じいばあカフェ

信州の高原の町富士見町:経験豊富なじいちゃん・ばあちゃんのお話を
聞き書きした記録です
ほぼ一ヶ月に一回の更新です

農鍛冶

2006-02-27 11:30:38 | Weblog
(学徒動員)
「鍛冶屋は終戦の年からやってるだ。富士見小を卒業してから、岡谷に学徒動員でひっぱられてな。何を作ったって、特攻隊の『落下増槽』さ。『落下増槽』ちゅって、飛行機の胴体にそれを積んで、片道だけのガソリンを入れて、そしてつっこんだだ。もう生きちゃ帰れねぇ。ベニヤで作って、まわりを。そして、中をペンキで塗装して、乾かして。まあ、片道だけもちゃあいいんだもんで。日本なぁ、へえ負けると思ったな、そん時にゃあ。それから、横須賀の海軍航空技術廠ちゅうのにいっただ。そこで、終戦になって、8月に富士見に帰ってきただ。」

(弟子入り)
「帰ってきたときには、もう痩せちゃってさ。ここらは、少しは食べるもんがあったで。よく覚えてねぇけんど、1ヶ月くらい静養したかな。そのころ、国道っぱたで俺の従兄弟の人が親方でいてな。うちで遊んでいたのを、『うちへ来い』ちゅうもんで、弟子入りしただ。その人も、玉川の穴山の『○あ』ちゅうとこに、弟子入りしていたっちゅうわけ。その人も、そこで仕事覚えて、ここで独立しただ。弟子に入ったちゅっても、向槌(むこうづち)で毎日トンテントンテンやってるだけだで、なにか教えてくれるちゅうこんじゃあなかったなぁ。これが向槌。こっちが横座槌(よこざづち)。こっちにいてって、俺の親方はこれを打った。どっちも、俺の親方ぁ使ってたやつだ。亡くなっちゃったもんで、俺がもらっただ。惜しいことをしただ。ふいごも、俺がもらってきてあったんだが、皮が駄目んなっちゃったもんで、ぶちゃっちまった。神戸でうちみたいのが、1,2,3,4軒はあったな。こういうものを作る鍛冶屋だ。のこぎりを作るとこもあったな。他にやるこたぁねえから、みんな弟子入りなんかしちゃあ、そんなことをしてたずら。」

(独立して)
「昭和も38年になって、自分とこでやるようになった。昔の師弟根性でなかなか教えちゃあくれなかったが、自分でいろいろ考えてな。この温度(熱くなった鉄を入れる湯の温度)も42度がちょうどいい。熱くなったら水を入れて42度近辺にするだ。寒いような時、42度にしないで入れたら、みんな折れちゃう。50度くれぇになる時もたまにゃぁあるだよ。でもそんな時にはみんな曲がっちゃう。今は、鉄筋を使ってるから、割合そんなこともないがな。 鍬やなんかも、場所場所によって角度が違うだ。『こうばい』って言うだがな。安曇野に出すのとか、松本に出すのとか、それぞれに違うからな。『こうばい』を出す道具もこんなにあるだ。この辺(諏訪)は『こうばい』が低いだよ。角度を起こしてやると『こうばい』が高い。寝かしてやると『こうばい』が低いちゅうこんだ。 昔は一年中仕事やるくれぇ注文がきたが、今じゃそんなことはねえなぁ。昔は1日5丁か6丁。1丁で米7升くれえだ。お金ねえもんでさ。中新田あたり、しょってって、『物交』やっただ。こっちは食うもんがねえじゃん。ものは柄がつかねえやつだ。中新田のあたりじゃ、売りに来るのを待ってるくらいに売れたもんだ。 そのうち、茅野の方へも卸すようになって、えれえ目にあったわ。バスに頼んで、積み込んで、向こうの人が、茅野駅まで取りに来て、何てこともやったな。こっちはただのしただけで。山梨の長坂の伊藤物産なんかにも、リュックにしょって納めに行ったこともあるだ。」

昔を思い出しながら、遠くを見るような感じでお話くださったのは、神戸の有賀さん。最後に、ぽつりとおっしゃった、「もう1,2年で終わりにしようかと思ってるんだが、問屋がほしがるでな。」という言葉が、印象に残った。