小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

軍国美談のその後  8

2005-10-31 22:01:45 | 小説
 昭和20年6月に奉天駅の駅長室で、杉野と出会ったという情報将校がいた。しかも4時間も話し込んだらしい。この情報将校すなわち第三航空部隊の経理委員だった他谷岩佐氏によれば、杉野は満州事変以来、特務機関に属し、宣撫工作をしたり情報蒐集を担当していたらしい。もっとも、北満つまり新京から北は別の人間が担当、それがかの児玉誉士夫だったというから、杉野は児玉誉士夫とも、あるいは面識があったかもしれない。
 他谷氏が杉野の生存を知ったのは、日用品を調達している現地の部落長を通じてである。その部落長は、もうすぐ日本が敗けるといっている日本人がいると他谷氏に教えた。聞き捨てならぬことを言う奴だ、その人物に会わせろといったら、それが杉野だったのである。
 事実、その2ヵ月後に日本は敗けた。
 ただ、この「杉野」は白髪の老人ながら、身長は1メートル70センチはあったという、のが解せない。さきの看護婦の口述「背の低い小柄な老人」という形容とあきらかに矛盾するのである。オーラルヒストリーでは、しばしばこういう矛盾はありうる。とはいうものの、なんとなく釈然としないものは残る。残るけれど杉野が特務機関にいたということは、やはり事実らしく思われる。
 さて、杉野は旅順港出撃のおり、すでに辞世の歌2首と句一首を作って、父親に送っていた。遺言のようなものだ。句のほうを先に紹介すると、
   死ぬは今 地獄の門の出来ぬ間に
 歌のほうは、
   身はうせて海のもくずと化するとも たましいのこす とつくにの浦
 と、次のもう1首。
   国のため ととせのむかし死する身の今日ありしとは思はざりけり
 日露戦争にさきだつ10年前の日清戦争にも杉野は従軍していた。ほんとうはそのとき死ぬつもりだった。日露戦争まで生き延びたのが不思議だといっているのである。しかし、彼はまたしても生きた。ただし表向きは〈死する身〉となってである。彼は国のために特務機関に属して生きたわけだが、軍神として彼の生を抹消したのは、その国ではなかったのか。
 今日ありしとは思はざりき、一度そんな歌を詠んだら、次はいったいどんな歌を詠めばよいのか、兵曹長杉野孫七のその数奇な運命をうまくしめくくる言葉が、私には思いつかない。


軍国美談のその後  7

2005-10-30 15:34:02 | 小説
 甘粕正彦という男がいた。甘粕大尉といったほうがわかりやすいかもしれない。関東大震災の混乱時にアナーキストの大杉栄と妻の伊藤野枝および甥の少年を殺害した人物として有名である。
服役後なぜかフランスに渡り、昭和4年帰国、右翼の大川周明の手引きで今度は満州に渡り、特務機関を作った。
 満州は、昼は関東軍が支配し夜は甘粕が支配した、といわれたほどの黒幕だ。表向きは満州映画協会の理事長だった。その甘粕のもとに杉野はいた、というのである。
 甘粕から杉野を紹介されたという人物がすくなくとも二人いる。ひとりは看護婦(これも表向きで実は特務機関に属した女性)、もうひとりは関東軍情報部にいた人間である。いずれも杉野に会ったという記録を残している。
 甘粕には杉野を紹介することで相手がびっくりするのを面白がるといった茶目っ気があったようである。「珍しい人物にあわせてやろう」という甘粕のはからいで、ふたりは新京(長春)の郊外の満人の家で杉野に会っている。背の低い小柄な老人だった、と看護婦はその印象を語っている。
 ところが杉野とこのとき会った二人の人物の記録では、杉野はロシア側に救助され、捕虜になっていたという。ポーツマス条約の締結後に釈放されたというのだが、捕虜交換の記録に杉野の名はない。二人の会見談には杉野がどんなことを語ったか詳細はない。おそらく、杉野は言葉少なく、というより自らはほとんど口をきかなかったのではないかと思われる。
 私は中国人の漁師に助けられたという話の方を信じたい。在満の軍人たちの間では情報源のわからぬまま杉野が満州で生きているという話はかなり広がっていたらしいが、その噂ではロシアの捕虜にになったとされているから、そのことが杉野の会った人物たちの記憶に投影されていたのではないか。
 それにしても、杉野は甘粕のもとでいったいどんな影の仕事を請負っていたのか。


