じいばあカフェ

信州の高原の町富士見町:経験豊富なじいちゃん・ばあちゃんのお話を
聞き書きした記録です
ほぼ一ヶ月に一回の更新です

海苔と富士見

2012-02-22 16:50:04 | Weblog
(海苔の仕事)
「昔から、ここいらは冬の間は百姓出来ないから。出稼ぎちゅうかそういうことに出かける衆が多かっただよね。海苔っちゅうのは、今は11月頃から採り始めるんだけど、昔は12月ころからかなぁ。そんで、3月には終わるんだよ。春から秋の間は育てるもんで、そんなに仕事があるわけじゃねえ。そんで、ここらの仕事の具合とちょうど合うもんで、若い女衆は干し子っていって生産するところへ稼ぎに行って、男衆は買ったり売ったりの仕事、そうだなぁ問屋みたいなところへ、結構大勢行ってただよ。九州から、千葉から、瀬戸内やら四国やらあちこちだよね。そけえ行ってた人が、お前も来るか、みたいに手引きでね、引っ張ってくれて、そんで、そけえ行くような感じだった。」

(海苔の検査)
「そのうちにさ、九州の方では、海苔の入札と検査制度ちゅうのが出来てきたから、検査員が必要になったさ。そんで、行くようになったね。28歳くらいだったかな、九州の大牟田ちゅうところ、そうそう有明海のな。諏訪から来てる人は多かったぞ。なんかの大会で集まった時にゃ100人はいたぞ。そこでさ、海苔ちゅうのは10枚で束になって1帖、それを10束結束して10帖単位で、取引するだよ。それで、1ヶ月に2回入札があってさ。入札の前になると、生産者が漁協に検査にもって来るさ。それを一束一束、色と艶と、穴があいてないかどうか、四角に出来てるかどうかなんかを検査したってわけさ。途中から金属探知機なんかも使ったよ。だいたい入札の1週間前くらいから、持ち込んでくるんだけど、やっぱ間際が多くてさ。たいがい入札の前日は、検査してるうちに新聞配達がめぐってくるような、そんな感じだったさ。でもさ、自分が検査したものが、入札で予想外のいい値段がついたりすると、うれしかったよなぁ。まあその逆もあるんだけどな。あんなもんは、海苔が好きでないと出来ん仕事だよ。」

(休みと楽しみ)
 「今でこそ、九州なんか近いけど、あの頃は名古屋まで列車で行ってから、寝台に乗り換えて、途中で一泊しなけりゃだめだった。途中から新幹線が博多までいっつら。あれでずいぶんと楽になったなぁ。まあ、行ったらさ、正月も帰ってくることもあったけど、たいがいずっとだな。入札が終わると4~5日くらいは暇になるさ。そんなときは、近くにあった立願寺温泉(玉名温泉)に2泊くらいで泊まって来いなんていわれて行ったりしたな。休みが短い時にゃ、海苔の養殖の指導に使ってる漁協の船で沖に出て、ボラ釣りをしたりしたなぁ。疑似餌を使ってな、よく釣れるだよ。宿舎はさ、漁協の中にあってさ、1部屋に4人で住んでたな。まあ飯場より少し待遇のいい感じだな。食事は、海のものが多かった。『くつぞこ』ちゅう魚があっただよ。ちょっとヒラメに似たようなもんでさ。あの煮つけはうまかったよ。あとは、ムツゴロウとかタチウオとか食べたな。」

と話してくださったのは、30年検査員をされていた神戸の小林賢三さん(76)。富士見と海苔にこんな結びつきがあるとは思いませんでした。取材の中で「最初の頃はいい品物が出てただ。後のほうになったら、だんだん品質が悪くなってきてたよ。ありゃ~水が汚れてきたちゅうこんだと思うよ」という言葉が印象に残りました。


