西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

Yさん宅の「新築祝い」に行く、皆の生活現状も聞く、ゲデスの『進化する都市』(翻訳)の話も・・・

2016-05-10 | 地域居住学
昨日2016年5月9日(月)、千里ニュータウンの吹田市・津雲台6丁目の新築されたYさん邸に行った。木造の「外断熱」のかっちりした家だ。僕は、近鉄・高の原から近鉄に乗り、西大寺で大阪難波方面行きに乗り換え、更に日本橋で地下鉄堺筋線に乗り換え、阪急線に入って終点の北千里一つ手前の山田まで行った。当日はあいにく雨だった。この路線、方面に来るのは恐らく初めてではないか。

山田でモノレールで来るNさんとTsuさんに合流、taxiでYさん邸に行く予定のところYさんのご主人が運転で自動車で来られ、乗せてもらった。久しぶりの横浜から来たTsuさんが「足の痛み」を訴えた。誰もが、齢と共にそういう状況になるのだな、と思った。

別にYさんに聞くと、2013年12月14日(「忠臣蔵」討ち入りの日)に前住していた住宅が燃えてしまい(隣からの延焼)、やむなくこの新築に至った。やるからには「出来るだけ」良いものを、と心がけた、とのこと。二人とも住居学・建築学の出身だから自然の流れだろう。三人に最近の生活状況を聞けて興味深かった。それらの話は、ここでは記さない。

僕を含め、この4人は、その昔、若き頃にゲデスの『進化する都市』(1915年初版、1968年に「はしがき」付の再版)の翻訳に取り組んだメンバーの一部である。僕は、今度改訳した分について「100年前に、この中でゲデスが学生らに「(都市計画など)を学習するのにどこの国に行ったら良いか」について、その理由も付けて提起しているよ(イタリア、パリ(フランス)、アメリカ、ヨーロッパ色々、イギリス植民地、そしてとりわけ(第一次世界大戦であったにもかかわらずドイツ・・・)とて具体的に引用、説明しておいた。

すかさずTsuさんが「昔のヨーロッパでは、若者が訪れるのにゲデス推挙の地が妥当かもしれないが、現日本では又別、違いますよね」とすかさず言った。さすが我が教え子であるわい、と思ったが同時に自分だったら何処を推挙するだろうか、と考えてみた。何時か、「若い」学生たちに語りたいものである。

まあ、今日来ている「千里ニュータウン」は入るであろう。僕の「千里体験」は50年ほど前にさかのぼる。当時、住田昌二先生家族が住んでおられ、院生として僕等が住田邸を訪ねたことがあったが、夜になって帰るのにバスを待っていたら、バスのヘッドライトで野兎を認めたことがある。同じく院生時代に絹谷先生に連れられて「千里」を見学、視察したこともある。絹谷さんが、眼前に見える住棟を指して、「住棟間間隔は何メートルあるか?」の見た目で推測する「テスト」もあったのではないか。1987年の「国際居住年」には、イギリス人も招いて「千里」でシンポジュームを開き、今日に続く「高齢化」の問題点なども議論した記憶がある。阪大の大久保先生が研究者側の代表だったと記憶する。放送大学で、「千里」を取り上げたこともある。(本間博文、西村一朗共著『住居学概論』、1994年3月刊)

懐かしい「思い出」が脳裏に現れた1日でもあった。
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隈(くま)なく吾を研け

2015-12-26 | 地域居住学
隈(くま)なく吾を研け!か。
 
伝統建築の法隆寺には隈(影)があってよい、とのことだが・・・。
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『進化する都市』発刊100周年、『生活・住宅・地域計画』発刊50周年です。

2015-12-17 | 地域居住学
もうすぐ2015年(平成27年)も暮れていく。そこで一寸、この年は僕にとってどういう年なのか意識的に捉えておきたい。

まず、もう既にこのブログでも書いたが、スコットランド人パトリック・ゲデスが100年前の1915年に『進化する都市』を英語で発刊した年である。この著書は、スコットランドは言うに及ばず、イングランドでも注目されたし、他の英語圏のアメリカやカナダ、インドなどでも注目され、影響を及ぼした、といえよう。

