カブトビール屋

明治時代に半田赤レンガ建物で作っていた『カブトビール』の販売情報をお届けします

カブトビールを飲める店 その弐

2013年12月31日 | グルメ
カブトビールは、保存活動の機運が盛り上がるように『半田赤レンガ建物』へ一人でも多くのお客様に来場いただくために赤煉瓦倶楽部半田が企画した商品です。そのため『半田赤レンガ建物』の公開日以外で入手することはなかなかできません。しかし、知多半島内には、カブトビールを飲めるお店があります。
知多半島で50年以上の歴史を持つ老舗の日本料理も西洋料理もある「山田家ベル」(半田本店)です。1階が座敷で日本料理、2階がレストラン形式で西洋料理をいただけます。このお店へ行ったら是非、江戸時代の寿司を復刻した「尾州早すし」と明治時代のビールを復刻した「カブトビール」でお楽しみください。なお、「尾州早すし」は予約が必要です。

カブトビールを飲める店 その壱

2013年12月30日 | グルメ
  カブトビールは、保存活動の機運が盛り上がるように『半田赤レンガ建物』へ一人でも多くのお客様に来場いただくために赤煉瓦倶楽部半田が企画した商品です。そのため『半田赤レンガ建物』の公開日以外で入手することはなかなかできません。しかし、知多半島内には、カブトビールを飲めるお店があります。
 最初に紹介するのは、畜産農家が育てた高級黒牛「知多牛」をより多くの方々に知っていただくために農家自らが運営している焼肉レストラン「黒牛の里」(半田店)です。おしゃれな雰囲気の中で知多牛の焼肉と幻のビールを味わうのは最高の贅沢です。でもお値段はとてもリーズナブルです。予約してから行くことをお勧めします。

広告とカブトビール その八

2013年12月29日 | グルメ
カブトビールの創業者の一人盛田善平は、その後「敷島製パン(現パスコ)」を起業するのだが、そこでも得意の宣伝がものをいうことになる。まだ自動車が珍しい時代、大奮発してフォードのトラックを購入し、白いボディに「シキシマパン」と大書し小売店を回らせた。まだトラックのボディに宣伝をいれるという発想の無い時代のことである。子供でも読めるようにとあえてカタカナ表記にしたという。またサーカス団から借りた象を先頭に街を練り歩いたりもした。こうした宣伝は、子供たちの人気を集めたことは言うまでもない。カブトビール同様にパスコの発展にも盛田善平のアイデアが不可欠であった。

広告とカブトビール その七

2013年12月28日 | グルメ
赤玉ポートワインの宣伝のために作られたポスターが日本で最初のヌードポスターといわれている。1922年(大正11年)発表のポスターである。同じ頃、カブトビールもおそらく日本で最初である水着の女性のポスターを発表している。しかも地元の知多半島の海岸を背景に描かれている。実は、モデルが誰だったかまでわかっている。しかし、この時代、女性が水着でモデルになるなどというのは大変なことであったようだ。カブトビールを作った知多半島の先人も偉いが、カブトビールのために一肌脱いだ先人も偉い。

広告とカブトビール その六

2013年12月24日 | グルメ
 昔のビールのポスターには、和装の女性が登場する。このスタイルを確立したのもカブトビールである。ポスターのモデルに明治41年(1908年)「文芸倶楽部」誌で「日本百美人」と題した芸妓の人気投票で第一位となった赤坂の芸妓『萬龍』を起用したのである。当時、日本一の美人と謳われた女性である。新聞に「萬龍物語」が連載され、三越のポスターにも登場し、その名は流行歌にも歌われたほどである。ただ残念だったのは、今ほど意匠権などがしっかり守られていない時代であったため、女性のデザインはそのままでカブトビールの名前が他の銘柄などに変えられポスターが作られることも珍しくなかったことである。

広告とカブトビール その五

2013年12月23日 | グルメ
カブトビールは、いち早く新聞への広告掲載を活用した販売促進も行いました。それも当時の新聞への広告は、ほとんどが文字ばかりであった時代に、ビールやカブトの図柄などデザインをともなった広告を掲載したことでカブトビールの名前は有名になりました。古いものでは、明治32年8月15日の神戸又新日報(こうべゆうしんにっぽう)にカブトビールの発売広告が掲載されています。明治33年には、佛国巴里大博覧会 金牌受賞 カブトビールの広告が全国の新聞を賑わせました。当時は、大手ビール会社の中では、新聞への広告掲載数は圧倒的にカブトビールが多かったそうです。

広告とカブトビール その四

2013年12月20日 | グルメ
 カブトビールは、いろいろな販売促進のための景品を考え出したことでも有名である。古くは、まだビールの栓がコルクだった時代に販売促進グッズとしてコルク栓抜きをカブトビールの名入りで出している。おそらく販売促進グッズを大々的に世にだしたのはカブトビールである。その後もホーロー看板や木製看板、大鏡、ビアグラス、ビアピッチャー、背中にカブトビール前に三ツ矢サイダーのロゴ入り法被などは言うまでも無く、掛け時計、皮製財布、小銭入れ、コースター、灰皿、お盆、変わったところでは手鏡まで販売促進グッズとして出しています。これらは半田赤レンガ建物の公開時に展示されていますので、是非、お越しください。

広告とカブトビール その参

2013年12月18日 | グルメ
カブトビールは、宣伝方法において大阪では東京とはがらりと変わった奇手を用いた。それは、幇間(たいこもち)を利用して座興のうちにカブトビールを宣伝したのである。当時、幇間は客の座興に茶番狂言の寸劇を演じたのだが、その幕切れに「勝ってカブトのビールを飲め」とビール瓶を高く振りかざして、大見得を切るなどの仕ぐさをするパフォーマンスを行ったのである。これが意外な宣伝効果を生み出し、関西地方の需要は急激に上昇し、キリン・サッポロ・アサヒなどの銘柄を圧倒するほどになっていくこととなる。

広告とカブトビール その弐

2013年12月17日 | グルメ
カブトビールは、東京における宣伝方法の一つとして広目屋(チンドン屋)を雇い、銀座の街頭や浅草界隈を練り歩かせるという新手を用いたのは有名な話である。ビールの宣伝にチンドン屋を利用したのは、これが日本で最初であったと言われている。創業者の一人盛田善平は、ビールをハイカラ人種のみの独占にしないで、一般大衆に愛される飲料とすることを狙いチンドン屋を利用したのである。

広告とカブトビール その壱

2013年12月16日 | グルメ
カブトビールは、後発のビールメーカーとしてアサヒ・キリン・エビス・サッポロの既存の4大ビールメーカーを追いかける立場にありました。当時はまだあまり宣伝だのPRだのに力を入れた時代ではなかったが、創業者の一人盛田善平の得意とした宣伝がものをいうことになります。丸三ビール(後のカブトビール)の名で新発売された時のことである。新発売とあってコルク栓(当時は、王冠でなくコルク栓であった。)10個に対して、ビール1本贈呈というサービス付で大々的に売り出されたということです。