じいばあカフェ

信州の高原の町富士見町:経験豊富なじいちゃん・ばあちゃんのお話を
聞き書きした記録です
ほぼ一ヶ月に一回の更新です

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おかいこさま

2007-03-10 09:20:51 | Weblog
(桑切り)
「そうだなぁ。春の仕事は桑切りからだなぁ。この辺では養蚕がうんと盛んだったから、桑切りの仕事が3月からはじまるだよ。いや、葉っぱじゃなくてな。秋になると、葉っぱが全部落ちちまう。そうすると棒だけになっているから、春先に行って、それをかっきる。それを切らなきゃ次の新しい芽が出てこねえ。新しいのが出てきたら、『桑もぎ』っていって、それを一枚づつ摘んでびくにいれて蚕にやった。蚕の飼い方も、だんだん変わってきた。昔はこんなかごに蚕入れて、大きな棚があって、それに10枚も20枚も籠をさしてな。それで蚕が大きくなったら、やぐらって言って、そこに今度は桑の枝をやる。小さいうちは葉っぱをもいで、大きくなったら枝を与える。 今は野菜作ったりしてるじゃん、昔はみんな桑畑だ。野菜なんてうちで使うだけだ。後はみんな桑ばっかりだった」。

(養蚕の盛んな頃)
「普通は、春・夏・秋だ。まあ、おらのうちでは、今のうちとはちがって、向こうにもお蚕飼う建物があったもんで一番多い秋には100貫あった。普通のうちなら、1年で50~60貫じゃないかな。最盛期は、大正10年から15年くらいじゃねえかな。昭和に入って、値がへえ安くなっちゃったから廃れたな。昭和はじめの浜口内閣のころに大恐慌があってな。そこらあたりから景気が悪くなってきて、繭が売れなくなってきただ。それからだんだん繭が安くなっちゃただな。それでもな、養蚕をやってからのほうが、暮らしが良くなったんじゃねえ?」
 「養蚕が盛んな頃は、しゅうこ(秋蚕)っていって秋のが終わると、無尽っていって、10円なら10円を皆で持ち寄って。金のほしい人は、そこで競って落とす。今の銀行みてぇなもんだな。そういうのがさかんになった。まとまったお金をそういうとこで手に入れられるようになったってこんだ。」

(共同販売所)
「出荷はな、下諏訪とか、岡谷とか製糸(会社)があって、この部落にも5~6人いたけんど、専門に家をまわって、繭を買いに来るわけだ。その衆は、それぞれ担当の地域が決まっている。そして、農家に個々にあたって、繭を、『いくらで買う、いくらで買う』って、値をつけて、集めてまわる。そういう買い方を最初はしてたな。そのうちにこんだ、共同販売所ってのができた。この下の保育園の跡地がもとは小学校だったんだが、その頃は公会堂だったんだな。そこへ繭の共同販売所ができた。それまでは、さっき言った製糸(会社)から頼まれている人が、農家を回ったが、その共同販売所ができてからは、その広いとこに自分の取れた繭をしょっていったってわけだ。」

(繭の入札)
「そうすると、こんどそこへ各製糸から頼まれた5~6人がテーブルの周りに座って、繭を持ってきた人が、そこへ繭を広げるわけだ。それぞれ繭をみて、これなら1貫目いくらって、今で言う、お椀のようなものに値段を書くわけだ。お椀の裏には、製糸会社の名前が書いてある。そして繭の値段を10円とか書いて、別の人は9円とか書いて、お椀をそれぞれ伏せておく。その中ににひとり、値段を見て発表する人がいる。それで一番値段が高い人が落とすちゅうこんだ。」

 最初はぽつぽつと話されていた神戸の小林さん。話がのってくるともう止まらないという感じ。この後もいろいろなお話をうかがうことができた。
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宝物と思い出

2007-01-02 11:21:43 | Weblog
 ここに取り上げている話は、町の公民館報へ連載しているものです。今回は2年間のまとめとして、文章を書いてみました。そのまま掲載します。

