唯物論者

唯物論の再構築

唯物論1b(素朴実在論)

2014-08-24 15:34:57 | 唯物論

 往々にして素朴実在論は、感性的直観において現れるままに現象の存在を捉える考え方だと扱われる。しかし素朴実在論をこの説明だけで捉えた場合、経験論や現象学と唯物論の間で実在把握の見解に差異が無くなってしまう。つまりそれらの哲学は、おしなべて素朴実在論となってしまう。しかしそのようなことは、唯物論だけでなく、経験論や現象学にとっても不本意な扱いのはずである。そもそも経験論や現象学を含めて、観念論は素朴実在論を唯物論の認識論とみなすのが常であり、また唯物論も観念論に迎合して素朴実在論を自らの立場として理解しようと努めている。したがって素朴実在論は、唯物論における現象の存在把握の考え方として説明されるべきである。すなわちそれは、感性的直観において現れる現象の実体として物理的存在を想定する唯物論の考え方となるべきである。ただし唯物論の認識論では、感性的直観において現れる存在者だけではなく、悟性的認識において現れる存在者もここで言う現象に含めている。したがってこの素朴実在論では、物理的実在を持たない虚偽観念、または現実に即さない虚偽事実であろうとも、全ての存在者は何らかの物理的存在に由来して現象する。つまり唯物論は虚偽の実体に、それを必然たらしめる何らかの物理的実在を想定する。すなわち素朴実在論とは、物理的存在が存在者の現れを規定する反映論でなければならない。もちろんこの反映論の本質は、物理的存在に対する実在信仰にある。

 素朴実在論が低水準な認識論として扱われるようになった最大の哲学史的トピックは、ヒューム不可知論の登場である。それは感性的直観において現れる現象を実体を持たない印象に扱い、実体の不可知を宣言することで素朴実在論を哲学的に壊滅させた。しかしヒューム以前の哲学世界において、人間的自由や道徳的理想の彼岸にある低俗な哲学として、もともと唯物論は扱われてきた。しばしばそれは、現世を唯一の世界と認める点で快楽主義のごとく扱われ、プラトン流の理想主義に対立する非道徳な俗物的思考とみなされた。ただしこのような哲学に近い距離からの唯物論批判とは別に、現代においても巷に垣間見せる形で、もっと文学的芸術的な姿をした唯物論批判が当時から存在している。それは唯物論に対して、感性的な物理的実在だけを信じて、悟性的理念の実在を信じない俗論に扱う世俗的見解である。判り易くそのことを言い直すなら、感性的直観において現れる物だけに気を許し、夢や理想を追い求めない守銭奴的思想として唯物論を扱う戯画的な見解である。実際にはこの世俗的批判は、哲学的批判と常に融合しながらギリシャ哲学の時代から現代に至るまで、観念論=理想論、唯物論=現実論の構図で脈々と受け継がれている。ただしこの世俗的批判の背景には明らかに宗教的な霊的存在への信仰があり、それがプラトン流イデア論と融合する形で唯物論への嫌悪に連携している。すなわちその世俗的な唯物論批判とは、宗教世界からの唯物論批判にほかならない。もちろん宗教が唯物論と敵対する理由は、唯物論が神や霊界の実在を認めず、宗教的権威に抵抗する無神論だと言う点にある。このように物理を道徳の彼岸におく感性は、宗教的信仰を根拠にして、近代以前の西洋社会では常識的な感覚であったようである。カントやショーペンハウアーでさえ、デカルト以後に急速に唯物論が息を吹き返す中でも、経験的格率を道徳律にまで昇華させるような唯物論の理屈を頑強に認めようとしなかった。もちろんその宗教的な反唯物論の感覚は、宗教が支配者の階級抑圧の武器として機能し続けてきた中世西洋社会の歴史が醸成したものにすぎない。伝統的観念論に対する唯物論的反逆であったはずの経験論からヒュームの不可知論が登場した背景にも、この西洋社会における反唯物論の伝統が控えている。と言うのもヒュームの不可知論は、バークリの反唯物論を受け売りしたものにすぎないからである。もちろんバークリの反唯物論とは、神的実体の実在のみを許容したカルト宗教的独我論のことを指している。実際にはヒュームの不可知論に対して憤慨したのは、素朴に感性的対象の実在を信じていた世俗的唯物論だけではない。実在把握の見解において素朴だったのは、唯物論だけではなかったからである。ヒューム不可知論は悟性的対象の実在をも揺るがしており、プラトン/アリストテレス流の実念論にまどろんでいた観念論にも激震を起こしている。結局ここでカントをはじめとする観念論が起こした不可知論への抵抗は、素朴実在論をも復活させることになる。
 まず最初にカントは、その先験理論により悟性概念の実在の救済を開始する。そこでの因果律の救済は、現象の根拠、すなわち実体概念の救済へと直結した。カントによる不可知論への抵抗はそこで終わってしまうのだが、現象から物自体への遡及を許容する段階で、素朴実在論の復活にも陽光がさすことになった。次にカントに続く形で今度はヘーゲル弁証法が、不可知論全般の破壊を企図する。ヘーゲルにおいて現象は、対象自体の現れであり、対象の低次の現れとみなされた。現象は積分される形で概念へと成長し、自らの過去の姿を廃棄する理念へ化けると考えられた。この弁証法では、現象から物自体に遡及するルートは最初から封鎖されており、現象が理念に転化するルートだけが開放されている。そしてこの理念こそが物自体であるとヘーゲルは考えた。もちろんこのヘーゲルの逆転的発想は、本当に単なる逆転でしかない。とは言えそこには、現象を対象自体の現れとみなすと言う最大の優位点が存在した。現象が対象自体の現れであるなら、現象こそが対象ではないのか? 一見するとヒューム経験論の出発点に戻ったかのようなこの結論は、すぐさま一方に弁証法的唯物論、そして少し遅れて他方にフッサールの現象学を生み出した。
 先に現象学について言えば、現象から実体への遡及を断念し、現象を対象自体に扱う限りで現象学は、ヒューム経験論の二番煎じでしかない。このためにハイデガーは、現象を対象自体に扱う主体の決意に現象の実在性の根拠を見出す。つまり現象のもつ実体性は、主体の実存性から派生したものにすぎず、その限りで現象は物理的実在を持たないわけである。もちろんこのハイデガーの考え方は、フッサールのヒュレー底層論を純化したものである。しかしこの考えを推し進めるなら、次に答えなければならないのは、主体の実存性がどのように確保されるのかと言う疑問である。ところが実際には主体が物理世界から切り離されている限り、この疑問に答えは無い。それでもそこに一般的な答えを期待するなら、予想されるのはなんらかの神的直観の登場だけである。例えばそれは、カント流の定言的道徳論やキェルケゴール流の宗教的実存論として現れるかもしれない。そうでなければせいぜいそれは、個別の主体に染み付いた感性的で不定形な行動慣習として現れるのが関の山となる。しかしいかにその決意が自己犠牲を払うものだとしても、その事実が意識の思いつきに対して正当性を与えることは無い。このようなことで結果的に実存主義は、一時的な流行に留まった形で消滅する運命を辿ることとなった。
 一方の弁証法的唯物論は、現象を対象自体の現れとして承認することを、素直に現象から実体への遡及を可能にするものとして受け取っている。もともとヘーゲルにおける現象の理念への転化は、概念に積分された事象の中に現象の分析を包括するものである。例えば虹の概念には、視覚機器に到達する光線波長の異なる大きさの並存が含まれている。ただしヘーゲルはこの事実を、虹の概念を形成する事象全体の中の単なる一項目に留めたままにする。つまりヘーゲルにおける光線波長の異なる大きさの並存は、虹と言う現象の実体に遡及した姿ではない。しかし弁証法的唯物論は、素直にそれを現象から実体に遡及した姿だとみなす。もちろんその思いみなしは、そのままでは旧来の素朴実在論の単なる復刻である。それではヒューム版不可知論に対して答えを持っただけであり、カント版不可知論に対して答えを持つことはできない。実体への遡及先にはさらに現象が登場するだけであり、相変わらずそこではフッサール流の実体への遡及の断念か、ハイデガー流の実体断定の決意か、さもなければさらなる実体への遡及を試されるだけである。しかし唯物論の真骨頂は、実体を物理的実在に限定することにある。現れ出た現象が意識の関与しない物体にすぎないなら、自動的に現象は実体なのである。別にそこには、ことさらに判断停止や実存主義的決意も必要とされなければ、それ以上の実体への遡及をする必要もない。したがってそこに残されている未解決事項は、見い出された現象に、意識の関与の余地がどのように残っているのか、つまりは現象が物理的事実と乖離する余地がどのように残っているのかを検知するためのどちらかと言えば技術的問題だけである。しかもマルクスは、ハイデガー以前に主体の実存性について唯物論的な答えを既に提示している。それは、世界が人間の類的存在を損壊する限り、または世界が人間の類的本質たる自由を許容しない限り、真に人間が現実存在することは無いと言う答えである。当然ながら唯物史観や階級闘争理論は、唯物論における認識論ではなく、存在論を体現する理屈にほかならない。実存主義者サルトルは素直にこのマルクスの提言を受け入れることとなるが、彼自身の抱えた主観的観念論と共産主義自体の低迷により、残念ながらと言うべきか当然ながらと言うべきか、彼が自称した革命的共産主義は世界にさらなる混乱をもたらしただけに終わっている。

