過日、下総中山にある同じく日蓮宗の名刹「中山法華経寺」に参拝を兼ねて取材に訪れたことがあります。双方とも日蓮所縁の名刹であるのですが、どことなく雰囲気が異なるのは、中山法華経寺は荒行で知られる「男っぽさ」が感じられる反面、池上本門寺は日蓮入滅の霊地として崇高な雰囲気を感じ取ることができます。
本門寺三門
ここ池上本門寺の開基は古く弘安5年(1282)のことです。この年に日蓮は身延山を出て、湯治のために常陸(茨城県)へ向かう途中、9月18日にここ池上の地の池上宗仲の館に到着し二十数日間を過ごすこととなります。この滞在中に池上氏館の背後の山上に建立された一宇を日蓮が開堂供養し、長栄山本門寺と命名したのが池上本門寺の起源とされています。
病に冒された日蓮は弘安5年(1282)の10月13日にここ池上で没すると、池上宗仲は法華経の字数(69,384)に合わせて六万九千三八四坪を寺領として寄進したことで当寺院の基礎が築かれ、以来「池上本門寺」と呼びならわされています。
鎌倉、室町時代には関東武士の庇護を受け、江戸時代には加藤清正公や徳川家紋大名である紀伊徳川家の祈願寺となり隆盛を誇ります。一方、江戸幕府開幕後の1630年(寛永7年)に幕府は久遠寺・日暹(受布施派)と池上本門寺・日樹(不受不施派)との間で行われた「身池対論(しんちたいろん)」で負けた池上本門寺の日樹は信州の伊那へ流罪となります。日樹のあと、本門寺には受布施派の日遠(にちおん)が入山し、家康公の側室養珠院(お万の方)の帰依を受けています。
※身池対論(しんちたいろん)
寺領は国主の供養か仁恩であるかについて、受布施を主張する身延久遠寺・日暹と不受不施を主張する池上本門寺・日樹との対論で、幕府が両者を江戸城で対決させた論争をいいます。
※不受不施派(ふじゅふせは)
日蓮の教義である法華経を信仰しない者から施し(布施)を受けたり、法施などをしないという不受不施義を守ろうと、かつて存在した宗派の名称です。
本門寺に近い東急池上線の池上駅を降り、本門寺通りを10分ほど進むと前方に本門寺に入る最初の門「総門」が現れます。それほど豪勢な造りではないのですが、主柱間5.3メートルを測る壮大な門構えに古刹、名刹の風格を感じさせてくれます。この総門は戦災を免れた歴史的建造物で創建は元禄年間に遡ります。
総門
この総門を抜けると前方に見上げるように続く長い石段が現れます。難解な文字で此経難持坂(シキョウナンジザカ)と呼ばれているのですが、実はあの有名な加藤清正公が築造寄進したものなのです。清正公は熱心な法華信者で慶長11年(1606)に慈母の七回忌の追善供養として祖師堂も寄進しています。この石段も同時期に築造寄進されたもので、この難解な名称も「此経難持の偈文96字」に因んで名付けられたことで、96段の石積み参道になっています。
此経難持坂
長い歴史の中で、表面が摩耗した石段を一歩、一歩上って行くと広い境内が眼前に見えてきます。前方にはどっしりとした姿の三門が待ち構えています。この三門に行く前に、石段を登りきった右手にあるお堂に向かうことにしました。
長栄堂
長栄堂の扁額
お堂の名は「長栄堂」といいます。本門寺さんの山号が「長栄山」とついていることから、当然この長栄堂は子院か塔頭かと思いきや、実はかつては神社だったのです。現在は本門寺さんの境内のお堂の一つなのですが、明治の神仏分離策によって神社ではなくなっています。しかし、その名残なのか門前に「鳥居」が立ったままなのです。この長栄堂には長栄山の守護神「長栄大威徳天」を奉安しています。
三門
長栄堂をあとにしていよいよ三門へと進みます。三門とは三解脱門の略なのですが、いかり、むさぼり、おろかさを解脱する門ということなのですが、この3種の解脱を求める者だけがこの門の通過を許されているとのことです。
左の仁王像
右の仁王像