(宝自慢)
富士見の宝自慢と銘打って、このコーナーを2年近く受け持ってきた。宝というと、何か目に見える“もの”、例えば仏像とか特別なお祭りとか、そういったものの紹介を期待されていた方も多かったと思う。今まで、取り上げた話題は「乙事うり」「石工」「猪鹿よけ」「博労さんの生き様」「瀬戸講」「農鍛冶」「屋号」「小六の遭難」「旅するいんげん豆」「満州からの引き上げ」「休戸のにぎわい」等と、種々雑多で取り止めがない。その時にどの話題を取り上げるかは、何かの用事でその地区にうかがったときに聞き込んだことをもとに決めている。そして、そのことに詳しい人を聞きだして、お訪ねしている。例えば、「屋号」の時は、下蔦木で屋号の話を聞き取りしていたときに、いわれがわかっているのは「木地屋」くらいだと聞き込んだ。その苗字が「小椋さん」であることで、木地師についての自分の僅かな知識から多少の自信を持って、お訪ねする。そしてお話の中で、“先祖は木曾から来た”“おおもとは京都の君ヶ畑”なんて言う話を聞きだして、うんうんと頷いている。
また、予想していたのとは、全く違った展開になって、かえって面白かったというのもある。乙事の博労さんにお話をうかがった時には、話が弾み、身延とのつながりが浮かび上がってきた。そうなると、行ってみたくなるもので、はるか身延まで出かけてしまった。そして、そこで、乙事まめが作られているのを発見してしまったりする。この時はさすがに興奮した。

(方言で聞き書き)
「俺はこんなに方言をつかってないぞ」いうお叱りも受けたこともあるが、お話をうかがって、そのまま文章にしている。出来るだけご高齢の方の所へうかがうので、やはり方言もきちんと話しておられる。方言は恥ずかしいなどという時代も、ちょっと前にはあったようだが、今はそんな時代ではないと思っている。なので、話し振りを忠実にということを心がけている。公民館報の編集をやめたときに、いくらか方言がうつっていないかなぁ・・・というのがささやかな希望だったりする。
 そういった意味でも、お話をうかがうときに失礼かとは思うが、録音させていただいている。
実際取材の時には、話題があっちへ行ったりこっちへ行ったりする。テープを回しながら、それを筋がとおるように、つなぎ合わせていくのは、なかなか難しい。が、楽しい作業でもある。

(“宝”とは出会い)
思うに、宝物って言うのは人や物との“出会い”のことをいうのではないだろうか。その人が一生の中で、出会った人や物を通して、いろいろな思い出をつむぎだしていく。その思い出が宝物として、その人にずっと残っていく。そして、その思い出がしみこんだものが、その人の心に懐かしい気持ちや、若い頃の気持ちを起こさせるのかなと思う。石工の道具やら、博労(家畜商)の免許やら、遭難の碑文などが、それにあたるのだろう。実際お話をうかがって、特にご高齢の方に見られる傾向がある。お話をうかがう前には、なんとなくしょんぼりとしている感じがするのだが、話が弾んでくるにしたがって、まるで空気入れで風船に空気を入れているがごとく、だんだん立ち上がってくるような方が多いのである。昔の話を聞くことで、こちらもなんとなく癒される気がするのだが、話されているほうも癒されているのかなと思う。
 今のような便利な時代ではない時期を、ご存知の方はかなりご高齢になっている。ひとりでも
多くの方のお話をうかがおうと、少しあせっているというのが正直なところだ。
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引き上げ

