katsuまるはだかぁ 芸術家への道

モザイクアート一直線のkatsuの日記

くじら教室

2017-12-17 08:11:26 | モザイク教室
今日はくじら教室。ただここはモザイクはオマケな感覚なんで、重要なのは制作活動について・・・みたいな話の方が重要なんで、常に俺はどう考えるか?どうしているか?どんな事が気になるか?みたいな、モノの考え方を答えれば良いのだけれど、それは聞く側にも

聞く姿勢が必要で、しかも必ずしも常に意見が一致する訳では無いのね。良くある例で言えば、こんな事普通無いですよね?みたいな話・・これを質問に思えたりする人がいるが、それは完全に無い前提であり、これを言う側は常に、そうだね・・・の同意を求めている場合が多いのね。

こんな場合、そんな事は無いんじゃないかな・・・って言う、反対意見にも思われる返答はしづらい。つまり完全なる質問であれば、この件についてどう思いますか?であって、厳しく言えば自分の答えありきで、かなり強要チックにも思えたりもする。

ここに気が付くと、質問自体が質問らしくなり、聞かれている方も答えやすい。これで第一歩目が解決するのだけれど、次は俺と意見が合う事を望んでいる前提の眼で、言葉だけで、どうですか?と求めて来たりするのね。つまり言葉を変えても中身は一緒・・・。

ただ是正はされているのだから、進歩はしているのね。単純に1年生が2年生になった感じ・・・ただ、問題なのは一体どんな関係性で聞いたり答えたりするのか?になると思うのね。例えば何々流みたいな師匠と弟子なんて関係性だと、その師匠も師匠がいたりする。しかもそこは遊び感覚でも楽しむ事でも無く、習得するって姿勢で臨んでいる気がするのね・・・。

つまり伝統とか格式とかあったりして、個人の意見よりも言い伝えられた事を伝承する事が大事になる。まっ、棟梁で言うのなら、仏像彫刻みたいなものね。ありとあらゆる部分の寸法は決められていて、個人の主観なんてもんは一切いらない。

いにしえから伝わったままに再現をする・・・ピアノのバイエルみたいな感じね。設計図通り、楽譜通りね。これがフィギュアスケートなら、規定演技みたいなもので遂行する的な感じ・・・あくまで伝わるように・・・の言葉で言えばね。

これと正反対な感じに、自分で考える・・・って言う事があると思うのね。フィギュアなら自由演技だったり、木彫と言って決まりが無い所からモチーフから自由みたいな感覚のものだったり・・・って、言葉は自由って言う言葉の連呼みたいな側ね。

こう言う事を1つ知ったら、あぁ革新と保守ね・・・とか、守備と攻撃ね・・・とか、白い巨塔の財前先生と里見先生ねとか、何でも良いんだけれど、こんな事?なんて返せると、質問内容の確認になったりするのね。

おっと話がそれた・・まっこれで単にフィギュアをしたい・・・とか、彫刻がしたい・・・って思って普通は門を叩く訳ね。生徒さんの側で考えるとね。その時に、どっち側で習いたいか?なのね・・・ここは。大抵、習う場合、サンプルがあったりするのね。

だから真似から入る訳ね。これはとても先生側に都合が良いのね。何せ既にサンプルの段階で悩みは終わっているので、マニュアルが作れちゃうから、その工程通りに教えれば良いのね。ただ、ただなのね。それは全て質問が先生の答えられる範囲の場合ね。

これがイレギュラーな生徒・・・そうね、この場合はくじらだとする。モザイク教室でモザイクしなくても良いって生徒どうするのかな?・・・あはははは。まず普通の場所じゃ無理だわ。だってそんなの先生の先生も教えて貰っていないもの。

だから考えなきゃならないのね。そこにマニュアルなんて無いのだから。そうすると、シンプルに先生katsuに教わりたいんじゃなくて、作家katsuに教わりたいんだろうな・・・となって来るのね。はぁ?何が違うの?って聞こえそうだけれど、全く違うのね。

そもそも作家とは?自己主張の塊でしょ?だってこう思うの連続なんだもの。それが先生って言うのは、通常なら、こう習った事をみんなにも伝えます・・・みたいな感じでしょ?同じ人でも、取り組む姿勢が全く違うでしょ?

つまり作家katsuならこう思う・・・を存分に出せるが、先生katsuの場合、進学を目指すのか?はたまた、今まで出来ない事を出来るようにするのか?とか、人それぞれな教え方があると思うのね。これが流しの教室なら下地を渡せば、はい出来上がりだけれど、

アトリエの個人レッスンだとそう言う訳には行かなくなる。当然、どんな事をやって見たいか?みたいな問診的な事が必要になるのね。何故ならここは自由な場所だから。マニュアルが無いから。ただ、そこには自由が故にやりたい事があるか?が問われるし、

無ければ無くても良いけれど、提案を受け入れるだけの許容範囲をどの程度お持ちか?みたいな話にもなる。しかも、その上で、それを限られた時間の中での作成が可能かどうか?・・・を見極め、時には断念させないとならない事もあったりする訳で・・。

まぁ自由ってスタイルはリスクを伴うものでね・・・そっちの先生側では色々と人によって変える事が必要となるが、作家katsuの場合は、何か大きな影響を受けない限り、余り変化は無く、ある意味、先生の時よりは遠慮無く発言出来る。がしかし、その分、

当然、意見も厳しくなるから、場合によっては聞きづらい事を言うかも知れないのね。その時にどんな関係か?が問われたりする。これが楽しみの制作なら、厳しさは必要が無いが、当然上手くなりたいとなれば、話は変わって来る。

楽しみだけなら補欠でも楽しめるが、本気となればレギュラーになりたいって気持ちになると思うのね。こんな違いね。でも、くじらはモザイクよりも考え方・・・ただ難しそうだけれど、明確なのはくじらに取って必要なのは、切る張る技術じゃなくて、

その技術を生かす構想やら発想。オリジナルって言うのは常にそこが人と違う所で、そこが本当の意味での自分らしさに繋がる部分であって、俳句をやるくじらには、そこに興味があるのだろうから、そこを惜しみなく話しているつもりなのね。

いずれにせよ、変わった教室だけれど、俺も随分と慣れて来たのね。

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