じいばあカフェ

信州の高原の町富士見町:経験豊富なじいちゃん・ばあちゃんのお話を
聞き書きした記録です
ほぼ一ヶ月に一回の更新です

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猪鹿(いしか)除けと山の仕事

2005-10-05 23:03:23 | Weblog
 (猪鹿よけ)
 今回は木の間のじいさん、ばあさんにお話を聞きました。
「猪鹿よけというのはな、今じゃあはっきりとは分からないが、若い時分に若宮の郷土史家の細川先生について、山に入ったときに、これが猪鹿よけのあとだと教わったことがあった。あのね、土を盛って、土塁ちゅうかそういう形のものだよな。高さは、猪や鹿が入れないくらいの高さだった。盛り上がって山の中に続いてた。ああ、ちょうど新せぎの上のあたりだね。途切れてはもちろんいたさ。痕跡ちゅうもんだからね。おそらく、今、そのあたりにいっても、ここだっちゅうことはいえねえだと思う。それに今は山の中には行かねえからなぁ。昔は、ほれ、山の方にもしょっちゅう行ったりしただよ。」

(ばらずみ)
 「山の中にいって、燃料にする“たきぎ”をとったもんだ。大きい木をたおしちゃぁ、こんくらい(50センチくらいに手を広げて)の長さにたなぎって、“よき”で割って、うちのぐるりに高く積み上げたもんだ。毎年毎年くりかえして、これもなかなか大変な仕事だった。今は、そんなうちはどこにも見ないようになったが、家のまわりに積まれたたきぎは見事なもんじゃった。そのときに出た枝は、“のでん”といって、山の中に穴を掘ったりして、火がまわりに移らんようにして、穴の底に枝を詰めて火をつけて、だんだん枝を入れて、伏せ焼きのようにしてな。しまいにはむしろのようなもんで覆って、なお水をかけて、むぅし焼きのようにしてな。2~3日おいたずら。そうすると、わりあい乾いてな。それをこけぇらでは“ばらずみ”ちゅうだ。いつごろまでやったかなぁ。昭和の40年くらいちゅうこんずら。昭和の28年だったかな、大凶作があって、にぃしのくぼの村有だか国有だかなんだか知らんが、そけえ働きに出て、“ばらずみ”をどこかへ売ったじゃねえかや。まあ、大事な冬のこたつの炭になったちゅうこんだ。」

(木の葉かき)
 「秋の終わりになると、かごしょって、木の葉かきに行った。馬屋に敷くのにつかったんだが、これも大事な仕事だ。一かたまりを“一ぱ”といって、馬だら馬の背に片方“三ぱ”ずつつけて、“六ぱ“で“一だ”といっただが、うちじゃあ四十から五十だかいただ。そりゃあこの部屋よりゃまだやまほどかいただよ。それを、馬屋にいれて、“すいふろこが”ちゅって、お風呂が終わった後のお湯をうった。木の葉をいれちゃあ、お湯をぶっちゃあして、積み重ねて肥料の変わりにしたもんだ。たんぼにそういうものを入れたら、ようけとれただ。春先ちゅうか、まあいつでもだが、馬屋から“こえだし“をした。もっこっていっちゃあな、そういうものを二人でかついじゃあ、これも大変な仕事だな。昔は馬屋が台所の横あたりにどこでもあってな。今じゃあどこのうちにも、跡形もなくなったなあ。」

(栗ひろい)
 「栗は拾ったよ。朝早くちょうちん持っていくだ。競争だな。落ち栗を、“ひがんぐり”からそれでよくこんだ、遅いのは“おおぐり”になるまで、みんなみんなひろって。栗のごはんは最高だったね。おごっそうだったね。 栗やらは早い者勝ちだが、木の葉や馬の餌にする草は区有林を競っただ。いい草や木の葉が有るところの区画は値段が高かった。」 
 文献にある“ししがき”(木の間では“猪鹿よけ”と呼ぶ)は幻に終わったが、7~8年前に木の間の“沼の神”という辺りに、電牧(電気の牧柵)を共同で設置したとのこと。現代の“ししがき”である。しかし、手入れや草刈がなかなか大変で、今では草ぼうぼう、杭が何本か残るのみで、動物のやりたい放題とか。何とかならないものだろうかと、少しさびしい気持ちで、木の間を後にした。
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