加賀乙彦著『宣告』1979年2月20日発行 1981年4月30日25刷 新潮社
下巻
p282~
第7章 裸の者
1
扉が開いた。いや、図らずも開いていた。足音にまるで気付かず、鍵音をすこしも聞かなかった。それほどに本に心を奪われていた。他家雄は活字に粘りついていた視線を捥ぎ離して、目をしばたたきながら面をあげた。
教育課長と藤井区長と田柳看守部長が並んでいる。課長は丸く、区長はのっぽ、部長は分厚く、何だか漫才トリオのようだ。
「楠本、出房」と藤井区長が伝えた。さっき点検のおりにも見せた、お馴染みの作り笑いだ。
p283~
「どこへ行くんでしょうか」
「ああ、所長がお呼びだ」
「はい」
それ以上訊ねても答えてはくれない相手と知っている。教育課、管区、医務、所長と呼び出されることはしばしばで別に不審なことはない。しかし、所長には、先週の火曜日、呼ばれたばかりではないか。けさ発信した『あこがれ』の原稿に、所長が早くも目を通したとは考えにくい。すると・・・他家雄の胸を鋭くえぐるような疑惑が生まれてきた。もしかするとこれはお迎えではないか。日朝点検に、きのうも来た藤井区長がわざわざ来たというのもおかしいし、その区長が2時間も経たないうちに再び来るというのも異例の行為だ。
ゼロ番区の端に来た。鉄格子の重い大きな扉を押し開き、広い廊下に出る。さらに先の扉を鍵で開けると所長室や管理部長室や教育課長室などの並ぶ拘置所の中枢部へ出る。扉の左右を監視していた看守たちが一斉に敬礼した。所長室へ来ると教育課長が先に入った。
「楠本他家雄をつれてまいりました」
区長に押されて中に入った他家雄は、緋の絨毯の眼底を打つ鮮やかさと、その柔らかな感触に馴れず、すこしよろめいた。大きな机にむかって眼鏡をかけた所長が書類を読んでいる。それは見覚えのある彼の身分帳だ。(略)他家雄は確信した、これはお迎えだと。
p286~
「何を考えているんだね」と所長が気遣わしげに言った。所長はつと立ちあがり、息を吹きつけるほどに顔を近付けて幾分あわてた様子で言った。声がすこしかすれている。
「あす、きみとお別れしなければならなくなりました」
「はい」他家雄は無表情のまま、じっと所長を見詰めた。
「いいですか」所長は焦り気味に、言葉全体に真実らしさを与えるべく、重々しく言った。「これは冗談ではないのです」
「わかっております」
「あ」所長はほっとしたように肩の力を抜いた。「きみなら別に取り乱さないとわかっていた。これで安心したよ。ね、諸君」机を取り巻いていた人々が輪をくずし、まるで非常な名誉を受けた人物を祝福するように微笑を向けた。人々は所長がその一言を言う瞬間まで、全身の筋肉に力瘤をつくって固くなっていたらしい。
「楠本、きみは度胸がありますね。大抵の者は明日を予告すると腰が抜けたり動揺したりするんだが、砂田なんか、ぺらぺらと喋りまくった。きみは違いますね」(略)
「それでは諸君、執行宣告をします。まあ、きみ、これは形式なんでね」と所長が照れて頷いた。人々はまた石化した彫像となった。庶務課長が一枚の美濃紙を差出す。所長の顔から微笑が消え、硝子を打つ風雨のみがひときわ激しさを増して聞こえてきた。
「楠本他家雄、昭和〇年4月19日生まれ。右の者、昭和四十〇年、2月12日より5日以内に死刑の執行を行うべし。法務大臣」所長は美濃紙を置き、やさしく言った。「わかるね。五日目というと17日、つまり明日だ。慣例により明日午前10時に刑が執行される」
「はい」他家雄は頷いた。
p288~
「いいえ、とくに欲しいものはありません」
所長は傍らの庶務課長を振り返った。庶務課長が酒焼けした善良そうな顔を他家雄に向けた。
「いいか、よく考えるんだ。何か食べたいものがあるだろう。鮨、天麩羅、豚カツ。そうだ。蕎麦や茶漬けなんかも欲しがる者がいるが」
「ほんとに、何もいりませんのです」
「そうかな。まあ、よく考えて欲しかったら言いなさい」
庶務課長は心から失望した様子で、それが他家雄には気の毒に思え、何とか彼を喜ばす手はないかと考えたすえ、おどけた様子で言ってみた。
「でも、まさか、葡萄酒は駄目でしょう。赤葡萄酒ですけど」
「いやいや、アルコールはな。それは、お前、困る。わかっとるだろうが」
庶務課長のあわてぶりに他家雄は吹き出した。
「いいんですよ。わざと言ってみただけです」
「こいつ。人をからかいおって」
p290~
「よい心掛けだな」教育課長は庶務課長と頷きあい、ハンカチで額の汗を拭った。「それにしても、ばかに蒸すな、きょうは、妙な天気だ」