甲斐駒ケ岳の信仰

2010-12-26 14:23:37 | Weblog
(行者と信者)
「乙事で甲斐駒に登るようになったのは、昭和も初めの頃って聞いてるがな。駒ヶ岳講ってのを作って、そうだなぁ、乙事で5~60人は信者がいたんじゃねえ。まっとあったかもしんねえ。俺は、山へは3回登ったけんど、おじいさん(茂吉さんの父親)と一緒に行ったのは2回かなぁ。しまいの1回はうちの子供らが行きたがるで、連れて登ったことがある。登るのは、信者のうちで順番に、今度はここの家ちゅう具合に当番を決めて、行をしたってこんだ。乙事諏訪社の裏のほうにさ、碑が立ってるけんど、あれをたてるこらぁ盛んだったってこんだ。おやじは、年に2回くれえはの登ってたんじゃねえか。行者は、乙事で5~6人はいたんじゃねえか。おやじは、そのうち神主の資格を取ってさ。竹宇(北杜市白州町竹宇)にあった前宮の手伝いなんぞをしてたがな。」

(乙事と瀬沢)
「駒ヶ岳講はさ、乙事にもあったが、瀬沢にもあってさ。親父はどっちも顔を出してたな。
こっちでは別に仲良くしてたが、乙事の衆は横手(北杜市白州町横手)に前宮があるだよ。そこから登って、瀬沢の衆は竹宇の前宮から登っただ。ありゃぁ、勢力的な事がちったぁあっただけんど。そんで、こっから4里くれえはあるから、そこを全部歩いてさ。ここを朝5時頃出てって、その日のうちに7合目ぐれえまで、遅いときは、5合目ぐれえまで、登ったさ。どっちにも小屋があって。普通は7合目までは行ったな。翌日楽だでね。次の日は頂上から、まるしてん(摩利支天)の峰へお参りして、地獄谷を通ってけえってきた。下山すりゃだいたい夕方になるでね。うちへ夜の8時頃に着くこともあったな。そのうち、自動車で行くようになったけんどな。戦争のころまでは、みんな歩いただよ。おやじは行者だから白装束で、付いてく衆は、そんあもなぁねえから、普通のかっこさ。」

(駒ヶ岳登山)
「若い頃におやじについて登ったときにゃなんともなかったが。子供らをつれてさ、40過ぎてから登ったんだけんど、きつかったなぁ。実業行ってた娘は途中でばててたなぁ。1番強かったのは6年生の小僧だったな。5合目にさ、屏風岩ってのがあってさ、そこは、そうだなぁ、50メートル位の絶壁さ。そこへ鉄のはしごがかかっててさ。またその先にはでかい石があって、鎖で登ってくだ。ところどころ足をかけるとこに穴掘ってあってさ。後は、地獄谷って言うのは、危険で、針金がはってあるんだけんど、俺が行ったときには、それが流れて無くて、渡れなんで、持ってた杖で伝わせて、渡ったな。今かんげえると危ねえことぉしたと思うよ。落ちらあ、へえ、おしまいさ。そういうとこあって、ああ、こんなとこ降りてきて馬鹿みたと思ったけんどな。」
そんなお話を聞かせていただいた。最後に、「最近はもう信仰心なんてものはなくなったんだが、それでも、正月になれば、駒ヶ岳さんに誰かどーかおまいりしてるようだ」と一言、うれしそうに話してくださった。