軍国美談のその後  6

2005-10-23 21:40:44 | 小説
閉塞隊記念碑の前で泣いた杉野修一は、このときのことを母宛の手紙のなかで知らせたらしい。母、つまり杉野兵曹長の妻の返信がある。
 3人目の子供を海軍に入れればとあって、母の手紙はこう続く。「この母はその日限り、目をつむっても残り惜しいこともなく、また地下で父上にお目にかかっても恥ずかしさに顔をあからめることもない。これからはお前の心ひとつ、いつまでも旅順で父上のご戦死のあとを弔ったときの心持を忘れないで、世間の人から、『さすが勇士杉野の子よ』といわれるように心掛けてください。(略)お前の手紙を見て、ただひとつの恨みは、母もお前といっしょにその場にいて、父上のために泣くことのできなかったことである」(文字使いは原文どおりではない)
 胸にじんとくる手紙である。
 この妻と長男の手紙のやりとりから、私は杉野生存説は信じても、杉野の帰国を家族がこばみ、だから杉野が異国でさびしく余生を送ったという説を信じない。杉野は自分の生きていることを電報で知らせ、釜山あたりまで家族を呼び寄せたが、そこで戦死者となっている事実を知り、さらにマスコミに喧伝された人物となっていることも聞かされ、家族の懇願を聞きいれて帰国をあきらめたという説があるのだ。
 私は杉野は自分の意思で帰国をあきらめたと思う。みずから無国籍者として生きる道を選んだのである。
 杉野はやがて現地の女性と結婚して、子供も3人いたらしい、という。すると大分合同新聞の伝えたように、日本に帰ってくることはありえなかったと思う。彼は葫藘(コロ)島で生涯を送ったもののようだ。
 ところでなんという偶然だろう。長男の修一は、のちに旅順海軍基地に勤務している。第二次大戦のおりだ。杉野とその長男は戦時中、すぐ近くに住んでいたことになるのだ。けれども、たとえ道ですれ違っても、親子は互いを識別することができなかったであろう。
 杉野は国家からの棄民となった。その杉野が特務機関で、もう一度、国のための黒子となる。

(次の回まで、少し間をおきます)

軍国美談のその後  5

2005-10-21 07:11:51 | 小説
 杉野にもっとも生きていてほしかったのは、その家族たちであったはずだ。しかし、杉野が生きていてもっとも困る立場になるのも、その家族たちだった。杉野は郷土の英雄となり、山本海軍大臣から特別に700円が贈られ、その金で墓が立てられ、遺児の養育費にもあてられていた。なにしろ杉野が原因で軍神廣瀬中佐は戦死しているのだ。
 杉野は廣瀬中佐より1才か2才年上だった。ほぼ同年輩といってよい。出撃前に杉野が妻宛にしたためた手紙がある。
 自分が死んだら、東京で車夫をしている父に相談して故郷の三重県津市に引き込み、残された3人の「子供を世に出るまでいなかで教育せよ」と書いている。この時代、杉野は子育てには都会は向いていないとみなしていたようだ。それはともかく、こう続けている。「其内一人は廣瀬少佐へ高等小学校ののちあづけて海軍軍人にしたててもらうのだよ、なきあとは海軍職員緑を見ればあの人のつとめさきが知れる」つまり、これは遺言である。
 3人の遺児のうち、ひとりは必ず海軍軍人にしろ、しかも海軍職員録で探してでも廣瀬のもとに入れろというのだから、杉野の廣瀬に対する心酔ぶりがうかがいしれる。
 廣瀬の福井丸での行動を見ても、廣瀬もまた杉野とは海軍での序列を別にして、固い友情で結ばれていたのだと、いまさらのようにわかる。廣瀬は行方不明者が杉野だからこそ、あの状況下で三度も彼を捜索し、脱出のチャンスを失って敵弾を浴びたのであった。
 杉野の遺志をついで、長男の修一は海軍兵学校に進んだ。
 そして、海軍士官候補生の頃、旅順港の閉塞隊記念碑の前で、他の軍人たちと一緒に、例の「廣瀬中佐」の歌をうたわされる。
 彼は気の進まぬまま歌っていた。それはそうだろう、自分の父の名が歌詞にある。照れくさくもあっただろう。だがしかし、〈杉野はいずこ〉のところにきて、のどをつまらせた。やがてこらえかねて、声を放って泣いた。

