公式に設けました。松原宿は、旧大和川の分流吉田川と恩智川との間
に位置し、古くから水運でも栄えた場所にあたります。宿場には、継立業務
(人馬の乗換えを請負う仕事)を行う店のほか、寛永元年(1624)年の記録では、
河内屋・奈良屋など計16軒の旅籠(はたご)があり、大変にぎわいました。
明治維新をむかえ、宿は廃止されましたが、松原村は交通の要衝であったことから
他に先がけて郵便局、警察分署、キリスト教講義所などが設けられていました。
しかしながら、大正時代になると鉄道(大軌、現在の近鉄奈良線)の開通や
道路の整備に伴って、街道としての役割を失っていきました。
平成16年3月  東大阪市
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(大阪-深江-松原-暗峠-小瀬-榁木峠-追分-尼ヶ辻-奈良、松原の西で東高野街道と交差する)


(英田北小学校の脇、こういう街角散策にはバイクが一番だ)

英田北小は「あかだ」と読む。
英田は平安時代、河内郡の郷名で「英多郷」(あがたごう)と言った。
あとの吉田村、松原村、水走村となって、合併して英田村(あかだむら)となる。


(「みぎ なら いせ道」と「左 大坂道」としるされた道標)


(少し北の大津神社にも寄ってみた)
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