先達の虫送り

2010-10-23 07:52:07 | Weblog
(虫送りの起源)
「虫送りってのはね、平安時代の初めだね。始まったのは。関西の方で始まったのが、だんだんこっちの方まで広がってきたちゅうのが、文献なんぞに書いてある。もとは富士見のどこの集落でもやってたわけだよ。それがだんだんつぶれていったってことで。今では、諏訪で3箇所と、先達くらいだなぁ。そうさなぁ~、ここで残ってるのは、区の行事として取り組んできたからじゃあないかと思ってるがな。有志でやってるとつぶれちゃうだよ。先達で始まったのは江戸の頃って言うことになっておる。最初は虫送りと風祭りちゅうのを一緒にやってたそうだ。風祭ちゅうのはさ、鎌を長いものくくりつけて、屋根の上にこう交差させて飾るっちゅうお祭りで、台風よけみたいなもんだよな。これを一緒にやってたんだけんども、これもなくなった。」
(虫送りと御鍬山)
「虫送りはさ、いつも7月にやるだよ。昔は萱で作ったらしいがな。今は、麦からで作ったたいまつに火をつけて、太鼓とそうばん双盤ちゅう鉦をたたきながら、『いなむし おくれ いなむし おくれ』って唱えながら、ずーっと東の田んぼの中をまわって、途中から手前のほうに来て、御鍬山(おこうやま)のふもとで燃やして、五穀豊穣を祈願するというお祭りさ。太鼓と双盤は、明治の頃に中央線の工事をやった連中が、世話になったと寄付してくれたものだそうだ。今年は子供が5人くらいと、区の役員が5人くらいで回ってたな。なんせ子供が少なくなっちまってさ。この御鍬山って言うのがさ、今まで資料には『御桑山』と書いてあったんだけど、どうも『御鍬山』って言うのが正しいと思うだ。御鍬神社ってのもあるしな。」
(昔の虫送り)
「昔はさ、子供たちが大勢いるだから、20人も30人もで出てきたさ。子供は歩けりゃいいんだから、小さい子から、上は12~3歳の者までだな。男の子も女の子も一緒になってさ。まあ子供の頃は楽しみだったちゅうこんさ。江戸の頃には、虫送りが終わったらさ、お寺に集まってさ、酒を一斗と昆布やらなにやらと、一汁持参で飲み会をやったらしいがな。今は何にもやらないなぁ。もう農村は駄目んなっちゃった。農村らしいところがどんどんなくなってしまってな。そう思えばこそ、こういうお祭りを残していこうって気になってるだ。」
と、文献などを出してくれて、熱く語ってくれた先達の平出さん。「石碑やら馬頭観音やら、そういったものをちゃんと保存していくのが、わしらの役割さ。今年は、まとめてあった石碑なんかを整備して元の場所に戻してるだ。」と一言。富士見の町内のあちこちで少しずつこういった動きが出てきている。とてもうれしいことだと思う。
   


蔦木宿のにぎわい

2010-08-31 20:13:33 | Weblog
(蔦木の往来)
「物心ついた頃だから、昭和の初めの頃だな。車なんてほとんど走らない。まあ、走らないっていっても、バスとかトラックとか少しは走ってたがな。なんてったって馬車が多かったさ。『うんそう』って言ってさ。共有林で切り出した木なんぞを、駅まで運ぶのに馬で引っ張ってたってわけさ。最初の頃は、中が木でぐるりが鉄の車輪がついたやつだったな。そのうち今のタイヤみたいなのが出てきたがな。戦時中は木炭車なんてのもあったぞ。近所の三浦屋のおじさんは、川の向こうでな、テンヤをやってたさ。その人が伊豆まで海草を買いに行ってたんだが、やっぱその頃木炭車でさ。出かけるときにゃ、朝早くから薪突っ込んで、クランクやらまわして、そりゃあ大騒ぎだったさ。それでも掛からんときは、子供らみんなで後ろから押したりしたもんさ。今で言う押しがけだぁ。」
(梅と柿の並木)
 「梅は軒並み植わってたさ。柿やカイドウもあったな。一軒の家でも間口の広い家なら2本、狭い家は1本。全部で120~130本はあったじゃないか。梅は豊後梅がほとんど、柿は甲州丸ってやつさ。山梨の柿だけど、つるし柿なんかに品質がいいっちゅうこんでここにもってきて植えたらしいな。柿の木は、枝が折れるから危ねぇなんて言ったが、それこそ登って登って、今の様に身しみた梯子なんてもんはねえだから、下からどんどこ木登りさ。木登りは子供らはみんな大好きだったで、そりゃあ楽しかったさよ。見事な並木だったんだが、昭和34、5年ごろの出水の跡で、堤防やら道路やらを改修したときに切っちまっただよ。まあ、あの並木のおかげで、蔦木は家を動かさずに改修できたんだけどな。」
(昔のおやつ)
「柿はつるし柿にしたさ。そりゃあ、冬の間の保存食だで大事にとっとくんだが、剥いた皮のほうがまたおやつになったさ。皮を剥いたら日に干してカリカリにする。これがボリボリボリボリかじくると甘くてうまいだよ。うまいなんちゅうもんじゃねえ。最高のおやつさよぉ。梅はさ、梅干が多かったんじゃねえか。中には焼酎なんぞに漬け込むハイカラなうちもあったけどな。真っ白いご飯の真ん中に梅干だけが入った日の丸弁当なんか良く食べたさよぉ。そうそう、木の上になったまま黄色く熟した梅も、おやつに食べただよ。あれもまたうまかったなぁ。」

