宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

『日本の15大財閥、現代企業のルーツをひもとく』菊地浩之、2009年、平凡社新書

2010-06-13 09:21:46 | Weblog
 連合国が指定した10大財閥は三井・三菱・住友・安田・浅野・古河・大倉・野村・日産・中島(現富士重工業)である。これに渋沢・川崎造船(薩州財閥、川崎グループ)・日窒・日曹・理研で一般的に15大財閥。これは終戦時の状況。
 この本では特定の重化学分野の中島・日窒・日曹・理研を除き金融財閥の鴻池・山口・川崎金融財閥を加える。さらに戦前の旧鈴木財閥を加え15大財閥とする。
 
 《はじめに:財閥の歴史》
 明治維新の時、地方士族の反乱に三菱は海上輸送で明治政府に協力し儲ける。
 戦前、総合財閥は三井・三菱・住友のみである。資産は7:5:2.
 昭和の金融恐慌の取り付け騒ぎ後、強い銀行にカネが預けられ5大銀行体制へ:三井・三菱・住友・安田・第一。後に⑫鴻池銀行・⑪山口銀行などが1933年合併し三和銀行となり、6大銀行体制となる。
 戦時体制下、財閥批判の軍部と結んで新興コンツェルンが生まれる:日産、日窒(現チッソ)、日曹(日本曹達)、森、理研コンツェルン。
 財閥解体で財閥家族の所有株式は没収される。
財閥系企業集団(三井・三菱・住友)と非財閥系企業集団(芙蓉・一勧・三和)がある。
 朝鮮戦争終了後の反動恐慌で企業統廃合が進み企業集団形成。Ex. ⑦渋沢財閥の第一銀行グループ、⑪山口財閥・⑫鴻池財閥の三和銀行グループ
 企業集団では社長会でグループの意向が決まる。「株式持ち合い」のため。
 高度経済成長期の結束強化:1964年、OECD加盟による資本自由化で乗っ取り防止のため「株式持ち合い」を推進した。
 オイル・ショックで低成長となり都市銀行の神通力が衰える。企業の資金需要が減ったのである。高度成長期には資金の乏しい日本では都市銀行・総合商社を核とする水平分業体制の企業集団が有効だった。
 企業集団は、2000年前後の都市銀行再編で解体へ。ただし個別企業単位ではその痕跡が残る。Ex. 住友グループ:NEC、アサヒビール、マツダ
 
 《①三菱財閥(三菱グループ、⑩川崎金融財閥を含む)》
 創業者・岩崎弥太郎が土佐藩の貿易部門、開成会を担当。1873年、三菱商会を設立。1874年、台湾出兵に協力。1885年、弥太郎が死に、弟・弥之助が継ぐ。
 やがてその長男・小弥太が三菱合資社長となる。1934年、三菱重工業設立、戦艦武蔵を建造、ゼロ戦を開発する。
 三菱合資は分系会社を分離し持株会社化、1937年(株)三菱社、1943年(株)三菱本社となる。Cf. ニコンは三菱造船の潜水艦潜望鏡、国内開発のため日本工学工業として設立。
 戦後、財閥解体後、1952年占領終了で三菱商号に復帰する。
 1964年から三菱商事が推進役となり「BUY三菱」運動。グループを挙げての営業推進に最も積極的だったのは三菱グループだった。
 「三菱殿様」、「日立野武士」、「松下商人」と呼ばれる。
 三菱主要3社は東京三菱銀行、三菱商事、三菱重工である。
 「人の三井」、「組織の三菱」、「結束の住友」!

 《②住友財閥(住友グループ)》
 大阪の泉屋(住友家)が起源。別子銅山が住友家の発展に寄与する。江戸時代、三井・鴻池・住友は「三大豪福」(両替商)と呼ばれた。
 西園寺公望は住友家当主の実兄。
 住友財閥は戦前、第3位。戦後は三井をしのぎ第2位のグループ。
 住友商事の設立は戦後。「浮利は追わず」を遵守。
 戦後、財閥後の再結集で1951年「白水会」を結成する。
 住友銀行が「外延的膨張戦略」をとる。非財閥系企業に住友銀行をメインバンクとさせ、住友系企業との取引も推進。Ex. 松下電器産業、マツダ、アサヒビールなど。
 2002年三井住友銀行(さくら銀行と住友銀行の合併)、2003年三井住友FG設立。財閥系同士の合併がインパクトを与えた。
 住友御三家は住友銀行・住友金属・住友化学である。互いに同格意識が強い。