2006-10-29 20:47:44 | Weblog
(朝鮮へ)
「実家はね、松本の方でほうきの製造と雑貨商をしていました。そこから、栃の木にお嫁に来たの。主人は、松商を出てすぐ五十連隊に入って、朝鮮に行ってたんですよ。そんなこんなで嫁に来るって日が決まったんだけど、軍需輸送が始まって、急にその警備に出なけりゃならなくなって、結婚式に出れないって。そりゃ泣きましたよ、婚礼にむこ様がいないんだもの。おじいさんが翌々日だったかな、朝鮮へ連れてってくれた。富士見で親子の盃だけして朝鮮へ行ったの。向こうには5年ほどいましたよ。」
(終戦)
「ここからは、主人から聞いた話だけんど、終戦と同時にソ連の兵隊が条約破って入ってきて。そーしておめ、上の衆は、眼鏡から時計から身ぐるみみんなはがれて。そして、明日はソ連へ連れてくと言われて、その夜に仲間と4~5人で話し合って、逃げたって。トラックにガソリンと缶詰を積み込んで、夜中にね豆満江(とまんこう)のほとりをずーっと、そいでソウルに着くまでにうんと手間が掛かったの。昼間は山ん中隠れてて、夜走ったんだって。ソウルに主人のおばさんが居たんだけんど、そこまでたどり着いた。そしてそこで、しらみの退治をしてもらって、好きなぼた餅だかこしらえてもらって食べたんだと。そいで今度は永川ってとこまで来たんだけど、そこから海岸に出ても連絡船がないだよ。負けちゃったから。永川にいとこが居て、そこに私の花嫁道具を預けてあったの。それを全部売り払ったりして、小さな船を買ったんだって。ほいで、日本海へ漕ぎ出したの。そーしたら、台風。ものすごい台風に日本海であったの。マストはどっかいっちまうし、水は入ってくるし、みんなお念仏唱えるほどだったんだって。朝鮮のパカチって皆さんご存知かねぇ。夕顔みたいのをくりぬいた洗面器みたいなやつ、あれで、水をくみ出したりしたんだけど、もう駄目だって時に、陸地が見えたんだって。それから元気が出て、山口の須佐って港にたどり着いたんだって。泊まるとこもないから、小学校に1週間とまって、そして帰ってきたの。お化けかと思った。」
(引き上げ)
「こっからは私の話。私は終戦のちょっと前に、帰ってきたの。まだ連絡船があったから、九州のちっちゃな港についてね、それでさ、関門トンネルを通って本州に入ってさ、それからが大変。汽車は止まったり動いたり、しまいにゃ石炭と一緒に無蓋車に乗ってさ、トンネルじゃ真っ黒け。子供はおしっこしたいって、やるとこないでしょ、石炭の中へ・・・。ほいで、そいでも6日くらいかかったね。2日めくらいまでは、お弁当があったんだけんど、みんな食べちゃって、後は水とビスケット。そいでもやっと塩尻まで来て、のり換えたんだよ。そん時前に座った、田舎のおばちゃんだわね、ひざの上に真っ白なおにぎりを広げて、まさに食べるとこ。そしたら背中の子供が『まんま~ まんま~』って泣くですよ。おばさんが聞いてくだすってね。『かわいそーに』って言って2個くだすった。そりゃぁ本当に、私の人生の宝物ですよ。そいで私は涙ながらに、おにぎりを2つに割って2歳の子と半分ずつ食べて、1個は4歳の子に食べさせましたよ。ほんとにあれはうれしかった。」
お話をうかがった栃の木の小林さん。この時の体験が、その後民生委員などをやるときのきっかけになったそうです。帰ってからもなれない畑仕事にご苦労をなさったそうですが、「今ではベテランですよ。」と笑っておられました(来年90歳だそうです)。
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旅するお豆

2006-10-10 20:50:12 | Weblog
木の間の祠などを調べて歩いているときに、ある祠の横をふと見るとたわわに豆が実っているのが見えた。持ち主の方が、ちょうど畑におられたので、莢をむいて見せていただいた。豆はいんげん豆の仲間だと思うが、小豆色に白く斑の入ったきれいな豆だった。 
「この豆は、亡くなったおばあさんがどっかからもらったって。名前は知らない。あんまりたくさん作らんけんどね。煮ても食べるけんど、莢で食べたほうがおいしいね。播くのは6月の末っころだね。見た通り、つるありだね。そうだ、確か乙事の方でもらったとか言ってたな。」とお話をうかがったのは小池さん。
その豆、少し集落の中に入ったところの畑に居た方に見ていただいた。「この豆は見たことないけんど、うちでも似た豆を作ってるよ。」と干してあった莢をむいて見せていただいた。今度は白のベースにあざやかな赤い斑点が入ったもの。
「この豆はねぇ、武智川のそばのおばさんからもらいましたけど。おばさんは若宮からもらったとか何とか言ってたけど。若いうちは莢でも食べれるらしいが、手亡しだから莢より豆で食べますねぇ。月に一回くらい煮て食べるけど、やっぱ豆はつるのあるやつの方がおいしいねぇ。」と言いながら、納屋からわざわざ出してこられたのが、真っ白で少し艶のある小ぶりな豆。
「名前は知らないけど、うちじゃ真っ白だから白いんげんって言ってるね。莢は小さいけど、莢でもおいしいよ。4年くらい前に、栗生の人からもらった。農協のお買い物バスがあるじゃん。あれでみんな友達になるだよ。そこでもらった。これはおいしいよ。播くのは7月のなかば。収穫も少し遅いよ。いろいろ面倒だけど、やっぱ豆はつるありだね。」この後、お話をうかがった折井さんからはこの“白いんげん“のおいしいにかたを教わった。
ある豆は、乙事から木の間へ。またある豆は若宮から武智川を渡って木の間へ。お買い物バスが縁で栗生から木の間へ来た豆もある。富士見の中をあっちへこっちへ、人の気持ちを伝えながら旅している豆たちを見たら、なんだか楽しい気分になった。
 