ひとしきり雨が硝子窓を打ち、コンクリート塀越しに眺められる町並みがうろうろと動いた。
「春一番、これで暖かくなるんですよ。もうすぐ桜・・・」と言いかけ、庶務課長ははっと気付いて口を閉じた。明日死ぬ者を前にして残酷な一言だったと気付いたのだ。その朴訥なあわてようが気の毒で、他家雄はいそいで言った。
p291~
「ほんとうに、もうすぐ桜ですね。せめて桜を見てからと思いましたが、これも運命です。むしろ十数年、毎年桜を見せていただいた幸運に感謝しています」
「はあ、そうかね。いや、どうも・・・」と庶務課長は赤ら顔を一層赤くした。
「とくに医務部の前の桜が見事ですね、ここでは。あれはほんとに毎年の楽しみでした。でも、よろしいのです。せんだっての雪で、桜に雪の花が咲くのが見られましたから」
砂田と雪合戦をしたとき、桜は粉雪(こゆき)をかぶって満開の花のようであった。「おらだば、あした逝くがよ、楠本も先は長くねえんすよ。もういつ雪に触わられるかわかんねえ」そして砂田の血走った目、頬に一条割れ目のように走る創痕。砂田も死んだ。おれも死ぬ。桜のみは今年も変わらず、白く無表情に雪と見まごうばかりに咲き匂う。
p386~
「さようなら」楠本は一同にむかって深く頭をさげた。その瞬間、所長が額に皺を寄せて保安課長に鋭い目くばせをした。保安課長が右手をあげて合図した。あらかじめ楠本の両側に待機していた看守が手錠をはめ腰にゆわくのと、もう一人が背後から白布で目隠しをするのが同時だった。
壁の中央で扉が音もなく穴をあけた。中腰になった保安課長が先にたち、3人の看守が左右と後ろから支えて、楠本は歩き始めた。にわか盲のため、足先で1歩1歩たしかめるような歩き方だが、安心しきって誘導に従っている証拠に、歩度に乱れはなく、靴は---それはよく磨かれて艶々と光っていた---規則正しく床を打った。
p387~
前列にいる近木からは隣室の様子が目撃できた。装置は東北のS拘置所で見たのと全く同じである。部屋の中央に1メートルと1メートル半角の刑壇がある。真上の滑車から白麻のロープが垂れている。1人の看守がロープのたるみを小脇にかかえ、もう1人がロープ端の輪を鉄環のところで支えている。ロープの長さは、死刑囚の身長と体重によって微妙に調節されてある。落下したとき、足先が地面より30センチ上に来るようにしなくては、処刑は成功しない。車の手動ブレーキに似た把手2つを2人の看守が一つずつ握っていた。2つのうちのどちらかが刑壇の止め金に連動している筈だ。
壇の扉を看守が、焼却炉の蓋でもするように、音高く閉めた。いよいよだなと近木は思い、これからおこる情景を順を追って想像しようとした。が、まだ何も考えぬうちに、グワンと鉄槌で建物を打ち毀すような大音響がした。その音が何だかあまり早くしたので、いまのは予行で、これから本番がだと思った。しかし、芝居でもはねたようにそれまで沈黙を守っていた人々が俄然ざわめき立ち、2人の所長と検事を先頭に動き出した。
「行きましょう」と曽根原がうながした。いつのまにか白衣を着て、聴診器を胸に、血圧計を手にさげている。看守たちを掻き分けて先を急ぐのに、近木は従った。
廊下の端に来て左に折れると、広い階段を見下ろす場所に来た。折り畳み椅子が3脚並べられている。所長2人と検事が座った。振り返ると教育課長や神父はここまで来ずに、先程登ってきた狭い階段から降りていく。近木は迷った。が、検事の横に立って、ともかくとことんまで見ようと、腹を決めた。彼の後に看守たちが並んだ。
目の前の階段を曽根崎は身軽にひょいひょいと下りた。右側の窓から充分な採光があるため明るい、ちょっとした大学の臨床講義室を思わせる階段であった。下には菅谷部長がストップ・ウォッチを手に立っている。曽根原は奥の白いカーテンを左右にゆっくり開いた。人形劇でも始めるような何気ない動作である。が、むこうには銀のロープに吊りさげられた人間の姿があった。
それが、今話をしたばかりの人間とは到底思えない。くびれた頸の上では死んだ頭が重たげに垂れ、下では躯幹と四肢がまだ生きていて苦しげに身をくねらせていた。それは釣りあげられた魚がピンピン跳ねるのに似ていた。
落下の加速度を得たロープで頚骨が砕かれ、意識はすぐに失われるけれども、体はなおも生きようとして全力を尽す。胸郭は脹れてはしぼみ、呼吸を続けようと空しくあがく。腕は何かを掴もうとまさぐり、脚は大地をもとめて伸縮する。おそらく落下と同時にしたのだろうが、手錠と靴が取りのぞかれていたため、手足の動きは一層なまなましく見えた。