軍国美談のその後  4

2005-10-20 00:05:31 | 小説
 大分合同新聞は昭和22年11月10日付けで、ほぼ一年ぶりに杉野生存説を再びとりあげる。「杉野兵曹長が確実に生存 ソ連日本語紙に会見記」という見出しだ。
 
 シベリア、イマン地区から帰還した元陸軍薬剤大尉深川清氏(岐阜県岡町出身)は、旅順港閉塞隊杉野兵曹長の生存について、このほど岐阜で次のとおり語った。
「数千の樺太庁警察官と憲兵は、ゲ・ペ・ウの厳重な監視の下で作業をしている。杉野兵曹長が生存しているといううわさは度々聞かされていたが、その後ハバロスク市で発行の日本新聞に、確実に生存している写真を掲げて日本人記者との会見記事まで載せていた。
 会見記によると「旅順港口で人事不省ににおちいっていたが、ロシア人に救けられて近くの島で暮らしていた。戦後一たん帰国を決意したが、内地で自分が軍神にされていることを伝え聞き帰還を断念した。年はとったがまだ元気で、日本の移り変わりに驚いている。

 残念ながら、このハバロスクで発行されていたという日本新聞の記事は発見されていない。
 ともあれ、旧満州で杉野と会ったという人物が何人かいるわけで、ノンフィクション作家の林えいだい氏は、その人物たちを追跡し『日露戦争秘話 杉野はいずこ/英雄の生存説を追う』(新評論)という一本をものにしている。杉野生存説を検証する上で、避けて通れない好ルポルタージュだ。林氏の渉猟した史料や文献に、この稿も準拠している。というか、林氏の本のダイジェスト版みたいになりそうであるが、書きついでいるうちに私なりの発見があればうれしい。
 さて、杉野の生存説が取り沙汰されるにつけ、遺族はいったいどんな思いにとらわれたであろうか。


軍国美談のその後  3

2005-10-19 06:29:56 | 小説
 新聞の見出しはタテ3段抜きで、さらにヨコ見出しで「近く43年ぶりに内地へ」とある。記事の内容は次のようなものである。

 杉野は日露戦争で死んだわけではなく、生存していて満州の某収容所で引揚邦人の世話をしている。76才になっていて、頭もすっかりはげて身体も衰弱しているが、生きていた。旅順港閉塞作戦のおり、身近で炸裂した弾丸のため船から海中にはね飛ばされて漂流し、やがて中国人に助けられた。その後、中国人に交じって生活をしていたが、日本では名誉の戦死者あるいは英雄視されているので、いまさら帰国もならず、そのまま44年間淋しく暮らしてきた。しかし、次の引揚船で帰国するらしい。

 このことを新聞記者に伝えた人物は、残念ながら杉野に直接会っているわけではない。又聞きであった。又聞きを記事にするには勇気がいる。おそらく、記者には杉野生存説を信ずるに足る職業的な勘がはたらいたのであろう。私の目にした史料では杉野は1866年(慶応2年)生まれと、先に引用した「日露戦争の事典」の1867年生まれのふたとおりの生年があるけれど、いずれにせよ昭和21年に76才というのでは、実際より2才か3才若くなってしまう。こんなところも、記事そのものの詰めは甘いのだが、伝聞の誤差をそのままに書いたのかもしれない。
 しかしその後、引揚船で杉野が帰ってきた形跡はない。そんなわけで、この記事のことは忘れられてしまった。
 ところで、収容所というのは日本人が2万人近くいた葫蘆島付近の錦西の収容所のことであるらしい。収容所で、杉野に会ったという人物は少なくても二人いて、その二人が「実におどろくべき人間に会った」と収容所にいた仲間にしゃべったのは事実だった。
 