三門の左右には仁王像が置かれています。なんとこの仁王像のモデルは「アントニオ猪木」の20歳頃を模したものだそうです。尚、戦災で焼失した旧三門は慶長13年(1608)に徳川2代将軍秀忠公が五重塔と共に建立したもので、桃山期の豪壮な門として旧国宝に指定されていました。
日朝堂
鐘楼堂
この三門の左手に日朝聖人像を奉安している日朝堂と鐘楼堂が置かれています。この鐘楼堂の脇に吊るされていない鐘が一つ置かれています。この鐘こそ加藤清正公の娘で御三家紀州藩祖徳川頼宣公の正室となった瑤林院が、正保4年(1647)に寄進したものです。昭和20年4月15日の空襲で火をかぶり、一部に亀裂と歪みが生じたため、現在は傍らに仮安置しています。
瑤林院寄進の鐘
この鐘楼堂の裏手に前述の信州伊那へ流罪となった「日樹」の五輪塔が置かれています。この五輪塔は日樹が流罪になったあとにここ池上の門徒たちが幕府にたてついたことを称賛するために建てたものだそうです。塔の石面に「日樹」の文字が刻まれています。
日樹の五輪塔
五輪塔の日樹の文字
そして境内正面に立つのが本門寺さんのご本堂である「大堂」です。、昭和20年4月15日の空襲で焼失後、昭和39年に鉄筋コンクリート造の大堂が再建されました。
大堂
この大殿の傍らに古さを醸し出している建造物が建っています。江戸時代の天明4年(1784)に建立された「経蔵」です。この建物は戦災を免れた数少ない本門寺の歴史建造物の一つです。
経蔵
経蔵内部
このあと境内を横切り、墓域へと向かいます。その途中に建てられているのが「加藤清正夫人(正応院日倚尼)層塔」です。江戸時代・寛永3年(1626)に逆修供養塔として建立したものです。清正公以来の、当山と加藤家の信仰関係を示す貴重な石造遺構です。
※逆修供養
自分より先に亡くなった年長者に対して冥福を祈る法要を追善(供養)というのに対し、 生きている間に自分の死後に対してまたは自分より若くして亡くなった者(子や孫など)に 対して冥福を祈る法要を逆修(ぎゃくしゅ、逆修善・逆修法会)と称されます。
加藤清正夫人(正応院日倚尼)層塔
更にその奥にもう一つの層塔が立っており、近づいてみると「前田利家室の層塔」の案内板が傍らに置かれています。この塔は利家の側室である寿福院が元和8年(1622)に自身の逆修供養のために建てた十一層の層塔です。寿福院は三代加賀藩主である利常の生母で、秀吉没後の徳川家との微妙な臣従関係を解決するために江戸に差し出され人質になったことで知られています。
前田利家室の層塔
墓域を進んで行くと、前方に見えてくるのが当山のランドマークである「五重塔」です。関東に4基現存する幕末以前の五重塔のうち、一番古い塔です。この五重塔の発願は徳川二代将軍秀忠公の病気平癒祈願にあったといいます。
五重塔
秀忠公が将軍に宣下される前、すなわち文禄2年(1593)のこと、15歳の秀忠公が悪性の疱瘡にかかり、一命も危うい容態におちいってしまいました。そこで、熱心な法華信者であった乳母岡部の局(のち正心院)が、大奥より池上へ日参し、あつく帰依していた第12世日惺聖人に病気平癒の祈願を託され、「心願が成就したあかつきには御礼に仏塔を寄進する」との念でひたすら祈ったそうです。そしてその甲斐あって病気は快癒し、将軍となった後、その御礼とあわせて武運長久を祈り、慶長12年(1607)に建立したものです。
墓域を訪れたついでに、昭和のプロレスのヒーローとして名高いあの「力道山」の墓参りをしてきました。墓域の一番奥の方にその墓はありました。墓前には力道山の「青銅の像」と「力道山之碑」が置かれ、在りし日の姿を彷彿とさせてくれます。
力道山の墓全景
力道山の像
力道山之碑
また、本門寺さんの墓域には戦後の自民党政治家である大野 伴睦(おおのばんぼく)やフィクサーとして名高い児玉 誉士夫(こだま よしお)など右系の実力者の墓が点在しています。
広い境内と墓域を一回りしたあと、境内裏手の多宝塔と紀州徳川家の墓域へと進むことにしました。
木々の緑に佇む池上本門寺の宝塔と紀州徳川家の墓所~日蓮聖人御荼毘所とお万の方の墓~
