清河八郎がお蓮の死を知るのは、9月も半ばを過ぎてからだった。出羽の国の国境の川渡(かわたび)まで来ていた八郎は、9月20日夜、その知らせを親類筋から受け取る。
愕然とし、やがて嗚咽し、男泣きに泣いた。
と思う。このときの八郎の様子を小説風に描写したくなる誘惑をおさえて、彼が母に宛てた手紙、お蓮に言及した切々とした内容の手紙なのだが、その一節を引用しておこう。大川周明がそうしたようにである。彼の心情は彼自身の言葉によく表現されているからである。
「さて又おれん事、まことに悲しき憐れのこと致し、残念限りなく候。(略)まことに悲しき事致し申し候。(略)果敢なくなりてまことに残念に御座候。(略)なにとぞなにとぞ私の本妻と思召し、朝夕の回向御たむけ、子供とひとしく思召し下されたく、繰言にも願い上げ申し候。
私ひそかに清林院貞栄香信女とおくり名いたし候故。くりことにも私の本妻同前に思召し、御たむけのほど偏へに願い上げ申し候。もことに評判よろしく。たとひ果てても嬉しく候へ共、憂目にて死にしこと悲しく限りなく候」
お蓮の評判がよかったというのは、獄吏の責め問いに屈せず、凛とした態度を保っていることが評判になっていたからであろう。
この手紙で、八郎はお蓮の母親のことにも思いをはせ、十両を渡すようにはかってくれと依頼している。
そして手紙にはお蓮を詠った和歌も添えた。
さくら花たとひ散るとも壮夫(ますらお)の
袖ににほひをとゝめざらめや
季節は秋であるから、たとえば、
秋ふけて寒さぞわかる山里の
きのふの露は今日の白霜
という歌もお蓮を悼む一首であったが、お蓮はやはり桜の花のようであらねばならなかった。
愕然とし、やがて嗚咽し、男泣きに泣いた。
と思う。このときの八郎の様子を小説風に描写したくなる誘惑をおさえて、彼が母に宛てた手紙、お蓮に言及した切々とした内容の手紙なのだが、その一節を引用しておこう。大川周明がそうしたようにである。彼の心情は彼自身の言葉によく表現されているからである。
「さて又おれん事、まことに悲しき憐れのこと致し、残念限りなく候。(略)まことに悲しき事致し申し候。(略)果敢なくなりてまことに残念に御座候。(略)なにとぞなにとぞ私の本妻と思召し、朝夕の回向御たむけ、子供とひとしく思召し下されたく、繰言にも願い上げ申し候。
私ひそかに清林院貞栄香信女とおくり名いたし候故。くりことにも私の本妻同前に思召し、御たむけのほど偏へに願い上げ申し候。もことに評判よろしく。たとひ果てても嬉しく候へ共、憂目にて死にしこと悲しく限りなく候」
お蓮の評判がよかったというのは、獄吏の責め問いに屈せず、凛とした態度を保っていることが評判になっていたからであろう。
この手紙で、八郎はお蓮の母親のことにも思いをはせ、十両を渡すようにはかってくれと依頼している。
そして手紙にはお蓮を詠った和歌も添えた。
さくら花たとひ散るとも壮夫(ますらお)の
袖ににほひをとゝめざらめや
季節は秋であるから、たとえば、
秋ふけて寒さぞわかる山里の
きのふの露は今日の白霜
という歌もお蓮を悼む一首であったが、お蓮はやはり桜の花のようであらねばならなかった。
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