軍国美談のその後  2

2005-10-18 00:05:27 | 小説
旅順港口閉塞作戦というのは、ロシア艦隊を旅順港に封じ込めるため、港口に閉塞船を沈めようというものであった。一回目の作戦では5隻を発進させたが、予定位置で爆沈させたのは二隻のみ。失敗だった。二回目の作戦で4隻が出動、そのうちの1隻に廣瀬中佐と杉野が乗組んでいたのである。
 杉野は閉塞船の前甲板で爆破装置を操作する係だった。船を爆破して沈没する寸前に閉塞隊員たちはボートに乗り移って脱出という、危険極まりない任務を遂行しなければならなかった。その脱出寸前の点呼に杉野だけがいなかった。敵の魚雷が命中したときに、舷外に放り出されたようなのだ。船は杉野が前船艙を爆発させる前に敵の魚雷で爆発したのである。
 東郷聯合艦隊司令長官報告の「第二回旅順閉塞広報」に、こんなくだりがある。
「戦死者中、福井丸の廣瀬中佐及び、杉野兵曹長の最後は頗る壮烈にして。同船の投錨せんとするや、杉野兵曹長は爆発薬に点火するた為船艙に下りし時、敵の魚形水雷命中したるを以て、ついに戦死せるものゝ如く」
 微妙な言い回しではないか。「戦死したものゝ如く」なのである。廣瀬中佐は杉野を探しまわったが見つけられなかった。公報の杉野が船内にいて戦死というのは、おかしいのだ。甲板にいたと推論する方が妥当なように思われる。
 実は杉野はこのとき死んではいなかった。杉野生存説は、ここから始まる。
 明治の話が大正を飛び越して、昭和によみがえった。昭和21年12月1日、大分合同新聞は「杉野兵曹長が生存、満州の収容所で引揚邦人の世話」という記事を載せた。日露戦争時の軍国美談の登場人物は太平洋戦争の戦後に、ふたたび登場したのだ。

軍国美談のその後  1

2005-10-17 01:01:36 | 小説
「廣瀬中佐」という文部省唱歌があった。戦後に教育を受けた私などは、小学校でその歌を唄わされることはなかったから、むろんメロディは知らない。歌詞は、こんなふうに始まる。

 とどろくつつおと 飛び来る弾丸
 荒波洗うデッキの上に
 やみをつらぬく中佐の叫び 
 「杉野はいずこ、杉野は居ずや」

 歌詞の中の杉野とは、杉野孫七のことである。
 原田勝正監修『日露戦争の事典』(三省堂)で、「杉野孫七」の項をひくと、以下のように記述されている。
「1867~1904。三重県出身。小学校教員、巡査をへて1886年海軍二等水兵となる。日露戦争では上等兵曹で、第2回旅順港閉塞作戦に志願して福井丸に乗組み、戦死。福井丸指揮官の廣瀬武夫少佐が杉野の姿が見えないのに気づいて「杉野、杉野」と探し求めた話は軍国美談として有名」
 廣瀬少佐は沈みかけた福井丸から脱出のさい、杉野を三度探しにいって、脱出のタイミングを失した。敵弾をうけて一片の肉塊をボートに残したまま死ぬのである。
 その部下思いの勇気ある行動から軍神とたたえられ、死後に中佐に昇進、功三級金鵄勲章および年金700円、勲4等旭日綬章を授けられた。
 杉野もまた勲7等海軍兵曹長に昇進、年金200円がさずけられた。むろん、遺族に対してである。
 さてところが、戦死とされた杉野は行方不明のまま、遺体が確認されていない。それどころか、生存説がある。

閑話休題

2005-10-13 14:05:18 | 小説
 日本海海戦勝利の日が、地久節つまり昭憲皇太后の誕生日に当たっていたことに気づいたのは、ブログを書き進めている途中であった。海戦の始まった日が海軍記念日に制定されたことも、ちょっとした驚きだった。「皇后の夢と龍馬」の最初の部分は、高知の龍馬研究会会報『龍馬研究』NO.119(平成11年1月25日発行)に寄稿した「『皇后の夢』の真実」が下敷きになっている。この小論文は時事新報の記事の日付に力点をおいたものだったから、それはそれでよかったのであるが、これを書いたとき日本海海戦に思いが及ばなかったことを、いま悔やんでいる。
『龍馬研究』の寄稿にはいきさつがある。時事新報の記事のコピーを、京都在住の龍馬研究家西尾秋風氏にお送りしたところ、西尾氏は当時の『龍馬研究』の編集長坂本美津子氏に私のことを話され、ある日、坂本氏から私宛に連絡が入って寄稿の運びとなったのである。(これを契機に龍馬研究会の会員になった)時事新報の記事の掲載日というのは、ご存じない方が多かったのである。
 さて、その問題の時事新報の記事の隣に「故広瀬中佐の家庭」という記事のあることは既述のとおりである。広瀬中佐はすでに軍国美談の主人公になっていたのだ。マスコミは広瀬中佐の詩などもとりあげて話題にするようになるが、夏目漱石はその詩を酷評していた。こんな下手な詩など書かずに黙って死んでくれればよかったのに、とまで言っている。なにもそこまで言わなくてもと中佐に同情したくなるほどだ。おそらく、漱石の鋭敏な嗅覚は広瀬中佐をめぐる軍国美談に、ある種のうさん臭さをかぎつけたに違いない。そのせいで、中佐の詩に辛く当たったのであろう。
 いずれにせよ、この軍国美談には驚くべき後日談がある。次から、そのことを書いてみる。