p388~
やがて筋肉の荒い動きがおさまり、四肢は躯幹と並行に垂れ、ぐっぐと細かい痙攣をはじめた。前後左右に激しく揺れていたロープが1本の棒となって静止すると、縒りを戻しながらじわじわと回転しだす。顔がこちらを向いた。汗に濡れた青白い肌だ。目が潰れたように引き攣り、開いた口から固い舌先がのぞいている。流涎の幾条かが顎に、切創からはみでた脂肪のように光っていた。そこには精神によって保たれていた表情の気品がかけらも無い。肉体の苦悶が、そのまま正直に、凝固しているだけだ。
機をうかがっていた曽根原医官が、背広の上着を脱がし、トレーニング・ウエアの袖をまくりあげて脈をとった。それから血圧計のゴム布を腕に巻きつけた。それだけの仕事が、体が逃げるように回るため、大層やりにくそうだった。ゴム布に空気を送り聴診器を腕に当てて血圧を測る。数値を菅谷部長が手帳に書きとる。脈搏と血圧の測定が何度もおこなわれた。曽根原は禿げ頭をせわしく動かし、白衣の襟を汗で湿して、懸命に仕事を続けた。こうすることがこの場合、最も重要なのだという自信が彼の動作に現れて、私語を交していた看守たちもいつしか黙りこみ、凝っと成り行きを見守っていた。
ついに脈が触れなくなったらしい。すばやく胸をはだけ、聴診器を押しつける。弱った心臓の最後の鼓動を聴こうとする。曽根原が頷いた。菅谷部長がストップ・ウォッチを押した。
曽根原は階段上の所長たちと検事に一礼し、「9時49分20秒、おわりました。所要時間14分15秒」と声高に報告した。
近木の後にいた看守たちが階段を駆け降りた。保安課長が下に姿をみせた。棺が運び込まれ、屍体がおろされた。
拘置所長が腰を浮かしながらK刑務所長に頭をさげた。
「お疲れさまです」
「やあ、きょうはスムースにいきましたな」赤ら顔の刑務所長は快活に言った。
「先週は、手古摺りましたからね」
「きょうのは、すっかり諦めてた様子でしたな。ああいう風にもってくのは大変でしょう」
「信仰があったんで、こっちは助かりました」
「握手をもとめられた時はちょっとあわてておられた」
「ええ、死人に触られるようなもんですからな、いい気持じゃあありませんや」
「しかし、今度の法務大臣は、まあジャンジャン判子を押すもんですな」
p389~
「実は」拘置所長は左右を気にしながら声をひそめた。
「今週、もうひとりあるんですよ。けさ、執行指揮が来ましてね」
「今度は誰ですか」
「それはですね・・・」所長は後にいる近木に気付いて言葉を切った。そんな所に医官がいるとは思わなかったらしい。
拘置所長は刑務所長を脇に連れていって密談を続けた。事務官が迎えに来て検事が立った。おそろしく無表情な人である。処刑の間、近木は時々盗み見たが、昔自分が求刑し、今自分の意志が実行されている現場を前にして何を考えているのか、ついに読み取れなかった。
検事が所長たちに一礼した。所長たちは話やめ、3人は頷き合いながら、歩み去った。
保安課長の指揮で看守たちが立ち働いていた。湯灌がおわり、茣蓙に横たえられた屍体に用意の経帷子を着せている。課長みずから屍体の両腕をとり、掛声とともに白木の棺に移した。髪を撫でつけ、表情を直す。両手を組む。「さあ、がんばれや」「もうすぐおわるぞい」課長は、絶えず陽気に声をかけた。その態度は、すこしでも声を休めると看守たちが働きやめてしまう、それほどこれは嫌な仕事なのだと示していた。(略)
作業が終わり、棺に蓋をするばかりになって、保安課長が号令をかけた。
「一列横隊に整列」
近木は棺の中を見るのが嫌で、離れて立っていたが、この時、見えぬ糸に引かれるように、そっと歩み寄った。
「黙祷」
最前苦痛にゆがんでいた楠本の表情は、なぜかいまは、すっかり安らかな寝顔に変わっていた。死後、血が行き渡りでもしたように、肌がほんのり赤らみ、生きているようだ。唇がわずかにゆるんで真っ白い歯がのぞけ、何か物言いたげだ。憔悴した病人の死ばかり看取ってきた近木には、窶れの見えぬ楠本の顔艶が、どうも納得できない。もしこれが死だとすれば、それは余りにも不自然すぎる。(~p390)
◇ 桜ばな いのちいっぱいに咲くからに いのちをかけて わが眺めたり / 『宣告』 / 『勝田清孝の真実』
〈来栖の独白 2014/4/6 Sun. 〉
