唯物論者

唯物論の再構築

実存主義

2010-12-25 16:46:04 | 実存主義

 ここでは、キェルケゴール以後、とくにハイデガー以後の現実存在一元論を実存主義に扱う。一方で現実存在一元論は、現象学とも呼ばれている。つまり実存主義は現象学であり、現象学は実存主義であることになる。しかし現象学の創始者であるフッサールは、実存主義を自称したことも無ければ、そのようにみなされることも無い。当然ながら実存主義の系譜にフッサールが搭載されることもない。それでも実存主義を説明する上で、実存主義の脱落者のような形で、フッサールは重要な役割を果している。

 現象学における現実存在一元論は、実際には現象一元論のことであり、実存主義における現実存在一元論と微妙に異なる。現象学は、現象における実体への遡及を判断停止することにより、現象を実体に扱う。したがって現象学水準における現象は、その存在的主観性にも関わらず客観的存在に扱われる。現象することなく現象を基礎づけるようなカント式の超越的存在は、現象しない限り、単なる背後的錯覚にすぎない。もしそれが現象したとしても、やはりそれは超越的存在ではなく、最初から現象だからである。すぐ判るようにこの現象学の理屈は、ヒュームの経験論における印象一元論の復活である。しかしカントの先験理論により死滅させられたはずの経験論を、フッサールはなぜ憶面も無く看板を変えて復活させたのか? その背景の一つに、ヘーゲル弁証法の存在がある。ヘーゲルは、カント不可知論の批判において、現象そのものが対象の現れであり、現れが理念としての概念を形成するとみなした。したがってヘーゲルでは、現象を基礎づけるべき超越的存在は、実際には現象に基礎づけられている。しかし基礎づけるべきものが基礎づけられているこの逆転は、ヘーゲルでは不合理に扱われない。ヘーゲルは、現象を超越的存在の一断面に扱い、概念を超越的存在の真の姿に扱うからである。つまり現象と概念は、いずれも超越的存在の現れであり、理念の低次な姿と高次な姿として異なるだけである。もちろんこの弁証法は、マルクスとキェルケゴールにおいて逆立ちとみなされたヘーゲル流レトリックである。しかしその弁証法は、哲学をカント不可知論から解放し、弁証法的唯物論と現象学を準備する積極的役割を果たすものであった。
 ヘーゲル流レトリックの難点は、概念がもつ理念としての正当性を現象から引き出さざるを得ないことに持っている。現象が実体となり得ないなら、対象自体はやはり現象の究極の始点として存在すべきではないのか? ここで素朴実在論は、素直にそれを物質と理解する。意識が現象に過ぎず、現象が実体となり得ないなら、実体は意識ではないものでなければならないからである。ただしこの素朴実在論における物自体は、既にカント式の不可知な実体ではない。それは現象する実体であり、そのさらなる実体への遡及が無い究極の始点だからである。このような素朴実在論は、足場を物理に求める自然科学的判断においてとくに有効であり、現代における哲学から乖離した自然科学的な形而下学ではむしろ自明の理屈となっている。素朴実在論の強みは、対象の物理性に対する不定形な承認であり、逆にそこが弱点となっている。同様にそこでの判断の正当性に対する権能も、煎じ詰めれば不定形なのではないかとの批判は、常に有効である。一方で現象が対象の現れだと認めるなら、現象は既にそれ自体がさらなる実体への遡及を要しない究極的な始点でもある。むしろそのように考えるなら、今現れている現象が意識なのか物質なのかの判断も必要とされない。すなわちそこには、対象の実体性に対する不定形な承認が最初から存在しない。しかもここでの判断は、認識世界の枠内で閉じており、判断の正当性に対する権能問題が発生することも無いかのように見える。このような実体への判断停止は、素朴実在論が有効となりにくい人文科学的判断に対して効力を持つ。ただしその有様は、裁判における有罪認定事象の真偽判定と同じである。すなわちそれは、足場の信頼性が得られなくとも、有罪認定のための形式を確保するのは可能だと言うのと同じである。したがってここに潜んでいるのは、素朴実在論と別種の論理的な危うさである。ただし結局それは、ヒューム経験論における実体の欠如が抱えた足場の無さと何も変わるものではない。
 カントは意識による対象認識構造を先験的形式として明らかにできると考えた。カントにならってフッサールも、対象認識構造の基本形式を、認識主体と認識対象の切り離し不可能な相関とみなして、対象認識構造の仮説を立ててゆく。認識主体と認識対象は、磁石の両極のように認識の両極とみなされ、認識は両者の相互依存を表現するために、志向と言い換えられる。しかしこの対象認識構造は、主体としての意識と対象としての物質の二元論にほかならない。そこでフッサールは認識対象の実在性を否定することで、この対象認識構造を意識が意識を認識する一元論に収束させる。つまりフッサールの現象学は、認識対象を意識の創造物に扱う独我論である。独我論には、認識主体としての意識と、同じく認識対象としての意識とが、対立して現象するという謎がつきまとう。しかしフッサールの目的は、カントにならって意識による対象認識構造を明らかにすることである。したがってフッサールにすれば、認識主体の預かり知らない認識対象が現象するという独我論の謎は、最初から問題にならない。フッサールが目指すのは、夢と現実の両方を説明できるような対象認識構造の構築である。したがって独我論の指摘は、フッサールにとってむしろ褒め言葉でさえある。そしてフッサールはカントの直観/構想力/統覚の意識構造にならって、認識主体(ノエシス)が認識対象(ノエマ)を志向する認識空間(ヒュレー)の構図を立てる。ただしノエマもノエシスもヒュレーも意識の構成要素である。つまりヒュレー構造とは、カントの構築した対象認識構造と同様に、パイロットが攻撃対象を認識するのに使うレーダーかテレビゲームの液晶画面と同等の機能にすぎない。

