KANCHAN'S AID STATION 4~感情的マラソン論

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このマラソン本がすごい!vol.7「走らざる者たち」

2009年01月16日 | このマラソン本がすごい!
「走らざる者たち」平塚晶人著 (「Number ベストセレクションⅡ」所収)
文藝春秋社刊

昨年の1月、日テレ系の報道番組「ザ・サンデー」において、「箱根駅伝歴代ベスト10」なる企画を行なっていたのだが、その半数が途中棄権や体調不良によるブレーキや繰上げスタートだったことを僕はこの欄で批判した。1年間の苦労の全てを徒労に終わらせるようなアクシデントを「名場面」などと名づけるとは一体どういう心算なのか。特に1位にランクされたのは1996年、第72回大会の4区における山梨学院大の中村祐二のリタイアシーンだったのだ。確かに、3連覇を狙う優勝候補チームのエースのリタイアというのは、「衝撃的」なシーンであり、僕にとっても忘れられないシーンだ。しかし、それを「名場面」と呼ぶのはどうかと思う。言うまでも無く本来はあってはならないアクシデントであり、不幸な出来事なのだから。災害や事故の決定的瞬間の映像を「名場面」と呼ぶようなものである。

前年にびわ湖マラソンで初マラソンに大会記録で優勝し、同年の世界選手権の代表にも選ばれ、その将来を嘱望されたランナーのアクシデントの波紋は大きかった。翌年の箱根で「花の2区」の区間賞獲得で汚名返上を果たした中村は、卒業後は大きな実績を残せず、いつしか「箱根に潰されたランナー」の代表とも語られるようになった。リタイアの決断を遅らせた監督に対しても、その時、同じ区間で同様のアクシデントに見舞われたランナーを即断でリタイアさせた神奈川大学の監督と比較されて批判されることとなった。自らのHPで彼が学生時代のレースで行なった「不正行為」まで蒸し返して彼を批判する陸上競技関係者もいた。

はたして、あの時、なぜ中村は立ち止まったのか。それを彼の仲間たちはどんな想いで見つめていたのか、著者が前年の10月からの密着取材で描いたこの短編ノンフィクションは、1996年の「ナンバー・スポーツノンフィクション新人賞」に選ばれた。同誌の創刊にも尽力したスポーツノンフィクションの大家である沢木耕太郎の代表作をもじったタイトルは感心しないが、内容を読めばやはり、このタイトルしかなかったと思う。

あの「アクシデント」に至るまでの動きを、九州の駅伝強豪校から入部しながら、ついに1度も箱根を走ることなく卒業していく4年生ランナー、京都の強豪校から入部しながら、故障のために転身した2年生のマネージャー、陸上競技経験のない陸上部部長、全てを取り仕切る監督、そういった複数の、文字通り「走らざる者」の視点から見た光景を組み合わせ、箱根駅伝の大会史上に残るアクシデントの全体像を築こうとしているのだ。

学生時代に陸上競技部に在籍していなかった僕にとって、興味深かったのは、陸上部(駅伝部)におけるマネージャーの役割である。たとえば、ランナーたちは中継点の近くのホテルに宿泊するが一緒に泊まる付き添い役は、ランナーのために
「少しでも温かいものを食べさせたい」という配慮から、早起きして朝食を作る。その調理器具を荷造りしたり、足りないものを買い揃えたりする作業のために
「マネージャーの瀧は12月30日を丸々つぶさなければならなかった。」

中村祐二というランナーを初めて箱根で見たときのことは、僕は今でも覚えている。長身で坊主頭(山学大は1年生は必ず坊主頭にするという)の彼を見て、当時のゲスト解説者の谷口浩美が
「あれ?このランナー見たことありますよ。」
とコメントしたからだ。中村は九州の実業団に4年在籍後に入学していたからだ。

その「4年生よりも年上の1年生」は3年生となったその時には
「チームのみんなも中村だけは別格だと感じる」存在となっていた。その中村の足に異変が生じたのは、前日の試走の時だった。2年生のマネージャーに、
「足どうですか?」
と聞かれた中村は
「普通の人間だったら走られん。」
と答えた。マネージャーは縮み上がりながらも
「中村さん、普通の人と違うやんけ。」
と自分に言い聞かせ、後で
「そんなふうに思うことがいけなかったんだろうな。」
と考えた。