 《③三井財閥(三井グループ)》
 三井財閥は戦前、日本最大の財閥で世界にその名をとどろかせる。しかし戦後は再編にもたつき三菱、さらに住友グループの後塵を拝する。
 江戸時代、越後屋(呉服店)は「現金掛け値なし」と安く、売れる。さらに両替商として江戸・京都・大阪で巨利をあげる。
 明治維新後、「三井十一家」は「総有制」(共有財産制度)をとる。
 大隈の部下だった井上馨は西郷から「三井の大番頭」と呼ばれた。
 1932年、三井合名理事長・団琢磨が暗殺される。
 戦後、財閥解体後、三井の再結集はなかなか進まなかった。(1)戦前から三井は財閥としての一体感が少なかった。(2)戦後、三井銀行は支店が少なく資金力不足でグループ企業に十分、資金を供給できなかった。(3)また三井には各企業に任せる「自由主義」の伝統があった。以上からトヨタ自動車、東芝、王子製紙は戦後しばらく三井グループから距離を置いた。
 三井グループの社長会「二木会(ニモクカイ)」の発足は遅く1961年である。三菱金曜会、白水会(住友)は1950年代前半に発足。
 「三井御三家」は三井銀行、三井物産、三井不動産(昔は三井鉱山)。
 三井は金融・商業中心で個人戦。これに対し三菱・住友は製造業中心で集団戦と言える。

 《④安田財閥(芙蓉グループ、⑤浅野財閥(Ex.日本鋼管)、⑥大倉財閥(Ex.大成建設)含む、日産自動車・ニチレイ・日立製作所など⑮日産コンツェルンも一部含む)》
初代・安田善次郎は第3国立銀行・安田銀行を設立した。1885年頃、両行は三井銀行、第一 国立銀行に次ぐ地位となる。しかし安田善次郎が1921年、暗殺される。
 安田財閥の事実上のトップとなった結城豊太郎が改革を行う。合併で1923年、新生・安田銀行を設立。また学卒者大量採用を行う。
 戦後、財閥解体後、安田財閥は再結集しなかった。
 グループ再結集のもと三菱銀行、住友銀行が首位富士銀行(旧安田銀行)を追撃し始める。旧安田財閥は傘下に重化学工業分野の有力企業を持たないため、富士銀行は「経済主流取引」で優良企業を選別しそのメインバンクとなる方針をとる。Ex. 大成建設(⑥大倉財閥)、日本鋼管(⑤浅野財閥)、日産自動車(⑮日産コンツェルン)、昭和電工(森コンツェルン)
 1966年、「芙蓉会」結成。「BUY三菱」運動など財閥グループの再結集に対抗してである。
 しかしオイル・ショック後、形骸化。グループ内の系列取引、株の相互持合いがなかったため。
 1997年、山一証券を救済しなったメインバンク、富士銀行。その株が売られ芙蓉バッシングと呼ばれた。
 なお芙蓉グループ、一勧グループは2000年みずほ金融グループ(みずほHD:第一勧銀・富士銀行・日本興業銀行)を発足させる。(後に上位にみずほFG設立。)

 ⑤浅野財閥の初代・浅野総一郎は高品質の浅野セメントで有名となる。傘下企業に日本鋼管がある。1913年から鶴見地区の埋め立て事業を行い浅野セメント、日本鋼管が進出。鶴見線の駅名に「浅野」駅(浅野総一郎)、「安善」駅(安田善次郎)がある。
 浅野財閥は金融面では安田財閥に頼る。
 戦後、浅野財閥は芙蓉グループの一員。
日本鋼管は、2002年、川崎製鉄(芙蓉グループ)と合併しJFEホルディングスへ。
浅野セメントは1947年日本セメントと改称、その後1998年、秩父小野田セメントと合併し太平洋セメントとなる。

 ⑥大倉財閥の創業者・大倉喜八郎は戊辰戦争の鉄砲商売で巨利。台湾出兵、日清戦争の軍用食糧でも利益をあげる。
 傘下企業には大成建設、ホテル・オークラがある。
 大倉財閥には銀行がない弱点があり、大成建設はメインバンクが富士銀行で、芙蓉会のメンバーとなった。
 1998年大倉商事が自己破産。

 《⑦渋沢財閥(第一勧銀グループ):⑧古河財閥、⑨川崎造船財閥を含む》
 創業者・渋沢栄一、1873年、日本初の銀行、第一国立銀行を設立。渋沢は次々と企業を設立するが支配下におかなかった。
 傘下企業にはIHI(旧石川島播磨重工)、いすず自動車など。
 戦後、第一銀行の企業集団形成。1971年には第一勧業銀行へ。
 第一勧銀グループには⑧古河財閥(Ex.古河電工、富士通)、⑨川崎造船財閥(薩州財閥、川崎グループ)が含まれる。