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小六の遭難

2006-06-29 20:43:57 | Weblog
(遭難の碑)
小六から高森にむかう県道から少し引っ込んだところに、ひっそりとたたずむ碑がある。碑には『小池国人君遭難の碑』と銘が彫ってある。 何日か前に草刈をして、掃除をしたようで、きれいに整備されている。 近くの方に聞くと、ゆかりの方がおられ、碑前の清掃をしたり花を手向けたりしていると言う。 お話をうかがったのは国人さんの息子さんのお嫁さんに当たる方だ。
 「昭和の8年のことだ。 県道をね、広くして平らに回す工事のときにね、山が邪魔になったもんでね。 尾根をほら、部落の人が出払いで出て、手掘りでもって堀っただよ。そいでたら、そん時はとても寒い時でね、凍ってただって。それが西側から寒い風があたってさ、表(西側)からは掘れなんだだよ。 そいで、山の東の日の出の方から掘っただって。 そしたら、つっつんだだよ。上がガサッと崩れて、みんな逃げたんだけんどね、その下になっただって。 そんで硬い土の下になったもんで、掘り出せなんだだと。今だったら機械を持ってきて、ゴッとやるけんども、人の手だで、やっと出しただと。 そんなもんで、部落でもってお葬式を出してくれたらしい。 そんで、何人かの人でお石塔を立ててくれたってことだ。 私が生まれた年のことだで、この話はばあちゃんが話してくれた話だ。」
(事故の話)
その頃のことを、実際に見てご存知の方は、なかなか見つからなかったが、ご主人が一緒に工事に携わっていたと言う方を探し出しお話をうかがった。
「事故のあった頃は、子供と言っても若い衆のころかなぁ。私の主人が一緒に中に入ったんですよ。 その時の話は聞いたことがありますねぇ。 まだ私の主人はひとりもんだったもんで、奥の方へ2~3人で入っていて、国人さんたち所帯持ちは口元の方に居たんだって。 なんでもそのときは土が凍ってたんだけど、トンネルみたいにめた掘っていったらしいだよ。そしたら土が、まっすぐ下に落ちなんで、ドサッと口元にむかって斜めに落ちたんだと。 そいで国人さんだけ下敷きになって・・・。 だで、中の人は急に上が明るくなったんだと。どういうふうにやって出ただかわからんけんど、怪我も無かったの。みんな村人足ちゅうことで出たんだそうだ。」
(国人さんのこと)
「国人さんとは、10歳くらい離れてたんじゃないかねぇ。 とてもいい人だったよ。 私の家は、その頃はちょっと向こうの方にあってね、まだほんの子供の頃に、お友達んとこで遊んだか何かの帰りに、こっちからうちの方へ行ったんだ。 そしたらね、国人さんがね、木をかついでね、来ただよ。 『どけぇ行ってきただ。遊んできただか。』って言ってね。そんなことを覚えているがね。 とても人づきのいい、いい人だった。兵隊かなんかに行ってた頃かもしれない。 そんなに親しいってわけじゃなかったけんど、『ああ、国人さんっていい人だなぁ。』って思ってたね。」
こんな話も、だんだんに忘れられてしまうのではないかと思い、書き留めてみました。 村の発展の過程で犠牲になった人もいたんだという事、心に刻んでおきたいお話でした。

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信州蔦木宿:屋号のいわれ

2006-05-20 20:36:42 | Weblog
(わらじを脱ぐ)
上蔦木の屋号には、井筒屋、柳屋、釜無屋、大阪屋などいろいろなものがある。その中でも、言われがはっきりとわかっているという「木地屋」の小椋さんをお訪ねして、お話をうかがった。
「伊那だか清内路の方へいくと、小椋って姓はうんとあるだだよ。道端に、小椋っていう木工屋さんがずらりってあるわけ。そっちの方から来たんじゃないかと思うんだけんど。小椋家って言うのは、こっちへ来てから六代目くらいになるだよ。そこの『竹(竹偏でなくて人偏)屋』さんてのがあるでしょ。あのうちが、そのころ旅籠みたいのをしててさ。そこへ、『わらじを脱いだ』ちゅうことを聞いたんだよね。最初の先祖は家がなくて、まあ、住み込みちゅうか、昔は『足入れ』ちゅうだがな、最初はそこへ泊まって、そいで、部落へ住み付いたちゅうことらしいだ。」