ただ日本へはどうだったか、については、「社会学分野」や「都市史」「都市計画史」に一定の影響があった、といえるにすぎないのではなかろうか。

しかし、今年、原書発刊100年を期して不肖・僕の手で改訳本が出たことは、それなりに意義があるのではないだろうか。

と、同時に今年は都市計画分野でいち早くゲデスの『進化する都市』に着目し、本邦や僕たち弟子たちに紹介していた京大の絹谷佑規助教授がオランダで客死してから51年、絹谷先生の遺稿が西山夘三先生(1965年当時には京大教授)や西山研究室の編、絹谷佑規著で発刊(勁草書房刊)されてから50周年(半世紀)にあたっている。

ということは、大学院に入って僕等が研究し初めてから50周年である。同期の延藤安弘君や梶浦恒男君の感慨や如何に。
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新国立競技場ー至福のひと時(人と木)になるやいなや

2015-12-15 | 地域居住学
至福のひと時(人と木)になるやいなや

新国立競技場の二案が公表された。「主な特徴」は、『朝日』の一面によると、A案は「木と鉄のハイブリッド屋根で伝統的な「和」を表現」、B案は「純国産カラマツの柱72本でスタジアムを支え、力強い日本を象徴」とのことだ。両方とも木に気を使い、伝統だ、象徴だと言っている。
僕は、直感では「A案がええ」と思う。 まあ決まっていくプロセスを見守って、楽しみたいのだが・・・。
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パトリック・ゲデス著『進化する都市』改訳出版のお知らせ

2015-12-02 | 2005年4月以降(平女、高槻、学研都市等)
翻訳書『進化する都市-都市計画運動と市政学への入門-』発刊のお知らせ

『進化する都市-都市計画運動と市政学への入門-』(翻訳書、パトリック・ゲデス著、初版1915年の改訳書、392頁、税込み3780円)を2015年11月20日付けで発刊しました。今年は、原書初版から100年に当たります。
 昨年の6月に鹿島出版会より改訳を提起され、持ち時間が1年半しかなかったので、初訳1982年版(原書1968年版)のように9人でやるのは無理なのでやめて、1982年版をもとに僕が一人でやりました。一読ご批評頂くとありがたいです。
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京大T3会第三回集まりでのスピーチより

2015-11-27 | 地域居住学


昨日、京大T3会(京大工学部1960年入学3組クラス会、1,2回生時、第二外国語→ドイツ語組)があって参加した。現存46名中24名の参加だった。5名なくなっているので1960年入学時は51名のクラスメイトだったことになる。

現在は、各学科ごとにクラス編成されるようだが、1960年当時は、専門学科が違う学生ミックスでクラスが構成されていた。僕らのクラスは、土木、鉱山、建築、原子核、電子の順で混じっていた。2年間、このクラス分けは維持されるが、担当の教授も割り当てられていて、僕らの場合、1回生時は人文地理の藤岡謙二郎先生だった。(小柄だがエネルギッシュで早口の先生、先生は文科系だが、持論で、理科系の学生クラスを担当、先生宅にお邪魔したクラスメートもいたが、僕はクラスコンパの時に同席した。)

2回生時は物理の多田政忠先生が担任で、温厚な紳士、旧制一中、三高では、あの湯川秀樹先生と同期である。

昨日のクラス会は、24名の参加で初めて京大時計台の2階の会議室に時計台内にあるレストランの「出前」で行われた。挨拶、乾杯のあと少し歓談の後、「近況報告」に移ったが、予め各自提出の報告書(A4一枚)があるので、それ以外に2名のスピーチとなった。代表幹事の渡邊英一君(土木出身、京大名誉教授)の「指名」で僕が当たった。もう一人はM君で、彼は詩吟、白 居易(白楽天ともいう)の「酒に対す」だった。「蝸牛角上何事をか争う 石火光中この身を寄す 富に随い貧に随い且らく歓楽せん 口を開いて笑わざるは是れ痴人」(M君メモによる)やんやの拍手喝采だった。

さて僕の番、何をやるか言うか、もう「とっさ技」しかない。M君と違う調子の「大声」、皆に共通の何かを含むこと、出来れば「しゃれて・・・」

「僕らは学生時代の2年間、ドイツ語や体育など一緒に習いましたが、とにかく今までもこれからも「京大つながり」、兄弟同様お付き合いのほどを・・・、さて京大つながりは京大に入学してからですが、僕が合格電報を受け取ったのは1960年3月20日の日曜日、時あたかも大相撲春場所千秋楽、栃錦と若乃花の14勝同士の決戦、その時の立行司・木村庄之助・・・(行事の口調で)「何たることもなく、ここにいたったるところ、片や栃錦、栃錦、こなた若乃花、若乃花 この相撲一番にて千秋楽にござりますー」

