西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

新井 満「千の風になって」誕生秘話 から

2007-08-21 | 生活描写と読書・観劇等の文化
SNSフレンドのFUTANさんが『文藝春秋』9月号に新井 満さんが 「千の風になって」誕生秘話 を書いていることを知らせてくれたので、近くの本屋で買って読んでみた。この号は、芥川賞発表号でそれを含め他にも色々読み応えのあるものがあるが、ここでは新井 満さんのその文章を読んで・・、川柳に「墓参りしない理由に千の風」というのがあるらしい。確かに新井 満自由訳の「千の風になって」では、「私のお墓の前で泣かないで下さい そこに私はいません 眠ってなんかいません 千の風に 千の風になって あの大きな空を 吹きわたっています・・・」となっている。しかし、新井さん自身にとって、「お墓参り」は30年来の趣味と言う。この詩と墓参りは全然矛盾しないと言う。新井さんによると、「お墓は死者の「現住所」であり、死者と会える「面会所」だと私は考えている。死者は普段、狭苦しいお墓の中にずっといるわけではなくて、「千の風」に歌われているように風や星、雪や光などさまざま形を変えて、世界中を飛び回っているのである。しかし、生者がお墓に面会に来たことがわかれば、瞬時にお墓に戻ってくることも可能なのだ。だから、お墓参りをすれば、死者と対面できる。対面が終わって参拝者が墓所から去れば、またどこかに飛んでいってしまうのではなかろうか。」(197頁)とのことだ。中々ユニークな考え方だ。新井さんは、国内では石川啄木をはじめ雪舟、芭蕉、良寛、坂本竜馬、土方歳三など、海外ではドストエフスキー、ワーズワース、マチス、シェイクスピア、スウィフトなどのお墓参りをし死者達に会って来たようだ。
私は、一寸違う意味で、色々な墓、墓地に行っているし、今後も行こうと思っている。墓は最後の住居であり、墓地は最後の居住地であるからだ。日本の墓や墓地は、もう少し明るく楽しく何時でも散歩がてらに行ける場所でありたい。少し別の話になるが「金沢21世紀美術館」の蓑 館長は「構えて行く美術館ではなく、気軽に、美術館にでも行こうか、にならないと」と言った趣旨を言っているが、墓や墓地もお盆だから、お彼岸だから、と行くのも良いが、何時でも立ち寄りたい空間でありたいものだ。(私のブログで墓、墓地を検索すると記事が60以上ある。興味ある方は検索してみてください。)
(写真は、函館市・立待岬の石川啄木の墓)

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