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本門寺三門
ここ池上本門寺の開基は古く弘安5年(1282)のことです。この年に日蓮は身延山を出て、湯治のために常陸(茨城県)へ向かう途中、9月18日にここ池上の地の池上宗仲の館に到着し二十数日間を過ごすこととなります。この滞在中に池上氏館の背後の山上に建立された一宇を日蓮が開堂供養し、長栄山本門寺と命名したのが池上本門寺の起源とされています。
病に冒された日蓮は弘安5年(1282)の10月13日にここ池上で没すると、池上宗仲は法華経の字数(69,384)に合わせて六万九千三八四坪を寺領として寄進したことで当寺院の基礎が築かれ、以来「池上本門寺」と呼びならわされています。
鎌倉、室町時代には関東武士の庇護を受け、江戸時代には加藤清正公や徳川家紋大名である紀伊徳川家の祈願寺となり隆盛を誇ります。一方、江戸幕府開幕後の1630年(寛永7年)に幕府は久遠寺・日暹(受布施派)と池上本門寺・日樹(不受不施派)との間で行われた「身池対論(しんちたいろん)」で負けた池上本門寺の日樹は信州の伊那へ流罪となります。日樹のあと、本門寺には受布施派の日遠(にちおん)が入山し、家康公の側室養珠院(お万の方)の帰依を受けています。
※身池対論(しんちたいろん)
寺領は国主の供養か仁恩であるかについて、受布施を主張する身延久遠寺・日暹と不受不施を主張する池上本門寺・日樹との対論で、幕府が両者を江戸城で対決させた論争をいいます。
※不受不施派(ふじゅふせは)
日蓮の教義である法華経を信仰しない者から施し(布施)を受けたり、法施などをしないという不受不施義を守ろうと、かつて存在した宗派の名称です。
本門寺に近い東急池上線の池上駅を降り、本門寺通りを10分ほど進むと前方に本門寺に入る最初の門「総門」が現れます。それほど豪勢な造りではないのですが、主柱間5.3メートルを測る壮大な門構えに古刹、名刹の風格を感じさせてくれます。この総門は戦災を免れた歴史的建造物で創建は元禄年間に遡ります。
総門
この総門を抜けると前方に見上げるように続く長い石段が現れます。難解な文字で此経難持坂(シキョウナンジザカ)と呼ばれているのですが、実はあの有名な加藤清正公が築造寄進したものなのです。清正公は熱心な法華信者で慶長11年(1606)に慈母の七回忌の追善供養として祖師堂も寄進しています。この石段も同時期に築造寄進されたもので、この難解な名称も「此経難持の偈文96字」に因んで名付けられたことで、96段の石積み参道になっています。
此経難持坂
長い歴史の中で、表面が摩耗した石段を一歩、一歩上って行くと広い境内が眼前に見えてきます。前方にはどっしりとした姿の三門が待ち構えています。この三門に行く前に、石段を登りきった右手にあるお堂に向かうことにしました。
長栄堂
長栄堂の扁額
お堂の名は「長栄堂」といいます。本門寺さんの山号が「長栄山」とついていることから、当然この長栄堂は子院か塔頭かと思いきや、実はかつては神社だったのです。現在は本門寺さんの境内のお堂の一つなのですが、明治の神仏分離策によって神社ではなくなっています。しかし、その名残なのか門前に「鳥居」が立ったままなのです。この長栄堂には長栄山の守護神「長栄大威徳天」を奉安しています。
三門
長栄堂をあとにしていよいよ三門へと進みます。三門とは三解脱門の略なのですが、いかり、むさぼり、おろかさを解脱する門ということなのですが、この3種の解脱を求める者だけがこの門の通過を許されているとのことです。
左の仁王像
右の仁王像
三門の左右には仁王像が置かれています。なんとこの仁王像のモデルは「アントニオ猪木」の20歳頃を模したものだそうです。尚、戦災で焼失した旧三門は慶長13年(1608)に徳川2代将軍秀忠公が五重塔と共に建立したもので、桃山期の豪壮な門として旧国宝に指定されていました。