結果は、若乃花の全勝優勝、僕は「ファンだった栃錦が負けて残念」と思うとともに「京大合格を喜んだのでした」
皆様は如何に? (拍手、笑い)木村庄之助の「まね」は「受けたようだ。」

あとで発見した巧まざる洒落・・・M君は「白 居易(はっきょい)」 僕は「はっけよい」  どうでしょうか。


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パリへのまなざしー100年前と現在ー

2015-11-20 | 旅はたびたび

最近、翻訳(改訳ー鹿島出版会刊)した100年前の1915年に原書発刊の『進化する都市』で、著者パトリック・ゲデス(スコットランド生まれのイギリス人)は第八章 市民権を得るための旅行とその教訓 において、

「・・・30年の間、知人であるスコットランドやロンドンの学生を、その専門の必要に応じて外国へ行くよう、また大陸やその他の立派な大学へ行くよう熱心に勧めてきた。またそのなかでもパリへ行くよう勧めてきた。なぜ特にパリを推薦してきたのか。それは、何よりまず、学生たちがその大学や町の雰囲気、それはもっとも鋭く、もっとも明るく、もっとも知的で、もっとも勉学的で、もっとも生産的な雰囲気であり、それによって覚醒させられ、教化されるからである。まず専門家として、もちろん一般的知識人として、あるいはまた一般的文化人としても、その詩や劇などの芸術とか、芸術作品の批評や洗練された意見交換とか、そして社会に先んじてこれらすべてのための場所と、必要とするものを備えていることなどのすばらしさに鋭敏に対応する人となるためである。しかしすべてのこれらの理由を超越し、学生は―道徳的に教化されるため―パリに行くべきなのであって、それは次の二つの理由による。

第一に欠点や汚点を持ってはいるが―それらは数も多く、量も少なくないが―全体としては、最高で、最も共同意識を持ち、もっとも社会的であり、もちろんもっとも文明的である大都市(パリ)住民に、いつも接触できるからである。第二には、1870年から71年にかけての、あの物凄い事件の数々(訳注:パリ・コミューンなど)によって奮起させられ、苦悩に満ちた坩堝(るつぼ)のなかで鍛えられたため、わが国(訳注:イギリス)のような平和で、それだけ覚醒の遅れた国においては知られていない能力を、強烈な純粋さを保ちつつ、持続的に緊張させ、そのまま発展させてきた人格に直接接触したり、刺激を受けたりすることによって、今でもほんの2,3年の間に、非常にまれな経験を得ることができるからである。・・・(182頁~183頁)」と言っている。

さて、現在、ゲデスが生きていたら何と言うだろうか。(パリッとしていたパリのイメージがバリバリと崩れていくのだろうか。)この本によって100年前の一イギリス文化人の捉え方もみていきたい。
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名工大 服部(千之研)OBの集いに参加ー通った当時を思い出しつつー

2015-10-19 | 名古屋・豊田の思い出

2015年10月17日(土)、名古屋市地下鉄池下周辺で名工大の服部千之研究室のOB,OGの集いがあった。その様子の概要を記録しておきたい。

集いは、池下橋本ビル会議室Aでシンポジウム、夕方からグリルプランセスで懇親会があった。両方とも35人前後の出席、懐かしい顔も多いが、私が愛知県を去った1971年以降の卒業・修了生が半数以上であった。

私は、名工大の卒業生ではないが、1966年から1970年間での4年間、「客員研究員」のような格好で、ほぼ定期的にゼミに参加させて貰い、議論に参加し勉強させて貰った。また、共同研究にも参加させて貰った。そのため今回の集いにも「呼びかけ」があったのである。服部千之先生は、28年前の1987年50歳台半ばで亡くなられ、以降、遺稿を編集するなどの企画はあったが、今回のような研究室のOB,OGが集まるのは初めてではないだろうか。

私は、1966年(昭和41年)3月に京大大学院修士課程(建築学専攻、西山夘三研究室)を修了し、4月に国立豊田高専建築学科の助手となり、1968年に講師になったが、1970年(昭和45年)に豊田、愛知県を離れ京大助手(三村浩史研究室)で京都に戻ってきた。

