稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

浮木(うっき)について(昭和62年10月29日)2/2

2018年01月06日 | 長井長正範士の遺文
但しここで誤解のされてはいけませんので蛇足ですが付け加えておきますと、
相手が竹刀を叩いて打ってこようとした時に、
打たせまいと剣先くるりと廻して向かい突きしようとしたり、
咽喉元に剣先を意識してつけて打たさないようにするのでは決して無いという事であります。

即ちこの浮木のように無意識にくるりと廻るだけで、
そこには決して「叩かれたら中心を攻める」という意思など全然無く、
手首が勝手に動き、思わず竹刀の先が相手の中心に行っている。

このところが大事であることを知って頂き、
前述のように不断の稽古により無想の攻めを体得しなければならないと思います。

浮木をやる手首の柔らかさは勿論大事ですが、
私はこの時の両手首の廻す主役は右手の親指と人差し指の二つであることを発見しました。

力学的に成立しますが、相手が自分の竹刀を叩くと、
柄を握っている両手首を平等に軟らかく、くるりと廻しても、
やはり両手で持つ柄の長さだけ廻すのに抵抗があります。

それを右手の親指人差し指だけで持ちこたえ、
他の右手の三本の指、左手の握りの指、全体の握りの力を抜くと、
叩かれた竹刀の柄の右親指と人差し指の接点を軸として、くるりと廻るわけで、
なんら回転を束縛するもの無く速やかに廻ります。

そしてあとの主役(廻るとすぐ)は左手五本と右手三本の指で締め、次に備えるわけです。
従って、くるりと廻る主役と中心につける時の主役が交代する、
この所が大切であり、これをやがては無意識に出るまで浮木を鍛錬するのです。
説明不充分ですが大体のとこはお察し下さい。


(昭和49年6月9日、泰正館命名開館式にて、打方は長井長正、仕方は井上勝由)
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