日朝堂
鐘楼堂
この三門の左手に日朝聖人像を奉安している日朝堂と鐘楼堂が置かれています。この鐘楼堂の脇に吊るされていない鐘が一つ置かれています。この鐘こそ加藤清正公の娘で御三家紀州藩祖徳川頼宣公の正室となった瑤林院が、正保4年(1647)に寄進したものです。昭和20年4月15日の空襲で火をかぶり、一部に亀裂と歪みが生じたため、現在は傍らに仮安置しています。
瑤林院寄進の鐘
この鐘楼堂の裏手に前述の信州伊那へ流罪となった「日樹」の五輪塔が置かれています。この五輪塔は日樹が流罪になったあとにここ池上の門徒たちが幕府にたてついたことを称賛するために建てたものだそうです。塔の石面に「日樹」の文字が刻まれています。
日樹の五輪塔
五輪塔の日樹の文字
そして境内正面に立つのが本門寺さんのご本堂である「大堂」です。、昭和20年4月15日の空襲で焼失後、昭和39年に鉄筋コンクリート造の大堂が再建されました。
大堂
この大殿の傍らに古さを醸し出している建造物が建っています。江戸時代の天明4年(1784)に建立された「経蔵」です。この建物は戦災を免れた数少ない本門寺の歴史建造物の一つです。
経蔵
経蔵内部
このあと境内を横切り、墓域へと向かいます。その途中に建てられているのが「加藤清正夫人(正応院日倚尼)層塔」です。江戸時代・寛永3年(1626)に逆修供養塔として建立したものです。清正公以来の、当山と加藤家の信仰関係を示す貴重な石造遺構です。
※逆修供養
自分より先に亡くなった年長者に対して冥福を祈る法要を追善(供養)というのに対し、 生きている間に自分の死後に対してまたは自分より若くして亡くなった者(子や孫など)に 対して冥福を祈る法要を逆修(ぎゃくしゅ、逆修善・逆修法会)と称されます。
加藤清正夫人(正応院日倚尼)層塔
更にその奥にもう一つの層塔が立っており、近づいてみると「前田利家室の層塔」の案内板が傍らに置かれています。この塔は利家の側室である寿福院が元和8年(1622)に自身の逆修供養のために建てた十一層の層塔です。寿福院は三代加賀藩主である利常の生母で、秀吉没後の徳川家との微妙な臣従関係を解決するために江戸に差し出され人質になったことで知られています。
前田利家室の層塔
墓域を進んで行くと、前方に見えてくるのが当山のランドマークである「五重塔」です。関東に4基現存する幕末以前の五重塔のうち、一番古い塔です。この五重塔の発願は徳川二代将軍秀忠公の病気平癒祈願にあったといいます。
五重塔
秀忠公が将軍に宣下される前、すなわち文禄2年(1593)のこと、15歳の秀忠公が悪性の疱瘡にかかり、一命も危うい容態におちいってしまいました。そこで、熱心な法華信者であった乳母岡部の局(のち正心院)が、大奥より池上へ日参し、あつく帰依していた第12世日惺聖人に病気平癒の祈願を託され、「心願が成就したあかつきには御礼に仏塔を寄進する」との念でひたすら祈ったそうです。そしてその甲斐あって病気は快癒し、将軍となった後、その御礼とあわせて武運長久を祈り、慶長12年(1607)に建立したものです。
墓域を訪れたついでに、昭和のプロレスのヒーローとして名高いあの「力道山」の墓参りをしてきました。墓域の一番奥の方にその墓はありました。墓前には力道山の「青銅の像」と「力道山之碑」が置かれ、在りし日の姿を彷彿とさせてくれます。
力道山の墓全景
力道山の像
力道山之碑
また、本門寺さんの墓域には戦後の自民党政治家である大野 伴睦(おおのばんぼく)やフィクサーとして名高い児玉 誉士夫(こだま よしお)など右系の実力者の墓が点在しています。
広い境内と墓域を一回りしたあと、境内裏手の多宝塔と紀州徳川家の墓域へと進むことにしました。
木々の緑に佇む池上本門寺の宝塔と紀州徳川家の墓所~日蓮聖人御荼毘所とお万の方の墓~
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