 このフッサールのヒュレー構造をサルトルは、現象と背後的実体の二重構造とオーバーラップして、明示的に現象学からの逸脱と扱うことになる。そのヒュレー構造批判の肝要は、認識対象のもつ実在性である。フッサールは認識主体が認識対象に実在性を付与すると考えている。しかしその実在性の意味、つまり存在の意味を問い掛けることをしていない。これに対してハイデガーは、現象学の存在論への転換を行うことになる。ハイデガーはフッサールの弟子として、また現象学の後継者と目されて登場した。ところがハイデガーはすぐさま現象学を、フッサール理論と別のものに転換してしまう。認識主体が認識対象を志向するヒュレー構造は、現存在が存在者に興味を抱く世界構造に入れ替わる。それは言葉の変換ではなく、存在論から距離を置いて、別個に認識論を構築する欺瞞的なカント手法の放棄を意味する。そしてそのような転換が必要だったのは、ハイデガーにとって本来の哲学とは、認識論をも成立させる存在概念の研究分野だったからである。一方でフッサールがカントにならって構築した超越論は、意識による対象認識構造の研究分野である。つまり超越論とは、肉体的な五感認識に悟性認識を加えただけの、要するに認識論である。端的に言えば、ハイデガーは師匠の超越論を形而下学に扱ったのである。フッサールは、サルトルが明示的に排斥するずっと以前に、実質的にハイデガーによって次代の現象学から排斥されている。
 実在性とは何か? 存在者を現実存在として非存在と区別するためには、区別に足る実在性が必要である。存在者の実在性は、一般的に自明な所与として了解される。ところが実在性を単に所与に留める場合、真偽の問いかけ全般が不要化しそうである。もちろん実際にはそのようなことは無い。実在性の問いかけは、存在者の真性の問いかけなのである。そしてこの存在者の真性の分析は、さらに存在者に関わる人間の真性の分析を必要とする。つまり存在論には、認識論に限定されない人間論が不可欠なのである。しかしこのことが実存主義の世間的扱いに混乱をもたらした。もっぱら実存主義は、論理の成立を研究するという形而上学の役割を維持するものと本来的人間の入門書を目指すものとの2通りに扱われたのである。このことがハイデガーに、自らの理論を実存哲学と位置付け、巷の実存主義と区別させた理由になっている。和辻哲郎のように実存主義を人生論化する要素は、人間の本来性を精神鍛錬を通じて獲得できるかのような誤解に基づいている。意識が本来性を創出する和辻理論も、意識が認識対象を創出するフッサール理論も、いずれも論理が意識から出発する理論、つまり単なる観念論にすぎない。

 人間存在の本質は自由である。実のところ人間の真性分析の結論は最初から決まっている。しかしハイデガーは現象学的手法に従い、遠回しにこの結論に近づこうとする。そしてマルクスのように直接的な社会批判に連携することもせず、日々の生活に埋没しモノ化する人間の堕落を告発する。人間は自由を奪われたのか、それとも自ら自由を放棄しているのか? ハイデガーの想定は明らかに後者である。このために人間が自由を感情的に把握すると、それは不安として現象するとみなされる。実は自由に対し、不安を感じる否定的反応と解放感や充実感を感じる肯定的反応の両方向が可能なのだが、キェルケゴールにならって、ハイデガーも意図的に自由を素直に喜ぶ人たちを無視している。これは一種のデータ改竄である。別の言い方をすれば、真性に畏怖する人間像という性悪説にハイデガーは依拠している。そして不安と同義に示される良心においてハイデガーは神性を示し、非合理主義の扉を開いたとみなされた。
(2010/12/25初稿、2014/08/17改訂)

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             ・・・ キェルケゴールと頽落

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