 そう話してくれたのは上蔦木の名取さん。最後に、「おらとうから下の衆には、ほんとに遠い話だと思うよ・・・昔の話さ」とつぶやかれていました。


身近だった神様仏様

2010-07-05 08:39:30 | Weblog
(薬師堂のおめえだま拾い)
「ここのには昔、今の常会みたいな『町内』って言うのがあっただよ。当番があって、お米をねえ、一軒で一合ずつぐらい出しあったかな。どこの『町内』でやったか、大人のやったことだからよくわからないけど、お米を集めて、石臼で引いて米の粉を作ったさ。それをお団子にして、お薬師様へあげたんだよね。そいだから、結構たくさんあっただよ。昔は、こういう箱があってね。その箱に山盛りになるくらいつん出したんだよね。集落で何町内ずつ集まったか、二町内ずつ位でやったのかもしれないねえ。それをさ、『おめえだま』って言うんだけど、お彼岸のね、入りの日と中の日と明けに三回投げた。まずお供えしてさ、年寄りたちがお念仏あげてそれを子どもらに投げたんだよね。まあ楽しみだったんじゃなかっただかねえ、昔はなにもそういう寄り集まることが無かったから。お団子の味かい?味なんかないせやー、今みたいにお砂糖だ入れるじゃないしさー。ただ、お米のそのお粉の味しかねえ。何も無い時代だったで、そんなことが楽しみだった、子ども達は喜んでいって、それを拾ったんだよね。」
(原山様の傘づくり)
「原山様の傘のことは知ってるかい。それも『町内』で順番があって毎年、八月の十四日お
盆の日に、『町内』ごとに集まってその花を作る。花作りってもう十四日って決まってたんだよねえ。ほいで花を染めるのも障子紙を切って作ってね。いつごろまでやってたかなあ?私達が満州から帰ってきてからやったんだから一九四六年ごろまでやったんじゃないかな。それはね、それこそ今のようじゃなく色紙もなにも無い時代だったでさあ、みんな手作りでねえ。」
(原山様の思い出)
「そいで、それを傘へさしてさ、表通り国道沿いは一斉に、祭りの前日、それこそみんなおんなじお飾りが出てきれいだっただよねえ。今はそれができないで、面倒だとかでそれでビニールの花に変わったじゃん。それだからあの『町内』この『町内』だんだんみんなそういう風になっちゃっただけんどね。私のは竹だったで、いくらかしなってね。だけど、あの手作りのほうがきれいなんだけれどもねえ、そういう時代になっちゃった。場所もねえ、昔は車が無かったし、どこのうちでも木戸にね、みんな夜になるとロウソクに明かりをつけて、ホントきれいだった。なんか私もさあ、昔からこういうところに育ったから光景が今でも目に映るけんど。」

と、目を細めて遠くを見るようにお話してくれた御射山神戸のおばさん。「昔は、そういう風に神様や仏様が身近に居たような気がするねぇ。」と一言。まぶたの裏にはその光景がいつまでも残るんだろうなぁ・・・。


