因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

二兎社38『兄帰る』

2013-08-05 | 舞台

*永井愛作・演出 公式サイトはこちら 東京芸術劇場シアターウェスト 9月1日まで その後10月4日まで全国ツアーあり(1,2,3,4,5
 1999年に初演され、岸田國士戯曲賞を受賞した作品が配役を一新して14年ぶりの再演となった。決して多作ではないが、いまわたしたちの心を重く覆っている事象から目を背けず、日常で右往左往する人々の言動のなかに独自の視点で切り込み、問いかける。永井愛作品の大きな魅力だ。その勢いに乗っていた身としては、この作品がなぜいま再び?という疑問がまずあった。

 食品会社(だったか)の宣伝部につとめる次男の中村保(堀部圭亮)とフリーライターの妻真弓(草刈民代)のうちに、金銭トラブルを起こし行方知れずだった兄の幸介(鶴見辰吾)がころがりこむ。兄の処遇をめぐって長姉夫婦(伊東由美子、小豆畑雅一)、父方の叔父(二瓶鮫一)や母方の叔母(藤夏子)もやってきて、真弓の女ともだち(枝元萌)も絡み、中村家の日常は揺らぎ始める。

 保夫婦の瀟洒な一戸建てのリビングで物語ははじまる。部屋も庭もひろびろとして、趣味のよいインテリアで飾られた保と真弓の家は、勝ち組を象徴するものだろう。そこにホームレスとしてやってくる兄幸介は負け組そのもの。

 妥協を嫌い、筋を通そうとする真弓だが、それは取材したエステサロンの料金表示をめぐる記事であり、息子が所属する少年野球チームのお母さん方との軋轢やいじめの心配であったり、極めて些細なことだ。この国の政情や文化などの大きなものではない。またすこうし意地悪な見方をすれば、おそらく生活のほとんどはサラリーマンの夫の働きによるのであろうし、自分ひとりの稼ぎで身を立てているわけではなさそうだ。
 本気で働かねば生きてゆけない。あの『シングルマザーズ』に登場した女たちのような切羽つまった生活感は、真弓からは感じられない。

 現実に社会で起こっている事象を織り込んだ社会派の作品というより、『兄帰る』は個人的な物語である。しかし登場人物の心のなかを少しずつ示しながら、みているこちらが傍観者でなく、当事者のようにみずからの心のなかをみつめさせる力をもつ。自分で自分の心のうちに踏みこんでゆく。わたしはどうなんだ?こんなときどうする?どうすべきかはもちろん大切だが、どうしたいか?自分の正直な気持ちは何なのかということを考えさせるのである。     

 初日あけてまもないせいか、まだ舞台の空気がじゅうぶんに流れず、温まっていない印象がある。その硬さは客席にも容赦なく伝わる。逆の言い方をすると、舞台の温度が客席に伝わらないため、劇場の盛り上がりはいまひとつであった。本作はもっと笑えるのではなかろうか。休憩をはさんだ後半からはだいぶ「巡ってきた」感じであるから、これから上演を重ねるごとに客席の反応もよくなり、舞台も弾むことだろう。

 舞台の人々の携帯電話はまだアンテナを立てるモバイル型だ。東日本大震災も原発事故も憲法改正も反映されていない。20世紀最後の年に初演された当時、311のことはまったく予想もできなかった。あのときより、この世はよくなったのか、人々は幸せになれたのか。
 筋を通したい、正義はきっと勝つと背筋を伸ばして主張する真弓は14年後のいま、どのように暮らしているのだろうか。

 複雑にあとを引く作品で、心のなかがまとまらない。しかもその感覚が心地よい。
 真弓にとって義理の兄幸介は、友だちでも恋人でもなく、もはや家族でもないが、互いの人生に消えない跡を残す存在になったのだ。そういう人に出会えたのは幸せなのか、逆なのか。

 観劇前に抱いた疑問、「なぜいまこの作品が?」の答はでていないのだが、311から2年と数カ月が過ぎたいま、さまざまなことがらを周囲にまどわされずに自分の心の奥底の声に耳を傾けねばならない時期にあるのではなかろうか。それは原発再稼働をどう思うかであり、憲法をどう考えるかであり、言いにくい相手に言いにくいことがらをどうやって伝えればよいかなのである。舞台に描かれる「巨悪を育む日常の悪徳」(公演パンフレット記載の永井愛のことば)は、自分のささやかな日常にもさざ波を生み、漠然とした「世間」や「国家」などの不気味な様相を身近に感じさせるのである。

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