(挽きもの屋)
 「小椋家ちゅうのは、どんどんたどっていくと、ここらへんの国の林のね、木を伐るとか、皮を剥ぐとか、そういうことをね、天下御免でもってね、誰も文句は言えなかったらしいだよね。先祖はね、木工のお椀作り。一番最初は、滋賀県の小椋村君ヶ畑ちゅうとこがあってさ。君ヶ畑ちゅうのは、『木の挽きもの屋』さんがあるところみたいな意味らしいだ。そこの衆が、同じ商売じゃ食っていかれんちゅうことで、全国へ散らばったらしいんだな。木の挽きもの屋が先祖なんだな。東京なんかにも、小椋っていうのが何軒もあってさ、昭和の20年ごろ行っただけんど、やっぱり木のプーリーなんか作ってたな。みんな木工所だ。お椀なんかは、明治の頃だと思うな。そんなことで、屋号は○木で『木地屋』。お蔵にも○木と入ってるけどね。挽きものの商売自体はそんなにやってないと思うがね。」

(おっちゃま)
 「昔はね、おらとが子供の頃のこんだが、みんな屋号で呼んでた。よろず屋さんだとか、こく屋さんだとか、みかわ屋さんだとか。名前で呼ばないで、ときわ屋の『おっちゃま』だとか呼んでた。そういう時代があったんだよね。おれたちゃ、どこのおやじさんでも、『おっちゃま』だっただ。今は、『おっちゃま』なんて言われてぇけんど、誰も言ってくれる人はいないじゃん。『おっちゃま』なんて言葉もなくなったね。その頃、『おっちゃま』って呼んでたのは、結局、所帯もった五十以上の人じゃねぇかね。『おっちゃまなんて呼ばれてぇない』なんて冗談で言うこともあるけんどね。」と、最後は笑いながら、お話くださった。
 
 

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休戸

2006-04-09 10:41:44 | Weblog
(休戸千軒)
 「昔は『休戸千軒』って言ってな、釜無の河原にね、ずっとあっただと。おらぁ子供の頃に、窯の壊れたのがいくつもあったわい。河原の石灰を拾って、炭で焼いたちゅうこんだ。そいでその石灰を焼く炭を焼いてたんだって。その頃が、『休戸千軒』っていうくらいあったと。 それが今でいう台風だけんど、昔の『大荒れ』っちゅうやつだ。その『大荒れ』でもってな、そいで流されて、瀬沢へ出たり、乙事へ出たり、方々へみんな出たんだと。おらぁ、おやじんとうから聞いただ。まあ、明治の頃ずら。おれの子供の頃にもまだ、崩れっかけたような窯がいくつも並んでた。石を焼くだから、でっけえだ。人なんか幾十人もへぇれるさ。こんな筒っぽの、そんで、上から炭と石を一緒くたにな、くべて、そいで焼けたのを、下から出すっちゅうようなもんだ。」

(天屋のにぎわい)
 「天屋はここにあった。このうちのとこを、花場の人に貸してあってさ、地所を貸したずら。冬、『天屋小僧』ちゅうのがいて、天屋の職人さ。そりゃぁ、あれだ、越後から来たり、伊那から来たり、そこらじゅうから来てた。ざーっと来てたぞ。若い衆がな、15~6人はこけぇ居たぞ。今も、そこらでやってるように、広げちゃぁ、たたんじゃぁ、広げちゃぁしてただ。みんな天屋ん中に住んでた。住み込みだもの。こっちから、ずーっと向こうまでうちはあったもん、でっかいだ。そうそう、天草をこの程久保の水車でついてただ。水車はその下にあったり、あそこにあったり。それを、水車でつくだけで、間に合わなんでな。夜んなりゃぁ、その道でもってな,こんなでっけぇ臼があってさ、それをみんなでこうやってまわり並んでな、唄うてぇながら、ついてたぁ。 おばあさんが全部賄いをしてただよ。おなごしの手伝いも来てぇた。にぎやかだったよ。冬じゅう、ほいだでな、稼ぎに来るだよ。遊びなんざねぇさ、こんなとこだもの。忙しいだもの、天屋なんか。3月まで働いて、そいで、銭しょって、けぇるってもんだ。

