じいばあカフェ

信州の高原の町富士見町:経験豊富なじいちゃん・ばあちゃんのお話を
聞き書きした記録です
ほぼ一ヶ月に一回の更新です

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休戸

2006-04-09 10:41:44 | Weblog
(休戸千軒)
 「昔は『休戸千軒』って言ってな、釜無の河原にね、ずっとあっただと。おらぁ子供の頃に、窯の壊れたのがいくつもあったわい。河原の石灰を拾って、炭で焼いたちゅうこんだ。そいでその石灰を焼く炭を焼いてたんだって。その頃が、『休戸千軒』っていうくらいあったと。 それが今でいう台風だけんど、昔の『大荒れ』っちゅうやつだ。その『大荒れ』でもってな、そいで流されて、瀬沢へ出たり、乙事へ出たり、方々へみんな出たんだと。おらぁ、おやじんとうから聞いただ。まあ、明治の頃ずら。おれの子供の頃にもまだ、崩れっかけたような窯がいくつも並んでた。石を焼くだから、でっけえだ。人なんか幾十人もへぇれるさ。こんな筒っぽの、そんで、上から炭と石を一緒くたにな、くべて、そいで焼けたのを、下から出すっちゅうようなもんだ。」

(天屋のにぎわい)
 「天屋はここにあった。このうちのとこを、花場の人に貸してあってさ、地所を貸したずら。冬、『天屋小僧』ちゅうのがいて、天屋の職人さ。そりゃぁ、あれだ、越後から来たり、伊那から来たり、そこらじゅうから来てた。ざーっと来てたぞ。若い衆がな、15~6人はこけぇ居たぞ。今も、そこらでやってるように、広げちゃぁ、たたんじゃぁ、広げちゃぁしてただ。みんな天屋ん中に住んでた。住み込みだもの。こっちから、ずーっと向こうまでうちはあったもん、でっかいだ。そうそう、天草をこの程久保の水車でついてただ。水車はその下にあったり、あそこにあったり。それを、水車でつくだけで、間に合わなんでな。夜んなりゃぁ、その道でもってな,こんなでっけぇ臼があってさ、それをみんなでこうやってまわり並んでな、唄うてぇながら、ついてたぁ。 おばあさんが全部賄いをしてただよ。おなごしの手伝いも来てぇた。にぎやかだったよ。冬じゅう、ほいだでな、稼ぎに来るだよ。遊びなんざねぇさ、こんなとこだもの。忙しいだもの、天屋なんか。3月まで働いて、そいで、銭しょって、けぇるってもんだ。

(休戸の集落)
 「休戸は昔は10軒から先はあったぞ。お堂の上に3軒、あれは昔っからあっただ。よっく大昔か知らねぇけんど。ほら、町の粗大ゴミのところの下のところ。そんで、俺の生まれた大家と、それとうちの裏に2軒。1軒はお菓子を売ってただ。ありゃあ俺の兄貴の嫁がやってただ。あーあ、みんな親戚みてぇなもんだ。河原の方へ行って、下の段に1軒、その東に1、2・・・5軒ばかあっただ。満州行って帰ってきて、またすぐブラジルへ行った人もいただ。家は壊して、みんななくなっちゃっただよ。あの辺は『河原休戸』って言ってな。よっくの昔は何軒もあっただ。ゴミ焼場を作ったときに、塚平や富士見台に出ただよ。あとのうちも、若い衆がみんな豊田やら湊やらに出たり、娘はそこらへ嫁に出したりで、年寄りばっかりになって、今は、もうこれだけだ。昔はお盆って言っちゃぁ、お堂で花火上げたり、11月の『おいだて』のお祭りの時に、にぎやかに甘酒作ったりしただ。氏神様も河原休戸のを、処分場が出たもんで、こっちへ合祀したけんど、お祭りもやらねぇなぁ。今じゃ春の花見をやるくれぇだ。集まるのは6~7人ってとこだ。」

 コタツに当たりながらお話を伺ったのは、休戸の坂本さん。「昔って言っても、ほんのこねぇだのこんだ。」そういう坂本さんの時間は、ゆったりと流れているような感じがした。

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