名古屋、愛知県の大学で、当時、京大(大学院含む)建築学科、建築学専攻出身で「計画系」の先輩がいるのは、名古屋工業大学建築学科のみで、服部千之先生(助教授)がおられ、西山研究室出身の先輩だった。そこで、4年間、定期的に服部研に通わせて貰ったのである。その間の私の研究は、残っている建築学会(東海支部)報告、豊田高専紀要、雑誌『建築文化』寄稿、『朝日新聞(名古屋本社版)』寄稿等を見ると、住宅企画(情報)の問題、建築技術の問題などやや抽象的な理論的仮説の発表に傾いている。これらは服部先生やゼミでの議論、建築学会東海支部都市計画委員会メンバーとの議論等によると振り返ってそう思う。

高専では未だ4年生が最高学年で、学生を、即調査研究の「戦力」に想定するには少し無理があった。ただ、5年生になる私の豊田2年目から卒論ゼミがあり、私は「兄貴分」として色々議論した思い出はある。

服部研のゼミでは、僅か4年間だったが今回も当然来ておられた当時助手だった桜井大吾さん(のちRIA)のソフトなふるまい、学生・院生だった1967年学部卒薮田仁一郎さん(現・国際開発センター)の学習姿勢など刺激となった。薮田さんと学生の時に同期で、大学院は(計画的に用意周到に)東大都市工に進んだ西山康雄さんがうかつにも最近亡くなられたと知ってびっくりした。(私のこのブログに西山康雄さんの記事がある。ご覧になりたい方は検索でどうぞ)1970年卒・修了までの彼らと議論したり一緒に調査したりした思い出もなつかしい。「客員」だったが残念ながら亡くなられた私の同期(奈良女子大卒)の森下雅代さんも学生時代に「建築学生会議」で一緒したことも懐かしい。今回おやと思った参加者は八尾新太郎さん(名工大1964年卒、京大大学院で私と同期、構造系、のち関西大)だった。伺うと名工大での卒論は構造系だが服部先生ご夫妻には大変世話になったので・・・、と言っている。他の分野、研究室であっても面倒をみる面倒見の良さがうかがえる。

ついでに建築学会東海支部都市計画委員会の方々も懐かしく思い出す。当時委員長だった早川文夫先生(当時、名大教授)には大変お世話になった。今回も来ておられた私より1級上で今回服部研「最年長」の佐藤圭二さん(当時、名大助手のち中部大)、同じく名工大卒の先輩・松尾博雄さん(当時、名古屋市)、亡くなられた長峰晴夫さん(東大卒、当時公団のち近畿大、名古屋大)、玉置伸吾さん(京大卒、先輩、当時公団のち福井大)との議論も懐かしい。

今回、服部先生の奥様の美枝子さんが元気で出席になられると言うので、私は妻と一緒に(少ししんどい面があるが)参加した。妻は、当時、研究生という形で服部研ゼミに参加しており、私はゼミに行って、偶然にも彼女と再会することになり、ああなって、こうなって1968年3月に東海銀行(現・三菱東京UFJ銀行)主税町クラブで結婚することになったが、「頼まれ仲人(司婚者と言っていた)」を結局、服部先生ご夫妻にお願いすることになり、先生や奥さんに公私ともお世話になったのである。今回、奥さんに直接、お礼を言った。服部千之先生、美枝子様、本当に有難うございました。座から「何年かしたら再会しようや」の声も聞いたので、もしそうなったら元気な限り出ていこうや、と妻とも語りあいつつ、名古屋から京都への帰路についた。
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大先輩:直木孝次郎さんの和歌など・・・

2015-09-19 | 時論、雑感
2015年9月19日未明、「安保法案」が参議院本会議で可決された。ぎりぎりまで野党5党が抵抗したのも評価したいが、それなら去年の7月1日の「閣議決定」に対して鋭く追及すべきだった、と思う。今日、友人のkoさんと喋っていて、そういうことを感じ思った。  全く別の空間で京大出身の古代史研究者・直木孝次郎さんが和歌を詠んでおられるが、紹介しておきたい。直木先輩は96歳であるが、過去、正月の歌会始に連なったお一人でもある。全て「朝日歌壇」に入選したものである。

・死ねと言う訓話を聞き夜を思う 72年前の雨の夜なりき(6月4日)
・特攻を命じたものは安全で 命じられた者だけが死ぬ(7月6日)
・大国のうしろにつけば安全か おまえ前行けといはれたらどうする(7月12日)

