荻窪鮫

元ハングマン。下町で隠遁暮らしのオジサンが躁鬱病になりました。
それでも、望みはミニマリストになる事です。

砂の器の巻。

2013年03月19日 | 偽りの人生に優れたエンターテイメントを
ここ数日、なぜか映画【砂の器】の事が気になって仕方がありませんでした。

普通であれば、DVDでも借りれば良いのですが、僕の家にはテレビもDVDプレイヤーもありません。

シンプル生活を邁進するのは良いのですが、こういった場合に不便を感じます。

で、【砂の器・動画】と検索しますと、結構たくさんヒットするものですね。

その中にPANDORA.TVでのアップがあったので早速、観ました。

5分ごとにプレミアム会員の勧誘広告がインサートされるのには閉口しましたが、なにぶんタダで観ている身としては、あまり文句は言えませんな。

この映画版【砂の器】は何度も観ておりまして、数年前にも観ました。

いや、何度観ても素晴らしい作品であります。中居くんや玉木宏のドラマ版も良かったですが、やはり映画版には及びません。

今回は以前より少々疑問だった部分をきっちり解明し、納得しようと臨みました。

その疑問とは、

Q1『なぜ、和賀英良は蒲田のバーで出雲弁を使用したのか?』

Q2『三木謙一は人格者であり、不用意に和賀の出自及び履歴を他人に口外しない事は、和賀自身も理解しているはずなのに、なぜ凶行に及んだのか?』

の二点です。

中央線で週刊誌記者が【紙吹雪の女】をたまたま見た事、その記事を刑事・吉村弘がたまたま読んだ事、後日ふたたびその記者がたまたま【紙吹雪の女】を見かけた事などは、あまりにご都合主義であり、疑問にすらなりません。

また、三木が伊勢の映画館に掲げてある、和賀の写真を見、それが本浦秀夫(和賀の幼名)の成長した姿だとよく分かったな、とも思います。

6~7歳の男児の面影が30代前半の成人男性に宿っているものでしょうか。

僕の親戚は誰ひとり、6歳の僕と32歳の僕を重ね合わせる事など出来ないでしょう。

大好きな作品が故、些細な事が引っかかります。細かい事が気になってしまうのが、僕の悪い癖。

さて、Q1については、三木が出雲弁を使用するのは理解出来ます。

久方ぶりに秀夫と会った三木は嬉しく思い、三木の地元・岡山の言葉ではなく、秀夫と初めて出会った亀嵩の言葉・出雲弁で会話を敢えてしたかったのでしょう。

一方、和賀は懐かしい恩人とはいえ、自分の忌避すべき過去を知る人物と話すのに、目立つ出雲弁を東京・蒲田という場所で使用するでしょうか?

ただでさえ新進気鋭の音楽家ですから、一般市民にも顔が売れてもいます。

この点に関しては納得のいく解答を出す事は出来ませんでした。

次にQ2については、映画でも、丹波哲郎演ずる今西栄太郎警部補が上記と同様の意見を述べていました。

ではなぜか?僕は僕なりに仮説を立ててみました。

それは映画での今西警部補の仮説をベースにしています。その仮説とは、蒲田のバーで三木と和賀が会ったのは二度目ではないか、という事です。

すると一度目は、当然、和賀は三木の殺害に至っていない事となります。

この時はおそらく、ほんの短い時間で互いの邂逅に喜んだだけではないでしょうか。

次に蒲田のバーとなるわけですが、和賀もほんの少し気がゆるんだのでしょう、出雲弁を使用した。

その時の会話を女給に聞かれたのです。

その後、本浦千代吉が存命である事を聞き、三木が強硬に面会を主張した。

自身の栄華を阻む者として、結果、和賀は三木を殺害に至る・・・。

ちなみに原作では千代吉は死亡しております。



原作では数ページ程でしか表現されていない、本浦親子の流浪は映画版ではかなりの時間を割いて描かれております。

その壮絶な流浪のせいか、物語の主軸である【ハンセン氏病に対する偏見】が本当の犯人である、という意見が散見されますが、それは違う。

所詮、犯罪は犯罪であります。

この場合は和賀の個人的・利己的な犯罪に過ぎません。

とはいえ【ハンセン氏病に対する偏見】が表面化した事は大いに賞賛されるべきでありましょう。

幾度も観た、この作品。今回の視聴は非常に意義があったと自負しております。



本編で唯一、本浦親子の心温まるシーン。じゃれあいながら、粗末な食事を摂る姿が涙を誘います。


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