皇后の夢と龍馬 -13-

2005-10-07 21:58:50 | 小説
日本海海戦の勝利の報は、その日のうちに宮中にも届いた。豊明殿ではまさに祝宴の最中であった。参内している宮妃たちは祝酒を飲んでいたのである。むろん、海軍の勝利をあらかじめ予想しての祝宴であろうはずはない。5月28日、この日は何の日であったか。
 思い出していただきたい。この日のちょうど一年前、明治37年5月28日付けの萬朝報の記事を前に引用しておいた。書き出しの部分で、皇后の夢枕に立った龍馬のことに触れている記事だ。題は「地久節と日本の女性」
 この日は、皇后の55才の誕生日だったのである。老子の言葉「天長地久」に由来する「地久節」の日だ。(いうまでもなく天皇の誕生日が天長節)だから、地久節祝賀の宴がはられていたのである。そのさんざめきの最中にニュースが飛び込んできたのだ。「バルチック艦隊撃滅」の事実を式部官が伝えるやいなや、豊明殿は「万歳、万歳」の歓声に包まれて騒然となった。
 日露戦争の帰趨を決めた日本海海戦勝利の日が、皇后の誕生日にあたるとは、なんというめぐり合わせだろう。皇后の夢枕に立った龍馬のことを、人々はいまさらのように思い出したに違いない。皇后が龍馬の夢を見た不思議よりも、皇后の誕生日に日本海軍が勝利したことほうが、私にはもっと不思議な暗合に思われる。あたかも皇后が予知能力を持った古代の巫女的女性のようにすら思えてくる。
 さて、龍馬と海軍を結びつけた皇后の夢は、龍馬とすくなくても海援隊のことを知っていなければ、見ることのあたわぬ夢だった。慶応4年4月という早い時期に、政府に海軍創設の建白書を提出したのは長岡謙吉だった。シーボルトに医学を学んだ医学者にして、海援隊士。龍馬とは遠いながらも親戚関係にあり、龍馬の書記役であった。海援隊の約規草案も彼の手になるものだった。龍馬の死後、新海援隊隊長となり、海軍創設を建白したのだ。
 それにしても、夢の中の龍馬はよくぞいったものである。「身は亡き数に入り候へども魂魄は御国の軍艦に宿りて忠勇義烈なる我軍人を保護仕らん」
 そのとおりになった。


*この稿は終わりますが、あとがき的なものを書きたい気分です。ともあれ、少し間をおきます。 
 

皇后の夢と龍馬 -12-

2005-10-06 20:00:04 | 小説
 ところで、日露戦争の趨勢は日本海海戦で決まった。日本海軍の勝利だったのだ。この歴史的事実ほど私たち日本人のナショナルな心情をゆさぶるものはない。
 その日午後1時39分、連合艦隊司令長官東郷平八郎の双眼鏡は、バルチック艦隊の艦影をはっきりととらえる。その16分後、旗艦三笠のマストにZ旗があがったのである。
「皇国ノ興廃此ノ一戦ニアリ各員一層奮励努力セヨ」を意味する信号旗だった。それからの戦闘状況はあまりにも有名だから、くだくだしく書く必要はないだろう。海戦は日を越して、翌朝には連合艦隊が残存バルチック艦隊を攻撃した。ロシア艦はもはや応戦できず、降伏信号を掲げ航行を停止、日本海海戦は終わったのであった。
 この日のニューヨーク郊外に話は飛ぶ。伊藤博文の秘書官で渡米していた金子堅太郎は、夜遅くホテルに帰ると、玄関に入るやいなや、待ちかねていたホテル従業員から電報を手渡される。居合わせた客たちが、その電報を読み上げろと催促したらしい。金子は声に出して読んだ。日本海における日本艦隊勝利を告げる電報だった。居合わせた人々は感嘆の声を上げ、拍手喝采をして勝利を祝ってくれた。
 金子は日露開戦直後数日を経ずして、対日友好感情を喚起するための工作員として、アメリカに来たのであった。ハーバード大学卒の彼は、ルーズベルトと同窓生だったからである。事実、金子が郊外の保養地からニューヨークの宿泊先に戻ると、大統領ルーズベルトから祝電が届いていた。
 渡米の前だった。彼は葉山の別邸にいた妻子のもとに別れを告げるため訪れている。金子の別邸は、皇后の滞在していた御用邸に隣接していた。案の定、皇后はこのとき、金子に会っている。「国のためにつくしてほしい」と金子を激励しているのだ。当初、金子が渡米を渋っていたことも知っていたのであろう。
 さて、皇后はそのとき、例の龍馬の夢の話を金子にしたのではないだろうか。日本海軍はきっと勝つと、夢のなかの龍馬がうけおったのだと。
 