学連へエントリーメンバーを提出する前日に顧問の秋山勉(上田監督の義父)の自宅で監督、顧問、部長、各学年のマネージャーらとともに行なう選考会議のシーンもこの作品の目玉である。著者はおそらく、この場に同席を許されるほどに関係者との間に高い信頼関係を築いていたのだろう。練習や合宿に不熱心で、部内の最終選考のタイムトライアルに照準を合わせて、そこで結果を出したランナーをメンバーに入れるか否かで、部屋の空気が重くなる。
「もし、あの子が止まったらみんな納得できるだろうか?」
部長が語る。最終判断は監督に委ねられ、彼はメンバーに選ばれる。

ちなみに、彼の代わりに候補に挙がっていたのは、北京五輪代表の大崎悟史に現在も中国電力で活躍する森政辰巳である。

レース当日、エントリーの締め切りは朝7時である。その直前に中村と監督との間に携帯電話を通じて「激しいやりとり」があったという。最終的な判断を監督は中村に委ねた。

1区の1年生、里内正幸は最下位でステファン・マヤカに襷を渡す。そのマヤカも足を痛めて十分な練習が積めていない。気温が低いのに汗をかきながら走っていた。ごぼう抜きを見せても、終盤に順位を落として区間3位で9位が精一杯(区間賞は渡辺康幸)。3区の中馬大輔が3位まで順位を上げて中村につないだ。

その中村は10時から始めたアップで激痛に見舞われた。その約1時間後に彼は走り始め、そして・・・。

トレーナーは語った。
「テレビや世間じゃ、なんでもっと早くやめさせなかったなんていいますけど。彼らの一年間の苦労を知っていたらそんなこと言えっこないですよ。」
その言葉を聞いて部長は
「みなにそこまで思わせてしまう駅伝というものの魔力が怖かった。」
と思い、
「一年間の苦労が、堤のたった一穴から一瞬にして破壊されることの恐ろしさ」
もまざまざと感じていた。そして彼は
「もっと物を言おう、自分が。」
と誓う。監督は「初心に返る」ことを考えた。マネージャーは
「上の選手たちにばかり目を向けていた自分たちの責任」
を痛感した。中村の苦しむ姿を沿道で見て、
「なかむらぁ、もういい、やめてくれぇ。」
と叫んだ4年生の堀川勇一が、卒業後、ランナーとしての復活を決意するところでこの物語は終わる。

翌年の箱根駅伝は、同じ4区で途中棄権した神奈川大が優勝し、山梨学院大は2位だった。以後、山梨学院大は優勝から遠ざかったままである。

13年経過した現在、この時箱根を走ったランナーのうち、卒業後実業団入りした者も今は引退した。1区を走った里内は昨春からスズキのコーチに就任、マヤカは中村とともに世界選手権のマラソン代表になった女子ランナーと結婚し、日本国籍を取得している。中村は山学大出身の女子ランナーと結婚し、40歳過ぎたらマスターズ陸上で活躍することを目指して走り続けているという。堀川が入社した郷里の企業、九州産交陸上部も既に廃部となった。

おそらくは沿道で声援を送っていたであろうランナーたちのうち、前述の大崎と森政の他にも大坪隆誠と尾方剛は今も実業団で競技を続けている。尾方はご存知のように北京五輪に出場。35歳で初の代表入りを果たした。大坪も、世界選手権代表ランナーと結婚した。

「中村さん、普通の人と違うやんけ。」
と思った岡村は、競技者を断念してマネージャーに転身したことを高校時代に恩師に泣きながら報告し、恩師からは
「日本一のマネージャーをめざさんかい。」
と激励された。卒業後も彼は日清食品グループでマネージャーを続けている。彼もまた、実業団の女子ランナーと結婚した。

思えば、僕自身が箱根駅伝を熱心に見ていたのはこの時期がピークだった。翌年の神奈川大(僕の兄の母校である。)が優勝し、駒澤大が優勝争いに加わり始めたあたりまでは、熱心に見ていたが、以後はただ、
「他に見るものがないから見ている。」
程度である。

このアクシデントを受けて、途中棄権に関わるルールも改正された。しかし、途中棄権はその後も続き、昨年は史上最多の3チームが途中棄権となり、今年も城西大ランナーが棄権となった。それぞれのチームの「走らざる者」は、どのような想いで、立ち止まったランナーを見つめていたのだろうか。

(文中敬称略)



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