唯物論者

唯物論の再構築

ハイデガー存在と時間 解題(第2編第4章 脱自と日常)

2018-08-28 22:37:51 | ハイデガー存在と時間

 在り方の意味を脱自(=時間性)とした前章の結論を踏まえて、ハイデガーは「存在と時間」のこれまでの日常性分析の軌跡を脱自の視点から捉え返す。ここでは了解・情念・頽落・語りの現の開示の各構造の捉え返しから始まり、予期と忘却から現成する日常的時間と道具連関、さらに道具からの事物の現成と理論的態度の時的成熟、そして空間論を再考した第2編第4章を概観する。


[第2編 第4章の概要]

 現存在における到来・既在・現在の脱自は、時的成熟を経て以下のように了解・情念・頽落の現の開示の各構造へと自己復帰する。

・了解…投企した自己を悟る到来。
・情念…投げられた自己の不安として現れる既在。
・頽落…先駆も無く世の中に支配され、到来と既在から自己を疎外する非本来の現在。
     例えば好奇にある現在は、変様した予期において到来から逃避し、既在の忘却をもって現成の安逸に留まっている。

しかし時間が過去から現在を経て未来に進むのと違い、脱自(時間性)は到来が既在を伴って現在として現成する。それゆえに上記の対応関係は1対1ではなく、以下のように本来的ではない到来と既在、および本来の現在が他の開示構造と混成する形で現れる。

・予期…先駆も無く世の中に支配された非本来の到来。単なる現成に留まる。
・忘却…先駆も無く世の中に支配され、自己固有の在り方から逃避した非本来の既在。予期や想起を伴う恐れとして現れる。
・語り…到来と既在が現成する本来的な現在。到来・既在・現在への分節を行う。主語と述語の連結に先行する言語成立の出発点。

上述のように日常的現存在における到来と既在は、それぞれ予期と忘却として現れる。それは世の中の予期において到来を現成し、忘却によって現在の既在への消失を構成する。それが表現するのは、現存在の日常的な時間の在り方である。同様に日常的な道具連関において道具を道具たらしめるのも、実現していない用途へと道具を関連付ける予期である。そして現存在の目的と異なる道具の用途が、道具連関における最終目的の実存を忘却させる。配慮に先んじて配慮する現存在の在り方は、そのような道具連関を結び付け、忘却に対抗してそれを保有する。ハイデガーはこの現存在の配慮の在り方を、脱自が日常的に時的成熟した在り方として扱う。一方で道具連関において道具に適所を与える配視は、単なる対象認識や表象想起ではなく、道具仕様を創造的に現成する熟慮を伴う。熟慮は主語と述語の連結で文章を構成する。その理論的態度は、用途の忘却による道具の適所の喪失、およびその事物化に対する予期、さらに自然による道具から事物を現成する数学的投企、そして現存在における道具から事物を現成する決意から時的成熟したものである。他方で道具連関における有意義性全体としての世の中は、開始から終着への指示を成す客体化した時間性であり、以下のように脱自した現存在の自己を表現する。ちなみに世の中が自己の客体である以上、その客体への超越は単なる自己復帰として解釈される。

・目的…到来する投企した自己
・原因…既在の投げられた自己
・手段…世の中の支配により変質した現在の自己

また予期と忘却は、道具から事物を現成したのと同じ要領で、世の中から空間を現成する。それだからこそ事物と空間は、いずれも時間から独立した外観を得る。



1)脱自と現の開示構造の対応

 ハイデガーは了解・情念・頽落・語りとして示した現の開示の各構造を、それぞれ脱自が時的成熟した姿だとする。なぜならそれらの開示の構造は、いずれも脱自としての時間性に始まり、脱自が現において自己へと復帰した姿だからである。おおまかに見ると、それらの開示の構造は次のように時間性としての脱自と対応する。

・了解…投企した自己を悟る到来
・情念…投げられた自己の自覚としての既在
・頽落…到来と既在から自己を疎外する現在


1a)到来の悟りとしての了解

 了解とは、原体験的に実存する自由に関わって、実存を目的に投企する現存在の在り方である。それは到来の時的成熟であり、悟りである。しかし日常的現存在は先駆することも無く投企し、その到来は単なる現成に留まる。その先駆の欠けた決意は世の中に支配されている。それゆえにその日常的現成は、本来の現成、すなわち瞬視に至らない。そしてその頽落した到来は世の中に支配された予期として現れる。この予期があるゆえに現存在における期待が可能となる。一方で先駆も無く世の中に支配された現存在は、自己固有の在り方から逃避し、それを忘却する。この忘却があるゆえに現存在における想起が可能となる。