今日、たまたま『奈良民報』で拝見し、緊張した。

少し次元が違うが、学生で「安保法案」に反対した「シールズ」は、今後「、一つには、ひょっこりひょうたん島」でドン・ガバチョが歌ってる「明日があるさ」で頑張ろうと言う。女子学生の発想」・・・歌詞は「今日がだめなら、明日があるさ、
明日がだめなら、あさってがあるさ、あさってがだめなら、しあさってがあるさ。どこまでいっても、明日がある。」

やあ井上ひさしさんの作詞らしい。一方、「今度の法案に賛成した参議院議員を来年の選挙で落とそう」ということも面白い。過去、1960年の「安保闘争」では、一旦国会で承認されたら、次の「手」が見えなくて「挫折」した人が多い、今回は当時の学生の孫の世代が明るく粘り強くやっている。来年、再来年、・・・が明るくなってきた。

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廣瀬正明さんに会う、最近は「宮沢賢治研究」らしい

2015-08-27 | 奈良の思い出(助教授時代)


日曜日(2015年8月23日)に「奈良女子大の横断同期会」で、昔、家政学部食物学科の助教授(栄養学)だった広瀬正明さんに会った。彼は、僕と京大同期(1964年卒)、僕は工学部建築学科だが、彼は農学部農芸化学科だった。

最近は、二足目の草鞋(わらじ)をはいて「宮沢賢治研究」をしているらしい。2013年に『宮沢賢治「玄米四合」のストイシズム』(朝文社刊)を上梓(じょうし:発刊)したようだ。ストイシズム:禁欲主義


別に医学者が書いた『少食が世界を救う』といった本もあったっけ。

広瀬さんの本を読んでみようと思う。廣瀬さんは奈良女子大に10年つとめ、今年まで「奈良女子大卒30周年記念同窓会」に出席、来年からは彼の後任の的場輝佳さんが出てこられるようだ。

広瀬さんには「御機嫌よう、さようなら」(又ね)と挨拶しておいた。
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研究ノート 住宅企画展開過程と「情報」ー『朝日新聞』名古屋本社版1970年1月7日夕刊5面ー

2015-08-26 | 名古屋・豊田の思い出
今から45年前、私が28歳で、豊田工業高専に勤務していた頃、『朝日新聞』名古屋本社版1970年1月7日夕刊5面の片隅に「研究ノート」として書いた「住宅企画展開過程と「情報」」のコピーが書斎の片隅から出てきたので、将来書こうと考えている「自分研究史」の資料として、ブログ等に書き写しておきたい。

コピーではなく「書き写し」であるのは、一字一文を思い起こしてみたい、とも思ったからである。

住宅企画展開過程と「情報」  西村 一朗

 私は住宅の供給方式について少少研究してきた。そして今後もしてゆくつもりであるが、その場合、最も大切な前提作業の一つとして住宅需要の状態を把握(はあく)することがある。それは普通、顕在需要と潜在需要に分けられ、それぞれの内容、潜在需要から顕在需要への転化過程などが問題とされる。これらはいわば「マス」として把握され「マス的」-真のマスとは言えないが-公共供給のために活用されて来た。私は、需要と供給の対応という「第三者的見方」から一歩前進して需要を供給へと接続・展開してゆくための一つの方法論ととして住宅需要を個々の「住宅企画展開」として把握したいと思っている。
 すなわち「流動化」し「都市化」しつつある現状において、一般的には個人の住宅企画はきわめてソフトな状態から、いろいろな「情報」を獲得し、いろいろ「学習」しつつハードな状態へと移行するという風に認識するのである。従って「住宅企画展開過程」は「住宅情報収集過程」であると同時に「住宅企画学習過程」となるが、ソフトな段階-ロジャースの「技術革新普及過程」の段階分類を使うと認知、関心、評価の段階ということが出来よう-において、相互検討が加わるなら、現在のマス供給あるいは個人住宅獲得努力は新しい次元でもっと合理的に生かされるだろうと思われる。
 そのためには「住宅情報」をいわゆる「情報化社会論」で問題となっているような「商品化」された「情報」以外のところにも求め、創造的「学習」を行うことが緊要であるといえる。(豊田工業高等専門学校講師・建築学)