子どもの頃かい 戦争さぁ

2010-06-03 19:23:53 | Weblog
(軍隊の疎開)
「あの今はマレットになってるあたりに、戦争中陸軍か何かの通信部隊が疎開しててな。結構何人も来てたぞ。うちの畑があっちのほうにないんで、兵舎は見たことないけんどな。終戦になってからもしばらくいたようだな。神戸の盆踊りの時に何人か降りてきてたのを覚えとる。あの衆は、飛行機の油だかをあちこちの山の中に隠してたっちゅうこんだ。油っていっても、松の根からとった松根油(しょうこんゆ)ってやつだ。それを終戦後しばらくたってから、取りにちゅうか、まあ、盗むちゅうこんだと思うが、山の中を探した人もいたちゅうこんだ。そうそう、富士見小の講堂にも通信部隊が疎開しててな。こっちは銅線巻いてあるコイルを置いてったんで、それを頂きにいった人もおる。」
(学校の授業)
「戦争中の学校は授業なんかしなかったなあ。一番上級生だったんで、まずは、沢入山へいって炭焼きさ。そんで南原山の学友林へいって、『木まわし』でこれくらいの木を引っ張ってきて、薪つくりだな。炭や薪は学校で使ったり、下級生の家にやったりいろいろさ。いけんとう(池の十)に町の畑があってさ、そこで町中のじゃがいもの種芋を作っててさ。その世話なんぞもしてたぞ。そこへ行く時にゃ弁当持って、『よつっぱ』(鍬)かついで、ハイキングみたいなもんさ。そうそう小黒川の方まで『あかそ』(赤麻)を取りにいったこともあった。先生が服をこしらえるとか何とか言ってな。これなんざぁ、行くだけで3時間も4時間もかかった。そんなことやってりゃ、勉強なんぞしてられんわな。」
(戦争のこと)
「まあ、こんなとこだから空襲なんかは無かったが、東京大空襲の時は、B29のゴーッちゅう音が、遠くで聞こえててな、子供心におっかねぇなと思ったな。国道から駅に行く途中に監視所があってさ。多分敵機を見張ってたんだと思うがな。そこに学校上がりの若い衆が勤めてて、どこで空襲があったなんて話は、そっから流れてたようだ。甲府であって長野であって、そのうちこけえらもやられるんじゃねえかと思ってたがな。そんなこともあって、富士見小の庭にも防空壕を堀っただぞ。今のプールの方がちっと段下になってるら。あそっから通路を掘って、室よりちっとばっか広いようなのを掘らされたぞ。何をやるつったって、上級生だで、やらされたちゅうこんだ。まあ戦争だからしょうがねえがな。なんちゅうても、ひでえ時代だったぞ。」
戦争の影響とはいえ、何でも自分たちでなんとかした時代。お話を伺った神戸のおじさん、「昔は、上級生が雪かきして道をこせえて、下級生を連れてった。親の手なんぞいっそう借りねえでな。」と一言。今の時代ほんとにこれでいいんだろうか、と考えさせられたお話でした。


