日記

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親鸞聖人の真実報土と方便化土の二土説について

2022年02月14日 | 新日記
親鸞聖人の真実報土と方便化土の二土説について

誤解されやすいところですが、阿弥陀仏との仏縁深い自力行者を完全に否定しているわけではないのですよね。

ただ、その阿弥陀仏の報身による救いを直接に受けに行けるのか、迂回することになるのか、そういう差なのであります。

報身報土への往生か、化身化土への往生かの違いというところであります。

化身も阿弥陀仏の化身ですから、善巧方便力はそう報身からも落ちないはずであり、同じように教化して頂けるのは変わらないのですから。

ただ、欠点としては化身化土には必ず限界があるということです。つまり、自力行者が往生できるとする化身化土には常に不安定さがあるということです。釈尊による化身化土後の今のこの娑婆世界のように。

ただ、通仏教的には、報身報土へ往生できて見仏できる者は、煩悩障を断じた八地以上の菩薩や阿羅漢以上の聖者でなければ無理であり、まだそれに至っていない凡夫であれば、往生できる可能性があるとすれば、如来の化身化土でしかありえないのであります。

そのあたりに凡夫の報身報土への往生・見仏には論理矛盾があるということであります。

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簡単には、自力行者もいちよまあ仕方なし程度になるんやが、極楽の辺地に往生して救われるのやけど、他力行者とはちゃうとこになるのですよーということです。うちの方が阿弥陀さんにめっちゃ近い優先席で、しかも待遇がごっつええとこなんです、ということです。

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「釈摩訶衍論」にもあるように阿弥陀如来・極楽浄土が、報身報土か化身化土かの議論は非常に重要なのであります。

天台系は化身化土説、浄土系・真言宗系は報身報土説。

もし、称名念仏極楽往生を説くのであれば、化身化土説の方が正しいことになるのですよね。

また、天台系の浄土引導は極楽浄土ですから、更に議論を煮詰めていけばかなり面白いことになりそう。

凡夫往生として化身化土説を採用しているとするならば、それはそれで正しいということになるのですよね。

つまり、浄土引導が「化身化土」へとなるならば、凡夫往生も理論的には矛盾が少なくなるということです。

むしろ、我々が葬儀引導を扱える根拠も「化身化土」へとなれば、報身仏への見仏よりかは、はるかにハードルが下がるのです。

しかし、問題は「化身化土」には必ず限界があるということ。

釈尊の応身在世も80年余でしたから、凡夫が教えを頂ける期間は極めて短く、更には人の形質と同じように他の化土においても色々と有暇具足における制約があるのも否めないものとなります・・

釈尊応身在世の教化期間では、阿羅漢まで至れる者はいても、新たな如来までは出現していないですから・・

我々凡夫において、化身入滅後は、また新たな「化身化土」へと行くことが当然に必要になるわけで。

その一つとして釈尊は極楽浄土をご紹介なさられたとすれば、それはそれで正しいとも言えるでしょう。

ちなみに、もちろん、親鸞聖人の真実報土と方便化土の二土説は知っています。

親鸞聖人は、真実報土と方便化土の二土共に報土という立場であり、当然に阿弥陀仏も報身ということである。

拙論が正しければ、むしろ凡夫が往生できて、見仏できる可能性があるとすれば、化土における化身であるということで、阿弥陀仏・極楽が化身化土でなければ凡夫往生は難しいということになるのであります。

故に親鸞聖人の説く方便化土の化土と、拙生の述べている化土とは全く性質が異なるものとなります。

しかし、上記のことはある程度仏教を深く学び進めていけば誰でも容易にわかりえるところ。

そこで、浄土真宗においての化身との見仏、指導という点を補うために、麻布了海が、法蔵菩薩の本願と善知識との同一性を主張した点は、非常に特筆するに値するものであると考えています。(かなり無理がありますが・・)

問い「阿弥陀如来様は実在しないのですか?」
https://hasunoha.jp/questions/58496

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