 近代において存在論という言葉を哲学世界で流行させたのはハイデガーであるが、存在論という言葉でハイデガーが切り分けようとした直接の哲学的対象は、実体への遡及を断念した師匠フッサールの超越論的現象学である。カント超越論が不可知論において実体への遡及を断念したように、フッサールは現象から現象の存在を積極的に追い払い、カントの後を追うように認識論の構築にいそしんだ。このようなフッサールと違いハイデガーは、現象の側ではなく現象の存在の側を問題にし、認識論に対してむしろ無頓着な姿勢を取る形で自らの現象学を存在論として位置づけた。一方で唯物論は、観念論内部の対立において意識と物質、本質と実存、理念と現実、主観と客観、現象と実体の片側の姿として常に立ち現れ、もっぱら認識論に対して無頓着な姿勢を取る形で観念論そのものを批判する存在論の姿をして現れてきた。すなわち存在論とは、唯物論のことなのである。ただしむしろそれは当り前のことである。デモクリトスの時代から伝統的に唯物論は、対象の認識を最初から問題にせず、対象の存在だけを問題にしてきたからである。素朴実在論は、認識が物理的実在の反映にすぎないと語るだけであり、対象認識を対象の存在のおまけとして扱う。だからこそ観念論の目には、唯物論が底の浅い哲学のように映る。それゆえに観念論は、この唯物論の実在論に対して「素朴」の二文字をかぶせた。このことを逆に言うなら、観念論は対象の認識だけを問題にしており、その哲学的本質は認識論である。この観点で近代哲学史を見直すなら、観念論を自認したハイデガーが自らの哲学を存在論と位置付けたことは、訳のわからない言明でさえある。
(2014/08/24)


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             ・・・ (作用因と目的因)
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