皇后の夢と龍馬 -11-

2005-10-05 20:50:46 | 小説
 日露開戦を決定した明治37年2月4日の御前会議で、天皇は「今回の戦は朕が志にあらず」と発言されたと伝えられている。のみならず、涙を流して開戦をためらう様子を見せ、この日以降は眠られぬ夜が続いたという。皇后が龍馬の夢を見たのは2月6日の夜のこととされている。片野真佐子は『皇后の近代』(講談社選書メチエ)にこう書いている。つまり、眠れなかった天皇とは対照的に「夢を見たというのだから、美子は眠れないということはなかったのだろう。なんとも剛毅な皇后である」
 これを読んで、私は不謹慎にも笑ってしまった。なるほど、そういう言い方もできる。
 皇后は明治天皇よりも年上だった。天皇は皇后に「天狗さん」とあだ名をつけたらしいが、その意味は、皇后の鼻っ柱の強さ、片野真佐子の言う剛毅さにあったかもしれない。皇后にこんな歌がある。

むつまじき中州にあそぶみさごすら
 おのずからなる道はありけり

 つまり皇后は天皇べったりではないのである。前述の「西郷隆盛」のお題の和歌でもしかり。天皇とは仲むつまじくしていても、私には私の道がありますよと、宣言しているのである。その皇后はタバコ好きだった。なにかの公式の場で、タバコをすわれようとした皇后を目撃した夏目漱石は、嫌悪感をあらわにした文章を残していたと記憶しているが(出典を思い出せない)、いいじゃないのよ、と現代の私などは思う。
 皇后の伝記を調べているうちに、はたと思い至ったことがある。もう一度、不謹慎をかえりみずに書けば、このようなタイプの女性をもっとも好んだ人物は、誰でもない坂本龍馬だったということだ。
 その龍馬好みの女性の典型ともいえる、かっての一条家の姫君が、龍馬の夢を見たのである。なんという不思議な感応。
 

皇后の夢と龍馬 -10-

2005-10-04 22:02:40 | 小説
 よく知られているところだが、皇后は新時代の女子教育に強い関心を抱いておられた。明治18年1月、学習院は女子部を分離させ、11月には四谷仲町に華族女学校として新しくスタートさせている。皇后はその開校式で令旨をくだしているが、この華族女学校は赤坂仮御所に隣接していたから、皇后はほとんど庭伝いに行啓されている。授業の視察ばかりではない、おしのびということが幾度かあったという。校長との談話を楽しみのおしのびであったと思われる。
 その校長とは誰か。ほかならぬ土佐出身の谷干城だった。
 谷は、西南戦争のおり、熊本鎮台司令長官として、西郷軍に包囲された熊本城を死守、勇名をはせた人物として、知られれている。しかし、私には谷干城といえば、龍馬暗殺の下手人探しに終生執着しつづけた男という印象が先に来る。谷は龍馬が近江屋で襲われた事件直後に駆けつけた者のひとりだ。現場の惨状を目撃しているのである。明治の晩年になっても、歴史を学ぶ若者たちに、龍馬暗殺の真犯人を探せ、と講演で話したことがあるくらいだ。
 龍馬の研究者のなかには、谷を龍馬暗殺犯は新撰組と決めつけた短絡的な男というふうに評する人がある。誤解されやすい面はあるが、谷はそんな短絡的な思考の持主ではない。ついでに書いておくけれども、龍馬暗殺の真犯人探しをするうえで、谷の講演記録は実に多くの示唆をあたえてくれるのだが、ほとんどの研究者がそこのところを見逃している。
 さて、私は谷の履歴で学習院院長というのは記憶していたが、新設の華族女学校の校長も谷だったとは気づかなかった。皇后が庭伝いに華族女学校を訪れていたと知り、なんだ谷と話をされていれば、龍馬のことが話題になって、なんの不思議もないではないかと思い至ったのである。

(更新の間隔があいたのは、パソコンのメンテナンスに手間取ったからです。この稿はもう少し続きます)