カブトビール屋

明治時代に半田赤レンガ建物で作っていた『カブトビール』の販売情報をお届けします

カブトビール復刻秘話 その五

2019年09月28日 | グルメ

 復刻『カブトビール』は、半田赤レンガ建物へ一人でも多くのお客様に来場いただき保存活動の機運が盛り上がるようにと赤煉瓦倶楽部半田が企画した商品です。自分達で言うのもなんですが、金儲けを考え企画したビールではないのです。半田赤レンガ建物で一本600円の復刻『カブトビール』を購入していただけると一本に付き50円が半田赤レンガ建物の保存活動に使われることとなります。赤煉瓦倶楽部半田は、これまでに半田市へ赤レンガ建物の保存と周辺整備のためにと合計200万円の寄付をしています。またリニューアルオープンの際には、カブトビールの大きな飾り棚を寄付しています。時々ビール売場で「兄ちゃん。よー儲かるなぁ。」と冷やかすあなた、違うんですよ。

 
 

カブトビール復刻秘話 その四

2019年09月24日 | グルメ

   復刻『カブトビール』には、どうしても譲れないこだわりがいくつもある。その一つが貯蔵期間90日間へのこだわりである。今のビールは、一週間待たずして製品として出荷される。明治時代は、90日間ビールを貯蔵したと文献にあった。何が何でも90日間必ず貯蔵してからしか出荷しない。このこだわりが『カブトビール』のコクと苦味とまろやかさを創出していると信じている。だから明日や明後日に『カブトビール』の注文をいただいても対応できないのである。どうか90日お待ちください。


カブトビール復刻秘話 その参

2019年09月16日 | グルメ

 復刻『カブトビール』は、地ビールと言われたくありません。確かに知多半島の地ビール会社が製造しているという意味においては、地ビールです。『カブトビール』を復刻する際、いろいろな所から『カブトビール』の文献を収集するとともに、明治時代のビールについても研究しました。そこで明らかになった製造工程や味・品質について忠実に再現したビールが復刻『カブトビール』なのです。あえて言わせていただければ“本格ドイツビール”と呼んでください。愛知万博の年に半田赤レンガ建物に来たドイツ人が言ってくれました。来日してから、日本で飲んだビールの中で一番ドイツのビールに近いと。でも当たり前なんです。半田赤レンガ建物(旧カブトビール工場)もドイツのケムニッツから輸入された部材が使用されていますし、『カブトビール』製造技術もドイツ人技師の手によるものですから。


カブトビール復刻秘話 その弐

2019年09月13日 | グルメ

 『カブトビール』の復刻にあたり、アサヒビールと色々情報交換をしていたこともあり、当初の製造委託をアサヒビールに打診した経緯がある。もちろん『カブトビール』の資本の流れを受け継いだのもアサヒビールであったこともあり・・。しかし、さすが大手メーカーである。数千本単位の注文には、対応しかねますとのこと。さて困った。そこに救世主のように現れたのが、知多麦酒㈱である。地元知多半島のメーカーでもあり、製造委託先として決まったのである。『カブトビール』は、「赤煉瓦倶楽部半田」が企画し、知多麦酒㈱が製造している商品なのです。


カブトビール復刻秘話 その壱

2019年09月10日 | グルメ

 復刻『カブトビール』は、何のために復刻されたのか知っておいて下さい。半田赤レンガ建物の保存団体である「赤煉瓦倶楽部半田」が、建物保存の機運が高まるよう、一人でも多くのお客様に半田赤レンガ建物へ来場していただくために動機付けとなればと考え復刻されたのが『カブトビール』です。ですから『カブトビール』は、半田赤レンガ建物以外では滅多に販売しないのです。赤レンガに興味がなくても『カブトビール』が飲みたいから、半田赤レンガ建物まで来てくれたあなた、そういうあなたのためのビールこそが『カブトビール』なのです。


カブトビール降臨!!

2019年09月05日 | グルメ

 昭和18年(1943年)にその歴史に幕を下ろした『カブトビール』は、平成17年(2005年)6月に復刻発売されることとなった。その製造工場であった半田赤レンガ建物(旧カブトビール工場)の保存活用のために活動する赤煉瓦倶楽部半田の手によって明治時代のビールの味が復刻されたのである。およそ半世紀ぶりの『カブトビール』の発売は、半田から「丸三ビール」が3000本初出荷されたことに習い、3000本の限定発売とした。あっという間に売り切れたことは言うまでもない。そのころから幻のビールと呼ぶ人も現れたそうな。


カブトビールの歴史の話 その五

2019年09月01日 | グルメ

 明治39年(1906年)『カブトビール』の製造会社である丸三麦酒株式会社が甲州財閥の根津嘉一郎に渡り、日本第一麦酒株式会社になる。 

明治41年(1908年)日本第一麦酒株式会社より加富登麦酒株式会社に社名変更する。 
その後、大正11年(1922年)大日本帝国鉱泉株式会社と日本製壜株式会社を合併し、日本麦酒鉱泉株式会社と改称し新たに『ユニオンビール』を発売した。 
昭和8年(1933年)当時全国の80%近いビールのシェアを占めていた大日本麦酒株式会社と合併する。
昭和18年(1943年)企業整備令の適用により半田赤レンガ建物(旧カブトビール工場)は閉鎖され、『カブトビール』の歴史に幕を下ろすこととなった。