法華道 その2

2009-12-15 22:22:24 | Weblog
 前回取り上げた若宮と高遠の山室を結ぶ法華道。今回は、伊那側で法華道を復元している北原さんという方の話をうかがった。
(法華道の思い出)
「子供のころから入笠山にはよく登ってましたね。私が住んでいたのは芝平(しびら)という集落で、その道が法華道だと思ってなかったけど、笹の実を取ったり、山菜を取ったりするので、よく使ってました。道の途中の場所の名前はよく覚えてますよ。『巾木あて』『婆さのていら』『厩のていら』『もんじゅ屋敷』『りゅうたつば』『まんど』なんていう地名があって、それだけでも、なんだか古い道だって感じがしますよね。県の教育委員会の報告書では、仏平峠から高座岩へ登って、荊口(ばらぐち)へ降りるように書いてあるが、私は高座岩から芝平に降りていたという説を立ててます。地形的にも無理が無いし、なにより山の中の地名がその道沿いにたくさん残っていますしね。」
(法華道の復元)
「復元を始めたのは平成11年からですね。歴史の本には法華道なんて載っているけど、実際に歩こうとしても、道なんてありゃしない。子供のころに歩いた道の面影もなくなってしまって、なんだか寂しさを感じたんですよ。それで、ひとりで草を刈ることから始めました。何とか荒れ果てた道を復元したいと思いましたよ。そうは言っても、道が通っている山には持ち主があって、県有林やら町有林(高遠町:当時)なんかもある。一番苦労したのは、国有林でしたね。伊那の林野局に何度も通いましたよ。許可がないと道標も立てられない。そうこうするうちに、だんだんわかってくれる人が出てきた。もとは身延山の上人さまが法華宗を伝えた道だから、山室川沿いの法華宗のお寺さんが協力してくれるようになった。高座岩には今では檀家さんたちが供養のため登ったりしてますよ。新聞なんかでも取り上げてくれて、応援してくれる人も増えてきました。」
(富士見の法華道)
「伊那側の法華道はほぼ復元できたと思う。いよいよこれから、富士見の方をね、何とかしたいと思っているんだよ。とはいっても、知り合いもあまり居ないし、調べるためには何度か来てるんだけどね。蔦木にも高座石ってのがあるよね。物資の往来もあっただろうし、伊那と富士見は昔からつながりが深かったんだねぇ。芝平にも造林や伐採の仕事で、昔は富士見の人たちが来てましたよ。入笠山に登る舗装道ができたり、スキー場ができたりしたんで、今ひとつルートがはっきりわからない。山が崩れてしまったあたりかもしれないなんて思ってもいる。一部でもいいからこのあたりっていうのがわかればなぁとは思ってるところなんだがね。」                               (続く)

法華道 その1

2009-08-19 20:23:28 | Weblog
 若宮と高遠の山室を結ぶ法華道という道があったことをご存知だろうか。今回は、伊那側で法華道を復元している北原さんという方と一緒に、富士見側の話をうかがうために、若宮の名取さんをお尋ねしました。

(炭焼き)
「俺はちっくいうちからさ、親父が炭焼きをしてたから、西山なんかにはしょっちゅう行ってたな。花場からず~っと川沿いに山ん中へ入っていくと、『石小屋』ちゅってな、そこになあ、釣り師なんかが雨の時に宿れるような石がこう突き出たような場所があった。いまは崩れちまったが、焚き火したあとなんかがあったさ。ありゃあ山に入り始まった十いくつのころだったかな。その石小屋の奥のあたりで炭焼きしてたおやじを、急用があって、ひとりでむけえに行ったことがあったが、おっかなかったなぁ、山ん中は。」

(法華道)
「法華道かい。俺もよくはわからんが、この集落の上の辺りの鉄塔の辺で、昔の鎌倉街道から分かれてたっちゅうこんだ。そして、上っていくと、入笠会館の下に出て、そこから入笠山まで登ってく道さぁ。国調があったときに、ちょうどその辺にあるいとこの畑の真ん中に、赤線が通ってて、そりゃ~消えねぇって言ってたで、あれなんかも法華道の跡だと思うがな。いつのまにか畑になったんだろうな。ほいで、上ってって、戸田市の施設のちょっと下に出る。ちょうど消防林の辺りかな。そこらに今の新しい道をななめに横切る道があってさ、そこを上って尾根に出たあたりに、あの辺は鍋山っていうんだがな、見晴らしがいい場所があった。そこいらは小学生の時に遠足で行った覚えがあるな。なあに終戦前のことさ。入笠に遠足に行くといやあ、大平のあたりから、今のスキー場を登って行く道やら、若宮から登っていく道やら、そこの大石のところから登っていって『ぶなの木横手』や『大久保の沢』通って、木の間から登った道と一緒になる道やら、とにかくたくさんあった。いくつも道があるだよ。そいでたいがい上の方で、一緒になってるんだがな。法華道がどれかなんちゅうことは、はっきりはわからんなあ。」

