相楽総三は、文久3年の桃井可堂(深谷の吉田松陰ともいわれる)の赤城山挙兵、そして翌年の元治元年の水戸天狗党の筑波山挙兵にそれぞれ参加していた。関東における尊王攘夷の挙兵(注)であるが、いずれも挫折している。
むろん相楽は、これらの事件では脇役でしかない。とりわけ筑波山の挙兵では、水戸の内部抗争の実態に嫌気がさして戦線を離脱している。しかし相楽は、つまり青年小島四郎は、こうした過激な政治行動に参加することによって、したたかな尊攘派の草莽の志士として頭角をあらわしてゆく。
相楽総三と薩摩藩の接近に、一役かったのは土佐の板垣退助であった。ふたりは、たぶん江戸で知り合っているのだが、慶応3年の相楽の上京で、薩摩藩との関係は決定的なものになった。
相楽について後に板垣退助はこう語っている。
「それから薩摩に附くか土佐へ附くか、元土佐邸に居ったものであるがどちらに附くかと云ふ話で、当人の望に任せやうと云ったら、私は薩摩に附くと云ふ、それから薩摩の方へ附いて居た」(『板垣退助 大政返上建議前予が西郷君に於ける討幕の密盟〈抜〉『史学雑誌』大19編第9号所収)
「私は薩摩に附きます」といったのが相楽である。京都では最初は土佐藩邸にいたらしいことがわかる。
おそらく、相楽は板垣とすでに江戸において知り合いだったはずだ。平田国学の塾では、土佐藩士もおり、先に引用した平田延胤の日記には、板垣退助の名も「乾退介」として登場するからである。
(注)長谷川伸は『相楽総三とその同志』の「自序」で、「関東は徳川幕府の勢力地域で、日本の西は討幕、東は援幕と印象づけられがちだが、その二ツとも実相ではない」と書きつけている。たしかに関東でも討幕運動はあったのである。
むろん相楽は、これらの事件では脇役でしかない。とりわけ筑波山の挙兵では、水戸の内部抗争の実態に嫌気がさして戦線を離脱している。しかし相楽は、つまり青年小島四郎は、こうした過激な政治行動に参加することによって、したたかな尊攘派の草莽の志士として頭角をあらわしてゆく。
相楽総三と薩摩藩の接近に、一役かったのは土佐の板垣退助であった。ふたりは、たぶん江戸で知り合っているのだが、慶応3年の相楽の上京で、薩摩藩との関係は決定的なものになった。
相楽について後に板垣退助はこう語っている。
「それから薩摩に附くか土佐へ附くか、元土佐邸に居ったものであるがどちらに附くかと云ふ話で、当人の望に任せやうと云ったら、私は薩摩に附くと云ふ、それから薩摩の方へ附いて居た」(『板垣退助 大政返上建議前予が西郷君に於ける討幕の密盟〈抜〉『史学雑誌』大19編第9号所収)
「私は薩摩に附きます」といったのが相楽である。京都では最初は土佐藩邸にいたらしいことがわかる。
おそらく、相楽は板垣とすでに江戸において知り合いだったはずだ。平田国学の塾では、土佐藩士もおり、先に引用した平田延胤の日記には、板垣退助の名も「乾退介」として登場するからである。
(注)長谷川伸は『相楽総三とその同志』の「自序」で、「関東は徳川幕府の勢力地域で、日本の西は討幕、東は援幕と印象づけられがちだが、その二ツとも実相ではない」と書きつけている。たしかに関東でも討幕運動はあったのである。