(休戸の集落)
 「休戸は昔は10軒から先はあったぞ。お堂の上に3軒、あれは昔っからあっただ。よっく大昔か知らねぇけんど。ほら、町の粗大ゴミのところの下のところ。そんで、俺の生まれた大家と、それとうちの裏に2軒。1軒はお菓子を売ってただ。ありゃあ俺の兄貴の嫁がやってただ。あーあ、みんな親戚みてぇなもんだ。河原の方へ行って、下の段に1軒、その東に1、2・・・5軒ばかあっただ。満州行って帰ってきて、またすぐブラジルへ行った人もいただ。家は壊して、みんななくなっちゃっただよ。あの辺は『河原休戸』って言ってな。よっくの昔は何軒もあっただ。ゴミ焼場を作ったときに、塚平や富士見台に出ただよ。あとのうちも、若い衆がみんな豊田やら湊やらに出たり、娘はそこらへ嫁に出したりで、年寄りばっかりになって、今は、もうこれだけだ。昔はお盆って言っちゃぁ、お堂で花火上げたり、11月の『おいだて』のお祭りの時に、にぎやかに甘酒作ったりしただ。氏神様も河原休戸のを、処分場が出たもんで、こっちへ合祀したけんど、お祭りもやらねぇなぁ。今じゃ春の花見をやるくれぇだ。集まるのは6~7人ってとこだ。」

 コタツに当たりながらお話を伺ったのは、休戸の坂本さん。「昔って言っても、ほんのこねぇだのこんだ。」そういう坂本さんの時間は、ゆったりと流れているような感じがした。

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農鍛冶

2006-02-27 11:30:38 | Weblog
(学徒動員)
「鍛冶屋は終戦の年からやってるだ。富士見小を卒業してから、岡谷に学徒動員でひっぱられてな。何を作ったって、特攻隊の『落下増槽』さ。『落下増槽』ちゅって、飛行機の胴体にそれを積んで、片道だけのガソリンを入れて、そしてつっこんだだ。もう生きちゃ帰れねぇ。ベニヤで作って、まわりを。そして、中をペンキで塗装して、乾かして。まあ、片道だけもちゃあいいんだもんで。日本なぁ、へえ負けると思ったな、そん時にゃあ。それから、横須賀の海軍航空技術廠ちゅうのにいっただ。そこで、終戦になって、8月に富士見に帰ってきただ。」

(弟子入り)
「帰ってきたときには、もう痩せちゃってさ。ここらは、少しは食べるもんがあったで。よく覚えてねぇけんど、1ヶ月くらい静養したかな。そのころ、国道っぱたで俺の従兄弟の人が親方でいてな。うちで遊んでいたのを、『うちへ来い』ちゅうもんで、弟子入りしただ。その人も、玉川の穴山の『○あ』ちゅうとこに、弟子入りしていたっちゅうわけ。その人も、そこで仕事覚えて、ここで独立しただ。弟子に入ったちゅっても、向槌(むこうづち)で毎日トンテントンテンやってるだけだで、なにか教えてくれるちゅうこんじゃあなかったなぁ。これが向槌。こっちが横座槌(よこざづち)。こっちにいてって、俺の親方はこれを打った。どっちも、俺の親方ぁ使ってたやつだ。亡くなっちゃったもんで、俺がもらっただ。惜しいことをしただ。ふいごも、俺がもらってきてあったんだが、皮が駄目んなっちゃったもんで、ぶちゃっちまった。神戸でうちみたいのが、1,2,3,4軒はあったな。こういうものを作る鍛冶屋だ。のこぎりを作るとこもあったな。他にやるこたぁねえから、みんな弟子入りなんかしちゃあ、そんなことをしてたずら。」

