差し戻し控訴審判決2008/4/22を前に…【4度目の判決 光市事件が問うたもの(上)】被害者を取り巻く環境

2008-04-19 | 光市母子殺害事件

産経ニュース【4度目の判決 光市事件が問うたもの(上)】被害者を取り巻く環境
 なにも変わらない、いつもと同じ夜のはずだった。
 平成11年4月14日。山口県光市の会社員、本村洋(32)は残業を終え、前年の夏から暮らす社宅へと向かった。学生結婚した妻、弥生=当時(23)=との間に生まれた長女の夕夏(ゆうか)=当時11カ月=は、まもなく1歳の誕生日を迎える。この日の朝も、2人で出勤を見送ってくれていた。だが、それが本村が見た2人の最期の姿となった。
 開いたままの玄関の鍵。真っ暗な室内。帰宅して目にしたのは押し入れの座布団の間に押し込まれ、冷たくなった弥生だった。「素人でも何をされたか分かる」状態だった。夕夏の姿は見当たらない。後に警察から、遺体が天袋で見つかったと知らされた。4日後、近くに住む18歳の少年が逮捕された。当時の心境を本村はこう述懐している。
 「妻と娘のために何をすべきだったのか、今でも苦しむ。事件が静かに忘れ去られていくのがいいのか、それとも声を上げて社会に問題点を見つけてもらうのがいいのか。ただ、私はその死を無駄にしないために、後者を選びました」
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 本村が始めたのは、司法に、社会に顧みられることの少ない犯罪被害者の存在を広く知らしめ、その権利を確立するための活動だった。12年1月には「全国犯罪被害者の会(あすの会)」の設立に参加。弁護士で同会の代表幹事を務める岡村勲は当時、犯罪被害者が置かれていた境遇をこう振り返る。
 「司法は加害者の権利を守ることばかりに目を奪われて、被害者には目を向けてこなかった。奪った人間と、奪われた人間のどちらを大切にすべきかという、ごく簡単な問題なのに」
 社会に顧みられない存在だからこそ、犯罪被害者が声を上げることは少なかった。が、本村は違った。メディアで名前はもちろん、顔をさらすこともいとわなかった。週刊誌に少年の実名入りの手記を発表したこともある。少年を無期懲役とした山口地裁判決の後の会見では「司法に絶望した。(死刑にしないなら)被告を早く社会に出してほしい。私がこの手で殺す」とまで言い切った。
 こうした本村の言動には批判もあった。インターネット上には本村をドンキホーテかのように揶揄(やゆ)する書き込みすら現れた。
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 だが、本村らの活動は少しずつ、実を結び始める。
 「無辜(むこ)の被害者への法律的な救済が、このままでいいのか」
 12年3月の山口地裁判決後、そう語ったのは当時の首相、小渕恵三。小渕は「本村さんの気持ちに政治家として応えなければならない」と意欲を示し、この年の5月、犯罪被害者保護法が成立した。刑事裁判を傍聴することしかできなかった犯罪被害者に、法廷での意見陳述が認められた。
 16年12月には犯罪被害者の保護を「国の責務」とした犯罪被害者等基本法も制定。それを受けて、19年6月には本村らが大きな目標と位置づけてきた「刑事司法への被害者参加」を現実のものとする刑事訴訟法改正が行われた。今年中に、被害者も刑事裁判の当事者として被告人質問や求刑を行うことが可能となる。
 刑事裁判の中で被告に賠償請求できる「付帯私訴」制度の創設も決まり、犯罪被害者等給付金支給法が2度にわたり改正されるなど、経済的な被害回復を図る施策も進みつつある。
 かつて本村は弥生と夕夏の遺影とともに公判を傍聴しようとして、山口地裁の職員に拒まれたことがある。「遺影の持ち込みは被告を心理的に圧迫し、裁判の中立性を損ねる」。それが、司法の常識だった。
 だが本村らの活動は、その常識も変えた。現在、広島高裁で進められる差し戻し控訴審。傍聴席にはいつも、遺影をひざの上に抱き、審理の行方を見つめる本村の姿があった。
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 山口県光市の母子殺害事件は14日、発生から9年を迎えた。この事件が、社会に問いかけたものとは何だったのか。22日に言い渡される差し戻し控訴審判決を前に振り返る。(敬称略)
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【4度目の判決 光市事件が問うたもの(上)】被害者を取り巻く環境 2008-04-19 
【4度目の判決 光市事件が問うたもの(中)】死刑の是非
【4度目の判決 光市事件が問うたもの(下)】公平さ欠いた裁判報道
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