読書・映画を通した想いの整理棚

読書をしたり映画を視たりした後、浮かんだ感想・批評を行なうブログ。ジャンルは多岐にわたる。

忘れたのか覚えなかったのか『"忘れる脳"の構造改革』

2006-12-26 11:44:53 | 科学書
 「ものを忘れる」にせよ「ものを覚える」にせよ、脳科学的には言葉の吟味が必要ということ、「構造改革」を脳の問題に適用した意味が少し解けた。人間は、概ね、強い「記憶力」が欲しい、「物忘れしたくない」と思っている。しかし、その意味を徹底してみれば、実は「覚えていなかった」りする。覚えなかったものは忘れることはできない。千葉康則著『"忘れる脳"の構造改革』はそれを教えてくれる。

 「脳はおおざっぱ」
 これはどの脳の本を読んでも言われていることである。少々違っていてもある範囲のことを脳は同じとみる。→そうじゃないと、音痴のヒトが歌った「ふるさと」とプロが歌った「ふるさと」を違う歌だと思ってしまう。これは違う本で知ったことだ。この本では、「汎化」と言って、例えば、車で危険な目に遭った人は、次回似たような場面(音や状況)で条件反射によって逃げたり注意を払ったりできる。しかし全く同じ場面でないと条件反射が起こらないとすれば、人間は何度も危険な目に遭う。脳がおおざっぱにできているのは生存にとって必要だ、ということ。

 「脳は間違う」
 間違いを繰り返して、だんだん正しい方向に修正する。だから「失敗は成功の母」という諺は「失敗しなければ成功しない」と言い換えた方がいいのが脳だという。勉強でも仕事でも最初は分からないのは当たり前、できるようになるまでは失敗の繰返しだとも言えるわけだ。「最初、間違えるのは当たり前」という考えを子どもや何かを覚えようとする初心者に伝えるともっとうまくいくのにな、と思った。

 パブロフの犬という有名な実験がある。例えば「プー」という音と一緒に食べ物を与えるという実験を繰り返すと「プー」だけで、唾液が出るようになる実験だ。この「プー」の音を似たような「ピー」という音でも唾液を出すというのが脳の大雑把さ=「汎化」。次に「プー」で食事を与え、「ピー」では与えないようにして何回も繰り返すうちに「プー」と「ピー」の微妙な違いを覚え、間違えずに「ピー」では反応しないようになっていく。これを「分化」というそうだ。

 【大雑把から → 細かく正確に】という脳の「ものの把握の仕方」がよくわかる指摘である。人間も基本は同じだそうである。

 「間違えないと正確にならない」のはなぜか。「ピー」は違うぞと脳が認識して「抑制作用」をするのをこれまた覚えなければならないからだ。「反射」と「抑制」がバランスよく働いている状態が「脳の」健康な状態であるとすれば、最初「大雑把」に働いて間違いばかりする脳が「抑制の仕方」を覚える間「失敗」を繰り返す必要があるということになる。

 なにか「教育のあり方」やヒトが何かを覚える時に、非常に「安心感」を与える認識ではなかろうか。著者は、いままで、「記憶といえば、一度で間違えなく覚えられるというのが理想的とする考え方が多いようですが、そのようなことは脳ではありえない。」というのだから…。

 だから「忘れた」というのも、1回聞いたり、試したりでは覚えたことにならず、忘れたことにもならないのだ。
 つまり、記憶は、「記銘」=覚える、「保持」=いわゆる記憶、「想起」=記憶の再生を、何回も繰り返すことによって、記憶が堅固なものになっていくという。

 そして「忘れる」というのは、脳の「抑制作用」という働きであることが多く、「忘れる」という言葉のイメージからくる覚えたものがなくなってしまう、ということではないということである。

 その抑制がどういう原因で来ているかという事も、詳しく見れば興味深い。