(山の幸)
「入笠の仏平峠の先の沢を『テイ沢』って言うんだが、子供のころからウドを採りに行ったり、魚を捕りに行ったりしたな。あの沢は、小黒川につながっているだで、魚がいるよ。『テイ沢』、『南沢』、『地獄谷』ってあってな。あの辺は丸金で開発しただ。ほれ、自転車が走ってる釜無林道なんかも最初は丸金がやっただぞ。魚は電気で捕ってた人もいたが、たいがいは昔の小さな網で、ガシャガシャと追い込んで捕っただ。簡単に捕れたさ。結構捕ったぞ。ウド採りしてると、川ん中にヒラヒラ見えるだもの、そりゃあ捕るさよ。終戦後すぐには、笹の実も採りにいったぞ。腰ビクつけてな、ビクいっぱい採ったらズック袋に入れちゃあ、しょって帰ってきたな。製粉して粉にしたり、精米して食べたり、団子にしたり、そればっかじゃこそっぱくていけなんだから、小麦粉と混ぜたりしてな、尊い山のめぐみだったな。朝んなりゃ山道をゾロゾロってなくらい、登ってたもんさ。」 (続く)

うさぎ

2009-05-04 21:27:31 | Weblog
(ウサギをさばく)
「ウサギをさばくことかい。俺は専門職だもの、冬の副業でやってたさよ。そういうもんを扱う商店があってさ。そこで、ウサギやら鶏やらそういう小動物のさ、肉をここらで集めてさ、それを売ってたさよ。俺はそこの番頭がしらさ。諏訪の方じゃあんまりやらなんだが、主には高遠の公園あたりに行って、集めてきたんだがな。俺は、俗に言う小動物取り扱いなんとかという鑑札をとってやってただ。シカとかイノシシなんかは鑑札がまた別だったから、大きいのはやらなんだな。さばくのはウサギが一番多かったが、タヌキやキツネもたまにはあったぞ。ウサギは、家で飼ってたやつさ。ここらじゃ1軒の家で3匹も4匹も飼ってただ。暮れなんかになれば、日を決めてさ。いくいつかに持ってきてくださいと触れてあいってな。そんときゃおめえ、何匹なんて勘定できるもんじゃねぇ。何人もで来て、みんなでどんどんさばいたちゅうこんだ。」

(ウサギの食べ方)
 「そりゃ、当時のここらでは栄養はそういうところからとったちゅうこんだ。ウサギが唯一の祝日のご馳走だったからなぁ。汁にしたのが多かったかな。ウサギはさっぱりしてて馬肉なんかよりそりゃあうまかったよ。暮れには、今じゃぁ鮭を買うなり、なんか魚を買ったりするじゃん。その頃は、ウサギがそういうもんの代わりだったちゅうこんだ。正月によく作ったのは、ウサギの肉と野菜を入れて作った薄味の煮物みたいなものだ。醤油で味付けしたんだけんど、カンラン、今で言うタマナだ、それを入れたやつが一番うまかったな。カンランがなけりゃネギでもいいがな。」

(生きてく道)
「鶏もやったけんど、ウサギの方が簡単だったよ。ウサギは肉が柔らかいちゅうか、なんちゅうか。こっちへひっぱりゃこっちへくるし、あっちへひっぱりゃあっちへ行くし、やりやすかったな。今でもできるかって? もうやめてっから何十年もたつで、もうできねぇな。こういうことしてると、『大将は生き物の命ばかりとって』なんて言われるからな。それでいやんなってさ。それからやらなくなったさ。それでもさ、何だかあって、牛だったかさばいたこともあったぞ。なんてったってここらじゃ、そういうことできんのは俺しかいねぇからな。なんだかんだ言われてもな、自分の生きてく道だったってこんさ。」
 そう話してくれた、すでに90歳を超えているTさんだったが、最後にぽつりとこぼした、「昔の衆は今の衆より、なんだか広い気持ちをもってたような気がするな。」 という一言がとても印象に残った。

