風呂敷(480)2018長月 18-07作成
どうしたんでしょう?
9月5日を過ぎた頃から うそのように涼しい…。
今 柳 広司の「風神 雷神」上下を読んでます。
その 下巻を読んでいると
「あっ、と宗達は声を上げた。
頭の中に屏風絵が浮かんでいた。
…中略…宗達はばたばたと慌てて作業場に駆け込み、
頭の中の絵を紙の上に移す描いた。
絵筆を持った手を動かしながら、
宗達は自分でも何だか自分で描いているような気がしなかった。」
…これまさしく 私と同じ。そっか~。似たような描き方をしている人って
結構いるんだ。
頭の中にあるすでにできた点や線を 塗りつぶしているだけ。
だから私には 絵を描いているという自覚がないのです。
また 下巻には
「例えば本阿弥光悦のために描いた《蓮下絵和歌巻》にしても
宗達がこれまで模写してきた既成の絵画やデザインを
組み合わせて描いたものだ。
なにを持って(独創性)とするか?
21世紀のこんにち、なお議論が続く厄介な問題を
烏丸光弘は《どーでもよろしいおす》の一言で切って捨てた。
《絵にはいい絵とつまらん絵があるだけどす。》」
…人生今まで 意識的にまたは無意識に 色々なものを見てきたわけで
頭のなかには 大量にそれらが「とっ散らかっている」わけです。
私の絵がオリジナルか独創性があるか 真の絵の才能があるかどうかーは
烏丸光弘的に言えば《どーでもよろしいおす》であり
《絵には自分が好きな絵と好きでない絵があるだけどす。》なのです。
他人の評価が全く気にならないのはそのせい。
自分が満足しているんだから、それでいいじゃん。
アクセス数も気にならないから HPには最初から設置していない。
誰が褒めようと 誰がけなそうと 興味がない。
枝の上で カラスがカァカァ啼いても気にしないのと同じです。
こんなわけで、超マイペース。
ストレスないから だらだら500まで描けたんでしょう。
下巻より
頭のなかにある絵手本ー物心つく前から描きためてきた無数の絵柄や意匠が、
唐渡りの逸品、あるいは平安朝時代の名画を模写するうちに、何か
別のものに組み替えられていくのが自分ではっきり感じられるのだ。
それまでばらばらに存在していた絵柄や意匠が思いもかけぬ形でつながり
編集しなおされてあるひとつのの体系に収斂されていくーそんな不思議な感じだ。
現代風に言えば 「高次の構成力の獲得」といったところか。
…あ~ぁ、言いえて妙。その通りなんだわ~。
ばらばらに存在していた絵柄や意匠が思いもかけぬ形でつながり
編集しなおされてーというところは そのとおりです。
つまり私の絵は頭の中にとっちらかった大量の情報が、
私好みに編集しなおされて それを描いているだけなのであります。
「高次の構成力の獲得」なんて高度なものではありません。
それにしても作者はこの本を書くにあたって
さまざまのリサーチをしたわけで そこには当然美術関係 複数の画家からの聞き取りが
あったはず。
多くの画家が「高次の構成力の獲得」を 自分の作品のどこかで感じているんですね。
そこがわかって すごくうれしい。
本当のオリジナリティって
ネアンデルタール人の描いた洞窟壁画にしか ないのかも。
明日から「無事夏を乗り切れた、オメデトウ!」の一人旅にリベンジ。
幸い 前回と違って お天気はよさそう。
体調もまずまず。
お一人様旅行を楽しめるのが今年までとなりませんように。なむなむ。