『113号事件 勝田清孝の真実』---8人の命を、その手で失くした人の誕生日であった。「おめでとう」と言って良いのだろうか---

2017-03-06 | 勝田清孝

『勝田清孝の真実』来栖宥子著 恒友出版
p43~
 絵葉書を出しながら5月、6月と過ぎ、7月が終わり近くなって、私は、或る一つのことに決着をつけなければならないという気が頻りとするようになっていた。
 8月29日は、勝田の誕生日であった。8人の命を、その手で失くした人の誕生日であった。「おめでとう」と言って良いのだろうか、それとも憚るべきなのだろうか、どちらとも決め難い不明瞭な気分が自分にあった。祝福するのか、しないのかと迷ってみたところで、勝田からの音信は途絶えており、勝田には与り知らぬこと、所詮私一己の勝手な思いに過ぎなかったが。
 ところで、カトリックのクリスチャンといっても、聖書などロクに読まない、私はそんな信徒であった。ミサには与っていても、熱心に祈るという経験も無かった。別の見方をするなら、ことさら聖書を読んで解決しなければならぬほどの悩みが私に無く、切実に祈らねばならぬほどに切迫した状況もなかったと言える。けれど、勝田の「誕生日」に際し、私は聖書を繙かないではいられなくなった。多くの人の生命を奪ったとはいえ、生まれたことが祝われないということ、それは如何にも不自然なことに思われた。祝福されない生誕など、私には了解できそうになかった。(p44~)8月の夏の日を、来る日も来る日も私は聖書を読んだ。クリスチャンのよく言う「みことばに聴く」ということをした。

 〔主よ、〕あなたは私の腎をつくり、母の胎内に、私を織りこまれた。・・・私の骨は、あなたに隠されていない。私が秘かにつくられ、地の深みでぬいとりされた時、それらはみな、あなたの書の中にあって、私の日々は記され、集められた。その一日さえも、まだなかったのに。
 (旧約聖書 詩編139章13~16節)

 〔主よ、〕あなたにとっては、全世界さえ、はかりを傾ける小さなごみのようなものだ。地上に降る朝の露のひとしずくのようだ。全能のゆえに、あなたはすべての人を憐れみ、回心させようとして、人々の罪を見過ごされる。あなたは存在するものすべてを愛し、お造りになったものを何一つ嫌われない。憎んでおられるのなら、造られなかったはずだ。あなたがお望みにならないのに存続し、あなたが呼び出されないのに存在するものが果たしてあるだろうか。命を愛される主よ、すべてはあなたのもの、あなたはすべてをいとおしまれる。
 (旧約聖書 知恵の書11章22~26節)

 空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。(p43~)それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていてくださる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。・・・また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の花でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。
 (マタイによる福音書6章26~30節)

 二羽のすずめは1アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない。
 (マタイによる福音書10章29節)

 勝田へ座布団と本3冊---加賀乙彦著『宣告』(新潮社刊、上・下)、星野富弘・花詩画集『鈴の鳴る道』(偕成社刊)---を送ったのは、8月19日のことだった。
 勝田の日常は、当然のことながら拘束下にあり、立居振舞は厳しく規定されている。横臥するにも許可が要り、房内を歩きまわることも禁止。一日の殆どを安座か正座で過ごす。座布団は居房生活には不可欠であろうと思われた。本は、私の繰返し読んだものを送った。市内なので翌日には届くが、検閲に時間がかかり、囚人のもとに届くのは数日後である。
p46~
 22日に、私は勝田に宛てて手紙を出した。誕生日の祝福であるが、凡そ以下のような文面だったと思う。
「勝田様が、40年前に生まれられたということ、そして今日生きておられるということ、それが神のご意志であると信じますゆえに、私には尊い、尊いのです。
 私のように小さな、塵のような人間が、これほどに勝田様を思い、御身を案じているのなら、40年前勝田様を造り、今日一瞬一瞬を生かし保っておられる御方は、どれほどに勝田様を心に掛けておられることか知れません」
 神の目には、どの様な人も尊い。いや、聖書的に見るならば、キリストは罪人(弱者)をこそ優先して愛し、その罪の贖いのために自らを死(刑)に渡して下さったのではなかったか。これが私の理解だった。この理解は、私に勝田と共に歩くことを促すものとなった。
 6年後、縁組によって清孝と姉弟になった時、多くの人から「どうして勝田と?」と尋ねられたが、私をそうさせたものは、この信仰だったろうか。
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「遺言書」藤原清孝 ■ 最期の姿 ■ プロフィール 
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加賀乙彦著『宣告』1979年2月20日発行 新潮社
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