当時、私は名工大の服部千之先生の研究室に出入りして調査研究をしていた。建築学会東海支部の都市計画委員会では、名大の早川文夫教授を委員長とし、名工大の服部千之・助教授を幹事長とし、幹事・委員として日本住宅公団の長峰晴夫さん、玉置伸吾さん、名古屋市の松尾博雄さん、名大の佐藤圭二さん、名工大の桜井大吾さんらを擁していた。私も末席で参加していた。

だがこの年の4月に私は京大・助手(三村浩史研究室)に移って、上記の問題意識は一時棚上げとなった。この問題は、少し構え方が違うが、後に巽 和夫先生が精力的に取り組まれた。
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「折々のことば」より

2015-08-25 | 食物栄養・健康・医療・農業・教育
『朝日』1面で毎日掲載の鷲田清一さんの「折々のことば」が4月に始まり、ほぼ5カ月経った。中々含蓄ある言葉に日々出会っている。今日は142日目の次のことばである。


「わたしたちがそれを頼りに生きている真理の圧倒的に多数は、検証されていない真理からなる。ウィリアム・ジェイムズ」である。

例えば、我々の体は、全体でバランスを取り、不都合な部分が見つかれば先ずは「自己免疫力」を動員して「正常状態」を回復しようとする。「全体関連バランス」である。「ホメオスタシス」という言い方もあったかな。これらの全体は無意識状態におかれた部分が大半だが、それらの部分の持っている「真理、法則性」が働いている、と取りあえず認識しておこう。
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奈良女子大学卒後30周年(1984年、昭和60年卒生)記念同窓会に参加する

2015-08-24 | 奈良・精華町の思い出(教授時代)関連続き
昨日、奈良女子大学卒後30周年(1985年、昭和60年卒生)記念同窓会に参加した。JR奈良駅裏の「日航奈良ホテル」4階飛天の間で、2011年以来、5回目である。それ以前、私は、奈良女子大を2005年に定年退職以来「奈良ホテル」での会へ6回参加している。皆出席、と思う。

この会について、昔、同僚だった理学部生物学科の高木由臣さんは、当日配られた『恩師からのメッセージ』で次のように書いている。「卒業30年目という人生の最も充実した時期にある元学生が、新陳代謝しながら(毎年53歳前後の:私注)変わらぬ姿で登場するこの同窓会の仕掛けには、毎年のことながら感嘆します。そこに登場する元教師は一方的に老化・死に向かうというコントラストが、見事で素晴らしい!」「老化・死は進化の産物である。」・・・高木由臣(『寿命論』NHKブックスより)

今回、僕のように、まあまあ元気の部類は、参加できたが、「体調不良で欠席、老老介護のため欠席」などという人もいて、上記の高木さんの位置づけのとおりである。しかし、今年でこの会が「終わり」の人、今年から新たに「参加」の人もいて、平均年齢は一方的に上がる訳ではないが、暫時上がっていくことになるだろう。

参加は旧学生200人余、旧教官50人余であった。久しぶりに会った人もいた。奈良女の文学部(体育)にいた大築立志さん(東大名誉教授、70歳)だ。(『手の日本人、足の西洋人』(1989年、徳間書店刊)の著者)、鎌倉在住、地域スポーツに関したこともやっておられる風。「運動の他に、栄養や休養も大事ですよね」と言ったら、「何事も行き過ぎはダメ、ほどほどに!ということだった。異分野の人が集まると、耳学問が出来るなー。
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ラジオ深夜便 昭和史を味わう 「特攻隊員とその遺書」 保阪正康より

2015-05-03 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
今朝、ラジオ深夜便で、昭和史を味わう 「特攻隊員とその遺書」を 保阪正康さんから聞いた。現代史を色々研究している方だ。今回は、終戦70周年にちなんで「特攻隊員とその遺書」ということで、彼らの最後の「叫び」「言い残したこと」なども含めて実際を紹介された。  今まで、僕は「なんと無謀な、無意味な”攻撃”なのか」と漠然と思っていて、「聞けわだつみのこえ」を昔ざっと読んだこと以上のことはトレースし、考えていなかったが、昨晩、保坂さんから色々遺族、海軍関係者等に聞き取りされた結果を少し聞いて「そうなのか、こういうことは二度とあってはならない」と心底思った。