桜の季節になった。どこにいても、桜が目に入る。この季節、必ずといって思い起こすシーンがある。加賀乙彦著『宣告』のなか、主人公の死刑囚楠本他家雄が刑の執行を宣告されるシーンである。先日、書架の整理をしたこともあり、『宣告』を読みかえした。
この本は上下巻2冊からなり、私の書架には二組(4冊)ある。一組は、その昔、名古屋拘置所在監の長谷川(旧姓、竹内)敏彦死刑囚に差し入れたところ、なかなか戻ってこない。尋ねたところ、「人に宅下げして、読ませています」という返事。返ってこないと諦めて、新たに購入した。ずいぶん時を経て返されてきたが、そんな事情で二組(4冊)並んでいる。思い入れの深い作品だった。
勝田清孝と交流が始まったとき、差し入れした。本を読むことが好きで、多くの本を読んでいる人だった。読後、この本について、丁寧な感想を手紙に書いてよこした。以下のようだった。(拙著『113号事件 勝田清孝の真実』より)
p69~
来栖宥子様
たった今(13日夜6時に)、やっと『宣告』を読みおえました。連日小さな活字をじっと見つめていたので、目が痛くなり、何度も涙しながら終えたのでした。今も軽い頭痛に見舞われ、身体の節々も痛みます。でも、目標(13日までに読破)を達成できたというすがすがしい満足感に浸っております。
さて、読書感想といっても、私は苦手なんですが、でも感じたことを正直にお話します。まずもって全般的に見ますと、時代の変遷といえども、現実の拘置所の有り様とは余りにも違いすぎるということです。死刑確定囚でありながら、刑務官・医官からは個人としての人格を尊重され、家庭的な温かみのある雰囲気のなかで、孤独と「お迎え」の恐怖に耐えさせすれば、のんびりと生活できるといった印象を読者に与えてしまう本ではないか、と感じました。
例えば、死刑囚同士が一刑務官の計らいで雪合戦に戯れたり、独房でありながら隣房との閑談が黙許されているのか、意のままだったり、親族外の者との接見交流、房内での小鳥の飼育など、これらは現在一切許可されていず、現実とは余りにも掛け離れています。(略)
p71~
特にむねをつかれましたのは、長兄から他家雄宛の手紙です。私の両親は現在どこに住んでいるのか全く判りませんが、この文面を読めば、手紙を出せない今の心境でいたほうが、なんとなく救われているように思えました。
下巻一五九ページには、拘禁ノイローゼについて書かれています。自分の体験とは少し症状が違いますが、それは、お迎えに怯える確定囚と上告中の立場にある者との、心理的な差異だと思うのです。
この他にも教えられたことはいろいろとありますが、迎える将来に備えての心構えといったものを、教えられた気がするのです。制約された窮屈で居心地の悪い世界でも、心の持ちよう一つで、幾らでも充実した楽しい日々を過ごせる、という事をね。換言すれば、余命いくばくもない身だと、現実の矛盾に挫折した私は、「恵津子に代わる宥子という、おまえには過ぎた女性がいるではないか!」と。こうした一面を自分のこととして素直に感じ取れたという点からすれば、実にいい本でした。
確定死刑囚を畏怖させるに足る言葉「お迎え」を宣告されたにもかかわらず、他家雄の冷静な立居振舞、この部分には、不覚にも涙を落としてしまいました。ゆっくり精読した甲斐があったといえる本です。
〈来栖の独白〉追記
上記『宣告』を読み返して、私の記憶違いに気附いた。「もうすぐ桜・・・」(p290)と言ったのを私は他家雄と思い込んでいた、毎年この季節になると思いだしていたが、そのように言ったのは他家雄ではなく、庶務課長であった。とんだ記憶違い。私の記憶なんて、所詮、そんなもの。
それにしても、他家雄の帰天期日を、桜を近くに感じさせる季節に持ってくるとは、優れて抒情的な演出ではないか。---現実には、正田昭死刑囚の執行は1969年12月9日である--- 私にとって、桜はいのちを思わせる、そのような木となった。
岡本かの子の歌に
桜ばな いのちいっぱいに咲くからに 生命(いのち)をかけてわが眺めたり
と、ある。この季節、私は幾度もこの歌を心に繰り返す。
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* 『113号事件 勝田清孝の真実』---8人の命を、その手で失くした人の誕生日であった。「おめでとう」と言って良いのだろうか---
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