子どもの遊び

2009-04-01 17:09:01 | Weblog
(学校と道草)
 「学校の休み時間には、『なわとび』を廊下でよくやったよ。着物の帯をほどいて、帯の上を飛ぶですよ。その帯をだんだん高くして。 今の高飛びみたいなもんですねぇ。 帯をほどいた子はどんなにしてたかねぇ・・・まあおてんばってこんだね。 学校の帰りには道草して、桑の、木の実を『ずみ』って言うだけど、それを取って食べたり、それぞれの家にある『すもも』や『すぐり』や『柿』なんかを取って食べたりしたね。おやつなんかもあるにはあったが、『米炒り』『豆炒り』『おやき』なんかを食べましたね。今のお菓子みたいなもんは、ほとんど食べたことはなくて、1年に2~3度、村のお祭りに買ったくらいだねぇ。親戚にお使いに行ったときにもらったお駄賃をためといて買ったもんでした。」

(家の手伝い)
 「そいで、家に帰ってくると、ほとんどが農家でしたから、うちの手伝いはしましたよ。小学校も5~6年になると、夏休みなんかは今の子供と違って、お蚕の桑つみとか、妹や弟の子守り、畑の草取りなんかをやりましたよ。 『馬ねぐり』って言って、馬に荷物をつけて、畑と家を行ったりきたりするんですが、そんなことも手伝いました。 秋は秋で取り入れ休みがあって、稲刈りの手伝いもしましたよ。それ以外の農繁期にも、学校を休んで家の手伝いをしてる子もありましたよ。 手伝いの合間にね、宿題なんかはやるんです。」

(子供の遊び)
 「家のお手伝いが終わると、今のようにおもちゃなんてのがない時代だから、余りぎれをもらって、お手玉を作ってもらったり、自分で作ったりして、遊びましたね。お手玉の中身は小豆だったり、いい音がするなんていって、じゅず玉なんかを使ったね。 それとよく『きしゃご』って言うんだけど、ガラスでできたおはじきだね。それを貝殻で拾って、数を数えて、たくさん拾った人が勝ちなんてのもよくやった。おはじきはどっかでか買ってきたんでねぇ。 それと、藤の花が咲いて、実ができるでしょ。あれをおはじきの代わりに使ったりもしてね。冬になると、よ~く原山様に取りに行ったよ。雪の上に藤の実が落ちてて、それを拾っておはじきの代わりにしてたねぇ。」

(お祭りのにぎわい)
 「原山様って言えば、お祭りなんかには出店がいっぱい出てねぇ。その頃はビニールの袋なんてないから、お店で新聞紙の袋を作って、そけぇ、飴玉なんかぁ入れてくれたねぇ。アイスクリームは、1杯3銭、2杯で5銭。三角のこびとの帽子みたいなのに入れて売ってたね。もうちょっとお小遣いのある人は、ガラスのコップに入ったイチゴ水とか、そういうのを飲んでましたね。」
 「確か、15銭くれぇだったかな。そんなときは、見世物小屋も出てね。私ら子供にはあんまり縁がなかって、中に入ったことはないけどね。ちょっと今で言うと、体が不自由っていうか、そんな人がねぇ芸をやったなんて聞いてるけど、見たこたぁない。それで、あそこの原山の原で、草競馬ってのが、やっぱ盛大にあって、人気があったね。ここらで趣味のある人が、出ててねぇ。そりゃぁお弁当もって持っていっちゃぁ見物してたね。 帰りに優勝旗なんか担いでいたのを見たことあるよ。その後、学校を出て青年団の頃に原山様に行ったら、競馬したとこが畑になってたねぇ。」

 ほんとに懐かしそうに話されていた立沢のおばあさん。今のような便利な物がなんにもなかった時代に、何でも工夫してすごしていたことを、少しでも今の子供たちに伝えたいという言葉が印象に残りました。