・特攻に出発する飛行機を整備する整備兵の証言・・・特攻隊員に選ばれたあとで・・・「落ち込む、泣き叫ぶ」などに落ち込む人が殆ど、そういう特攻隊員を送り出したものとして戦後長く悶々とした。
・特攻機からの連絡の声を聞いていた将校の証言・・・最後の叫びに・・・「海軍の馬鹿野郎!」「お母さん!」などが印象的。
・特攻部隊のトップが指導の担当の将校を集めて、特攻に取り組んでいくことを伝えたとき・・・一人の将校が「私は帰還兵がゼロと分かっている作戦には賛成できません」と反対したと言う。戦後、その将校に聞き取りした時 、「これで銃殺か」と覚悟したが、特攻部隊のトップに「後で部屋に来なさい」と言われ、行くと「君の部隊からは特攻隊員出さなくて良い」と言われ、部下も「助かった訳だが、戦後、他の部隊に対し、長く申し訳なかった・・・」とのこと。

こういうことは初めて聞いた。戦争なら、帰還兵がどれくらいなら、その作戦を採用するかしないか、となるのに「帰還兵ゼロと分かっている」作戦は全く無謀、と保坂さんも言っていた。特攻隊員の死を無駄にしないためには、今後こういうことに落ち込む戦争は絶対にやってはいけないということではないか。

今日は「憲法記念日」だが、この平和憲法をないがしろにする動きも急、しっかりせねばなるまい。子や孫のためにも。 
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信州大・山澤清人学長の入学式式辞より・・・生活空間研究の視点よりの一展開・・・

2015-04-08 | 地域居住学
昨日(2015年4月7日)にネットを見ていて(「朝日」デジタル)信州大学の山澤清人学長の入学式辞が目に留まった。以下、その式辞の一部関心部分を如何に引用する。これは、今日(2015年4月8日)の「天声人語」にも触れられている。

「・・・大学での勉強と生活の仕方を変えなければなりません。

 その理由をお話しましょう。創造性を育てるうえで、特に、心がけなければならないことは、時間的、心理的な「ゆとり」を持つこと、ものごとにとらわれ過ぎないこと、豊か過ぎないこと、飽食でないことなどが挙げられます。

 自らで考えることにじっくり時間をかけること、そして時間的にも心理的にもゆったりとすることが最も大切となります。

 子供の頃をちょっと思い出して下さい。子供の頃は、例えば、夏休みがゆっくり過ぎていたと感じませんか。大人になると、忙しさで、時間は走馬灯のように速く過ぎていきます。脳科学者のDavid Eagleman(デイウィッド イーグルマン)さんは「記憶が詳細なほど、その瞬間は長く感じられる。しかし、周りの世界が見慣れたものになってくると、脳が取り込む情報量は少なくて済み、時間が速く過ぎ去っていくように感じられる」と言っています。

 自分の時間を有効に使うために、自力で時の流れを遅くする必要があります。

 そのために五つの方策が提案されていることは良く知られています。

 一、学び続けること。新しい経験が得られて、時間感覚がゆっくりとなる。

 二、新しい場所を訪ねる。定期的に新しい環境に脳をさらす。

 三、新しい人に会う。他人とのコミュニケーションは脳を刺激する。

 四、新しいことを始める。新しい活動への挑戦。

 五、感動を多くする。」


これはじっくり味わいたい。

じっくり、それこそ「余裕」をもって味わい考えたいポイントだ。そのうち、「二、新しい場所を訪ねる。定期的に新しい環境に脳をさらす。」について、少し突っ込んで考えてみたい。

・新しい場所(空間)を訪ねれば、当然、五感全体を緊張させてその場所(空間)をじっくり観察し、特徴をつかみ、自分との距離、関係性を位置づけて、ひとまず「安定」をさせる。じっくりいかない場合でも、一寸した事にも気を配り素早く認識・記憶して後でその「情報」を吐き出して整理する。
 まあ新しい所に行く時に、観光の場合でいうと、事前予習していく場合、現場に行っても「そうだ、そうだ」となって「新しい認識」が得にくい場合がある。言ってみれば「さっと」通り過ぎる感じとなる。
 そういう場合、良く予習した場合でも、仮に何度でも行っている所でも「新しい問題意識」があれば、「古い場所」でも「新しい場所、空間」と認識しうるのである。
・「定期的に新しい環境に脳をさらす」とは、文字通り「新しい環境に身を置いて観察、認識する」ということの他に「古い環境」でも「新しい環境」と思えるように認識する、ということではなかろうか。何度でも行っている場所の認識は、普通は記憶として(脳容量からも?)省略される傾向があるといえよう。
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