(独立して)
「昭和も38年になって、自分とこでやるようになった。昔の師弟根性でなかなか教えちゃあくれなかったが、自分でいろいろ考えてな。この温度(熱くなった鉄を入れる湯の温度)も42度がちょうどいい。熱くなったら水を入れて42度近辺にするだ。寒いような時、42度にしないで入れたら、みんな折れちゃう。50度くれぇになる時もたまにゃぁあるだよ。でもそんな時にはみんな曲がっちゃう。今は、鉄筋を使ってるから、割合そんなこともないがな。 鍬やなんかも、場所場所によって角度が違うだ。『こうばい』って言うだがな。安曇野に出すのとか、松本に出すのとか、それぞれに違うからな。『こうばい』を出す道具もこんなにあるだ。この辺(諏訪)は『こうばい』が低いだよ。角度を起こしてやると『こうばい』が高い。寝かしてやると『こうばい』が低いちゅうこんだ。 昔は一年中仕事やるくれぇ注文がきたが、今じゃそんなことはねえなぁ。昔は1日5丁か6丁。1丁で米7升くれえだ。お金ねえもんでさ。中新田あたり、しょってって、『物交』やっただ。こっちは食うもんがねえじゃん。ものは柄がつかねえやつだ。中新田のあたりじゃ、売りに来るのを待ってるくらいに売れたもんだ。 そのうち、茅野の方へも卸すようになって、えれえ目にあったわ。バスに頼んで、積み込んで、向こうの人が、茅野駅まで取りに来て、何てこともやったな。こっちはただのしただけで。山梨の長坂の伊藤物産なんかにも、リュックにしょって納めに行ったこともあるだ。」

昔を思い出しながら、遠くを見るような感じでお話くださったのは、神戸の有賀さん。最後に、ぽつりとおっしゃった、「もう1,2年で終わりにしようかと思ってるんだが、問屋がほしがるでな。」という言葉が、印象に残った。
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池袋の瀬戸講

2006-01-15 11:57:24 | Weblog
(瀬戸講)
「瀬戸講というのはこないだやった。あのね、前はたぶん年があけて最初の午の日にやったと思うだよな。ここの場合はね、昔の人はたぶんわかってたと思うけんど、瀬戸講をなんのためにやってたか知らなんだだよ。瀬戸講ってどういうもんでぇって言いながら、毎年ずーっとやってただよ。区には、やめちゃいけねえっていう行事がいくつかあって、瀬戸講はそのひとつで、まあ起きた頃は違ったんだが、区で行事をやってたちゅうわけだ。今は老人クラブに委託してやってるだがな。今はなぁ、集まって般若心経を3回唱えて、そしてまあ、あと、みんなでな、おごっそう作って、飲んだり食ったりするだ。区長さまはくるが、参加するんは、老人会の衆ばっかりだ。」

(瀬戸講と山梨)
「そいで、まあ、そういうじゃいけねえってことで、だんだんいろいろ調べたわけだ。葛窪でねぇ、ちょいとこうやっている部分があって、そいで聞いたら、今はやってねえけんど、どこの家とどこの家でやってるちゅうことがわかっただよ。みんなで金を出し合って、講を作ってそこへ行ったと思うだよ。そいで、その瀬戸なるものが、どこかがわからんで葛窪へ行ってみたら、山梨だっちゅうわけだ。北杜市の高根の蔵原にあるということで、訪ねて行ったっちゅうわけだ。そこにお寺があって、行事は昔は馬の安全だったと。そのうち、だんだん馬が無くなってきて、牛になって、そいで、今は交通安全でやってるって。今は2月に祭りをやるとかで、坊さんはさ、食ってけねえから役場に勤めてるとか言ってたぞ。まあ、葛窪の衆はそこに行ってたわけだ。
そうこうするうちにな、高森にも、瀬戸講をやってたというとこがあってな、小柳橋のたもとにこれっくれいの碑があるだよ。そこにはね、“甲斐瀬戸観世音”って彫ってあるだよ。そんで、葛窪の加々美さんって言う人が、山梨の下部にあるって言うだよ。早速行ってみた。山梨の身延町の下部に、瀬戸って言う山の中の小せえ部落があって、そこのお寺が瀬戸観音ちゅうだ。昔はね、講を作って行くぐれいだから、結構盛んだったようだ。最初は本栖湖だかあそこらへんにあって、そこじゃだめで、下部に移ったそうだ。ここらの衆は、そこへ移ってからの話ちゅうこんだ。」