1b)既在の自覚としての情念

 情念とは現存在の投げられた在り方であり、既在の時的成熟であり、その自覚である。その情念の一つとしての恐れは、狼狽として現れる現存在の自己固有な在り方からの逃避であり、それ自身が自己固有な在り方の忘却である。それは世の中に支配された情念である。逆に不安は現存在の自己固有な在り方への復帰であり、不安自身が自己固有な在り方である。現存在が不安がるのは世の中での在り方であり、現存在が世の中での在り方であるからこそ不安は現れる。恐れは世の中の既在に対する予期や想起を伴う。一方で不安が対峙するのは自己の原体験的既在であり、世の中に対する予期や想起を必要としない。


1c)到来と既在から自己疎外する頽落

 頽落とは、自己固有の在り方から逃避する現存在の日常的在り方である。それが逃避するのは自己固有の到来と既在であり、それゆえに頽落は自己そのものの疎外として現れる。この頽落の一つとしての好奇は、ただ事物存在者を見ることに満足し、見ることだけを自己目的にする。そこでの現存在は、変様した予期において自己の到来から逃避し、自己の既在を忘却して、ただ現成の内の安逸に留まっている。ただしその予期と忘却は、現存在が本来の到来と既在を回復するための、すなわち実存に至るための特異な現存在の機構だと、ハイデガーは考えている。


1d)到来・既在・現在を分節して現成する語り

 脱自としての時間性と現の開示の各構造は1対1で対応しているわけではない。そもそも到来も既在も現在において現成しなければならない。時間が過去から現在を経て未来に進むのと違い、脱自は到来が既在を伴って現在として現成するからである。それゆえに到来と既在が現成する現在も、頽落と異なる別の現の開示構造において時的成熟する。その現の開示構造が現存在の語りである。語りでは、既在を伴う形で到来が現成し、到来・既在・現在へと分節される。このことからハイデガーは、この時間的な文章構成を言語成立の出発点に扱い、主語と述語の連結に文章構成の基礎を捉える伝統的な言語把握を排除する。


2)配慮における時間進行

 現存在の世の中での在り方は、配慮に先んじて配慮するものであった。その配慮は道具全体を手段と用途の連携によって相互に結び付け、それを保有する。個々の道具は適用を受けた適具として現れ、道具連関における適所を得る。ここで道具を適具たらしめる適用には、予期が必要である。すなわち予期が道具を道具たらしめている。道具を適用する現存在にとって、道具の用途はまだ実現していないからである。一方で道具を道具の用途に差し向ける指示は、開始点としての自然、終着点として実存をもっぱら喪失している。なぜなら道具の用途は、現存在の目的と異なるからである。すなわち道具連関における目的の忘却は、道具が道具連関の個別部位に留まる限り、必当然である。この予期と忘却の組み合わせは、配慮する現存在における到来の現成と現在の既在への消失を構成する。道具の損傷や欠落のような道具連関の中断は時間進行の中断として現れ、むしろ中断が時間進行の原体験的実在を構成する。


3)熟慮における理論的態度の現成

 観察と実践を対置して実践の優位を説く場合、または逆に観察の優位を説く場合、いずれにおいても観察と実践の境界は不明瞭なままにされてきた。観察はそれ自身が実践であり、また実践を伴わない純然たる観察も無いからである。ハイデガーは直観を、観察と実践が分離していない認識として扱い、そもそも認識と区別して視と呼ぶ。とくに道具連関において道具に適所を与える視は配視と呼ばれた。配視は単なる対象認識や表象想起ではなく、道具仕様の創造的な現成を伴う。それが現成するのは道具の動作条件と動作であり、その現成は特異な配慮として現れる。ハイデガーはそれを熟慮と呼び、道具的配慮や対人的配慮とも区別する。熟慮の特異さは、主語と述語の連結で文章を構成するその理論的態度にある。