 ⑧古河財閥の初代古河市兵衛は足尾銅山を全国一の銅山とする。1916年設立の古河銀行は 1931年に第一銀行に吸収合併される。
戦後、古河グループは銀行がなかったので第1銀行に依存。1971年第一勧業銀行になると、古河グループは⑨川崎グループとともに一勧グループの中核企業となる。Ex. 古河電気工業、富士通(富士電機から分離、富士は古河の「ふ」とジーメンスの「じ」)

 ⑨一勧グループに属す川崎造船財閥(薩州財閥、川崎グループ)は薩州出身の川崎正蔵が設立。(川崎金融財閥とは別物。)二代目松方幸次郎は松方正義の3男。昭和の金融恐慌後、経営不振で財閥としては終焉。
 戦前からの川崎重工業(旧川崎造船所、兵庫が拠点)、戦後の川崎製鉄(NKK(浅野財閥→芙蓉グループ)と合併しJFEへ)などが川崎グループを作る。
 戦後、川崎グループは一勧グループに属す。古河グループとともに一勧グループの中核となる。

 《⑩川崎金融財閥(水戸藩の為替御用達の川崎家に由来する)》
 Ex.川崎銀行→第百銀行→1943年、国策で三菱銀行に吸収される。
 
 《⑪山口財閥(三和グループ):⑫鴻池財閥を含む》
 山口財閥は大阪を拠点とする金融財閥である。山口銀行→戦時中、鴻池銀行などと合併し三和銀行へ。(三和銀行はUFJ銀行(東海銀行と合併)を経て、現三菱東京UFJ銀行。)
 三和グループは財閥出自を持たず三和銀行が融資先の企業を集め形成したものである。(Ex. 大林組、帝人)
 ただし日本生命保険(三和グループの準メンバー)、日立製作所(芙蓉・三和・一勧グループ)、日本通運、日商岩井(現、双日)(一勧・三和グループ)は三和グループにのみ属するとはいえない。
 戦後、富士・第一に負けないようあわてて1967年、社長会「山水会」を作る。
 中核会社でクローバー会を作る。
 都銀再編(三菱UFJフィナンシャルグループ)の中で、三和グループは消滅し、中核のクローバー会も解散。

 ⑫三和グループは鴻池財閥を含む
 鴻池は江戸時代には三井・住友と並ぶ三富豪だった。摂津の国伊丹で初め酒造業を営みやがて両替商として発展。明治中期まで隆盛。その後、保守的な堅実経営で衰退。
 戦時中1933年、鴻池銀行は山口銀行など三行で合併し三和銀行となる。

 《⑬野村財閥(Ex.野村証券、大和銀行(2003年、あさひ銀行と経営統合、りそな銀行へ))》
 野村財閥は大阪の大金融財閥である。野村銀行と野村証券が設立される。
 野村銀行は戦後の財閥商号使用禁止で大和銀行へ。野村証券はそのままの名称を保持。
 
 《⑭旧鈴木財閥》
 鈴木商店は台湾の樟脳油の一手販売権を得て発展する。
 第1次大戦のとき鈴木商店は一時、三井・三菱をしのぐ。しかし、その後の反動恐慌で1927年に倒産する。
 鈴木商店の事実上の後継会社が日商→日商岩井(一勧・三和グループ)→2003年、ニチメン(三和グループ)と合併し双日へ
 旧鈴木商店の傘下企業。
 Ex.石川島播磨重工→IHI(一勧グループ)
 Ex.神戸製鋼所(一勧・三和グループ)
 Ex.帝人(三和グループ))
 
 《⑮日産コンツェルン(春光(日産・日立)グループ、※春光会館で最初に開催)》
 Ex.久原財閥の日立製作所、鮎川(アイカワ)義介の「日本産業(日産)」
 長州の久原(クハラ)財閥。久原房之助が1915年以後に日立製作所を設立する。
 第1次大戦後の反動恐慌で久原の事業を義兄の鮎川(アイカワ)義介(長州出身)が引き継ぐ。 1928年、鮎川が公開持株会社「日本産業(日産)」設立。その後「満州重工業開発」として満州進出。しかしうまくいかず撤退。
 日産コンツェルンの傘下企業は社長会「春光会」(日産・日立グループ)をつくる。銀行がなく60年代に芙蓉・三和グループなどに組み込まれる。
 Ex.日立製作所:芙蓉・三和・一勧グループ
 Ex.ニチレイ・日産自動車:芙蓉グループ
 Ex.損保ジャパン・日本コロンビア:一勧グループ
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