(富蔵山と瀬戸観音)
「馬のお祭りは、明治の初めのころに、瀬戸講から富蔵講に移っちゃっただよ。筑北村に(昔の本城村、坂北村)富蔵山ちゅうのがあって、本城側にひとつ、坂北側にひとつそれぞれ天台宗と曹洞宗の富蔵さまがあってな、こないだ見に行ってきただが・・・。新たに作った富蔵講は、お墓のところに富蔵さまを祀って、そこでお祭りをやっただ。これは、おらとも覚えてる。富蔵さまは、いつだかはっきりわからんが、そのうち自然消滅的に無くなっただな。瀬戸講だけはどういうわけか、残っただ。瀬戸講の碑はねえじゃねえかと思ってたんだが、墓地の中に寛政年間に立てられた観音様があってな。頭に馬が描いてあるのに最近気がついただ。あれが、瀬戸講の観音様じゃねえかと思ってるだ。」
お話は、池袋の武藤さんからうかがった。“講”もいろいろ流行り廃りがあるようだが、ここでも、身延(旧下部町)とつながった。前号で取り上げた馬の話でもある。この下部の瀬戸観音にも行ってみたいような気分になった。
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身延と乙事

2005-12-15 23:10:16 | Weblog
 12月号で、乙事の名取さんにお話をうかがったときに、山梨県の身延町の門野という地名が出てきていた。地図をみると、身延の中心地からかなり南アルプスの方へ入ったところにあるらしい。こんなに離れた場所とどんなつながりがあったのだろうか? 今回は番外編として、訪ねてみることにした。

(ばくろう商売)
 「ここら辺はなあ、上の部落も下の部落もほとんど馬飼ってただ。この部落は昔は30軒くらいあっただが、8割がた馬飼ってたな。馬の産地は、長野か、北巨摩(現山梨県北杜市)に増富村ちゅうのがあるら、あそこらが多かったな。この部落には、乙事のおじさんが持ってきてた。うちのじいさんが、ここらでは一番でかいばくろうだった。 乙事のおじさんは、始めは身延高校のところの裏にいたばくろうのじいさんと商売してたが、その、じいさんが亡くなってからだな、門野へ馬持ってくるようになったのは。 長野から、子馬を運んできて、3年預けて、手間賃を払って長野の方へ運んで、そして馬のほしい人に売るっちゅうのがばくろうの仕事だな。 うちのじいさんが、その口利きをしてたちゅうこんだ。 何で、こっちのほうとつながったかは、よくわからんな。まあ、長野の衆は、子取りがうまかったちゅうこんずら。ここらじゃなんでか子取りはできなんだな。 そういうことは下手だった。そうそう、一度乙事のおじさんとこへは、行ったことがあるだぞ。終戦のころ、こっちでも、ジャガイモの種がなくてな。あっちへ行って、種買ってしょってきたことがあるよ。せがれ(名取さんのこと)は、俺とあまり変わらん年だが、えらく威勢のいい大将だったぞ。」

 このお話をしてくださったのは、身延町門野に住む佐野さんだ。門野は、甲府と清水をつなぐ国道からが3キロほど入ったところにある、谷あいの急斜面に張り付くような集落だ。集落の入り口の家で、道をたずねたのだが、その時に庭に豆が干してあり、その中のひとつが大変気になっていたので、帰りにそのお宅によっておかあちゃんにお話をうかがった。

(じゅうろくささげ)
 「うちでは、白いものと、うずら縞の2種類を作ってます。ここらではインゲンのことを“じゅうろくささげ”とか“じゅうろく”って言うですが、うちで作ってるものは、秋に取れるので“あきじゅうろく”って言います。この縞のほうですか? これは祇園のころ、7月の15日すぎですか、その頃に播いて、霜の降るころにとります。 鞘も食べますよ。モロッコいんげんなんかよりなんかこう“こく”があっておいしいです。へ~そうですか、長野にもこれと同じものがあるんですか? つる性で、熟すと鞘に赤い筋模様が入って、豆には白っぽいのと紫っぽいのが混ざって、普通のインゲンより小ぶりで・・・じゃあまったくおんなじですねぇ。 私はこれを、嫁に来たときに、近くのおばさんからもらったんです。収量は少ないんだけど、おいしいから、ずっと種取りしてます。身延でも他で結構作っていますよ。」

 そうなのである。なんと、このお宅で作っていたのは、あの乙事や富士見のあちこちで作られている“乙事ささげ”とか“乙事みつむね”と呼ばれている豆と、瓜二つの豆だったのだ。豆の姿はもちろん作型、特徴などから、まったく同じものと言っていいと思う。これだけ離れている地域で同じものが作られ、古くから馬を通したつながりがあったという状況証拠もある。どちらが先かはわからないが、あきらかにどの時代かにこの豆が伝播し、それが双方の地域で作られ続けているということだ。一粒の小さな種の中に、ばくろうが馬を追う姿が見えるような気がする。種は貴重な文化財という思いを強くして、門野を後にした。
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