読書・映画を通した想いの整理棚

読書をしたり映画を視たりした後、浮かんだ感想・批評を行なうブログ。ジャンルは多岐にわたる。

複雑多様を解明する脳科学者の随筆『すべては脳からはじまる』

2007-01-04 22:57:54 | その他(政策文書他)
 茂木健一郎氏は決して偉ぶらない文章を書く。ノーベル賞に一番近い人だと聞いている。氏の学術書は読むにもブログに取り上げるにもなかなか難しい。脳科学書には相当に当たったが、この人の書く物で嫌な感じを受けたことが一度もない。
 人によっては他の領域の仕事のことを軽蔑的に書いたり、人倫的に「エッ」というようなことを公刊される本に書く人もいる。(脳科学だから、病気でもないのに脳を実験人為的にいじるというような事に触れれば、人倫にもとると私は考える。)例え一行でもそういう記述を見つけたら、その人の本はもうそれ以上読まない。茂木氏にはまだそういう記述にめぐり合っていない。自分の仕事内容と生き方を上手に統御できている人に違いない。文は人なりである。

『すべては脳からはじまる』は随筆で、脳の働きに事寄せて書かれたもの。世間の出来事や様子を脳科学者がみるとこう言えるといった趣の書だ。

 学術書と違って気軽に読める。「老人よりも若者の方が“創造性”が高いという世間の思い込みがあるが、脳の働きからすると一概にそういえるかどうかは疑問である。」といったくだりは気に入っている。
 「創造性とは、そのような(脳の側頭葉に蓄積された記憶の)編集過程で、経験で蓄積された要素の間に新たな組み合わせや結びつけが生じる過程である」とする。
 「経験なしに創造性は生まれない」ともいう。空(くう)で突飛なことを考え付くことを創造性というのではないことを意味し、どちらかというと愚直な生き方をしてきた自分にも「創造性」なるものが無いとはばかり言えないのだなとホッとするような感じを与える。

 また、茂木氏は、「苦手だからこその大成=重松清氏」「虚弱を乗り越えてのオリンピックでの優勝者=清水宏保氏」を取り上げ、脳におけるパラドックスに興味を示している。清水選手は、小さい頃「喘息」があったという。

 清水選手といえば、「フロー状態(身体的心理的かせをはずして能力を存分に発揮できる状態といわれている)」を自分で作れる人だと何かで読んだことがある。
 茂木氏も取り上げている。「バイク事故などで身体が空中に投げ出されて地面に着くまでの時間がゆっくりと感じられるといった現象は、よく知られている。脳が危機に瀕して普段よりも細かな時間刻みで体験を認識し、生命維持に必要な処置を取ろうと試みるはたらき」で、清水選手は「そのような極限状態におけるはたらきを鍛錬によって作り出せてしまう」と。

 茂木氏の社会評も相性がよい。

 子どもへの愛情ある目線も心地よく響く。
 社会評と子どもへの目線で交差させた面白いエッセイは、「“みそっかす”は“負け組み”ではない」である。地域の子どもの遊びでは同年齢児だけが集まるわけではない。異年齢児の子どもが集まるとどんな遊びでも年齢差によるハンディがつきもの。そこで生み出されたアイディアが「みそっかす」力の無い子や低年齢児に有利になるような仕組みを創ってやるわけだ。

 これは、脳にとっても、最初から勝ち負けが決まっているような遊びは面白くなく、弱いものにハンディをつけてやることで、逆転現象や勝ち負けの「偶有性」を設定して遊びを面白くしてやるというのである。なるほどと思った。経験的に脳が喜ぶことを子どもながらに工夫していたのだなと感じ入った。

 今は、地域の異年齢層の遊びなどもめっきり少なくなって、同年齢層だけでアポイントメントし合って遊んでいる子どもが多くなったと聞く。同年齢だけでは「みそっかす」設定で小さい子を気遣うこともなくなり、感性の幅が狭くなっていくのではなかろうか?老婆心が沸き起こる。

 「複雑系」「多様性」「さまざまであること」に価値を見出していこうとしている茂木健一郎氏。こういう人が輩出するなら日本の学問界もまだ捨てたものではない。