4)数学的投企

 道具的配慮において重さは、道具の用途に対する損傷や欠落において「重過ぎる」や「軽過ぎる」などの言葉で語られた。ところが熟慮における現成では、道具的配慮に現れた道具の用途は忘却される。そこで熟慮における重さは、道具の用途から独立した存在者固有の重量として語られる。このときの道具は事物として注視されており、その適所において了解された道具の在り方も、適所を喪失した事物の在り方に転化している。しかしそれは理論的態度に固有な転化でもない。理論的態度は道具にも対しているからである。またその在り方の転化は、現存在が行っているわけでもない。転化は道具における事物的在り方の露呈であり、現存在の在り方に関わらず、道具は既に事物として在るからである。このような道具から事物への転化を行うのは、自然である。ハイデガーはこの自然が行う道具の事物化を数学的投企と呼ぶ。数学的投企において道具は客体と化し、それが事物の現成として現れる。それが開示するのは、アプリオリな存在者の在り方である。そしてアプリオリな存在者の在り方が可能であるがゆえに、数学的物理学のような客観科学も可能となる。ただし現存在は事物の被暴露性を予期している。それが示すのは、道具から事物を現成する際に現存在の決意が必要だと言うことである。


5)世の中への超越

 世の中とは有意義な適所全体であり、指示の開始点に自然、そして終着点に実存を擁する全体相関を成している。したがって世の中は、現存在が実存するための媒介であり、さらに言えば手段である。ただし世の中に現れる開始から終着への指示の流れは、世の中が客体化した時間性であり、脱自した現存在を表現している。すなわち世の中は自己の客体である。そしてその有意義性の全体は、次のように脱自に対応する。

・目的…到来する投企した自己
・原因…既在の投げられた自己
・手段…世の中による支配で変質した現在の自己

世の中が自己の客体であるなら、その客体への超越は単なる自己復帰にすぎない。したがって客体への超越に関する不可知論的困難も存在しない。そのような困難は、超越不能な主客分離に起因するからである。その場合の世の中は、自己の客体ではなく、事物の集合体だとみなされている。


6)空間の現成

 道具から事物を現成させた同じ要領で、次にハイデガーは世の中から空間を現成させる。道具における適所の喪失は、道具から事物を現成せしめた。同様に適所全体における適所の喪失は、世の中から方向全般を現成する。もともと道具は、空間を度外視してもその適所によって、現存在に対する或る種の空間的な方向と距離を得ている。しかも道具は現存在と区別された以上、その現存在との懸隔は縮まることなく拡大する。しかし拡大する距離が無限大に達するなら、道具は完全に消失する。逆に道具が消失しないなら、そこでは距離の拡大も消失し、空間的な方向と距離が現成していなければならない。ここでの道具の消失停止を果たすのは、道具からの事物の現成であり、したがって事物現成と同様に予期と忘却が空間を現成する役割を果たす。またそうであるからこそ事物と同様に空間は、時間から独立した外観を得ている。


(2018/08/26)続く⇒(存在と時間第2編5章) 存在と時間の前の記事⇒(存在と時間第2編3章)


ハイデガー存在と時間 解題
  1)発達心理学としての「存在と時間」
  2)在り方論としての「存在と時間」
  3)時間論としての「存在と時間」(1)
  3)時間論としての「存在と時間」(2)
  3)時間論としての「存在と時間」(3)
  4)知覚と情念(1)
  4)知覚と情念(2)
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  4)知覚と情念(4)
  5)キェルケゴールとハイデガー(1)
  5)キェルケゴールとハイデガー(2)
  5)キェルケゴールとハイデガー(3)
ハイデガー存在と時間 要約
  緒論         ・・・ 在り方の意味への問いかけ
  1編 1/2章    ・・・ 現存在の予備的分析の課題/世の中での在り方
     3章      ・・・ 在り方における世の中
     4/5章    ・・・ 共存と相互依存/中での在り方
     6章      ・・・ 現存在の在り方としての配慮
  2編 1章      ・・・ 現存在の全体と死
     2章      ・・・ 良心と決意
     3章      ・・・ 脱自としての時間性
     4章      ・・・ 脱自と日常
     5章      ・・・ 脱自と歴史
     6章      ・・・ 脱自と時間

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