小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

清河八郎暗殺前後 17

2014-06-16 10:27:10 | 小説
 八郎が暗殺される12日前即ち文久3年4月1日、金子與三郎が八郎に宛てた手紙がある。
 ふたりの関係を知る上でも貴重な手紙であるが、今年3月に刊行された庄内町史資料集第2号『清河八郎関係書簡 二』所収の「読み下し文」全文を以下に引用する。


「書中を以って申し上げ候、然らば、新井式部 親病死に付き、在所へ引き戻し申し度由、尤も、同人帰府前、拙寓右住所より追々迎いの人参り申し候、右に付き山岡君へ御談し下され。明朝にも帰郷致し候様、御取り計り下され候、委細は同人よりお聞取り下され候、
 一昨日は御尋ね下され謝奉り候、山岡君へよろしく御伝晤下され候様願い奉り候、明日は多分参上仕り候積りに御座候
                           頓首拝

 四月一日                               」 


 一昨日はせっかく訪問してくれたのに留守にしてすまなかった、とあるように、日頃から八郎が金子の家を行き来していたことがわかる。
 さらに「山岡君へよろしく」とあるように、金子が山岡鉄太郎(鉄舟)と交流のあったこともわかる。
 あるどころではない、この手紙に出てくる新井式部は、浪士組の一員であった。「浪士組名簿」の5番組に、その名がある。山城国(京都)出身の、まだ18歳の若者であるけれど、どうやら金子が面倒をみていたらしい。
 ここでの金子は、あたかも浪士組の後援者のような立場で、新井の親が病死したので京都に帰らせてやりたい、その旨、山岡にも伝えてくれと八郎に頼んでいるのであった。
 この浪士組後援者のような金子の立場を、鉄舟の義兄の高橋泥舟が知らないはずはない、と思うが、泥舟のあの冷たい金子評はなんだろう。
 ともあれ八郎暗殺の真相の焦点をぼかすために、泥舟は姑息な談話を残しすぎた。